仙台藩 仙台藩の概要

仙台藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 18:32 UTC 版)

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概要

外様大名の伊達政宗が樹立し、以降は明治廃藩置県まで代々伊達本家が統治した。伊達本家は、大広間詰国持大名。代々、将軍家より松平を許され[1]、歴代藩主のほぼ全員に陸奥守の官位が与えられ、世嗣の殿上元服賜諱(偏諱の授与)があった。

表高62万0056石5斗4升4合で、諸藩のうちで第3位[注 1]、実高は支藩の一関藩を含め、18世紀初頭には100万石を超えた。地方知行によって多数の陪臣を抱え、直属家臣約7000人(江戸中期以降には約1万人)、陪臣をあわせて2万数千から3万の兵力(江戸中期以降は約3万5000人)を擁した。領内の産出米は大消費地・江戸の食料を支え、干しアワビフカヒレ長崎俵物として外貨を稼いだ。

歴史

仙台開府まで

伊達政宗の肖像画

仙台藩が成立する以前の16世紀の中頃、現在の宮城県北部から岩手県南部にかけての領域は大崎氏葛西氏が治めていた。また、宮城県中部は留守氏国分氏黒川氏の領土だった。ここに南側から、信達地方や置賜地方を本拠とする伊達氏が勢力を伸ばしており、これらの諸勢力は伊達氏の影響を受けるようになっていた[2]

1590年天正18年)、天下統一を目指す豊臣秀吉小田原後北条氏を降した後、宇都宮で奥州仕置を行った。伊達政宗はこの前年に会津蘆名氏を討ち滅ぼして広大な領土を実現していたが、奥州仕置により旧領のみが伊達氏の所領として認められ、会津領は没収された。また、この仕置きによって、大崎氏や葛西氏、留守氏、黒川氏は改易された。大崎氏および葛西氏の旧領12郡には木村吉清が封じられたが、まもなく葛西大崎一揆が起こった。この一揆は政宗と蒲生氏郷によって鎮圧され、一揆の責任を問われた領主の吉清は所領を取り上げられた。この一揆には政宗の関与が疑われ、秀吉は伊達氏の本拠だった信達地方や置賜地方を取り上げ、旧大崎、葛西領全郡と、刈田郡を除いておおよそ現在の宮城県中南部に当たる部分を政宗の領土とする仕置きを行った[2]

秀吉が死ぬと、政宗は徳川家康に接近した。1600年慶長5年)の家康による会津征伐では、政宗は家康から上杉景勝に対する備えを求められた。この時、家康は政宗に対して、秀吉に没収された伊達郡置賜郡などの旧領を回復し、所領を100万石にまで加増するという約束をした(いわゆる「百万石のお墨付き」)[2]。政宗は上杉領へ攻め込み白石城の戦いで上杉勢を破り、上杉勢に攻め込まれた山形の最上義光へ援軍を送ったが、援軍には合戦を傍観させた。一方、政宗は同じ徳川方である南部利直の領地で、和賀忠親を支援して岩崎一揆を起こさせた。関ヶ原の戦いの後の論功行賞で、家康が政宗に認めた新たな領地は刈田郡のみだった[2]

仙台城の大手門隅櫓。仙台空襲で焼失し、後に再建されたもの。

露骨な野心を家康から警戒された政宗は、戦勝後に有力大名の中で最後まで帰国を許されず、江戸の天下普請に動員されるなど、2年間を領国外で過ごした。この間、1601年(慶長6年)、政宗は国分氏の居城であった千代城を修築(実質は新築)、「仙台城」と改称し、それまでの居城だった岩出山城からここに移った。同時に城下町も建設し、政宗を初代藩主とする仙台藩(62万石)が成立した。1611年(慶長16年)に仙台を訪れたスペイン領メキシコの対日特派大使セバスティアン・ビスカイノは、仙台城から見降ろした仙台の城下町の様子を「江戸と同じくらいの大きさだが、建物はもっと立派」と報告している。この時期の仙台城下町人口は5万人と推定されている。[3]

