キハ22形
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「国鉄キハ20系気動車」の記事における「キハ22形」の解説
国鉄キハ22 276の走行音 (大湊線、野辺地-吹越間、1987年3月2日) この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 キハ21形は北海道の酷寒地での防寒性能が不満足であったことから、酷寒地向けの耐寒仕様車として完全に新設計されたものである。1958年から製造開始され、北海道および東北地方に配置されていた。製造会社はキハ21形の帝車と新潟に加え、富士重工業(現・SUBARU)と日本車輌製造が加わっている。 乗降口を車体両端へ配置して、客室との仕切り扉を備えたデッキ付きとし、側窓を小型の一段上昇式二重窓として保温性を高めている。暖房装置はエンジン冷却水利用の温水暖房として強化し、かつ放熱フィンを大型化して効率を良くした。床は雪が融けて濡れた時の滑りにくさや、雪靴・雪下駄の滑り止め金具(スパイクなど)への対策から木張りとされ、さらに断熱材の厚さを増したため、暖地向けの標準車に比べ、レール面基準で50mm高くなった。そのため、客室窓、乗務員用扉、運転台窓、貫通路扉(幌枠高さは標準車と同じ)、尾灯の位置もキハユニ25 7を除くキハ20系他車よりも高い。また、警笛は前灯脇から、温水管の取り回しが楽な乗務員室床上(助手席足元)に変更された。 室内色も暖色系の薄茶色4号とされ、車端部がロングシートであること、窓側に肘掛けがないことを除けば、準急形のキハ55系に遜色ない水準であり、急行列車にも用いられた。 床下機器のカバーリングや冷却水による保温をはじめ、補器類に至るまで徹底した耐寒・耐雪措備が施され、北海道の酷寒地での実用上も十分な能力が確保された。 これら本形式の耐寒・耐雪スペックは、キハ56形一族、711系交流電車、キハ40 100番台、キハ54 500番台など、以後の北海道における一般・近郊形車両における耐寒設計の基準となったばかりでなく、羽幌炭礦鉄道や留萠鉄道など、道内の私鉄においても本形式とほぼ同一設計のコピー車が導入されることになった。 便所はキハ20形同様4位側にあるが、その向かいがロングシートであるため出入口はデッキ側に変更され、立ち客や乗降の妨げとならないよう扉を内開きとしたことから前後方向の寸法も拡大されている。他のキハ20系中期車と同様、座席や室内灯などが製造途中で改良された。初期車の白熱灯は後に急行運用に入る車両を中心に多数が20W環形蛍光灯に改造され、新製時から蛍光灯となった車両も、20Wの直管から40Wの直管へ設計変更されている。屋根上の通風器は初期の1 - 170では6個であったが、後の201 - 245では7個、246 - 343では9個へと変更されており、一部には客車用のガーランド形通風器を装備した車両も存在する。最終の設計変更では外ハメ式の尾灯やハニカムコア構造の客用ドアも採用されたが、同じく遅くまで増備され、すでにキハ52形100番台で採用されていた横形機関(水平シリンダーエンジン)は本形式では採用されなかった。 また、同等の耐寒・耐雪装備を持つ2基エンジン車は製造されず、ローカル線では旅客需要がないにも関わらず、排雪(ラッセル)抵抗による運行障害(1軸駆動のため空転しやすかった)を防ぐため、冬季は2両編成で運転せざるを得なかった。 しかし、本形式に対する現場の信頼は厚く、酷寒地向け次世代車の国鉄キハ45系気動車キハ24形・キハ46形の仕様が具体化していた1960年代中期でも新形の採用には消極的で、本形式の駆け込み増備が図られたという(製造年・製造会社別一覧を参照)。 1960年代から1970年代に北海道のローカル列車の多くは本形式が投入されていた。また、循環急行「いぶり」、函館本線の「らいでん」、「せたな」や羽幌線の「はぼろ」など道内のローカル急行にも数多く使用され、これらは「遜色急行」として鉄道ファンに注目された。なお、蛍光灯付きの200番台の登場後は、急行には200番台もしくは蛍光灯化改造した0番台が優先的に使用されていた。 1980年(昭和55年)に、200番台のうちの5両が苗穂工場と釧路車両管理所で簡易郵便荷物車に改造され、600番台となった。車内の排気管立ち上がり部付近に完全なる仕切りが設けられ、郵便荷物室として使用される前位側(便所と反対側)の室内はロングシートとなった。室内には郵便区分棚が設置され、窓には保護棒が追加された。改番はされていないが、1も600番台とほぼ同じ仕様に改造されている。 本形式は北海道内での使用を前提に設計された車両であるが、キハ21形共々、一部は東北北部でも使用されていた(国鉄分割民営化後、JR東日本に引き継がれた車両もあった)。これらの中には、地方私鉄や第三セクター鉄道へ譲渡、または貸し出された車両も存在する(詳細は後述の「#譲渡車・同形車」節を参照)。 キハ22 49(宗谷本線豊富駅、1973年3月14日) キハ22 14(釧網本線川湯駅付近、1984年) キハ22 317(長万部駅、1994年8月29日) キハ22 263 旧塗色のキハ22 69(北見相生駅跡、2006年5月4日) キハ22 238(幸福駅跡、2009年8月10日) キハ22 52(三笠鉄道記念館、2007年5月9日) キハ22 56(小樽市総合博物館、2007年7月26日) キハ22の車内。床が木張りになっている(幸福駅跡、2009年8月10日)
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キハ22形(譲渡車)
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「国鉄キハ20系気動車」の記事における「キハ22形(譲渡車)」の解説
津軽鉄道・弘南鉄道(黒石線(旧国鉄黒石線))・下北交通(大畑線)に各3両譲渡されている。津軽鉄道ではキハ22027 - 22029、弘南鉄道ではキハ2210・2220・2230、下北交通ではキハ85 1 - 3となった。いずれも老朽化や使用路線の廃線により廃車となっている。 また国鉄時代の1986年に阿武隈急行に5両、秋田内陸縦貫鉄道に9両が貸し出されている。ともに番号はそのままで塗色のみ塗り替えられた。いずれも1988年まで使用され、電化や新車両への置き換えによりJR東日本に返還された。
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キハ22形(キハ221-223)
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「羽幌炭礦鉄道」の記事における「キハ22形(キハ221-223)」の解説
国鉄キハ22形と同一仕様の本格的な極寒冷地向け大形気動車で、旋回窓を装備。富士重工業製で1960年(昭和35年)より1966年(昭和41年)にかけて順次増備され、旅客輸送の主力となった。機関はDMH17C。最後に入線したキハ223は国鉄キハ22形200番台と同様の改良がなされている。なお、国鉄線乗り入れのためにATS-S形が搭載されていた。
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キハ22形(22027・22028・22029)
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「津軽鉄道」の記事における「キハ22形(22027・22028・22029)」の解説
1989年12月に東日本旅客鉄道(JR東日本)より譲受した車両。1992年4月に新潟鐵工所の出張工事でワンマン改造され、デッキ付近をロングシートとした。また、JR東日本から譲受した際、以下のとおり改番を受けている。
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