ブータン 国名

ブータン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/12 09:22 UTC 版)

国名

正式名称のラテン文字表記は『CIA WORLD FACT BOOK』によればDruk GyalkhapDruk Yulという略称が使用されることが多い。

チベット語の表記はチベット文字では འབྲུག་ཡུལ་ワイリー拡張方式では 'brug yul、「ドゥク・ユル」(竜の国)と読む。

公式の英語表記はKingdom of Bhutan。通称、Bhutan

日本語の表記はブータン王国。通称、ブータン漢字では不丹と表記し、と略す。

この国名の起源については様々な説がある。例えば、サンスクリット語で「高地」を意味する「ブーウッタン」説がある。これはインドの側からの呼称で、インドからみればブータンは標高の高いところに位置していることによる。ブータンの人々は自国を「ドゥック・ユル」と呼ぶ。これは13世紀以降、仏教のカギュ派に属するドゥック派を国教としてきたので、自分たちをドゥクパ(カギュ派の中のドゥク派)、自国を「ドゥクパの国」(雷龍の国)と呼んでいる[4]

歴史

ブータンの地では13世紀前半、パジョ・ドゥゴム・シクポ(1184年 - 1251年)によってチベット仏教ドゥク・カギュ派が伝えられ、以後、同地に定着していった。

ドゥク派では、開祖ツァンパ・ギャレー(1161年 - 1211年)以来、ギャ氏の血統に属するものが総本山ラルン寺の座主職をはじめ教団の指導的地位を独占してきたが、16世紀末より化身ラマが同派内にも出現するようになった。第13代座主キンガ・ペンジョル(1428年 − 1475年)の転生者とされるジャムヤン・チェキタクパ(1478年 - 1523年)をはじめとする化身ラマの系譜(ギャルワン・ドゥクチェン)は、代を重ねるにつれ、同派内で大きな勢力を持つようになった。

第16代座主ミパム・チェキ・ギャルポは1606年、自身の孫ガワン・ナムゲルを同派の有力な化身ラマ、ペマ・カルポ(1527年 - 1592年)の転生者と認定し、第17代の座主に据えようとした。ギャルワン・ドゥクチェンをギャ氏の勢力に取り込もうという試みである。

ペマ・カルポ自身はチョンギェ地方に生まれ変わると遺言しており、同派はペマ・カルボの転生者としてギャ氏のガワン・ナムゲルを正統と見なす一派と、チョンギェの領主家出身のパクサム・ワンボ(1593年 - 1641年)を正統と見なす一派とに分裂した。

両派は、当時の中央チベットの覇者デシー・ツァンパ政権に裁定をあおぎ、チョンギェ側に有利な裁定が下された。ガワン・ナムゲルは、総本山ラルン寺を離れ、1616年、ギャ氏に忠実な勢力が優勢なチベット南部のモン地方に移り、自身の政権を樹立した。ドゥクパ政権は、1634年のデシー・ツァンパ政権からの攻撃、1714年のダライラマ政権からの攻撃を跳ね返し、チベット本土からは自立した国家としての基礎が固められた。

ドゥクパ教団は、ギャ氏(およびガワン・ナムゲル)を支持するロ・ドゥク(南ドゥク派)と、ギャルワン・ドゥクチェンを支持するチャン・ドゥク(北ドゥク派)に分裂した。

1772年、当時インドのクーチ・ビハール王国に侵出していたブータンはイギリスの援軍によって駆逐され、以来イギリスとの関係が始まる。この紛争はパンチェン・ラマの調停によって平和的に解決したが、その後もブータン人によるドゥアール地方への侵入が度々起こると、イギリスは特使イーデンを派遣して交渉に当たらせた。イーデンはブータン側が強硬に主張するドゥアール地方の占有、またその他の要求をも呑んでやむを得ず条約の調印に応じたが、この報告に接した英国インド総督が直ちにこの条約を破棄して、同地方の英国領併合を宣言した。対するブータンは1864年にイギリス駐屯軍を襲って敗退させたが(ドゥアール戦争)、イギリスはさらに強力な軍隊を派遣してこれを破り、1865年にブータンへの補助金(年額五万ルピー)支払いと引き換えにドゥアール地方を手に入れた(→シンチュラ条約[5][6]

