豊饒の海 豊饒の海の概要

豊饒の海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/01/04 03:14 UTC 版)

豊饒の海
The Sea of Fertility
著者 三島由紀夫
イラスト 装幀:村上芳正(全巻共通)
カバー書:加屋霽堅(奔馬)
カバー画:三島瑤子(天人五衰)
発行日 1969年1月5日(春の雪)
1969年2月25日(奔馬)
1970年7月10日(暁の寺)
1971年2月25日(天人五衰)
発行元 新潮社
ジャンル 長編小説
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 上製本 布装・貼函
ページ数 269(春の雪)、402(奔馬)、
341(暁の寺)、271(天人五衰)
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第一巻は貴族の世界を舞台にした恋愛、第二巻は右翼的青年の行動、第三巻は唯識論を突き詰めようとする初老の男とタイ王室の官能的美女との係わり、第四巻は認識に憑かれた少年と老人の対立が描かれている。構成は、20歳で死ぬ若者が、次の巻の主人公に輪廻転生してゆくという流れとなり、仏教唯識思想、神道一霊四魂説、の「シテ」「ワキ」、春夏秋冬などの東洋伝統を踏まえた作品世界となっている。また様々な「仄めかし」が散見され、読み方によって多様な解釈可能な、に満ちた作品でもある[3]

〈豊饒の海〉とは、月の海の一つである「Mare Foecunditatis」(ラテン語名)の日本語訳で、〈月修寺〉のモデルとなった寺院は奈良市の「圓照寺」である。なお、最終巻の末尾と、三島の初刊行小説『花ざかりの森』の終り方との類似性がよく指摘されている[4][5]

発表経過

文芸雑誌新潮』に、先ず1965年(昭和40年)9月号から1967年(昭和42年)1月号にかけて『春の雪』が連載され、同年2月号から1968年(昭和43年)8月号にかけては『奔馬』、同年9月号から1970年(昭和45年)4月号にかけては『暁の寺』、同年7月号から1971年(昭和46年)1月号にかけては『天人五衰』が連載された。

単行本は、1969年(昭和44年)1月5日に『春の雪(豊饒の海・第一巻)』、同年2月25日に『奔馬(豊饒の海・第二巻)』、1970年(昭和45年)7月10日に『暁の寺(豊饒の海・第三巻)』、1971年(昭和46年)2月25日に『天人五衰(豊饒の海・第四巻)』が新潮社より刊行された。文庫版は各巻新潮文庫より刊行されている。翻訳版は、Michael Gallagher訳(英題:Spring Snow、Runaway Horses)、Cecilia Segawa Seigle、D.E. Saunders訳(英題:Temple of Dawn)、エドワード・G・サイデンステッカー訳(英題:The Decay of the Angel)をはじめ、世界各国で行われている。

作品成立・背景

執筆動機・構成

三島は1960年(昭和35年)頃から大長編を書きはじめなければならないと考え、19世紀以来の西欧の長編小説とは違う「全く別の存在理由のある大長編」、「世界解釈の小説」を目指して、『豊饒の海』を1965年(昭和40年)6月から書き始める[1]。壮途半ばで作家人生を病で終えた高見順の死も執筆に拍車をかけたとし[6]、その執筆動機を以下のように語っている[1]

私はやたらに時間を追つてつづく年代記的な長編には食傷してゐた。どこかで時間がジャンプし、個別の時間が個別の物語を形づくり、しかも全体が大きな円環をなすものがほしかつた。私は小説家になつて以来考へつづけてゐた「世界解釈の小説」を書きたかつたのである。幸ひにして私は日本人であり、幸ひにして輪廻の思想は身近にあつた。

三島由紀夫「『豊饒の海』について」[1]

そして、学習院時代の旧師の松尾聰の校注に成る『浜松中納言物語』に依拠した「転生がすべての筋を運ぶ小説」を四巻の構成にし[注釈 1]、「王朝風の恋愛小説」の第一巻は〈たわやめぶり(手弱女ぶり)〉あるいは〈和魂〉を、「激越な行動小説」の第二巻は〈ますらをぶり(益荒男ぶり)〉あるいは〈荒魂〉を、「エキゾチックな色彩的な心理小説」の第三巻は〈奇魂〉を、第四巻は「それの書かれるべき時点の事象をふんだんに取込んだ追跡小説」で〈幸魂〉へみちびかれてゆくものと三島は説明している[1]