慶長遣欧使節団の派遣

欧州における報告書に描かれた支倉常長の肖像。Faxicuraとの記載がある

政宗は仙台藩とスペインとの通商(太平洋貿易)を企図し、1613年(慶長18年)、仙台領内で西洋帆船(黒船)、サン・ファン・バウティスタ号を建造した。当時、フェリペ3世国王とするスペイン帝国は、世界最大の植民地帝国であった。政宗は家臣の支倉常長を外交使節に任命すると、常長を中心とする一行180余人をノビスパニア(メキシコ)、イスパニア(スペイン)、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。当時は、西日本の藩を中心に東南アジア地域との貿易(南蛮貿易)が盛んであったが、政宗は仙台藩自らが外国へ出向いて、ヨーロッパと貿易をすることで大きな利潤を得ようとした。政宗が使節を送った目的として、スペインとの軍事同盟、さらにはそれを利用しての倒幕があったとの説もある[4]。慶長遣欧使節団の派遣は、対スペイン貿易を志向する徳川幕府の承認、すなわち“外交権”を得たものであった[5]。なお、支倉常長らは、初めて太平洋大西洋の横断に成功した日本人でもある。

しかし翌年、江戸幕府禁教令を出し、キリシタン及び宣教師の弾圧を始める。この情報がヨーロッパにも伝わり、仙台藩によるスペインとの外交交渉は失敗に終わった[注 2]

幕末には藩士の玉虫左太夫日米修好通商条約の使節団に加わっている[9]

危機と中興

伊達騒動が起きた酒井家上屋敷跡
千代田区丸の内

政宗は1614年(慶長19年)からの大坂の陣にも参陣し、その後は、北上川の河川改修などの治水事業を行った。政宗の死後、跡を継いだ第2代藩主・忠宗は、内政を充実させると共に、正室に徳川秀忠の養女振姫池田輝政の娘で家康の孫娘)を迎えるなど、将軍家との関係を深め、幕府へ従順な態度を示して警戒を解こうと努力した。しかし、振姫との間の世子光宗が夭折すると、櫛笥隆致の娘貝姫との間に生まれた綱宗が後継者になる。忠宗が没すると、伊達騒動と呼ばれるお家騒動が起きる。貝姫の姉・隆子後西天皇の生母で、綱宗は天皇の従兄弟になり、幕府に警戒されたと言われ、綱宗は隠居させられ、幼君亀千代が立てられた。亀千代は成人し、第4代藩主綱村となったが、綱村は浪費によって多額の借金を生み出し、藩財政を致命的な状態に陥れたため、重臣らと対立して隠居に追い込まれた。

第5代藩主・吉村は藩財政の再建に取り組み、買米制を利用して利益を上げる一方、幕府に対し仙台藩内の銅を利用することを条件に鋳銭を願い出て許可を得た。石巻に鋳銭場(現代の石巻駅前、地名に残る)を設置し、寛永通宝を鋳造した。この他に「仙台平」と呼ばれる絹織物の生産、鉱山開発、馬産の奨励を行った。これらの財政再建策の成功により、吉村は中興の祖と称えられる。

しかし、第6代藩主・宗村の代に発生した宝暦の大飢饉により買米バブルが崩壊すると、再び藩財政は破綻する。第7代藩主・重村の失政に天明の大飢饉があいまって、借金は増大する一方であった。19世紀初頭の一時期、家老中村景貞の施策により小康状態を得たが、その後は天保の大飢饉や海岸防備への対策費用捻出により、財政難は壊滅的状況へと逆戻りしていった。

戊辰戦争の敗北と北海道開拓

戊辰戦争が起こると、明治新政府から会津藩討伐の命を受けて、軍勢を会津との藩境にまで進めた。しかし、藩政を握っていた家老の但木土佐は筋金入りの佐幕派であり、同じく佐幕派の会津藩と戦うつもりは初めからなく、進軍は形だけのものでそれ以上の行動は起こさなかった。その後は会津藩と交渉を行い、新政府が求めていた「会津藩が全面的に降伏する」ことで合意を得たが、その数日後に会津藩が方針を転換して降伏を拒否した為、仙台藩は面目を失った。この問題に対して奥羽14藩が白石城に集結して話し合いを行った結果(白石会議)、会津藩・庄内藩の赦免を求める奥羽越列藩同盟が結成され、仙台藩がその盟主となった。

会津・庄内両藩の赦免を求める奥羽諸藩の嘆願書は、仙台に派遣された奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝に届けられたが、副総督・醍醐忠敬下参謀世良修蔵が「二月中出陣に先立って大総督に伺った指令に容保は死罪とあること、また容保が果して真に恭順謝罪を願うとならば、諸国の兵を退け、開城して自ら軍門に来って謝するが至当であるのに、実情を見れば、却って現地交戦の状あるは顕著であるから、決して許容すべきものにあらず」と反対し、それらの意見を受けた九条により却下された。

