芸但同盟と尼子氏残党との戦い
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「毛利輝元」の記事における「芸但同盟と尼子氏残党との戦い」の解説
但馬では、山名氏が尼子勝久・山中幸盛ら尼子氏残党を支援し、毛利氏と敵対していた。かつては織田氏が毛利氏救援のために但馬に出兵したこともあった。他方、信長は毛利氏にとって敵対勢力であるはずの尼子氏残党に対して、柴田勝家を通じて密かに接触を図っていた。 天正3年1月、輝元は尼子氏を支援していた但馬の山名祐豊・堯熙父子との同盟、いわゆる芸但同盟(芸但和睦)を成立させた。一方、信長は隆景に宛てた7月6日付の書状で、表面的には芸但同盟の成立を認めているが、但馬を織田氏の分国にしようとしていた思惑を隠し切れていない部分もある。 但馬山名氏は、天正元年11月に因幡山名氏の山名豊国が毛利氏に従ったことにより、毛利氏に苦戦を強いられていた。また、織田氏の勢力が但馬に浸透することで、山名氏の但馬国主としての地位や因幡に対する宗主権を否定されることを嫌ったと考えられている。 輝元も但馬を織田氏分国にしようとする信長の野心を察知し、天正2年以降に信長の介入で勃発した浦上氏と三村氏との争いや、加えて信長が尼子氏と接近しているのではないかという疑心もあり、あえて山名氏との同盟の成立に踏み切ったと考えられる。芸但同盟の成立により、輝元は但馬を毛利氏の影響下に置いた。とはいえ、芸但同盟成立後も但馬の田結庄氏ら尼子方国人は屈服せず、内乱が続いた。 また、芸但同盟の成立により、尼子方の山中幸盛は山名氏の支援を受けることができなくなり、6月に因幡国の若桜鬼ヶ城を攻略し、拠点を移した。これに対し、同月に輝元は元春と隆景に大軍を以て因幡に侵攻させ、8月に毛利軍は若桜鬼ヶ城を包囲したが、山陽方面で織田氏との緊張が高まったこともあって、10月に若桜鬼ヶ城の周辺に多数の付城を築いて撤退した。
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