ちなみに、1950年(昭和25年)の『禁色』の創作ノートにもすでに、「螺旋状の長さ、永劫回帰、輪廻の長さ、小説の反歴史性、転生譚」といった言葉が並び、『豊饒の海』を予告するような記載があり[1]、初期作品の『花ざかりの森』『中世』『煙草』などにも「前世」への言及が見られ、もともと三島には早くから転生への関心を抱いていた傾向が見られる[2]

〈豊饒の海〉の題は「月の海」の名のラテン語の訳語であるが、三島は、作品完成前に有人ロケット月面着陸が行わることに触れて、「人類がの荒涼たる実状に目ざめる時は、この小説の荒涼たる結末に接する時よりも早いにちがひない」と述べ[9]、題名は、「月のカラカラな嘘の海を暗示した題で、強ひていへば、宇宙的虚無感と豊かなのイメーヂとをダブらせたやうなもの」で、語の〈時は海なり〉の意味もあると説明している[10]

三島は、論理体系もない芸術宿命や限界に、大きな哲学の論理構造を持つ大乗仏教唯識の思想のような「人間を一歩一歩狂気に引きずりこむような、そういう哲学体系」を小説の中に反映させた長編を書き出したと述べ[11]、第二巻の連載中には、汎神論のような宗教の世界像のようなものを、「文学であれができたらなあ」という願望を示しながら以下のように語っている[12]

そういう世界包括的なものを文学で完全に図式化されちゃったら、だれも動かせないでしょう。日本だったら「源氏」がある意味でそうかもしれないし、宗教ではありませんけれども馬琴が一生懸命考えたことはそういうことじゃないか。仁義礼智忠信孝悌、ああいうものをもってきて、人間世界を完全にそういうふうに分類して、長い小説を書いて、そうして人間世界を全部解釈し尽くして死のうと思ったんでしょう。

三島由紀夫「対談・人間と文学」(中村光夫との対談)[12]

また、プルーストも『失われた時を求めて』を書くことで、「現実を終わらせようとした」とし、その理由を以下のように三島は述べている[12]

ことばというものは終わらせる機能しかない。はじめる機能などありはしない。表現されたときに何かが終わっちゃう。その覚悟がなかったら芸術家は表現しなければいい。一刻一刻に過ぎてゆくのをだれもとめることはできない。しかしことばが出たらとめられる。それが芸術作品でしょう。それをだんだん広めていけば、ああいうものをやりたいという意欲はわかる。現実を終わらせちゃうことですね。(中略)ことばというのは世界の安死術だと思いますね。鴎外の「高瀬舟」ではないけれども、ことばというのは安死術です。そうしなければ時が進行してゆくことに人間は耐えられない。

三島由紀夫「対談・人間と文学」(中村光夫との対談)[12]

こういった三島の創作動機を松本徹は、「小説」というものが出現して以来の、最長時間かつ国境を越えた広大な空間に展開させ、「この人間世界全体」を可能な限り覆い尽くし、その成り立ちと意味を解き明かして、「小説なるものの存立の意味を示す」という「究極の小説」を三島が目指し、さらに「日本語として全きもの」を企図したと解説している[2]

構想の変化

『豊饒の海』の「創作ノート」は23冊あるが、ごく初期の大まかな構想では「五巻」構成で、第一巻は〈夭折した天才の物語――芥川家モチーフ〉とあり、主人公を芥川龍之介のイメージにして、その長男次男らも想定に入れ、第二巻は〈行動家の物語――北一輝モチーフ、神兵隊事件のモチーフ〉、第三巻は〈女の物語――恋と官能―好色一代女〉、第四巻は〈外国の転生の物語〉、第五巻は〈転生と同時存在と二重人格ドッペルゲンゲルの物語――人類の普遍的相、人間性の相対主義、人間性の仮装舞踏会〉というものだった[13][14]