その後1906年にイギリス人のブータン入国が正式に承認されると、1910年には先のシンチュラ条約(第四条及び第八条)を改正して、補助金を年額十万ルピーに倍加すること、イギリスはブータンの外交指導権を有するもブータンの内政には干渉しないこと、さらにシッキム王国及びクーチ・ビハール侯国のマハ・ラージャとの抗争はイギリス政府の仲裁に託すことが両国間に締約された(→プナカ条約英語版[6]。イギリスによるこの外交指導権買収は、英領インド保全のためにその東北方から他国の勢力を排除するのが目的で、当時その対象となっていた国は、ブータンを「チベットの属部」と認識し、度々その宗主権を主張していた清国と、南下政策によってチベットに影響を及ぼし始めていたロシア帝国であった[7]。イギリス政府はプナカ条約締結と同時に北京駐箚公使を通じて、ブータンが清国から独立した国家であること、またブータンに対する清国の勢力をイギリスは容認しないことを正式に通知した[5]。イギリスによるブータンの外交権束縛は、イギリスから独立したインドによって引き継がれた。

従来ブータンの政治形態は、僧侶の代表者であるダルマラージャ(仏法王)と、俗人の代表者であるデパ・ラージャ(執政王)による二頭体制であった。しかし1885年に内乱が勃発して以来国内が安定しなかった[5]ことから、1907年ダルマ・ラージャを兼ねていたデパ・ラージャが退き、代わって東部トンサ郡の領主ウゲン・ワンチュクが世襲の王位に選ばれ、初代ブータン国王となった[8]。次いで1926年にその子息ジグミ・ワンチュクが第2代国王となり、第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュク1972年に崩御すると、僅か16歳で即位したジグミ・シンゲ・ワンチュクが永らく第4代国王の座に即いた。2005年に総選挙が実施されると翌年12月に国王は譲位し、ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが第5代国王に即位した。2008年7月18日には初の成文憲法典が公布され、名実ともに立憲君主国へと移行した。

年表

ブータンの国獣、ターキン
国鳥ワタリガラス

政治

ジェ・ケンポが宗教界の長を、デジが政治・行政の長を務めるというチョエン制度が、1907年に世襲王政が成立するまで約300年間維持された[11]1907年ワンチュク朝成立以降、国王を中心とする絶対君主制だったが、近年の四代国王主導の政治改革により議会制民主主義への移行準備を開始、代替わり後の2008年憲法英語版が公布され、民選首相が選出されるなど立憲君主制に移行した。国会は国王不信任決議の権限を持ち、国王65歳定年制が採用されている。

立法

1953年に第3代国王により設置された国民議会(下院に相当。英語: National Assembly、ゾンカ語: Gyelyong Tshogdu)と、2008年新憲法により新設された国家評議会(上院に相当。英語: National Council、ゾンカ語:Gyelyong Tshogde)による両院制である。2008年7月の新憲法制定までは議席数約150の一院制国会(国民議会)であった。旧国民議会の議員は、一般選挙を経た国民代表106名・仏教界代表10名・政府代表34名で構成され、任期は3年、再選、再任が認められていた。

現在の国民議会は、普通選挙・単純小選挙区制により選出される47人の議員で構成される。一方の国家評議会は、国内20県から各県1人ずつ普選で選出される20人と国王が任命する有識者5人の計25人で構成される。両院とも議員の任期は5年だが、国民議会は解散の可能性もある。

2007年12月31日と2008年1月29日に初の国家評議会(上院)選挙が実施され、20人の選挙議員が確定した。2008年3月24日には、初の国民議会(下院)選挙が実施され、ブータン調和党 (DPT) が45議席を獲得して圧勝し、第2党の国民民主党 (PDP) は2議席にとどまった。3月28日、国家評議会の任命議員5人が決定し、両院の構成が確定した。4月9日、DPT党首ジグメ・ティンレーが初代民選首相として選出された。

2013年7月13日に国民議会(下院)選挙が実施され、野党のPDPが32議席を獲得して与党のDPT(15議席)を破り、政権を奪取した。7月19日に、PDP党首ツェリン・トブゲが第2代首相として選出された[12]

行政

1629年行政の中心となる最初のゾン[注 1]がシムトカ・ゾンであった。

1968年から採用された省制度により、2005年現在、農務省、保健省、教育省、通信情報省、建設省、財務省、内務省、貿易産業省、エネルギー水資源省、外務省の10省がある。1964年の首相暗殺以来、首相職は再設置されていなかったが、1998年に大臣が輪番制で内閣の議長を務める形式の閣僚評議会議長職が設置された。2008年の新憲法制定に伴い、立法と行政の関係では議院内閣制が導入され、下院に相当する国民議会で多数を獲得した政党の党首が首相となる。2008年3月24日の国民議会選挙の結果、第1党となったDPTの党首ジグメ・ティンレーが同年4月9日に初の民選首相に任命された。

