1000形
1000形
1000形(120) 3000形(300・315・325・335) 5000形(500)
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1000系
1000形
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「国鉄6200形蒸気機関車」の記事における「1000形」の解説
1000形(2代。1000 - 1035)は、6350形を小運転や入換に適するよう、従軸を1軸追加して、側水槽および炭庫・背水槽を増設し、4-4-2 (2B1) 型タンク機関車に改造したもので、4形式の「ネルソン」中、最も早く改造されたものである。全36両が1924年から1926年にかけて大宮工場、浜松工場および小倉工場で改造され、改造の終了により6350形は消滅した。側水槽は左右とも前半部上面に傾斜のついた五角形である。ボイラー火室部に設置されていたドラモンド水管は、改造の際に撤去されている。また、6300形の特徴である前端部の乙字型に屈曲したランボードのシリンダから前の部分を撤去してしまった車も存在する。改造年および施行工場、新旧番号の対照は、次のとおりである。 1924年改造(11両)大宮工場 6373, 6368, 6367, 6354 → 1000 - 1003 浜松工場 6356, 6353, 6381, 6380 → 1013 - 1016 小倉工場 6353, 6355, 6359 → 1026 - 1028 1925年改造(24両)大宮工場 6364, 6369, 6375, 6365, 6366, 6372, 6376, 6370 → 1004 - 1011 浜松工場 6374, 6377, 6379, 6382, 6378, 6385, 6383, 6384, 6362 → 1017 - 1025 小倉工場 6357, 6360, 6350, 6351, 6352, 6358, 6361 → 1029 - 1035 1926年改造(1両)大宮工場 6371 → 1012 改造落成後は各工場の管内に配属されたが、後にかなり移動している。1933年6月末現在の配置は、東京鉄道局に7両(品川、八王子、真岡、水戸)、名古屋鉄道局に13両(美濃太田、名古屋、福井、高岡)、大阪鉄道局に12両(松山、高松)、仙台鉄道局に4両(小牛田)で、全車が健在であったが、1945年3月末には35両に減少しており、1952年3月末には1両となり、間もなく全廃された。 民間への譲渡は6両で、その状況は次のとおりである。 1006(194?年) → 大日本炭礦(勿来) 1006 1017(1950年) → 名古屋鉄道 1017 1020(1948年) → 山形交通(尾花沢線) 1020 1021(1950年) → 昭和電工 1021 1023(1948年) → 北陸鉄道(能登線) 1023 → B301 1024(1950年) → 名古屋鉄道 1024 山形交通に移った1020は尾花沢線で混合列車の牽引に使用された。1952年にディーゼル機関車が導入されて以後も除雪用として残ったが、ディーゼル機関車が2両揃った1954年11月に使用が停止され、翌年2月に廃車された。 北陸鉄道に移った1023は能登線で使用され、1949年にB30形 (B301) と改番されたが、現車のナンバープレートはそのままであったようである。1955年2月に廃車となった。 名古屋鉄道の2両は1950年9月に入線。1017は新那加駅に配備され、進駐軍三柿野キャンプへの輸送用として使用された。1024は新鵜沼駅-豊山駅-小牧飛行場(豊山駅-小牧飛行場は貨物支線)の輸送用として使用された。1957年には1017、1024は共に築港線に移り、貨物列車の牽引用に使用された。1017は1958年6月、1024は1959年7月に廃車となった。
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1000形
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「高松琴平電気鉄道1000形電車」の記事における「1000形」の解説
1926年汽車会社製。両運転台の制御電動客車で、琴平電鉄開業にあたり、100・110・120・130・140の5両が製造された。 形式より一桁少なく、10番刻みの特異な付番方法については、新製当時の資料が残存しておらず、現在に至るまで不明とされている。 15 m 級の半鋼製車で窓配置はC3´-1D6D6D1で前面は丸妻の貫通式。ノーヘッダ、段なしウィンドウシルで、窓の上隅が大きな曲線になっていること、前面裾も隅が曲線になっている点が特徴である。製造時は両端の客用ドアの戸袋窓は楕円、屋上のベンチレータは水雷形、床下にはトラス棒を装備していた。また、当時、米国・英国製またはそのライセンス契約による国内製が多かった電装品に、ドイツのAEG製のものを使用していることも特筆される。 製造当初、パンタグラフは琴平寄りに設けられていたが、昭和20年代に高松寄りに改められている。その後、1966〜1967年に実施された大規模な更新工事により、客用窓はアルミサッシ化、戸袋窓は全てHゴム支持の矩形に改められた。前面の尾灯は移設の上2灯に増設されている。この時までに床下のトラス棒は撤去されている。屋上の水雷型ベンチレータは小さな筒型のものになり、パンタグラフは再度、琴平寄りに変更された。 その後、琴平線に1020形などの18 m 級大型車が増備されたことにより、1972年に100・120・140が、1976年には110・130が志度線に転属、その後は1976年に架線電圧が昇圧された長尾線でも使用されている。しかし、1976年8月1日に今橋駅 - 松島二丁目駅間で発生した列車同士の正面衝突事故で、110・140が廃車となった。現在に至るまでことでん史上唯一の、有責事故による廃車である。 残る3両は、前面貫通扉および客用扉の変更、前照灯のシールドビーム化などが実施された。1994年の志度線分断以降は、全車長尾線の所属となった。この間の1988年に鉄道友の会よりエバーグリーン賞を受賞した。 