石田三成とは? わかりやすく解説

いしだ‐みつなり【石田三成】

読み方:いしだみつなり

[1560〜1600安土桃山時代武将近江(おうみ)の人。幼名佐吉豊臣秀吉才知認められ五奉行一人となり、太閤検地など内政面活躍文禄4年(1595)近江佐和山城主となり194千石領したが、秀吉死後関ヶ原の戦い徳川家康敗れ処刑された。


石田三成

作者菊池寛

収載図書菊池寛全集 第3巻 短篇集 2
出版社高松市菊池寛記念
刊行年月1994.1


石田三成

作者大栗丹後

収載図書戦国武将まんだら秘本三十六人
出版社春陽堂書店
刊行年月1999.8
シリーズ名春陽文庫


石田三成

作者海音寺潮五郎

収載図書武将列伝 戦国終末新装版
出版社文藝春秋
刊行年月2008.6
シリーズ名文春文庫


石田三成―清涼の士

作者澤田ふじ子

収載図書風浪の海
出版社広済堂出版
刊行年月2001.11
シリーズ名広済堂文庫


石田三成

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石田 三成
杉山家伝来の肖像画(東京大学史料編纂所所蔵)[注釈 1]
時代 安土桃山時代
生誕 永禄3年(1560年
死没 慶長5年10月1日1600年11月6日)(41歳没)
改名 佐吉(幼名)、三也、三成
戒名 江東院正岫因公大禅定門
墓所 大徳寺三玄院高野山奥の院、滋賀県彦根市佐和山遊園内、京都市妙心寺内壽聖院
官位 従五位下治部少輔
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 桓武平氏良文三浦氏支流蘆名氏庶流石田氏?
父母 父:石田正継、母:岩田氏(瑞岳院)
兄弟 弥治郎正澄三成福原長堯正室、
正室:皎月院(無量院)宇多頼忠娘)
重家重成佐吉(清幽)、長女(山田勝重室)、小石殿岡重政室)、辰姫津軽信枚室)
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石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代武将大名豊臣秀吉に仕え、行政外交検地などに卓越した能力を発揮し、豊臣政権中枢を担った五奉行の一人である[1]公正無私な性格と信義を重んじる姿勢から、忠臣として知られる。秀吉の死後は徳川家康の台頭に対抗して諸大名とともに西軍を組織し、関ヶ原の戦いで敗れて京都六条河原で処刑されたが、その生き様は後世まで語り継がれている。

なお、関ヶ原の戦いで西軍を率いた時、三成は41歳であった。後世に描かれた(存命中に描かれたものではない)杉山家伝来の肖像画[2][注釈 2]ではより年長の印象を受けるが、実際は若年であった。

生涯

石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町)

出自と幼少期

石田三成は、永禄3年(1560年)、近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)にて、石田正継の三男として誕生した[3]。幼名は佐吉[4][5]

三成の生まれた当時、石田村のある坂田郡北部は、東浅井郡の小谷城を本拠とする浅井氏の勢力圏に属していた。この年は浅井長政が父・久政から家督を継承し、勢力の拡大を図っていた時期である。さらに同年、尾張国織田信長桶狭間の戦い今川義元を破り、西上への契機を掴んでいた転機でもあった[3]

天正2年(1574年[6])ごろに三成は、父・石田正継、次男・正澄とともに、織田信長に仕えていた羽柴秀吉に仕官したとされる(長男・弥治郎は早くに亡くなっている)。三成自身は、秀吉の小姓として仕えることになった。その後、秀吉が信長の命により中国攻めの総司令官として中国地方へ向かった際には、これに従軍した。

秀吉の側近としての台頭、上杉家との絆のはじまり

天正10年(1582年)6月、織田信長が本能寺の変により横死し、羽柴秀吉が山崎の戦い明智光秀を破って頭角を現す。三成もこれ以降、秀吉の側近として次第に台頭していく。

天正11年(1583年)3月、秀吉が柴田勝家と対峙した賤ヶ岳の戦いの前において、三成は柴田軍の動向を探る偵察役を務めた(『称名寺文書』)[7]。当時、三成は24歳であった。この際、浅井郡尊勝寺村(現在の滋賀県長浜市尊勝寺町)の僧侶・性慶と協力し、「忍びの者」を戦場周辺に派遣して、余呉湖周辺の山間に潜む百姓たちに対し、秀吉方に味方して手柄を立てれば褒美を与える旨の情報を流したとされる[8]。また、同年4月21日に賤ヶ岳の戦いの本戦に参加し[9]、先駈衆として一番槍の功名を挙げたとも伝えられている(『一柳家記』)。