列藩同盟が手詰まりに陥る中、仙台藩士・姉歯武之進らが世良を殺害するという事件が起きた。世良は新政府による会津討伐の命を形だけのものしていた仙台藩に不満を持っており、融和策に動く仙台藩を罵倒した為、仙台藩強硬派からの怒りを買っていた。さらに奥羽諸藩が列藩同盟を結成した事は世良にとっても予想外の出来事であり、奥羽への不信感をますます高めることになった。奥羽鎮撫総督府は、奥羽諸藩の兵力を会津討伐の主力と計算していた為、新政府から派遣された兵力は5百名程度しかおらず、この時点で会津・庄内を平定する事は不可能となった。世良は同じく下参謀であった大山格之助に、大坂・京都の新政府軍の主力を白河方面に集結させて、また酒田港にも援軍を派遣させ、会津・庄内を挟撃する旨の密書を送った。その密書を、以前から世良の暗殺を狙っていた姉歯武之進らが手に入れ、その一文に「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」と書かれていた事に激怒し、但木土佐の了承を得た上で、料亭に就寝していた世良を襲撃し、暗殺した。

新政府軍の下参謀を殺害してしまった事により、仙台藩を盟主とする列藩同盟は新政府との全面戦争を決意する。仙台藩は、奥羽鎮撫総督府軍を撃破して九条や醍醐らの身柄を確保し、仙台城下に軟禁した。これと呼応して、会津藩が白河城を攻略した。しかし、融和的な赦免を目的とした列藩同盟が軍事的な同盟に変貌した事に拒否感を持つ藩も多数あり、特に久保田藩は、新政府への開戦を要請した仙台藩の使者を斬り捨て、同盟から脱退した。仙台藩内でも重臣の三好清房が抗戦は無謀であるとして新政府への帰順を訴えていたが、但木土佐により自害に追い込まれた。

仙台藩は当時、日本国内有数の兵力を有していたものの、ジャーディン・マセソン商会を介してイギリスから大量に最新型の銃器を購入していた薩長軍と比べると、兵士一人当たりの銃器の保有数が圧倒的に不足しており銃器自体の性能も又圧倒的に劣っていた。

1868年慶応4年)の白河口の戦いでは会津藩と共に列藩同盟軍の主力となり、平潟戦線においても磐城平藩と共に主力を担ったが、上述のような兵器の性能差や、さらには薩長軍への内通者により各所で発生した戦線の混乱によって、これらの地域での決戦に相次いで敗れ退却する。磐城の戦いでは、相馬中村藩と共に新政府軍と戦うも敗北し、この際に仙台藩が自領の防衛を優先して藩境である駒ヶ嶺まで引き上げた為、孤立無援に陥った相馬中村藩は新政府に降伏した。仙台藩は北上する薩長軍と相馬口駒ヶ嶺付近で戦ったが、三度にわたる攻防戦はすべて仙台藩の大敗に終わり、藩境の駒ヶ嶺も陥落する。敗北が重なるにつれて藩内からは伊達一門を中心に降伏論が飛び出すようになり、但木土佐と対立していた遠藤允信が藩主・伊達慶邦に主戦派排除を訴えるなど仙台藩内は混乱に陥り、若松城で窮地にある会津藩を救援する事すら出来なかった。そして迎えた旗巻峠の戦いでは、新政府軍の死者7名に対して仙台藩は46名の死者を出す大敗を喫し、9月10日、ついに慶邦の判断で仙台藩は降伏した。それまで藩政を握っていた但木土佐らは退陣し、代わって遠藤允信が家老となり、但木土佐らを戦犯として新政府に引き渡し、その他の主戦派も切腹させた。但木土佐は東京にて叛逆首謀の罪で斬首となった。10月には駐屯してきた広島藩の兵が地元の信仰を無視して白鳥狩りを始めたのをきっかけに、船岡領主柴田家の家臣が新政府軍に向けて発砲し、領主柴田意広が切腹、家臣ら2人が斬首される事件が発生している(白鳥事件)[10][11]

敗戦後、明治政府より責任を問われ、仙台藩は表高62万石から実高28万石に減封される。実高は平均して100万石程度あったため、実質的には4分の1の石高への大幅減封であった。この減封に際して仙台藩は、在郷家臣らに帰農を命じ、直轄領を出来るだけ保持する一方で、万石級の大領の藩内領主の領地を数百石あるいは数十石に大幅に削減した。陪臣(主として万石級の領主の家来20,000人余)を解雇して士族籍を与えなかった。このため伊達邦直邦成兄弟をはじめとする領主たちは、自らの家臣団の救済のため、私費を投じて北海道開拓のために移住を開始した。

仙台藩直営の事業としては、分領として与えられた沙流郡を三好清篤・星恂太郎が開拓したものがある。また、城下町・仙台では、侍町だった東一番丁で没落士族たちが商売を始め、これが現在の中心商業地「一番町」へと繋がっていく。