600形・700形の導入で、1998年に130、1999年に100が廃車され、残った120は主に朝ラッシュ時の増結用となった。 100の運用離脱は、琴電オリジナル形式のトップナンバー車(100 + 300 + 500)で編成が組まれたさよなら列車が運転され、多くのファンや地元住民が乗車・撮影を楽しんだ。そのさよなら運転の終盤に100はドアが開かなくなる故障を起こし、まさに「力尽きる」形で仏生山工場へと回送された。ただしこれに関する苦情は一件もあがってこなかったという。 120は2007年7月31日午後に実行された長尾線大型化・車両全面冷房化以降は動態保存車となった。動態保存車となって以降は3形式ともサボ受けが撤去され、過去に使用されていた引掛式の行先標を使用している。なお、台車と主電動機に関して、動態保存開始直後はオリジナルの汽車会社ボールドウィン78系(弓形イコライザー)とアルゲマイネ社製USL-323B(48.5 kW)の組み合わせだったが、2007年11月に65が廃車となった後に同車が履いていた阪神電気鉄道881形由来の川崎車両ボールドウィン系(U形イコライザー)と東洋電機製TDK-596FR(80 kW)に履き替えている。 2019年に発表された旧形車の廃車計画では、120は2021年5月のイベントをもって営業運転を終了し、保存先が決まらない限り解体されることが明らかにされた。しかし、新型コロナウイルス感染症の影響で引退イベントの日程が変更となり、2021年11月3日のイベントをもって引退した。引退後は事業用車として、仏生山工場にて可動状態を維持したまま現存している。
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1000形
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「国鉄1000形蒸気機関車」の記事における「1000形」の解説
浪速鉄道(現在の西日本旅客鉄道片町線の前身)が、1894年(明治27年)から1896年(明治29年)にかけて4両を輸入したもので、そのうち1894年製の2両は、建設用に使用された後、開業後の営業用に使用された。番号は1 - 4で、導入の状況は次のとおりである。 1894年(2両)製造番号14068 : 1 製造番号14070 : 2 1895年(1両)製造番号14552 : 3 1896年(1両)製造番号14961 : 4 浪速鉄道では、1 - 3を開業用として使用し、その後4を増備している。浪速鉄道は1897年(明治30年)2月9日付けで関西鉄道に営業を譲渡し、本形式も同社の17形「望月(もちづき)」17 - 20に改称された。 関西鉄道は1907年(明治40年)に国有化され、4両とも国有鉄道籍となった。1909年(明治42年)に実施された鉄道院の車両形式称号規程制定にともなう改番では、1000形(1000 - 1003)に改称された。形式の数字は小型のものから若い番号を付与するという原則があり、動軸3軸を持つ蒸気機関車の中で最も小さい形式数字を付与された本形式の小ささが、このような面からもうかがうことができる。 国有化後は、小型で少数形式であることから早期に淘汰対象とされ、1913年(大正2年)6月に2両(1002, 1003)が、1914年(大正3年)5月に1両(1001)が、同年8月には最後の1両(1000)が除籍され、いずれも民間に払い下げられた。これらは譲渡を重ねたものも多く、再国有化されたものもある。特に1001は長命を保ち、昭和30年代まで使用されていた。 その状況は次のとおりである。 1000 → 尾西鉄道 31(已形) → 丸子鉄道 1(1917年譲受。1926年頃廃車) 1001 → 宮崎県営鉄道 1001 → 鉄道院 1001(1917年買収) → 大和鉄道 1001(1919年5月譲受) → 和歌山鉄道 1001(1939年譲受。1951年廃車解体) 1002 → 宇部鉄道 2(1937年廃車) 1003 → 宇部鉄道 1 → 国東鉄道 1(1922年4月譲受。形式A) → 明治鉱業平山 1(1937年7月譲受。1956年8月廃車解体)
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1000形(1001)
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「シルバーライン (サンディエゴ・トロリー)」の記事における「1000形(1001)」の解説
サンディエゴ・トロリーが開業時に導入したU2形電車のトップナンバー。新型車両導入により2015年に一時引退したが、2019年6月からシルバーラインで営業運転に復帰している。 「サンディエゴ・トロリー1000形電車」も参照
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1000形
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戦後初めて新造された半鋼製低床ボギー車。窓配置は1D10D11で、同軌道線で中央車掌台方式(片側2扉非対称型)とドアエンジンを初めて導入した車両。窓の開閉は上段ゴム支持下段上昇式。1000-1003は屋根保帆布張りなのに対して後期生産の1004-1006は鋼板張り上げ屋根構造だったため外観の印象が異なっていた。 車両番号構造車両定員(座席)全長(mm)全幅(mm)全高(mm)自重(t)車輪径(mm)主電動機ギア比駆動制御定格速度定格引張力台車製造所製造年備考1001-1006 半鋼 66(28) 11,000 2,210 3,690 15.5 660 37.3kW×2 63:14 釣掛式 直接 22.7 1,212 住友KS-40--J 東洋工機 1954
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1000形(カウンティ級)
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「フレデリック・ホークスワース」の記事における「1000形(カウンティ級)」の解説
