吹奏楽の歴史 近代・現代

吹奏楽の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 15:05 UTC 版)

近代・現代

「バスティーユ襲撃」(ジャン=ピエール・オーエル(en)画)

1789年フランス革命が起こると、ブルボン朝に仕えてきた多くの宮廷楽士は失業したが、共和国政府は楽士を集めて国民軍軍楽隊を組織し、フランス革命の精神を伝えるため野外で大音量を出せる編成を採用した。1790年には、バスティーユ蜂起1周年を祝って300人の太鼓、350人の管楽器からなる楽隊が街頭ページェントに出動している[13]。こののち45人編成の近衛兵バンドとしてギャルド・ナシオナルが結成され、1792年には国立軍楽アカデミーが設立された[13]1795年には国民公会によってパリ音楽院が開設されたが、その学長となったフランソワ=ジョセフ・ゴセックの作品は現在でも広く演奏されている[9]。革命期には、ゴセック以外にも、メユール、カテル、ケルビーニらによって多数の革命讃歌がつくられた[19]。この時期には軍歌も多数つくられている。一例として、ストラスブールのディートリッシュ市長がライン軍フランス語版クロード=ジョゼフ・ルジェ・ド・リール工兵大尉に軍団独自の行進曲を依頼してつくられた『ラ・マルセイエーズ』があり、これはのちにフランスの国歌となった[19]。一方、アメリカでは、1798年海兵隊バンドが設置された[7][注釈 12]

フランスのギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団

その後、フランスでは第一帝政期にナポレオン・ボナパルトの国民軍軍楽隊が従来の楽器にピッコロやトロンボーンなどを加え、七月王政期の1845年にはサクソフォーンが採用された[17]1848年にはギャルド・パリ Garde de Paris として12名よりなるトランペット隊が結成されたが、これが、1871年成立のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の前身となった[注釈 13]

産業革命の勃興した18世紀後半から19世紀にかけてのヨーロッパでは、工業技術がさらに発展し、そのいっぽうで、高まる国民主義のもと、国家的要求のなかで管楽器の開発が進んだ。フルートのベーム式をはじめ、木管楽器と金管楽器どちらにも、より多くの確実なピッチ(音の高さ)を得られる鍵(けん)装置が導入され、あるいは、付け加えられた[15]。この時期、南ドイツやオーストリアを中心に、宮廷における室内音楽としてハルモニームジークが発展したのもこうした技術革新が背景にある[2]。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンらによってつくられたセレナーデやディヴェルティメントは、こうした独墺の上流階級での室内音楽の流行に応えたものであった[15]

サクソルンなどを考案したアドルフ・サックス

より重要な開発は、プロイセンのヴィルヘルム・ヴィープレヒトドイツ語版によるバルブ・システムの研究とベルギー出身の楽器制作者アドルフ・サックスによる楽器改良であった。前者は、従来、のしめ具合と息の強弱だけで演奏していたトランペット属など金管楽器の演奏能力を飛躍的に向上させ、一方では、楽器バス・チューバを生んだ[9][15][20]。後者は、上述のサクソフォーンの発明と円錐形の管をもつさまざまなサクソルン属の楽器の開発につながった[9][15][20]サクソルンは、高音から重低音まで同一のシステムと均質の音色をもつ一連の楽器で、サクソルン属にはコルネットやバス・チューバ、フリューゲルホルンユーフォニアムワーグナー・チューバなどが含まれる。

こうした、画期的発明によってラインナップの充実がはかられた金管楽器は、一般的な木管楽器とは異なり、片手でも演奏でき、乗馬や行進をしながらでも吹奏することができたため、すぐさま軍楽隊に採用された[13]。それにともない、19世紀のヨーロッパ諸国は互いに戦争しながらも、軍楽隊そのものは均質化の方向をたどっていった[13]。19世紀中葉にはほぼ現在と同様の編成となり[15]、幕末期の日本がフランス、オランダ、イギリス、ドイツなどから太鼓やラッパの指導を受けたときには、国による差は、若干の楽器編成や用語法をのぞけばほとんどなくなっていた[13]