その他に、かつては王立諮問委員会(英語: Royal Advisory Council、ゾンカ語: Lodroe Tshogde)が独立機関として存在した。国家の重要事項について国王と閣僚会議に必要な助言を行い、法律や議決が、政府と国民によって忠実に実行されているかを確認する役割をになった。会議は9名の諮問委員から構成され、内訳は、国民代表6名、仏教界代表2名、国王指名1名となっており、任期は5年であった。しかし、王立諮問委員会は2007年にその役目を終えて廃止されている。

地方自治組織として、新憲法制定以前は、ゾンカク発展委員会(英語: Dzongkhag Development Committee、ゾンカ語: DYT)、ゲオク発展委員会(英語: Gewog Development Committee、ゾンカ語: GYT)などを通じて国民の意見を国政に吸収するシステムが採用されていた。ゾンカク発展委員会は、県知事、国会議員、郡長、村長で構成され、ゲオク発展委員会は国会議員、村長、集落責任者、地域住民で構成される。2008年の新憲法制定に伴い、発展委員会は地方議会へと改組された。


注釈

  1. ^ 行政の中心として、また、宗教活動の中心であった。ゾンはあるものは非常に大きく、またあるものは小さいなど規模の面で多様であった。また、その建設立地は外敵からの攻撃に対して人々が防衛しやすいものであった。ゾンは谷に突き出していて一面の眺望を得られる場所や、片面が川になっている岸壁の上もしくは急峻な山腹、あるいは尾根に意図的に建設された[13]
  2. ^ シッキム王国はもともとはチベット系民族が主導権を握る国家であったが、ネパール系の移民が急増した結果として両者の人口比率が逆転し、それが王国の崩壊とインドへの併合の遠因となったとみなされている。

出典

  1. ^ Bhutan” (英語). ザ・ワールド・ファクトブック. 2022年8月21日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g World Economic Outlook Database, October 2021” (英語). IMF (2021年10月). 2021年11月10日閲覧。
  3. ^ Frequently Asked Questions”. Royal Monetary Authority of Bhutan. 2021年4月18日閲覧。
  4. ^ ブータン王国教育省教育部 2008 pp. 16-19.
  5. ^ a b c 朝日新聞社中央調査会 1942, p. 276.
  6. ^ a b JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03050965100、各国内政関係雑纂/英領印度ノ部 第一巻(外務省外交史料館)、1910年、5頁
  7. ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03050965100、各国内政関係雑纂/英領印度ノ部 第一巻(外務省外交史料館)、1910年、6頁
  8. ^ 朝日新聞社中央調査会 1942, p. 277.
  9. ^ a b 今枝由郎. “仏教王と戦争 ---ブータン第四代国王による2003年アッサム・ゲリラ国外追撃作戦-- (PDF)”. 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所. 2019年4月17日閲覧。
  10. ^ ブータン全土でロックダウン開始”. JETRO (2020年8月19日). 2020年12月29日閲覧。
  11. ^ ブータン王国教育省教育部 2008 p. 123.
  12. ^ Tshering Tobgay unanimously elected as PM-electBBS、2013年7月19日(2014年1月5日閲覧)
  13. ^ ブータン王国教育省教育部 2008 p. 76.
  14. ^ a b c d e ブータン基礎データ”. 外務省. 2016年6月12日閲覧。
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  16. ^ Anuradha Sharma (2012年6月27日). “India Keeps Close Eye on China's Courtship of Bhutan” (英語). World Politics Review. 2018年1月31日閲覧。
  17. ^ China and Bhutan Hold 23rd Round of Talks on Boundary Issue” (英語). 中华人民共和国外交部 (2015年8月27日). 2018年1月31日閲覧。
  18. ^ John W. Garver (2019-04-17). Protracted Contest. UNIVERSITY OF WASHINGTON PRESS. p. 189. https://books.google.de/books?id=TOVaMckcO0MC&pg=PA180&dq=%22Dong+Biwu,+the+acting+president+of+the+PRC%22&hl=en&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=%22Dong%20Biwu%2C%20the%20acting%20president%20of%20the%20PRC%22&f=false 
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