仙台藩 経済と人口

仙台藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/26 14:14 UTC 版)

経済と人口

仙台藩の主な産物は米である。江戸時代には、北上川流域の湿地帯の開拓などの新田開発により、18世紀以降は内高が約100万石に達する程、多くの米・農作物を収穫できるようになった。また、買米制と呼ばれる事実上の専売制度が導入されていた。その米を海路江戸に運んで大きな利益を得た。萱場木工の『古伝密要』によると、大凶作でない限り仙台藩は毎年約25万 - 30万石の米・農産物(主に大豆)を輸出していたが、この内10万石は江戸以外の地へ輸出される「脱石」となり、また南部藩から輸入された「北米」5万石を加え、石巻より江戸へ毎年約20万 - 25万石の米・農産物が輸送された。この内、江戸での登米や役米を除く約半分の10万石が「仙台米」として江戸に流通したという。仙台米の江戸への輸出が始まったのは寛永9年(1632年)で、明和7年(1770年)に書かれた 『煙霞綺談』は「今江戸三分一は奥州米なり」と記述している。一部の米は海産物とともに大坂にも運ばれ、仙台藩は大坂に蔵屋敷を設置していた。石巻はこれらの航路の拠点として大いに発展した。

以下に一関藩を含めた仙台藩内高(1貫=10石で換算)の変遷をまとめる。表高は62万0056石5斗4升だが、新田開発により18世紀初頭には内高は100万石を超えた。 [15]

仙台・一関藩内高の変遷
元号 西暦 高 (石高に換算) 出典
天正 1591年頃 428,142.57 仙台国御郡方式目
文禄 1595年頃 513,771.08 仙台国御郡方式目
慶長3年 1598年 557,602.00 仙台叢書別集
慶長6年 1601年 600,000.00 伊達家記録抜書
寛永11年 1634年 (領知高) 600,000.00 将軍家光御判物
(本地分) 654,110.88 寛永惣検地
寛永17年 1640年 745,293.38 仙国御郡方式目 (寛永惣検地高)
寛文3年 1663年 829,801.82 仙国郡村諸旧記抄
延宝4年 1676年 850,057.30 御蔵入延宝四年之書上
貞享元年 1684年 930,195.42 仙国郡村諸旧記抄
貞享2年 1685年 930,208.76 仙国郡村諸旧記抄
貞享3年 1686年 935,383.23 仙国郡村諸旧記抄
元禄? 1690年頃 945,084.40 仙国郡村諸旧記抄
宝永7年 1710年 839,991.80 武家手控
享保2年 1717年 995,880.00 仙台叢書別集
享保3年 1718年 1,007,676.91 出入司職鑑
元文3年 1738年 1,016,486.99 出入司職鑑
延享元年 1744年 1,019,953.62 出入司職鑑
宝暦4年 1754年 1,021,831.68
(奥州分) 999,002.76
古伝密要
文化12年/文化13年 1815年/1816年 1,017,218,30 伊達家出入司文書
文政7年 1824年 1,009.461.00 御財用方十ヶ条申達留
天保9年 1838年 1,014,909.76 伊達家勘定方
嘉永5年 1852年 1,012,829.42
(奥州分) 947,736.95
伊達家勘定方
安政元年 1856年 1,013,521.62 伊達家出入司文書
明治元年 1868年 (奥州分) 980,000.00 旧仙台藩治概要

以上は藩内の租税算出の基礎となる内高での数字であるが、寛政9年(1797年)に書かれた萱場木工の『古伝密要』によると、奥州領分内高99万9002石7斗6升に対して貢租率53%の52万9476石7斗6升2合8勺を税収とし、実際の米の収穫高は税収の3倍、雑穀の収穫高は税収とほぼ同じであるという過剰の仮定により、仙台藩奥州領分の米・雑穀の実高合計を税収の4倍(内高の2.12倍)の211万7906石1斗5升1合と見積もっている。また江戸時代末期の安井息軒の『読書余適』には「二百万石余」、同じく江戸時代末期の帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。このことから仙台藩の実高は200万 - 250万石に達したとする説が広く流布しているが、これらの数字は何れも推論に基づく誇張された数字であり、実態とかけ離れている。[注 6]地租改正後の旧仙台藩領分の明治10年 - 明治12年三ヶ年平均農作物米換算石高は130万石(内、米91万石、大豆12万石(米価換算で12万石相当)、大麦22万石(米価換算で10万石相当)など)であり[16]、豊作時に米の収穫高だけで内高を上回ることがあったというのが実態である。

