国鉄キハ20系気動車
キハ52形
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「国鉄キハ20系気動車」の記事における「キハ52形」の解説
JR九州キハ52 46の走行音 (鹿児島本線、小倉-戸畑間、1990年4月8日) この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 勾配区間用の一般形気動車で、キハ20形の2基エンジン搭載形である。 国鉄の2基エンジン気動車としては最初の両運転台車であり、急勾配のローカル線用車両として本州・四国・九州各地で重用された。キハ20形に準じた両運転台、片開き2ドア、2段窓であるが、エンジン、変速機、放熱器をそれぞれ2基搭載する必要から、床下スペースの確保目的で、全長が1.3m長い車両限界一杯の21.3mとなり、それに伴い、ドア間の2段窓の数もキハ20形の5個から6個に増えている。それでもなお床下は手狭なため、水タンクは床上(通路を挟んだ便所の反対側)に置かれた。 初期形(0番台) 1958年から1962年に製造された。エンジンはキハ20形200番台と同様の垂直シリンダー形DMH17C形。床面にエンジンの点検蓋がある。照明は白熱灯で、燃焼式温風暖房。 JR西日本キハ52 156の走行音 (大糸線根知 - 小滝、2010年1月24日) この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 後期形(100番台) 1962年から1966年に製造された。キハ58形とキハ80形の好評を受け、騒音と振動の低減、量産効果の向上(コスト低減)の見地からも2基エンジン車はすべて横形エンジンに統一されることになった。水平シリンダー形のDMH17Hを搭載し、床面点検蓋・車体中央壁面の排気管が廃止された。それにともない、排気管が車体の中央部から車端寄りに移ったため、0番台では排気管によって3個-3個に分かれていた客用扉間の窓が、6個等間隔に並ぶようになった。さらに、勾配線区での使用実績に基づきエンジンブレーキ機能が追加されている。末期にはキハ22形同様、外ハメ式の尾灯や、ハニカム構造の客扉が採用された。室内照明は蛍光灯で、キハ20系の中ではキハ22形と並んで例外的な温水暖房車。スタイルと旅客設備を除いたメカニズム面では、急行形気動車のキハ58形との共通点が多い。 100番台は静粛性に対する期待から、寝台気動車の試験に供され、注目を集めたが、音振(おとしん)や変速ショックの点で採用には至らなかった。その後も日本では寝台車にエンジンを搭載した寝台気動車が実現した例はない。 2010年3月12日には、大糸線で運用されていたJR西日本が保有するキハ20系気動車最後の3両の運用が終了し、同年3月13日のダイヤ改正でキハ120形に置き換えられた。これによってJR線上でのキハ20系列の定期運用が終了した。 2011年8月3日に最後まで在籍していた新津運輸区のキハ52形7両が廃車されたことでJRでは全車廃車、同時にキハ20系の系列消滅となった。 キハ20形は一般型気動車であり、キハ22形を除いて定期の急行運用に就くことはなかったが、本形式は、2基エンジンで強力なこと、単行運転が可能なことから、只見線および会津線の急行「いなわしろ」として、1982年6月23日の東北新幹線開業による列車自体の廃止時まで、長らく使用された。この列車は気動車単行の急行で、かつ遜色急行であるとともに、急行「あがの」「いわき」と併結する多層建て列車として異色の存在であった。なお、この列車に専ら用いられたキハ52 128は首都圏色化されず、同列車廃止後小牛田から、盛岡、米子と転属した後も1999年の廃車時まで国鉄一般色で残った。 ローカル線向けの簡易郵便荷物車として0番台を改造した600番台が4両、100番台を改造した650番台が1両存在した。 キハ52形100番台 秘境駅号(国鉄色)(茂市駅、2007年9月15日) キハ52形100番台(新潟色)(中郡駅 - 成島駅、2008年9月4日) キハ52形100番台(盛岡色) キハ52形100番台(盛岡赤鬼色)(岩手和井内駅 - 中里駅、2006年8月27日) キハ52形100番台(ときめきの恋列車)(中込駅、1990年3月) キハ52 125(大糸線色、旧:越美北線色)当車はのちにいすみ鉄道に譲渡された。