その後は「四巻」構成に変更され、第一巻『春の雪』は〈明治末年の西郷家と皇族の妃殿下候補との恋愛〉(実際にあったことではなく、三島の創作)で、西郷隆盛の実弟・西郷従道の一家が〈松枝家〉のモデルの一部となり、従道の次男・従徳の妻の実家である岩倉家(従道の息女・桜子の婚家でもある)が〈綾倉伯爵家〉のモデルの一部となる構想で固まり[13][14]、第二巻『奔馬』は血盟団事件が題材となる[13]。第三巻(五巻構成時の三巻と四巻の合体)は、〈タイの王室の女or戦後の女〉が死なずに生き延びて〈六十才になつた男と結婚し、子を生む〉とあり、その後の構想では、姫が〈聡子or第二巻の女とよく似た女とlesbian Love〉となり、本多は清顕の生まれ変わりの姫に恋するが〈レズビアン・ラブの失恋〉をするという流れに変化する[13][14]

また第三巻『暁の寺』執筆の期間、三島は「楯の会」と共に1969年(昭和44年)10月21日の国際反戦デーのデモの鎮圧のため、自衛隊治安出動直前の斬り込み隊として討死する可能性を見ていたため、第三巻は「未完」になるとも考えていた[15][14]。この時期に三島は川端康成宛てに、自分の身にもしものことがあった場合の「死後の家族の名誉」を護ってもらいたいという内容の手紙を送っている[16][17]。しかし自衛隊の治安出動はなされずに憲法9条改正の期待は潰え、「楯の会」の存在意義が見失われてしまった[18][14][19]。三島は、『暁の寺』を脱稿した時の気持ちを「いひしれぬ不快」と述べ、その完成によって「それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつた」とし、以下のように語っている[15]

私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。(中略)私はこの第三巻の終結部が嵐のやうに襲つて来たとき、ほとんど信じることができなかつた。それが完結することがないかもしれない、といふ現実のはうへ、私は賭けてゐたからである。(中略)しかしまだ一巻が残つてゐる。最終巻が残つてゐる。「この小説がすんだら」といふ言葉は、今の私にとつて最大のタブーだ。この小説が終つたあとの世界を、私は考へることができないからであり、その世界を想像することがイヤでもあり怖ろしいのである。

三島由紀夫「小説とは何か」[15]

第四巻『天人五衰』は、実際に発表された作品と、創作ノートで検討されていたものと大きな隔たりがあるが、これは事前に構成をはっきりと固めずに、終結部分を不確定の未来に委ねていたためで、何度も構想を練り直している[13][14]。一番初めの具体的な案は以下のようなものであった[13][14]

本多はすでに老境。その身辺に、いろいろ一、二、三巻の主人公らしき人物出没せるも、それらはすでに使命を終りたるものにて、贋物也。四巻を通じ、主人公を探索すれども見つからず。つひに七十八才で死せんとするとき、十八歳の少年現はれ、宛然、天使の如く、永遠青春に輝けり。(今までの主人公が解脱にいたつて、消失し、輪廻をのがれしとは考へられず。第三巻女主人公は悲惨なる死を遂げし也) この少年のしるしを見て本多はいたくよろこび、自己の解脱の契機をつかむ。思へば、この少年、この第一巻よりの少年はアラヤ識の権化、アラヤ識そのもの、本多の種子なるアラヤ識なりし也。本多死せんとして解脱に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓ごしに見ゆ。(バルタザールの死)[注釈 2]

三島由紀夫「『豊饒の海』創作ノート」[13]

これに関連する第四巻の構想では、本多が転生者を探すために新聞の人探し欄や私立探偵を使うなどし、聡子から手紙で「何を探してをられる?」と問われ、聡子を訪問した後に病に倒れて入院し、転生者の黒子がある若い〈電工の死〉(転落死)を窓越しに見て臨終を迎える大団円のプランが看取されている[13][14]。1968年(昭和43年)のインタビューでも、「ドス・パソスの有名な〈U・S・A〉みたいに、その時点の日本の現状にあるものをみなブチ込んで、アバンギャルド的なものにするつもりだ」と三島は述べている[7]。この〈若い電工〉という転生者の死が本多に救済をもたらすという構想は、第三巻の完成の「いひしれぬ不快」の後でも基本的には変わらなかったが、しかしその後第四巻の主題は〈の研究〉と変更され、〈天使の如く〉であった〈少年〉が、〈悪魔のやうな少年〉に変更されてゆく[13][14]