寛永17年(1640年)の検地高7万4529貫338文(74万5293石3斗8升相当)に占める田畑の高と反別は以下の通りで、米の収穫高は総農産高の8割以上を占めていた。また雑穀としては大豆が重要な商品作物として広く栽培されたが、冷害に強いとされるヒエは商品価値が低く、余り栽培されなかった。[15]

寛永17年惣検地
田・畑・茶畑 高 (石高に換算) 反別 1町当たり収量
608,571.66 5万0244町4反2畝22歩 12石1斗1升2合2勺
126,048.98 4万5109町6反6畝13歩 2石7斗9升4合3勺
茶畑 10,672.74 305町4反7畝19歩 3石4斗9升3合9勺
合計 745,293.38 9万5659町5反6畝24歩 7石7斗9升4勺

また延宝4年(1676年)には蔵入地が31%を占めていたが、貞享年間(1684年頃)では以下のような知行構成となっており、蔵入地が若干減退している。

貞享年間の知行
高・反別 合計 本地 新田 茶畑
高合計(石高に換算) 935,383.23 765,606.48 159,487.57 10,289.18
 内、御蔵入 278,809.43 214,253.67 54,472.43 10,083.33
 内、給人 655,131.69 549,937.13 104,909.09 195.43
 内、除屋敷 1,442.11 1415.68 16.05 10.38
本地・新田反別 (町歩) 126,190 99.606 26.584
 内、田 66,183 52,663 13.520
 内、畑 60,007 46,943 13.064
1町当たり収量 7石4斗1升2合5勺 7石6斗8升6合3勺 5石9斗9升9合4勺

田畑の反別は安永4年(1775年)には13万1031町7反3畝歩にまで増加し、御蔵入地の割合も、幕末の安政3年(1858年)には39%まで増加した。しかしながら依然として御蔵入地の割合は低く、これが凶作時などの緊縮財政時には大きな負担を仙台藩に与えた。例えば中津川武蔵の『御在方全体之犠等品々御奉行衆被御聞届取調十ヶ条申達候留』によると、文政6年(1823年)において御蔵入地からの年貢は、米7万1900石、大豆4300石、金4万2000両に過ぎなかった[15]

このように米に頼りすぎた経済は藩に他の産品の開発の動機を失わせ、藩財政は米の出来・不出来及び米相場の状況によって翻弄され、不安定であった。特に買米制は凶作に弱く、凶作が起きれば藩は大借金を抱え、豊作でかつ米相場が高値推移の年には積年の借金が一気に返済できてしまうといった具合である。まさに「農業は博打である」という格言を地で行く藩経営であった。仙台藩が幕府に提出した報告書によれば、天明3年(1783年)、天明4年(1784年)にはそれぞれ56万5000石、53万2000石の損毛高を計上し、内高ベースでの米生産高は平年の半分であったという。また天保7年(1836年)には91万5784石の損毛高を計上し、米の生産高は10万石しかなかった[注 7]

また凶作が起こると領内は大変な食料不足に見舞われ、農民だけではなく武士階級の者までが餓死したと伝えられているが、これは他の藩には全く見られない現象であった。実際天明元年(1781年)に50万2124人を数えた陸奥領内郡方人口は、天明の大飢饉後の寛政元年(1789年)には40万9632人にまで減少している。死因としては大凶作による餓死よりも、体力の衰えたところで流行した疫病(「傷寒」(腸チフスか)、「多羅病」など)の方がはるかに大きく、餓死20万人というのは大げさな伝聞とはいえるものの、藩全体の人口が10万人単位で減少したのは事実である。凶作の原因としてはやませによる冷害や天明3年(1783年)の浅間山の火山噴火のほか、新田開発の集中した北上川の洪水による度重なる水害が挙げられる。一方で飢饉の人為的要因としては買米・廻米制度が挙げられ、例えば天明の大飢饉では凶作の前年の天明2年(1782年)に投機的廻米のために食糧備蓄を取り崩したことも飢饉に拍車を掛けたと、五十嵐荘左衛門の『飢饉録』の中で糾弾されている。18世紀中頃から幕末までは、仙台藩の新田開発は滞り、ほぼ内高100万石のまま推移した。

以下に一関藩を含めた仙台藩の構成別人口の変遷をまとめる。[15] 表にまとめた人口の他、陸奥領・一関藩の郡方人口については他の年代のものも記録として残っているが、これらについては江戸時代の日本の人口統計参照。また表中、享保2年(1717年)の数値は地域別人口で、陸奥領と一関藩の郡方人口の項に示されている数字は武家等を含む。