軍楽隊と結びついて発展した吹奏楽には、士気の高揚や将兵の団結、勇壮果敢などといった性格が必然的に求められ、同時代の他の音楽とは様式を異としていった[2]。そして、ロマン主義の台頭いちじるしい19世紀中葉はまた、数々の紛争や革命に彩られていた時代でもあった[19]1848年革命イタリア統一運動は、ヨハン・シュトラウス1世によって『ラデツキー行進曲』を生むこととなり、アメリカの南北戦争ではクラウディオ・グラフーラ英語版が『ワシントン・グレイス英語版』を作曲している[19]

軍楽隊のための音楽を残したフランスのエクトル・ベルリオーズ(オノレ・ドーミエ画)

国民の軍隊は、徴兵制の施行や軍事パレードなどによって制度としても生活風景としても、人びとにとって身近なものとなりつつあり、士気高揚など、上に掲げた軍楽隊に求められる音楽の性格や様式は、大人数の金管楽器を中心とする音響の華やかさと一致していた[2][19]。こうして軍楽隊によって、行進曲や式典用の音楽などが演奏されたが、とりわけフランスでは軍楽隊の出身者がパリ音楽院の教授を務めるなど、芸術性や技術的洗練を追求する伝統をよく保持し、ロマン派音楽の巨匠といわれる大作曲家ベルリオーズらも軍楽隊向けに優れた作品をのこした[17]。複雑な旋律をすばやく吹奏できる金管楽器の登場は、ベルリオーズのほか、ドイツのワーグナーやイタリアのヴェルディにも殊のほか愛好され、金管を多用した楽曲が数多く作られた[13]

ドイツとフランスを中心として発展してきた管楽合奏は、イギリスに渡って軍楽隊を充実させ、民間ではブラスバンドを発生させた[9]。イギリスでは、今日においてもイングランドスコットランド北アイルランドウェールズのそれぞれのカントリーが軍楽隊を有し、各地に伝承された民謡なども演目に加えて地域色豊かな性格をもつ[17][注釈 14]。民間では、19世紀初頭以降、労働者階級の間で金管楽器と打楽器による楽団(ブラスバンド)が結成され、各種のコンテストが行われるようになったことで編成が画一化していった(英国式ブラスバンド[注釈 15]

この流れに属するものに、1996年の英国映画「ブラス!」で一躍有名となったグライムソープ・コリアリー・バンドなどがあり、これは聴衆を相手にして聴かせることよりも、娯楽の少ない炭坑等において、演奏すること自体をみずから楽しむという自足的な要素をもっていた[11]ヴィクトリア朝の時代、特に19世紀後半のイギリスの上流階級では、健全な娯楽労働者にあたえれば、かれらの美徳を育て、資本主義社会に対する不満を和らげ、解消することができるであろうという社会改良主義が起こり、一般における吹奏楽活動の流行を支えた[13]資本家もさかんに楽器購入の資金援助などアマチュアバンドの育成を支援している。イギリスではすでに1840年代アマチュア音楽家向けの楽譜つき雑誌が刊行され、1860年代にはバンド間の連携が密になって「ブラスバンド運動」の動きが活発化した。各種のコンテストもさかんに開かれて活況を呈し、19世紀末には全英で3万ないし4万のバンドがあったとさえいわれている[13]

ブラスバンドの興隆はまた、一面では帝国主義の時代と重なっていたため、欧米列強の膨張政策にともなって世界各地に広がっていった。ヨーロッパ音楽とローカルな音楽との混淆は世界各地でみられた[21]。土着の歌が吹奏楽で演奏される一方で、西洋音階が出せるよう土着の伝統楽器に改良が施されることもしばしばあった[21]ネパールインドバルカン半島諸国における結婚式フィリピンスリナムガーナでの葬式、ボリビアメキシコにおける宗教儀礼など、西欧以外の各地域でも、吹奏楽演奏の場が成立することはバンド市場の発生を促した[22]。しかし、吹奏楽の伝播はしばしば植民地権力の啓蒙的な意向から外れる方向に進むこともあり、実際にガーナでは、ブラスバンドは風紀を乱すものとしてキリスト教教会より断罪され、バンドは当局からの弾圧を避けるため、隠れて演奏することを余儀なくされた[22]

