芸備線
芸備線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 16:32 UTC 版)
新たな交通手段として鉄道が登場する。当時は上根峠を鉄道で越えるのは技術的に不可能であったため吉田道に通ることになった。路線から外れた北側の吉田町・甲立村がこれに反発するも計画変更はなかった。そして大正4年(1915年)芸備線が開通する。交通の主流が吉田道側となったことで上根市は衰退した。昭和3年(1928年)下村彦一は論文の中で「現在の県道のとれる道筋は、全く汽車には不適合である。しかも、かかる狭い地域内に於いては、この県道以上の良道が建設され得るとも、考える事が出来ない。」と書いている。 またいつ頃かは不明であるが、乗合バスが通るようになった。昭和初期、芸備線はバス会社との客の取り合いが激化していた。昭和8年(1933年)この地を訪れた中村憲吉は歌を残している。 1947年米軍撮影。霧切谷の道と、新しい道の内側に旧県道が見える。上方にある拡幅地点が飛行場。 1983年。暫定供用中の上根バイパス。 われ久に 通らざりけり 旧県道 峠の宿は すたれけるかもなづみのぼる 上根のさかの つゞらをり くるまにさやる 木の葉は折らず — 中村憲吉、
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