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅亡した直後、三成は秀吉の命を受け、上杉家の重臣である直江兼続狩野秀治に書状を送り、秀吉との提携を求めた。これに応じて、上杉景勝は家臣の大石綱元を派遣し、三成を通じて秀吉に戦勝の祝意を伝えるとともに、和睦の意を表した。この斡旋をきっかけに、三成と上杉家との間には早くから親密な信頼関係が築かれたとされる(詳細は「上杉景勝・直江兼続との関係」の節を参照)[10]

天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いに従軍[11]

同年11月には、近江国蒲生郡で行われた太閤検地の奉行も務め、官僚としての実務能力を早くも発揮した(詳細は「太閤検地」の節を参照)[12]

豊臣政権の中枢へ

天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、慣例に従って十二人の諸大夫が任命され、三成も中村一氏大谷吉継福島正則らとともに、その一人に選ばれた。これにより、従五位下治部少輔に叙任されている[13]。当時三成は26歳であり、若年ながら異例の出世を遂げていた。

天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった武将・島清興(左近)を、知行の半分を与えて召し抱えたとされる(『常山紀談』。異説あり[注釈 3])。この抜擢に秀吉は驚嘆し、左近に三成への忠誠を促すとともに、菊桐紋入りの羽織を与えて賞賛した。

同年6月、越後国上杉景勝直江兼続が秀吉への臣従のため上洛した際、三成はその取次役を務め、金沢城下郊外の森本(現・石川県金沢市)まで出向いて上杉一行を出迎えた。このときが、三成と景勝・兼続との初対面であったとされている[16]

また、同年6月14日には和泉国堺奉行(現・大阪府堺市)にも任じられた[9]。当時のは、中国フィリピンタイポルトガルスペインなどとの南蛮貿易によって栄え、戦乱の影響を受けにくい自治都市として学問や文化も隆盛を極めていた。今井宗久津田宗及らによって茶の湯も盛んに行われており、国内でも有数の重要都市であった[17]。ただし、奉行に任じられた三成は常に秀吉の側近にあって行動を共にしており、翌年の九州平定にも秀吉に従って西下していた。そのため、堺での実務はのちに父・石田正継が代官として担っていたとされる[18]

さらに同年、三成は山城国大徳寺臨済宗大徳寺派)の高僧・円鑑国師(春屋宗園)にたびたび参禅し、その教えを深く受けた。こうした信仰のあらわれとして、浅野幸長森忠政とともに浄財を喜捨し、大徳寺境内に国師のための塔頭「三玄院」を建立したとされる。(詳細は「三玄院」の節を参照)[19]

九州平定と博多再興、そして島津家との絆のはじまり

天正15年(1587年)、秀吉は九州平定のために大軍を動員し、比較的短期間で作戦を完遂した。勝因の一つには、水軍を活用して兵を迅速に輸送する能力が挙げられる[20]。とりわけ注目されるのが、総勢25万ともいわれる軍勢に対し、兵糧弾薬の補給が滞ることなく行われた点であり、これは当時としては極めて異例の事例である[21]。この補給管理を担った三成は、戦局を支える実務の中核として重要な役割を果たしていた(詳細は「九州征伐における兵糧・弾薬の補給管理」の節を参照)。

九州平定後の同年6月7日、三成は博多奉行(現・福岡県福岡市)を命じられ[9]長束正家小西行長らとともに町の復興にあたった。町域を十町四方に整え、碁盤目状に街路を区画する町割を行い、かつての問屋を廃止して自由商業を認める「自由都市」構想を推進。さらに、地子免除や税制の優遇に加え、徳政令の適用を除外することで商取引の安定性を確保し、町人主体の自治都市としての再建を図ったとされる(詳細は「博多の町の再興」の節を参照)[22]

同年から翌年の天正16年(1588年)にかけては、薩摩国島津義久が秀吉に謁見する際の取次を務め、上洛を斡旋した。義久の道中には赤間ヶ関(現・下関市)にて出迎えを行い、先に到着していた人質の娘との再会を手配。堺でも多くの船を用意して義久の一行を丁重にもてなすなど、三成はその上洛を全面的に支援した。この上京を契機として、三成と島津家との関係は急速に深まり、以後も秀吉への謁見、在京支援、帰国調整などに関わり、島津家の信頼を得ていくこととなる(詳細は「島津義久・島津義弘との関係」の節を参照)[23]