仙台藩の陸奥領郡方人口(一関藩を除く)、仙台・一関藩総人口の変遷[15][注 8]
仙台・一関藩の構成別人口の変遷
身分・地域 寛文8年

(1668年)

延宝2年

(1674年)

貞享3年

(1686年)

元禄3年

(1690年)

元禄8年

(1695年)

元禄15年

(1702年)

享保2年

(1717年)

享保17年

(1732年)

寛保2年

(1742年)

宝暦7年

(1757年)

天明6年

(1786年)

寛政元年

(1789年)

享和2年

(1802年)

文政8年

(1825年)

文政11年

(1828年)

慶応3年

(1867年)

一門・諸士・諸組・諸職人 151,211 176,057 194,203 205,916 × 185,570 133,174 143,208 149,465
 仙台藩 202,541 × 182,678 171,639 130,509 140,438 146,352
 岩沼/一関藩 3,375 × 2,892 2,665 2,770 3,113
仙台町方 18,493 20,073 22,501 22,706 × 20,374 11,610 13,302 13,749
仙台寺院方 9,209 9,224 2,554 2,884 × 6,249 4,007 4,496 4,695
郡方 428,955 515,472 557,019 599,241 588,251 617,323 × 647,427 603,868 447,491 478,064 519,893
 陸奥領 473,892 512,941 507,900 542,268 819,162 559,204 534,901 411,496 409,632 440,799 481,180 490,571 556,983
 岩沼/一関藩 41,580 25,756 26,694 31,314 26,293 21,877 20,259 21,671 23,032
 近江領 8,332 9,095 9,380 8,917 7,982 8,089 8,129
 常陸領 9,990 10,194 9,840 9,299 7,611 7,358 7,402
 下総領 (1712年以降) 150 155 143 147 150
総人口 607,868 720,826 776,277 819,749 869,846 816,061 596,282 598,001 639,070 687,802 699,334

表に示すように、仙台藩総人口に占める武家の割合は22 - 25%と非常に高かった。しかしながら明治2年の時点で3万3128家17万2239人いた士分の内、陪臣2万3477家11万5771人のほぼ全てと、伊達家直属家臣団9651家5万6468人の内1993家9965人は帰農することとなり、士卒族の地位を得たのは士族2万9408人、卒族1万3091人のみである。

稲作以外の産業としては、三陸沖に漁場を持ち、良港に恵まれたことなどから、三陸海岸で採れるアワビサメを、干鮑やフカヒレに加工して「長崎俵物」としてに輸出していた。特に三陸産の干しアワビは仙台藩領の気仙郡吉浜村(現・岩手県大船渡市)から名前を取って「吉品鮑(カッパンパオ)」と呼ばれていた。

さらに鉱山資源が日本国内としては豊富であり、鉄鋼業と、馬産を奨励して、成功したことや、三陸沖に漁場を持ち、良港に恵まれたことなどがあげられる。このため前述の米の他に塩、漆、鉄、水産物、煙草、紅花、海産物も藩の専売品であった。

このような恵まれた環境ではあったが、御蔵入地からの年貢は約10万 - 20万石程度で変動した。江戸時代後期以降は先述の偏った藩財政に、天明の大飢饉、天保の大飢饉などの凶作や欧米列強に対する海岸防備による出費が藩財政を直撃した。天保10年には幕府に許可をもらって参勤交代を延期する状況であったが、幕末には芝多民部が藩札発行を行って経済混乱を起こし、但木成行は、表高62万石でありながら10万石分限での藩財政運営を宣言した。




注釈

  1. ^ ただし、江戸時代初期の武鑑では、薩摩藩石高のうちの琉球王国分12万石を含めないで序列を決めために、薩摩藩より上の第2位に書かれることもあった。
  2. ^ この時期、政宗がスペインや大久保長安と結んで倒幕を図っていたという説がある。こうした説は明治時代から存在したが[6][7]、これには批判もある[8]
  3. ^ 仙台藩では、本陣のことを外人屋と称した。現在の仙台市青葉区国分町二丁目。のちに南條小児科医院が開院した場所。現在、同院はない。
  4. ^ 後見人に伊達宗勝田村宗良
  5. ^ 後見人に堀田正敦
  6. ^ 『読書余適』は仙台侯国の石高を200万石と記述しているが、その根拠を記せず、それにもかかわらず飢饉で餓死者数万人を出したという文章に繋がる。一方『東潜夫論』は、仙台藩について「150万の人口と伝えられており、250万石を越えるに違いない」という、前提となる人口自体が過剰となる伝聞による石高推論である。『東潜夫論』では佐渡12万石(1万7,000石)、隠岐6万石(5,000石)と、太閤検地の10倍の数値が示されており注意を要する。
  7. ^ ただし、幕末の仙台藩は、幕府に対してほぼ毎年50万石の損毛高を報告し続けており、実態以上の被害を報告することで普請免除を正当化したとみられる。
  8. ^ 人口の復元方法は主に高木正朗・新屋均(2006年)による。なお人口に関しては古文書にみられる数字を尊重し、記録のない時期に関しては、江戸時代初期の人口は会津藩の公式人口記録(『会津家世実記』)、江戸時代末期の人口は西磐井郡狐禅寺村・下油田村・峠村・中村、東磐井郡赤生津村・大籠村・新沼村・増沢村・保呂羽村の人別改帳の人口を元に再現している。