星条旗よ永遠なれ』や『エル・カピタン』で知られる「マーチ王」ジョン・フィリップ・スーザ

一方、英国式ブラスバンドのあり方はアメリカ合衆国にも影響をあたえた。軍楽隊の演奏活動がかなり制限され、軍の活動であっても民間の団体に演奏を委ねることが多かったアメリカにおいては、パトリック・ギルモアのボストン大吹奏楽団(グランド・ボストン・バンド)をはじめとして、学校や私設の吹奏楽団が人々の関心を集め、新しい指導法の開発もあって、19世紀後半から20世紀にかけて吹奏楽がきわめて隆盛した[9][19]。そして、従来は野外演奏が主であった吹奏楽も、演奏会場が大規模化するのにともない、管弦楽と同様の演奏効果があげられるようになり、一つのジャンルとして認められるようになった。これにより、今日では「マーチ王」と称されることも多いジョン・フィリップ・スーザなど、吹奏楽専門の作曲家が輩出した。アメリカ海兵隊軍楽隊の隊長であったスーザは、1892年に海兵隊を退役して優秀な演奏家を集め、みずから「スーザ吹奏楽団」という名の楽団を結成し、博覧会アトラクションなどのために全米を演奏旅行し、さらにヨーロッパツアーや世界ツアーを展開しているが、こうした活動歴から理解されるように、彼の音楽活動は一貫して大衆のためのものであった[11][注釈 16]

ニューヨークドイツ人バンド(1876年

アメリカではさらに,大学を中心に80名から100名を超える規模のシンフォニック・バンド、それに比してやや規模の小さいコンサート・バンドが編成され、また、より緻密で多彩な音色を獲得するためにウィンド・オーケストラが編成された[3]。なお、現在の吹奏楽でしばしばみられるようなクラリネットを中心とする編成がつくられたのはミシガン大学ウィリアム・レヴェッリ英語版1942年にウィンド・オーケストラを室内楽として活発化させるために始めた「小さな木管楽器アンサンブル」を嚆矢としている[注釈 17][注釈 18]。現代の吹奏楽演奏においては、クラリネットはオーケストラにおけるヴァイオリンに相当する役割をになっており、それゆえ、高音や速いパッセージ(経過楽句)が要求されることの多い楽器である[23]

これらに対し、ウィンド・アンサンブルは、1952年、豊かな音色と緻密な合奏効果を得る目的でフレデリック・フェネルによって創始された、管楽器各パートを1人ずつ配するのを原則とする合奏形態である[3]。フェネルの定めたウィンド・アンサンブルの概念はきわめて厳格なものであり、他の編成とは異なる独自の約束事と根拠をもっている[24]。また、それゆえに編成上、メンバー全員にソリストとしての高い資質が求められる演奏形態である[3]

アメリカの影響は世界中に広まってゆき、また、第二次世界大戦後は特に、軍の編成の変化や録音・再生装置の急速な進歩などによって軍楽隊の使命が低下したこともあり、吹奏楽は軍楽色をしだいに失っていった[2]。吹奏楽は、弦楽器付きのオーケストラと比較した場合、トランペットがメロディ楽器として活躍する場面が多く、いわば「吹きっぱなし」の状態となるため、大勢の人数で担当する場合が多い[23]。また、オーケストラではあまり用いられないサクソフォーンやユーフォニアムがおおいに活躍する点でも異なる[23]。全体的にみて吹奏楽は、各パートの人数制限が少ないため、初心者でも比較的参加しやすく、また、どの楽器にも出番があるため、いずれのパートも均等にやりがいを感じることができる点で大衆性にすぐれている[11][23]

トレメ地区(ニューオーリンズ)でのジャズ葬(葬儀のパレード)

1970年代以降は、ポピュラー音楽でも吹奏楽やブラスバンドを見直す動きがみられる[13]ルーツ・ミュージックの発掘に努めたライ・クーダーフォークロックザ・バンドなど、「古きアメリカ」の音楽を復興しようとする人びとがロックにブラスバンドを取り込み、ルイジアナ州ニューオーリンズでは、黒人コミュニティから生まれたダーティー・ダズン・ブラス・バンドが伝統的なジャズバンドの雰囲気を残しながらも、ファンクソウルなど多様な音楽要素を取り入れた。このバンドの結成は、ニューオーリンズ独特のパレードの慣習に影響をあたえ、「セカンド・ライン」のブラスバンドが何組か結成された[13]ミシガン州シカゴでは、やはりジャズの領域からアート・アンサンブル・オブ・シカゴが現れ、多楽器主義を標榜している[13]