天正17年(1589年)、美濃国を検地する。

小田原征伐・忍城の戦い

秀吉は関東平定を目的として、天正17年(1589年)11月24日に後北条氏に対して宣戦を布告した(小田原征伐)。その4日後の11月28日、秀吉は常陸国(現・茨城県)北部に勢力を有する佐竹義宣の重臣・北義斯および東義久宛に書状[24]を送り、来春に後北条氏を討伐する予定であるため、出陣の準備を進めるよう伝えた。この際、書状の内容を詳細に伝達する使者として三成の名が記されている[25]

天正18年(1590年)5月25日付で三成が佐竹義宣の重臣・東義久に宛てた書状には、秀吉への謁見に際しての心構えが記されており、あわせてその伝達の使者として三成の家臣・島左近の名がはじめて文中に登場している(『秋田藩家蔵文書』)。このことから、島左近は少なくともこの時点において三成に仕えていたとされる[26]

同年5月27日、佐竹義宣は家臣団を率いて秀吉に拝謁し、黄金などを献上するとともに、三成にも馬や黄金を贈っている。さらに義宣の重臣・東義久も同様に三成へ贈り物を行っており、これらの事実は、佐竹氏の小田原征伐への参陣が、豊臣政権側の三成と佐竹側の東義久との折衝の結果として成立したことを示している[27]

なお三成自身も同年3月1日に小田原征伐に参陣し、6月4日には秀吉の命により、後北条氏の支城である忍城の戦いに加わったとされる[28]。このとき三成は、主将であった浅野長政の小田原召還と入れ替わる形で、主将として佐竹義宣多賀谷重経宇都宮国綱らとともに約3万の兵を率いて出陣した。大谷吉継もこれに従軍し、のちには真田昌幸も加わった。三成の自前の兵力は1500人程度であったが、大軍を預けられたこの抜擢は、当時31歳だった三成への秀吉の厚い信頼を示すものであった[29]

忍城では、秀吉の指示[30]で川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われた。このとき築かれた堤防は「石田堤」と呼ばれ、現在も遺構が各地に現存している[31]関東各地の後北条氏の支城は、小田原城よりも先に陥落していったが、忍城では小田原開城後の7月16日まで戦闘が続いた(詳細は「忍城水攻めと実際の指揮構造」の節を参照)[28]

奥州仕置

その後、秀吉は後北条氏の処分が一段落すると、天正18年(1590年)7月17日に小田原を出発して会津に下り、8月9日に黒川城に入城した。そして直ちに奥州仕置を開始し、小田原征伐に参陣しなかった葛西晴信大崎義隆の領地を没収。これらの旧領は木村吉清木村清久父子に与えられたほか、小田原征伐に遅参した伊達政宗の旧領である会津には蒲生氏郷を封じて、奥州の拠点とした。この処分に伴い、三成は浅野長政と共に葛西・大崎領に赴き、気仙城(現・岩手県陸前高田市)や大原城(同県東磐井郡)など数城の接収を担当した[32]

その後、秀吉は新たに支配下に置いた会津をはじめ、奥州・出羽の諸国に対して検地の実施を命じた。これにより、奥州南部領の検地は三成と浅野長政が、出羽の検地は大谷吉継らが担当したとされる[33]。その後、秀吉は後事を甥・豊臣秀次らに託して京都へ帰還した[34]

葛西・大崎一揆

しかし、同年10月16日、大崎・葛西の旧臣や百姓らが、木村吉清・木村清久父子の圧政に反発して大規模な一揆(葛西・大崎一揆)を起こすに至っていた。これを受けて、秀吉は徳川家康および豊臣秀次に奥州への出陣を命じるとともに、三成にも二度目となる奥州下向を命じた[35]

なお、三成は同年11月10日に奥州の検地から帰京したばかりとされ、11月12日には佐竹義宣とともに千利休の朝会に招かれている(『利休百回記』)[34]

天正19年(1591年)正月10日、三成は相馬(現・福島県相馬市)に到着し、佐竹義宣岩城貞隆相馬義胤らの諸大名に対して出兵を促す秀吉の命令を伝達した。だが、一揆はまもなく鎮圧されたため、三成は相馬より帰還した[36]

その後、同年閏正月4日には、三成が料理用のを持参して佐竹義宣の太田城(現・茨城県常陸太田市)において催された茶会に訪れる旨を記した書状が残されており(『千秋文庫[37]』)、奥州滞在中における佐竹氏との和やかな交流の一端がうかがえる[38][39][40]