また当初、第四巻の完結は1971年(昭和46年)末になるであろうと三島は述べていたが[1]、実際の掲載終了は三島の自死三島事件)により当初の予定よりも約1年余り早まった。1970年(昭和45年)3月頃、三島は村松剛に、「『豊饒の海』第四巻の構想をすっかり変えなくてはならなくなった」と洩らしていたという[20]。なお、〈天人五衰〉の前に予定されていた第四巻の題名は〈月蝕〉だった[13]

主題・作品意義

最終巻の執筆が概ね出来上がっていた1970年(昭和45年)9月の時点で三島は、第三巻以降への流れについて、現世の人間が「これが極致だ」と思考したことが、第三巻で「空観、空」の方へ溶け込まされるとし[21]、その「残念無念」の感覚を設定するには、第一巻と第二巻を戦前に設定させて、第三巻で一度「空」が生じ、「それからあとはもう全部、現実世界というのはヒビが入ってしまう」流れとなり、それが次元は違うが、「現実世界の崩壊」を「戦後世界の空白」のメタファとなると解説し、以下のように語っている[21]

僕にとっても、戦後世界というのは、ほんとに信じられない、つまり、こんな空に近いものはないと思っているんです。ですから仏教の空の観念と、戦後に僕がもっている空の観念とがもしうまく適合すればいいんですけれどもね。小説としてはもう完全に下り坂になるわけです。そこからはもう「絶対」もなんにもない。

三島由紀夫「文学は空虚か」(武田泰淳との対談)[21]

そして三島は「空を支える情熱」は、信仰以外にはないとしつつ、信仰者や信仰になったら小説ではなくなるので、第四巻の主人公を「悪魔的」にしたとし、「空を支えるのが、空観という形で、悪魔の仕業のように考える」方法にしたと説明している[21]

また同時期に、「第四巻の幸魂は、甚だアイロニカルな幸魂で、(自意識の悪)が主題ですが、最後の本多の心境は、あるひは幸魂に近づいてゐるかもしれません。(中略)この全巻を外国の読者に読んでもらふとき、はじめて僕は一人の小説家とみとめられるであらうと、それだけがたのしみです」とドナルド・キーン宛てに三島は説明している[10]

自死の一週間前には、『豊饒の海』の主題と終局について三島は以下のように語っている。

絶対者に到達することを夢みて、夢みて、夢みるけれども、それはロマンティークであって、そこに到達できない。その到達不可能なものが芸術であり、到達可能なものが行動であるというふうに考えると、ちゃんと文武両道にまとまるんです。(中略)あの作品では絶対的一回的人生というものを、一人一人の主人公はおくっていくんですよね。それが最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまって、いずれもニルヴァーナ涅槃)の中に入るという小説なんです。

三島由紀夫「三島由紀夫 最後の言葉」(古林尚との対談)[22]

ちなみに、恩師の清水文雄宛てへの最後の書簡では、「小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならない」とし、以下のように述べている[23]

カンボジアバイヨン寺院のことを、かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした。書いたあとで、一知半解の連中から、とやかく批評されることに小生は耐へられません。又、他の連中の好加減な小説と、一ト並べにされることにも耐へられません。いはば増上慢の限りでありませうが……。[注釈 3]

三島由紀夫「清水文雄宛て書簡」(昭和45年11月17日付)[23]