出典

  1. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』
  2. ^ a b c d 『角川日本地名大辞典4 宮城県』32-33頁。
  3. ^ 小倉博, 『仙臺』(1924)
  4. ^ 大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中央公論新社、1999年など。
  5. ^ 田中英道『支倉常長 武士、ヨーロッパを行進す』ミネルヴァ書房、2007年、pp. 58-64.など。
  6. ^ 箕作元八「伊達政宗羅馬遣使の目的」『史学界』三の十一、1901年
  7. ^ 阿部秀助「大久保長安と伊達政宗」『史学界』五の一、1903年
  8. ^ 小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、2008年、239-242頁)。
  9. ^ 『仙台藩士幕末世界一周』荒蝦夷 2010年
  10. ^ 白鳥事件について (PDF)”. 柴田Y2ネトワーク. 2019年2月14日閲覧。
  11. ^ <奥羽の義 戊辰150年>(34)新政府兵に発砲 領主切腹”. 河北新報オンラインニュース (2019年1月13日). 2019年2月13日閲覧。
  12. ^ 『仙台市史』通史編5(近代1)46頁。
  13. ^ 『仙台市史』通史編5(近代1)49頁。
  14. ^ 逸見英夫 著 「明治・大正・昭和 仙台じけん帳」(河北新報ISBN 4-87341-162-9)の23頁。
  15. ^ a b c d e (a) 玉山勇, 「江戸時代の人口問題 ―仙台藩の場合―」 『国民経済雑誌』 73巻(1号), pp. 63–94 (1942). (b) 『岩手県史』 4巻 近世編(1). (c) 『宮城県史』 2巻 近世史. (d) 高木正朗, 新屋均, 「近世国家の人口とその趨勢 ―仙台藩郡方・一関藩村方人口の復元: 1668–1870年―」 『立命館大学人文科学研究所紀要』 (87号), pp. 7–39 (2006). (e) 土屋喬雄, 『封建社会崩壊過程の研究』, 弘文堂, 1953.
  16. ^ (a) 勧農局編, 『全国農産表』/『農産表』, 1876-1882. (b) 中村哲著, 『明治維新の基礎構造』, 未来社, 1966.
  17. ^ 1 市域の変遷 2 北上市の位置 (PDF) (北上市)
  18. ^ 国勢調査(北上市)
  19. ^ 市の面積 (PDF) (釜石市)
  20. ^ 18 地域別人口及び世帯の推移 (PDF) (釜石市)
  21. ^ a b c d e f g h i 平成22年全国都道府県市区町村別面積調国土交通省国土地理院
  22. ^ a b c d e f g 岩手県(農林水産省「市町村の姿 グラフと統計で見る農林水産業」)
  23. ^ a b c d e f g いわての統計情報(岩手県)
  24. ^ 宮城県(農林水産省「市町村の姿 グラフと統計で見る農林水産業」)
  25. ^ 平成17年国勢調査1次結果 - 宮城県統計課
  26. ^ 福島県 新地町(農林水産省「市町村の姿 グラフと統計で見る農林水産業」)
  27. ^ 平成17年国勢調査(福島県)
  28. ^ {国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書15 『本石米と仙台藩の経済』」(大崎八幡宮、2009年10月30日発行) P.15 - P.18
  29. ^ 「『仙台市史』通史編3 近世1」(仙台市、2001年9月発行) P.150 - P.154
  30. ^ 1 研究ノート 「岩手県の誕生」 (PDF) (岩手県立博物館だより)
  31. ^ 金井圓「給人前」『国史大辞典』第4巻、吉川弘文館、1984年 P248
  32. ^ 現地説明板「仙台藩祖伊達政宗 終焉の地」(2014年、仙台市)
  33. ^ 慶長15年(1610年)に秀忠の上杉邸への御成りがあり、能や茶会などの饗応が行なわれている。(「国宝 上杉家文書」)







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