現在、イギリスのハッピーエンド、マイク・ウェストブルック・バンド、オランダのコレクティーフ、日本のBLACK BOTTOM BRASS BANDソリッド・ブラスコンポステラシカラムータなど様々なスタイルの金管バンドがある[13]

なお、共産主義政権下のブルガリアでは、結婚式や出征式を主な演奏の場とした民間のブラスバンドはトルコ系の人びとやロマの人びとが数多くかかわり、公式の場ではオスマン帝国の負の遺産とみられて冷遇されることが多かった。しかし、1980年代終わり頃のイヴォ・パパゾフの西側での成功により、パパゾフの故郷クルジャリ州のスタイルをとった結婚式バンドがブルガリア各地にあらわれるという現象が起こった[22][注釈 19]

以上、軍楽隊やコンサート向け楽団のほか、いわゆる「クラシック音楽」のみならずポップスやジャズなどポピュラー音楽のジャンルでも多彩な吹奏楽団が西洋社会とその周辺に併存しているのが現状である[13]。吹奏楽オリジナルの作品としては、最近はヨーロッパの作品が増えてきたものの、主な楽曲は依然としてアメリカ合衆国と日本の作曲家のものが中心となっている[23]


注釈

  1. ^ 三線以前の琉球王国の伝統音楽や中国の「鼓吹」も一種の吹奏楽である。長生(1999)p.10
  2. ^ 管楽器の祖型は、オーストラリア大陸の先住民アボリジニが用いるディジュルドゥという楽器ではないかといわれる。これは、木をくりぬいて中を空洞にしたもので、叩けば打楽器、息やリードで鳴らせば木管楽器、唇を振るわせれば金管楽器的な演奏が可能になる汎用的な楽器である。『管楽器おもしろ雑学事典』(2007)p.25,p.34
  3. ^ 長野県長峰遺跡から出土した縄文時代中期の有孔鍔付土器は、太鼓を造形したものとみなす説があり、その説が正しいならば、シュメールの浮彫より古い、世界最古の太鼓の存在を示す考古遺物ということになる。小山(1996)pp.69-70
  4. ^ 近畿地方を中心とする弥生時代の遺跡からしばしば出土する銅鐸は、「祭りのベル」であったと考えられている。銅鐸は、当初は打楽器として鳴り物としての役割が重視されたが、のちに装飾性が強まり、「見る銅鐸」へと変質していった。佐原(1987)pp.273-274
  5. ^ 1922年に発見されたもので、金属加工の施された管楽器の実物としては世界最古の遺物である。Web楽器事典Vol.1 「ツタンカーメンのトランペット」
  6. ^ 発音は「ブ」にアクセント。
  7. ^ 今日でも、トルコの伝統芸能としてオスマン帝国の軍楽が伝わっている。上尾(2000)p.154
  8. ^ 当時はショームから新式のオーボエへの移行期だったが、「オーボエ」Hautbois という言葉はダブルリード族の楽器を広く指しており、どの時期に二つが入れ替わったかは明確ではない。シャルマイ(ショーム)を用いていたドイツでも18世紀初頭にはフランス発祥のオーボエが受容された。Janet K. Page "Military Music" (2001) pp.623-624
  9. ^ 19世紀中葉に世界初の市民階級による自主経営オーケストラとして発足したのが、ライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団である。
  10. ^ "Waits"という呼び名は、当初課せられていた見張りの職務に由来すると考えられる。Keith Polk "Before 1600" (2001) pp.622-623
  11. ^ この「マサチューセッツ・バンド」はジョン・クレイン英語版大佐率いる第3大陸砲兵連隊 3rd Continental Artillery Regiment のバンドだった。第3・第4大陸砲兵連隊は独立宣言直後の1777年にはすでに軍楽隊を持っていた。アメリカにおける「楽隊」Band of Musickの記録は1714年のジョージ1世戴冠時にさかのぼる。Raoul F. Camus "American Wind Bands" (2001) p.635
  12. ^ 当時の編成はハルモニームジークに近いオーボエ2、クラリネット2、ホルン2、バスーン1、太鼓というものだった。Rumberow (1996) p.39
  13. ^ ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団は現在、フランス陸軍参謀本部付の共和国親衛隊軍楽隊となっている。美山(2004)
  14. ^ イギリスの軍楽隊のなかには、スコットランドの伝統的な楽器であるバグパイプ隊を併置するスコッツ・ガードなど、特殊な編成の楽団もある。美山(2004)