仙台藩の主要施設は新政府に接収された。仙台城二の丸に東北鎮台(後、仙台鎮台陸軍第二師団)が置かれ、三の丸は錬兵場になった。伊達政宗が隠居した若林城若林区の由来になった)に至っては、宮城集治監(現在の宮城刑務所)とされ、西南戦争の捕縛兵の収容施設とされた。

廃藩置県と仙台県の誕生

1869年1月19日明治元年12月7日)に陸奥国が5分割されたため、仙台藩陸奥国領は陸中国陸前国磐城国に渡ることになったが、戊辰戦争に敗れた仙台藩は同日62万から28万石に減封され、陸前国よりさらに狭い現・宮城県中部を占めるのみとなった(箱館戦争終結前だが仙台藩蝦夷地領も失ったと見られる)。

1871年8月29日明治4年7月14日)の廃藩置県により、仙台藩が廃止され、同じ領域に仙台県が置かれた。廃藩時の仙台藩の債務は、国内に110万8000余り、国外に約11万8000円。政府は国内の債務の大部分と対外債務の一部を破棄し、一部をかつて仙台藩の蔵元を務めた豪商升屋に払わせることとし、残りを政府が公債として引き受けた[12]。これによって、仙台藩は、仙台県・角田県登米県胆沢県に分かれた。最終的に、旧仙台藩の北部(現在の岩手県の北上市から南の地域、沿岸では気仙郡)は岩手県に組み込まれ、現在の新地町福島県に編入され、その他のほとんどの部分が宮城県へとなっていく。

同年6月10日(明治4年4月23日)に石巻県石巻に置かれた東山道鎮台本営が、同年10月4日(明治4年8月20日)に廃止され、代わりに東北鎮台本営が仙台に置かれることになった[13]。同年12月12日(明治4年11月1日)、当時の仙台の中心部である国分町の元外人屋[注 3]に東北鎮台の本営が仮設された[14]

歴代藩主

伊達(だて)家(松平陸奥守家)

外様 大広間 国主(大身国持) 62万石→28万石

  1. 政宗
  2. 忠宗
  3. 綱宗
  4. 綱村[注 4]
  5. 吉村
  6. 宗村
  7. 重村
  8. 斉村
  9. 周宗[注 5]
  10. 斉宗
  11. 斉義
  12. 斉邦
  13. 慶邦
  14. 宗基 反明治新政府の罪により28万石に減封
  15. 宗敦



注釈

  1. ^ ただし、江戸時代初期の武鑑では、薩摩藩石高のうちの琉球王国分12万石を含めないで序列を決めために、薩摩藩より上の第2位に書かれることもあった。
  2. ^ この時期、政宗がスペインや大久保長安と結んで倒幕を図っていたという説がある。こうした説は明治時代から存在したが[6][7]、これには批判もある[8]
  3. ^ 仙台藩では、本陣のことを外人屋と称した。現在の仙台市青葉区国分町二丁目。のちに南條小児科医院が開院した場所。現在、同院はない。
  4. ^ 後見人に伊達宗勝田村宗良
  5. ^ 後見人に堀田正敦
  6. ^ 『読書余適』は仙台侯国の石高を200万石と記述しているが、その根拠を記せず、それにもかかわらず飢饉で餓死者数万人を出したという文章に繋がる。一方『東潜夫論』は、仙台藩について「150万の人口と伝えられており、250万石を越えるに違いない」という、前提となる人口自体が過剰となる伝聞による石高推論である。『東潜夫論』では佐渡12万石(1万7,000石)、隠岐6万石(5,000石)と、太閤検地の10倍の数値が示されており注意を要する。
  7. ^ ただし、幕末の仙台藩は、幕府に対してほぼ毎年50万石の損毛高を報告し続けており、実態以上の被害を報告することで普請免除を正当化したとみられる。
  8. ^ 人口の復元方法は主に高木正朗・新屋均(2006年)による。なお人口に関しては古文書にみられる数字を尊重し、記録のない時期に関しては、江戸時代初期の人口は会津藩の公式人口記録(『会津家世実記』)、江戸時代末期の人口は西磐井郡狐禅寺村・下油田村・峠村・中村、東磐井郡赤生津村・大籠村・新沼村・増沢村・保呂羽村の人別改帳の人口を元に再現している。
  9. ^ それにもかかわらず仙台藩側は宇和島藩を配下扱いしたため、両藩の関係は良好とはいえないものとなった。(本家末家論争の項も参照のこと)
  10. ^ 伊達家の古くからの家臣には、江戸時代前期までに改易や降格、中枢から外れるなどの憂き目に遭った家が少なくない。奥州仕置による旧領喪失、政宗の指示に従ったことから豊臣秀吉によって改易となった元戦国大名層など丁重に遇さざるを得ない家が新たにいくつも最上層に加わったことは、従来の勢力均衡を崩し、不満と新旧の対立が生じ、伊達騒動にまで影響した可能性は否めない。
  11. ^ 仙台藩では家老職を奉行と称した。
  12. ^ ただし、譜代家臣、家格の高い家の分家筋や親族なども多く、すべてが政宗時代に新たに召し抱えられたわけではない。