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注釈

  1. ^ 浜松中納言物語』は、美しい中納言が許されぬ悲恋に嘆いた末、亡父がの第三王子に生まれ変わっているとの夢を見て船出してゆくという「夢と転生」の王朝文学である[7]。その主題は、「もし夢が現実に先行するものならば、われわれが現実と呼ぶもののはうが不確定であり、恒久不変の現実といふものが存在しないならば、転生のはうが自然である」という考えが貫かれている[8]
  2. ^ この最後の〈バルタザールの死〉というのは、正確には「バルダサール」で、プルーストの短編『バルダサール・シルヴァンドの死』の主人公のことである。プルーストは、インドに向かう船を窓越しに眺めながら、村の鐘の音に過去の記憶を思い出し幸福な臨終を迎えるバルダサールを描いている[14]
  3. ^ 手紙の続きは、以下のように綴られている。「それはさうと、昨今の政治状勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら、気が狂ふだらう、と思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、症状は着々と進行し、失つたら二度と取り返しのつかぬ『日本』は、無視され軽んぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。戦後の『日本』が、小生には、可哀想な若い未亡人のやうに思はれてゐました。良人といふ権威に去られ、よるべなく身をひそめて生きてゐる未亡人のやうに。」[23]
  4. ^ 三島は今西康のことを、「あれは誰が見たって澁澤龍彦だってことが分っちゃうだろ。だから、わざと背を高く、たかーくしてあるんだよ」と言ったとされる[27]
  5. ^ 三島は、取材や想が熟さないところは後回しにして、書けるところから書く方法を取り、8月24日頃に最終回部分(第26-30章)を概ね書き上げ、原稿のコピーを新潮社の出版部長・新田敞に渡している[24][2]。また8月11日に下田東急ホテルに滞在中の三島を訪ねてきたドナルド・キーンに終結部の原稿を示したが、キーンは遠慮して読まなかったという[28]
  6. ^ 三島があえて〈十九年前〉と登場人物に言わせ、作品発表から遡った昭和天皇人間宣言の年を暗示させているともとれる箇所がある[19]
  7. ^ 三島は『文化防衛論』で、「日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬ」と論じている[51]
  8. ^ 三島は『春の雪』執筆中の1966年(昭和41年)10月時点、「僕は人間がどうやって神になるかという小説を書こうと思っています。藤原定家のことです」と林房雄との対談で語っているため[11]
  9. ^ 時代設定は1974年(昭和49年)時点であるので、この60代の老人と、生きていればその時点で49歳の三島とは年齢的には符合していない。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 三島由紀夫「『豊饒の海』について」(毎日新聞 1969年2月26日に掲載)
  2. ^ a b c d e f g 松本徹『三島由紀夫を読み解く(NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界)』(NHK出版、2010年)
  3. ^ a b c d e 佐藤秀明「夢と転生。嘘と、精巧な贋物……」(『別冊太陽 三島由紀夫』)(平凡社、2010年)
  4. ^ a b c 奥野健男「大団円『豊饒の海』」(『三島由紀夫伝説』)(新潮社、1993年。新潮文庫、2000年)
  5. ^ a b c d e 『三島由紀夫事典』(勉誠出版、2000年)
  6. ^ 三島由紀夫「私の近況――『春の雪』と『奔馬』の出版」(新刊ニュース 1968年11月15日号に掲載)
  7. ^ a b c d 三島由紀夫「数奇なドラマ展開―著者との対話」(名古屋タイムズ 1968年12月16日号に掲載)
  8. ^ 三島由紀夫「夢と人生」(『日本古典文学大系77 篁物語・平中物語・浜松中納言物語』月報)(岩波書店、1964年)
  9. ^ 三島由紀夫「『豊饒の海』について」(新潮社出版案内リーフレット 1969年4月)
  10. ^ a b 三島由紀夫「ドナルド・キーンへの書簡」(1970年10月3日付)
  11. ^ a b 三島由紀夫『対話・日本人論』(林房雄との対談)(番町書房、1966年)
  12. ^ a b c d e 三島由紀夫(中村光夫との対談)『対談・人間と文学』(講談社、1968年)
  13. ^ a b c d e f g h i j k 「『豊饒の海』創作ノート」(『決定版 三島由紀夫全集第14巻・長編14』)(新潮社、2002年)
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m 井上隆史『三島由紀夫 幻の遺作を読む―もう一つの「豊饒の海」』(光文社、2010年)
  15. ^ a b c 三島由紀夫「小説とは何か」(波 1970年5・6月号に掲載)