  15. ^ イギリスでは、このように労働者階級に広がった金管バンド(英国式ブラスバンド)と区別する意味で、軍隊に属さない民間の吹奏楽団のこともミリタリー・バンドmilitary band の語で呼称することがある。
  16. ^ スーザ自身、自著でポピュラー音楽が決して価値の低い音楽ではないことに言及している。阿部(2001)pp.41-42
  17. ^ ただし、フランス革命期の軍楽隊はすでに十数本のクラリネットを含む編成だった。秋山 (2013) pp.25-26. 1892年時点のギルモアのバンドは32本、1924年のスーザのバンドは24本のB♭クラリネットを持っていた。Rumberow (1996) pp.52-53, 65-66
  18. ^ クラリネットは、ニュルンベルクの楽器製作家J.C.デンナーが1700年ころに考案し、以後、改良が加えられて現在のかたちになったものである。『世界の楽器絵事典』(2007)pp.36-37
  19. ^ ブルガリアの共産主義政権は単一民族主義の傾向が強かったため結婚式バンドは冷遇されてきたが、自由化の進んだ今日では、貧富の格差が生じて、結婚式のバンド需要は不遇だった時代よりむしろ減っている。また、パパゾフ・スタイルの流行については、これによってブラスバンド文化が均質化、定形化しているという批判もある。細川(2001)pp.68-73
  20. ^ 絵画は、出島から長崎奉行所までを往復したオランダ商館長の公式行事で行進したオランダの軍楽隊と思われる。
  21. ^ 蘭式の太鼓信号は伝習生を通じて各地に伝えられ、少年時代の伊沢修二も高遠藩信濃国伊那郡)の鼓手を務めた。塚原(2001)p.87
  22. ^ 現在も幕末維新期の鼓笛隊の面影をとどめる楽隊が各地の祭礼などに組み込まれるかたちで残っている。京都府京北町山国隊京都市壬生の維新勤王隊、山形県上山市上山軍楽千葉県佐原市のオランダ楽隊などがそれである。塚原(2001)pp.87-88
  23. ^ L. Guttig. 「ブリュネの人と生涯」『函館の幕末、維新』(中央公論社、1988年)でクリスチャン・ポラックはギュティッグの名をルイとしているが典拠不明 (中村 1993, p. 46)。
  24. ^ そのような意味で、吹奏楽の導入は日本を含めたアジア・アフリカ諸国にとってきわめて植民地主義的な意味を有していた。なお、細川周平は、日本でフェントンの事績が詳細に伝わっているのは、日本が後世オーケストラをもつようになったことと強い関係があると指摘している。細川(2001)pp.57-58
  25. ^ フェントン作曲の初代「君が代」は不評で、しかも、それを最も批判したのが中村祐庸であった。中村は曲の改訂を提案し、海軍省はその提案を受けて1876年(明治9年)11月3日天長節での演奏を最後に、フェントン作曲の「君が代」を廃止した。團(2001)pp.163-166
  26. ^ Gustave Charles Dagron (1845-1898?). (中村 1993, pp. 184–185)。
  27. ^ シンセサイザーなどの新たな楽器の登場やそれによる楽曲自体の変化、カラオケの登場、編曲者不足、音楽番組の制作上の変化などにより、かつて一般的だった吹奏楽による「歌伴」をともなう歌謡曲は必ずしも一般的ではなくなってきているが、楽曲によっては金管楽器を使用するバンドや、金管楽器のパートを担当するメンバーのいるロック・バンドやアイドル・バンドは少なからず登場している。こうした状況に対し、大変革をもたらしたのはヒップホップ・ミュージックの登場である。東谷(2001)p.145
  28. ^ 團伊玖磨は、戦後の音楽について、昭和40年代までを「求心期」(音楽が広範な人々を対象に生み出され、それが共通の体験として享受された時期)、それ以降を「拡散期」(音楽が共通の体験でなくなり、さまざまに分化した音楽がさまざまに分化した聞き手に享受される時期)という時期区分を設けて考察を加えている。團(1999)pp.357-364

出典

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  38. ^ 楽水会(1984)
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  40. ^ a b 『吹奏楽ハンドブック』(2011)pp.16-17





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