松平定信
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参考文献
- 伝記
- 渋沢栄一『楽翁公伝』 岩波書店、1937年、復刊1983年 ISBN 978-4-00-002402-0
- 藤田覚『松平定信 政治改革に挑んだ老中』中公新書、1993年 ISBN 978-4-1210-1142-8
- 磯崎康彦『松平定信の生涯と芸術』 ゆまに書房、2010年1月 ISBN 978-4-8433-3468-3
- 高澤憲治『松平定信』吉川弘文館〈人物叢書〉、2012年9月
- 書籍
- 藤野保・木村礎・村上直編『藩史大事典 第1巻 北海道・東北編』雄山閣、1988年 ISBN 4-63910-033-7
- 岡田千昭「本居宣長の松平定信への接近-寛政の改革と関連して-」(藤野保先生還暦記念会 編『近世日本の政治と外交』雄山閣、1993年) ISBN 4-63901-195-4
- 水谷三公『江戸の役人事情』ちくま新書、2000年 ISBN 978-4-4800-5851-5
- 藤田覚『田沼意次』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2007年 ISBN 978-4-6230-4941-7
- 藤田覚 『勘定奉行の江戸時代』 ちくま新書、2018年 ISBN 978-4-480-07113-2
- 藤田覚 『幕末から維新へ』 岩波新書、2015年 ISBN 978-4-00-431526-1
- 高澤憲治『松平定信政権と寛政改革』 清文堂出版、2008年5月 ISBN 978-4-7924-0632-5
- 高澤憲治 『松平定信』吉川弘文館〈人物叢書〉2012年10月 ISBN 978-4-642-05263-4
- 山本博文 『江戸の組織人』 新潮文庫、2008年10月 ISBN 978-4-10-116444-1
- 山本博文『武士の評判記 『よしの冊子』にみる江戸役人の通信簿』 新人物ブックス、2011年2月 ISBN 978-4-404-03981-1
- 桑名市・白河市合同企画展実行委員会編・発行 『桑名市・白河市合同特別企画展 「大定信展 ─松平定信の軌跡─」』 2015年8月
- 高木久史 『通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで』 中公新書、2016年 ISBN 978-4-12-102389-6
- 山室恭子『江戸の小判ゲーム』 講談社 2013年2月 ISBN 978-4-06-288192-0
- 史料
- 『守国公御伝記』
- 徳川林政史研究所 『江戸時代の古文所を読む―寛政の改革』 東京堂出版、2006年6月 ISBN 4490-20590-2
注釈
- ^ 老中首座に就任した同じ月に描かれた定信30歳時の自画像。画像には入っていないが、画面右上に「撥乱而反正 賞善而罰悪」(乱をおさめて正にかえし、善を賞して悪を罰す)という定信の改革に対する決意が記されている。定信の肖像にはこの他に、定信自筆の頭部のみの自画像を元に、松平定永が狩野養信に命じて全身の肖像画を描かせた「松平楽翁像[1]」(福島県立博物館蔵)もある(桑名市・白河市合同企画展実行委員会編集・発行 『桑名市・白河市合同特別企画展 「大定信展 ─松平定信の軌跡─」』 2015年8月7日、34、84-85頁)。
- ^ 久松松平家は御連枝ではなく、譜代の家柄である。ただし、後に親藩扱いとなる。
- ^ 松平定信は物価論などの著書において「人々が利益ばかりを追求し、煙草を作ったり、養蚕をしたり、また藍や紅花を作るなどして地力を無駄に費やし、常に少ない労力で金を多く稼ぐことを好むので、米はいよいよ少なくなっている。農家も今は多く米を食べ、酒も濁り酒は好まず、かつ村々に髪結床などもあり、農業以外で生計を立てようとしている」「近年水害なども多く、豊作とよばれる年は数えるほどで、傾向として米は年をおって減少している。その減少した上に不時の凶作があれば、どれほど困難な事態が生じるであろうか。恐ろしいことである」と述べている。
- ^ 公儀から札差に2,3万両程融資することは、もとより計画段階から予定されていた
- ^ 同時期のヨーロッパでは、1792年4月20日にフランスがオーストリアに宣戦布告してフランス革命戦争が勃発すると、フランスの隣に位置するオーストリア領ネーデルラントも戦場となった。このことは、極東の千島でオランダ東インド会社が1643年に領土宣言をして以来、長崎との南北二極で日本列島を挟み他の欧米諸国を寄せ付けなかったオランダの海軍力が手薄になったことを意味した。更にロシアが南下を開始し、1792年9月3日、日本人漂流民である大黒屋光太夫らの返還と交換に日本との通商を求めるアダム・ラクスマンが根室に来航した。翌1793年、オランダの戦況はフランス軍による制圧の様相がますます強まり、フランス革命戦争はヨーロッパ全域に波及する勢いで広がっていた。
- ^ 後に水野忠成が老中になり再び賄賂時代を迎えると今度は「水野出て 元の田沼と なりにけり」と皮肉られることとなった
- ^ 尊号一件は、成長した家斉が、厳格で形式を重んじる定信を嫌い、疎んじていた時に、タイミングよく起きた事件を巧みに利用して、定信を遠ざけたのだという指摘もある。