(糸魚川駅、1999年12月19日) キハ52 125(旧国鉄色)(平岩駅 - 小滝駅、2008年8月14日) キハ52 127停車中の車内(国鉄色)(坂町駅、2007年8月14日) キハ52 134 貫通扉がキハ58系のものに交換されている(豊肥本線立野駅、1983年頃) キハ52形100番台 朱色5号(首都圏色)、国鉄色(平岩駅 - 小滝駅、2008年8月15日) キハ52 156 朱色5号(首都圏色)(南小谷駅 2009年8月11日) 糸魚川地域鉄道部のキハ52形100番台の車内 (糸魚川駅、2008年9月15日) 神奈川臨海鉄道千鳥町駅でミャンマー輸出で待機する盛岡色のキハ52形 キハ52 宮古駅に停車中の岩泉駅行き(国鉄色)(2005年12月21日)
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キハ52形
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キハ52形は一部が新型エンジンへの換装と内装の更新改造を施され、2000年代後半まで使用された。 盛岡車両センター所属の車両は新潟鐵工所製または小松製作所製エンジンへの換装・客用窓の一段上昇式化改造が実施されたほか、外部塗色は白+赤帯の塗り分けとし、正面上半部を赤色とした「盛岡赤鬼色」と俗称される配色で使用された。また、2001年頃に一部の車両が国鉄時代の朱色4号+クリーム4号の配色に復元された。2007年11月まで17両が配置され、花輪線、山田線、岩泉線で使用されていたが、キハE130形の導入で余剰となった水郡線のキハ110系が順次転用され、花輪線からは同年3月18日改正で撤退、他2線区からも同年11月25日に撤退した。使用を終了した本形式は同年12月に全車がミャンマーへ輸出・譲渡のため、川崎貨物ターミナル経由で搬出された。 新津運輸区配置の車両は長野総合車両所(現長野総合車両センター)在籍時にカミンズ製エンジンに換装された。飯山線からの転属車で、外部塗色は転属当初は「飯山線色」のままであったが、のちに全車「新潟一次色」(上の写真を参考)へ塗色変更をしている。2006年に一部の車両が国鉄時代の朱色4号+クリーム4号の配色に復元された。最終的に7両が配置され米坂線・羽越本線・磐越西線で使用されていたが、キハE120形の導入により置き換えが実施され2009年3月14日改正で定期運用から離脱した。このうち国鉄色を纏った車両はその後も磐越西線・米坂線等で団体・臨時列車に使用され、特に同年10月から12月にかけて開催された新潟デスティネーションキャンペーンにおいて、同じ国鉄色に復元されていたキハ28形・キハ58形とともに多数の臨時列車に充当し、2009年12月26・27日の「ありがとう磐越西線国鉄色号」を最後に引退した。長らく同区に留置された後、2011年8月3日付で7両とも廃車され、これをもってキハ20系は廃系列となった。同日中に全車がフィリピンへ輸出・譲渡のため、新潟東港経由で搬出された。
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キハ52形(譲渡車)
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1987年に南阿蘇鉄道へ、2010年にいすみ鉄道に1両ずつ譲渡されている。 南阿蘇鉄道に譲渡されたキハ52 35はMT2105に改番され当時のMT-2000形と同じカラーリングに塗り替えられたが、あくまで予備車の位置づけのためワンマン化改造されず、あまり使われないまま1993年に廃車となっている。 大糸線で最後までイベント用に運用されていたキハ52 125は黄褐色2号+青3号の塗色のままいすみ鉄道に譲渡され、2010年12月に行われたお披露目を兼ねた撮影会で展示された後、整備とクリーム4号+朱色4号への塗色変更を受け2011年4月29日から営業に入っている。2014年3月からカラーリングが首都圏色に変更されたが、2019年6月に国鉄一般色に塗り直された。
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