  16. ^ 三島由紀夫「川端康成への書簡」(昭和44年8月4日付)
  17. ^ a b 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)
  18. ^ 三島由紀夫「」(市ヶ谷駐屯地 1970年11月25日)
  19. ^ a b c d e f g h i 柴田勝二『三島由紀夫―作品に隠された自決への道』(祥伝社、2012年)
  20. ^ a b c d 村松剛『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)
  21. ^ a b c d 三島由紀夫(武田泰淳との対談)「文学は空虚か」(文藝 1970年11月号に掲載)
  22. ^ 三島由紀夫(古林尚との対談)「三島由紀夫 最後の言葉」(図書新聞 1970年12月12日、1971年1月1日掲載)。音声は『三島由紀夫 最後の言葉 新潮CD 講演』(新潮社、2002年)に収録(初刊は新潮カセットで1989年4月)。
  23. ^ a b c 三島由紀夫「清水文雄宛て書簡」(昭和45年11月17日付)
  24. ^ a b c d e f g h 「年譜」(『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』)(新潮社、2005年)
  25. ^ a b c 三島由紀夫「『春の雪』について」(出版ニュース 1969年7月下旬号に掲載)
  26. ^ 三島由紀夫「インドの印象」(毎日新聞夕刊 1967年10月20・21日号に掲載)
  27. ^ a b c 小島千加子「幻の月光姫――『暁の寺』のくしび」(ポリタイア 1973年9月号に掲載)(『三島由紀夫と檀一雄』)(構想社、1980年。 ちくま文庫で再刊、1996年)
  28. ^ 徳岡孝夫・ドナルド・キーン『悼友紀行』(中央公論社、1973年)
  29. ^ 森川達也「書評」(図書新聞 1969年3月22日号に掲載)
  30. ^ 北村耕「三島由紀夫の小説世界」(赤旗新聞 1969年3月23日号に掲載)
  31. ^ 桶谷秀昭日本経済新聞 1969年1月12日号に掲載)
  32. ^ 福田宏年東京新聞 1969年1月23日号に掲載)
  33. ^ 奥野健男「文芸時評」(読売新聞夕刊 1969年1月29日号に掲載)
  34. ^ 佐伯彰一「文芸時評」(読売新聞夕刊 1969年1月29日号に掲載)
  35. ^ 阿川弘之「文芸時評」(毎日新聞 1969年2月9日号に掲載)
  36. ^ 村上一郎「書評」(週刊読書人 1969年3月24日号に掲載)。『浪曼者の魂魄』(冬樹社、1969年)所収。
  37. ^ 高橋英夫「『春の雪』」(中央公論 1969年5月号に掲載)。『群像 日本の作家18』(小学館、1990年)所収。
  38. ^ 野口武彦『三島由紀夫の世界』(講談社、1968年)
  39. ^ 野口武彦「ライフワークたる本面目を発揮」(群像 1969年4月号に掲載)
  40. ^ a b 澁澤龍彦「輪廻と転生のロマン」(波 1969年4月号に掲載)
  41. ^ 佐伯彰一「文芸時評」(読売新聞夕刊 1970年7月27日号に掲載)
  42. ^ 池田弘太郎「書評」(週刊読書人 1970年8月3日号に掲載)
  43. ^ 田中美代子「覗く者と覗かれる者の密通劇」(波 1970年7月8日号に掲載)。『ロマン主義者は悪党か』(新潮社、1971年)所収。
  44. ^ 磯田光一「“見えすぎる眼”の情欲」(群像 1970年10月号に掲載)。『磯田光一著作集1』(小沢書店、1990年)所収。
  45. ^ 磯田光一「『豊饒の海』四部作を読む」(新潮 1971年1月号に掲載)。『磯田光一著作集1』(小沢書店、1990年)所収。
  46. ^ 田中美代子「書評」(週刊読書人 1971年3月15日号に掲載)。『日本文学研究資料叢書 三島由紀夫』(有精堂、1972年)所収。
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  51. ^ a b c 三島由紀夫『文化防衛論』(中央公論 1968年7月号に掲載)。『文化防衛論』(新潮社、1969年)
  52. ^ 安藤武『三島由紀夫の生涯』(夏目書房、1998年)
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  54. ^ 宮崎哲弥『憂国の方程式―日本、愛さぬでもなし』(PHP研究所、2001年)
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  57. ^ a b c 小島千加子「作中人物への傾倒――『奔馬』の頃」(ポリタイア 1973年10月号に掲載)(『三島由紀夫と檀一雄』)(構想社、1980年。 ちくま文庫で再刊、1996年)
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  61. ^ 市川雷蔵『雷蔵、雷蔵を語る』(あとがき:藤井浩明)(飛鳥新社、1995年。朝日文庫、2003年)、







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