- ^ 一方で国外では、オランダ正月を祝った月に、オランダ共和国が滅亡し、代わってフランスの衛星国「バタヴィア共和国」が建国を宣言した。そして1797年、オランダ東インド会社はアメリカ船と傭船契約を結び、滅亡したオランダの国旗を掲げさせて長崎での貿易を継続することになった。しかし、1799年にオランダ東インド会社も解散した。雇い主を失ったオランダ商館は、なおもオランダ国旗を掲げさせたアメリカ船と貿易を続けた。
- ^ 田沼が丁銀から南鐐二朱銀への改鋳を推し進めた結果、秤量銀貨の不足による銀相場高騰を招き、天明6年(1786年)には金1両=銀50匁に至ることとなり、江戸の物価は高騰した。凶作による商品の供給不足もあり、年号とかけて「年号は安く永しと変われども、諸色高直(こうじき)いまにめいわく(明和9/迷惑)」と狂歌が歌われた。また、歴史学者の西川俊作は、『日本経済の成長史』の中で二朱銀の流通がゆっくりとしか拡大しなかったことから、意次の目的は、貨幣制度の統一ではなく、専ら貨幣発行益を獲得することにあったと結論付けている。
- ^ 1780年代、田沼が銭を大量発行したことで銭安になっており、西日本では計算通貨として秤量銀貨を使った方が有利だった。また、基本的に銭しか使わない庶民は銭安に苦しんだ。
- ^ 寛政の改革以前は山田羽書には準備金はなく、御師個人の信用と不動産の保証のみであったが、寛政の改革以降は大阪城に保管された羽書株仲間の上納積立金計8,080両と、羽書取締役6名の上納金5,500両の正貨準備金を保持することになるなど、より近代的な仕様となり信用強化が行われている。また、羽書の発行限度も原則として20,200両とされていたが寛政の改革で山田奉行管轄となった時には発行高は28,283両余と、8,083両余の空札が出ていた為、全ての空札を銷却を命じられるなど、信用崩壊の危機を脱している。
- ^ 8万両にのぼる公金の貸付けを田沼の時代にも実施している。ただし、これは江戸町人にのみ貸し付けられたものであり、田沼時代よりも規模を拡大し代官などを駆使して直接農村まで貸付し、その利息を農村や鉱山の復興に宛てた寛政期はさらに深化している
- ^ 田沼時代の支出削減政策として、予算制度を導入し各部署に予算削減を細かく報告させ、予算削減に努めたこと。禁裏財政への支出削減をかけたこと。大名達への拝借金を制限したこと。国役普請を復活させ工事費の負担を転化させたこと、認可権件を行使して民間の商人に任せるのを多用したこと。たびたび倹約令を出し支出を抑制したことなどがある。
出典
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- ^ a b 藤田覚『近世の三大改革』山川出版社、2002年3月1日。
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- ^ “貸付金とは・意味”. 2021年2月27日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 藤田覚『松平定信 政治改革に挑んだ老中』中央公論新社、1993年7月25日、95頁。
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- ^ 高澤 2012, p. 103.
- ^ 揖斐 高「寛政異学の禁と学制改革 ─老中松平定信から大学頭林述斎へ─」『日本學士院紀要』第77巻第3号、日本学士院、2023年5月12日、179-219頁、CRID 1390296066525918336、doi:10.2183/tja.77.3_179。
- ^ 藤田覚『幕末から維新へ』(岩波新書、2015年)
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- ^ 藤田覚『日本近世の歴史〈4〉田沼時代』吉川弘文館、2012年
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- ^ 森銑三 「楽翁公の戯作」『森銑三著作集』第十一巻、中央公論社、1989年、ISBN 978-4-12-402781-5。
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- ^ “其の参、松平定信と前田利保~花が教える江戸の趣味人たち”. 2020年7月18日閲覧。
- ^ 山本博文『武士の評判記』新人物ブックス、14-17頁、ISBN 978-4-404-03981-1
- ^ 山本博文『江戸の組織人』新潮文庫、151 - 152頁、ISBN 978-4-10-116444-1
- ^ 高澤 2012, p. 5.
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- ^ 内藤正人 『大名たちが愛でた逸品・絶品 浮世絵再発見』 小学館、2005年、159-173頁、ISBN 978-4-09-387589-9。
- ^ 渋沢栄一『楽翁公伝』 岩波書店、1937年、17頁。
- ^ 杉本竜 「松平定信の絵画印章について」(桑名市・白河市合同企画展実行委員会編集・発行 『桑名市・白河市合同特別企画展 「大定信展 ─松平定信の軌跡─」』 2015年8月7日、114-118頁。
- ^ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー『集古十種』
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