第二次世界大戦後、さらに4種類の新設計があり、ほとんどは以前の型の改良型であった。1000形(カウンティ級)は、グレート・ウェスタン鉄道の2シリンダー車軸配置4-6-0の機関車として、最後で最強の機関車であり、42年前の2900形(セイント級)に始まる一連の機関車の最高峰である。台枠は改ホール級に似ているが、ボイラーは新しい設計のもので、ホール級の標準1型ボイラーよりも直径が大きく、4073形(キャッスル級)のボイラーよりは直径が小さくかなり短いものとなっている。このボイラーは、第二次世界大戦中に鉄道が政府管理下にあった当時にスウィンドン工場でロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道(LMS)の8F形(英語版)を製造した際に導入した工作機械を用いて製作しており、これ以前のGWRのどの機関車よりも高い、280 psi(約19気圧)の圧力を使用している。チャーチウォードの設計した3800形(英語版)(同じくカウンティ級)に使われていたのと同じ名前を採用したものがある。
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1000形
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2016年12月12日、本来運用予定の車両の故障が原因で、1051編成+1251編成の10両が「えのしま74号」に充当された。
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1000形
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1957年製造。製造当初は急行に使用され、1959年の特急運転開始時に初代特急用車両となった。座席は向かい合わせの固定クロスシートであった。当初は上半クリーム色、下半マルーン色の西鉄標準色であったが、1961年にコバルトブルーに黄色の帯の特急専用色に改められた。1973年、2000形の登場により急行用に格下げされた。
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1000形
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「小田急電鉄の鉄道車両」の記事における「1000形」の解説
1988年に運用を開始した、小田急では初のオールステンレス車両かつVVVFインバータ制御方式の車両。1989年以降は地下鉄直通にも使用されていたが、4000形(II)導入により2012年に直通を終了し、現在は地上線で運用している。2014年以降は制御装置のSiCモジュール素子への交換や2画面LCD設置をはじめとしたリニューアル工事が順次行われている。
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1000形
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開業当初からの車両。製造年次によって行先表示器や座席などに違いがある。1988年から1999年の間に合計20編成40両が製造された。2022年2月現在、8編成16両(第13 - 20編成)が在籍する。
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1000形
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「東京都交通局1000形電車」の記事における「1000形」の解説
1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)にかけて130両が製造された、全長10メートルの小型ボギー車。車体は新造だが、台車と電装品は老朽化した木造の旧1000形のものを流用している。製造時期により、下記の通り外観などに若干の差異があった。 1933年までに登場した1001~1040の40両は客扉のステップが1段で、客扉の上辺が側窓より高い位置にある。 1934年~1935年に登場した1041~1085の45両は客扉のステップが2段で、客扉の上辺と側窓の高さが揃っている。 1935年~1936年に登場した1086~1130の45両は1041~1085と同様だが、前面雨樋が曲線になり、前面には傾斜が付いている。 戦時中の1942年に1932年製のもののうち7両が満州国の新京市電に譲渡された。その後戦災によって43両(1001~1040の中の1両、1041~1085の中の20両、1086~1130の中の22両)が焼失。そのうち元1001~1085から5両、元1086~1130から5両の計10両が戦後更生復旧を果たした。 1948年(昭和23年)の改番により、旧1001~1040の残存車32両が1001~1032、旧1041~1085の残存車25両が1033~1057、旧1001~1085の戦災復旧車5両が1058~1062に改番され、最終的に62両の体制となった。なお、この時旧1086~1130のものは形状の違いから1100形として区分されている。当初は錦糸堀、目黒、神明町の各車庫に所属していたが、錦糸堀所属車のうち1段ステップの物は荒川へ、2段ステップの物は目黒、神明町へ転属となった。 1954年(昭和29年)に9両が7000形7021・7023~7030(初代)に更新改造され、また1955年(昭和30年)には1016が車体延長改造を受け下述の1300形1301となっている。 1956年(昭和31年)以降更新修繕が進められ、この中で1007・1008は試験的に前面方向幕の拡幅がされている。また、1007は空気バネ台車の試験車となっていた。 1964年(昭和39年)以降廃車が進み、1967年(昭和42年)の第一次都電撤去時に全車廃車された。この中で1両が西武所沢車両工場で客車化改造を受け、羽後交通へ譲渡され、横荘線で使用された。
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