出典

  1. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』
  2. ^ a b c d 『角川日本地名大辞典4 宮城県』32-33頁。
  3. ^ 小倉博, 『仙臺』(1924)
  4. ^ 大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中央公論新社、1999年など。
  5. ^ 田中英道『支倉常長 武士、ヨーロッパを行進す』ミネルヴァ書房、2007年、pp. 58-64.など。
  6. ^ 箕作元八「伊達政宗羅馬遣使の目的」『史学界』三の十一、1901年
  7. ^ 阿部秀助「大久保長安と伊達政宗」『史学界』五の一、1903年
  8. ^ 小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、2008年、239-242頁)。
  9. ^ 『仙台藩士幕末世界一周』荒蝦夷 2010年
  10. ^ 白鳥事件について (PDF)”. 柴田Y2ネトワーク. 2019年2月14日閲覧。
  11. ^ <奥羽の義 戊辰150年>(34)新政府兵に発砲 領主切腹”. 河北新報オンラインニュース (2019年1月13日). 2019年2月13日閲覧。
  12. ^ 『仙台市史』通史編5(近代1)46頁。
  13. ^ 『仙台市史』通史編5(近代1)49頁。
  14. ^ 逸見英夫 著 「明治・大正・昭和 仙台じけん帳」(河北新報ISBN 4-87341-162-9)の23頁。
  15. ^ a b c d e (a) 玉山勇, 「江戸時代の人口問題 ―仙台藩の場合―」 『国民経済雑誌』 73巻(1号), pp. 63–94 (1942). (b) 『岩手県史』 4巻 近世編(1). (c) 『宮城県史』 2巻 近世史. (d) 高木正朗, 新屋均, 「近世国家の人口とその趨勢 ―仙台藩郡方・一関藩村方人口の復元: 1668–1870年―」 『立命館大学人文科学研究所紀要』 (87号), pp. 7–39 (2006). (e) 土屋喬雄, 『封建社会崩壊過程の研究』, 弘文堂, 1953.
  16. ^ (a) 勧農局編, 『全国農産表』/『農産表』, 1876-1882. (b) 中村哲著, 『明治維新の基礎構造』, 未来社, 1966.
  17. ^ 1 市域の変遷 2 北上市の位置 (PDF) (北上市)
  18. ^ 国勢調査(北上市)
  19. ^ 市の面積 (PDF) (釜石市)
  20. ^ 18 地域別人口及び世帯の推移 (PDF) (釜石市)
  21. ^ a b c d e f g h i 平成22年全国都道府県市区町村別面積調国土交通省国土地理院
  22. ^ a b c d e f g 岩手県(農林水産省「市町村の姿 グラフと統計で見る農林水産業」)
  23. ^ a b c d e f g いわての統計情報(岩手県)
  24. ^ 宮城県(農林水産省「市町村の姿 グラフと統計で見る農林水産業」)
  25. ^ 平成17年国勢調査1次結果 - 宮城県統計課
  26. ^ 福島県 新地町(農林水産省「市町村の姿 グラフと統計で見る農林水産業」)
  27. ^ 平成17年国勢調査(福島県)
  28. ^ {国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書15 『本石米と仙台藩の経済』」(大崎八幡宮、2009年10月30日発行) P.15 - P.18
  29. ^ 「『仙台市史』通史編3 近世1」(仙台市、2001年9月発行) P.150 - P.154
  30. ^ 1 研究ノート 「岩手県の誕生」 (PDF) (岩手県立博物館だより)
  31. ^ 金井圓「給人前」『国史大辞典』第4巻、吉川弘文館、1984年 P248
  32. ^ 現地説明板「仙台藩祖伊達政宗 終焉の地」(2014年、仙台市)
  33. ^ 慶長15年(1610年)に秀忠の上杉邸への御成りがあり、能や茶会などの饗応が行なわれている。(「国宝 上杉家文書」)






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