活動停止とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 23:40 UTC 版)
協会には周囲の若い農民たちは集まったものの、それよりも年長の保守的な農民の理解はなかなか得られなかった。1927年(昭和2年)2月1日、岩手日報に「農村文化の創造に努む 花巻の青年有志が地人協会を組織し自然生活に立ち返る」という紹介記事が掲載された。記事自体は好意的なものであったが、この記事をきっかけに「若者に社会教育を行っている」という風評から賢治は協会の活動に関して花巻警察署長の伊藤儀一郎による聴取を受けた。このため、賢治は3月をもって協会としての活動を休止した。 その後も賢治はこの別宅で農業指導の活動を続けた。その一つとして協会設立前より行っていた、農家に出向いての施肥指導がよく知られる。これは土地の状況を聞き、それに合った肥料配合を決めるもので「肥料設計」と呼ばれた。その模様は『春と修羅 第三集』(生前は未刊)に収録された詩「それでは計算いたしませう」にうかがうことができる。また、花巻温泉に就職した教え子からの求めに応じて温泉の花壇設計を行ったり、協会に出入りしていた青年に正業を与えるために「レコード交換会」を開かせたりした(これは失敗に終わった)。 しかし、1928年(昭和3年)夏に高温で干天が続いた中で農業指導に奔走したことから健康を害し、実家に戻って療養することとなる。以後、独居生活や協会は再開できないまま終わった。2年あまりの独居自炊生活時代について、見田宗介は「賢治の生涯を論ずるものの関心がこのみじかい年月に集中している」根拠を、「賢治が最もその思想を純粋に近いかたちで生きた年月であったからであり、その思想の靱(つよ)さも深さも限界も破綻もそこに凝縮したかたちで露呈しているからである」と指摘している。 なお、賢治は実家に戻ったあとの1930年(昭和5年)に、協会に出入りしていた人物に送った書簡で「殆んどあすこでははじめからおしまいまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした」と記している。また、「禁治産」と題した戯曲の構想メモには「ある小ブルジョア」の長男を「空想的に農村を救わんとして奉職せる農学校を退き村にて掘立小屋を作り開墾に従う。借財によりて労農芸術学校を建てんという。父と争う、互に下らず子ついに去る。」という人物として設定している。堀尾青史は賢治の評伝の中で、前者について「個人の限界をイヤというほどしらされたことも確かであったろう」、後者について「反省と苦渋がこめられている」と記している。
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