同年閏正月中旬には三成は上方へ戻り、増田長盛大谷吉継らと共に、朝鮮出兵の準備のため九州へ下向した[40]

同年2月初旬には、博多の豪商邸においてたびたび茶会が催され、三成は小早川隆景宇喜多秀家らと同席している[40]

同年4月、三成は近江の佐和山城に入城した。ただしこれは、蔵入地の代官としての入城であり、城主ではなく佐和山城を預かる城代の立場にあった。当時の三成の所領は美濃国内、安八郡神戸およびその周辺であったと推定されている[41]

九戸政実の乱

葛西・大崎一揆の鎮圧から間もない同年2月、陸奥では再び九戸政実の乱が勃発した。九戸政実は南部氏の一族であったが、当主・南部信直に対する不満を抱いており、大崎・葛西一揆後の混乱に乗じて挙兵したとされる。これを受けて、秀吉は同年6月、徳川家康および豊臣秀次を総大将とする討伐軍を奥州へ派遣し、三成もこれに従って三度目となる奥州への東下を行った。先鋒として進軍した伊達政宗・蒲生氏郷らが九戸方の属城を次々と攻略し、同年9月には九戸政実が立てこもった陸奥国福岡城(現・岩手県二戸市)も陥落。政実は降伏し、ここに奥州の諸動乱は完全に鎮定された[42]。三成はこの奥州仕置において、短期間のうちに三度にわたって奥州へ赴いており、その現地調整・政務遂行における重要な役割がうかがえる。

この乱の鎮圧後、秀吉は伊達政宗に対して、葛西・大崎の旧領を与える一方で、政宗の本領のうち会津に近い六郡を没収し、これを蒲生氏郷に与えた。これに伴い、政宗は居城を米沢から岩手沢(現・宮城県大崎市)へと移すこととなった。このとき、三成は政宗の新領内にあたる気仙城および大原城の修築を行い、両城を政宗に引き渡している。また、政宗が両城周辺の民家を岩手沢に移転させる意向を示したことを受け、三成は政宗側から普請の人員が派遣されない場合でも、自らの配下の者を用いて、家々を損なわぬよう丁寧に解体し、希望の場所まで運搬する旨を申し出るなど、政宗の移封に際して協力的な姿勢を示した[43]

文禄の役

朝鮮から、大音新介に送った三成の書状

文禄元年(1592年)からの文禄の役(朝鮮出兵)では渡海し、増田長盛大谷吉継とともに漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦い幸州山城の戦いに参加。その後、軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則黒田長政ら武断派の反発を招いた。

政務・儀礼・信仰のあいだで

文禄3年(1594年)、9月3日に母・瑞岳院が死去、兄・正澄と親交が厚かった藤原惺窩大村由己らが追悼の漢詩や文を送り、三成も佐和山城下に瑞岳寺を建立している[44]。また、この年に島津氏佐竹氏の領国を奉行として検地する。

文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる[注釈 4]。また、同年に畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点である[45]近江滋賀県佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられ[46]、正式に佐和山城主となった[41]。それにより佐和山に城を築く大大名となった。

慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこのときに捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒たちが処刑されないように奔走したりするなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。

慶長の役

慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され、これに激怒した秀吉によって提案に参加した大名が譴責や所領の一部没収などの処分を受ける事件が起きた。この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯らであり、処分を受けた黒田長政、蜂須賀家政らはこの処分を秀吉に三成・長堯が意見した結果ととらえ、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった[47]加藤清正は石田三成に帰国をしないことを秀吉に報告され、武断派との対立が深まったといわれている。

慶長3年(1598年)、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国筑前国に三成を加増移封しようとしたが、三成は辞退した。しかし、秀吉の直割地となった筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられ事実上支配した。


慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた[48]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、かわって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。小早川秀秋の越前への転封の話も消え、九州北部の支配から退くこととなった。

秀吉死後

秀吉の死後、豊臣家の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぐ。しかし朝鮮半島よりの撤兵が進められるなか、政権内部には三成らを中心とする文治派と、加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が形成され対立を深めていた。慶長3年(1598年)8月、毛利輝元と三成ら四奉行は、五大老の中に自分達と意見を異なる者が出た場合、秀頼のために協力してこれにあたることを改めて誓う起請文を作成している[49]。一方、徳川家康は同年10月から12月にかけて京極高次細川幽斎ら諸大名を訪問し、また水面下で福島正則、黒田長政、蜂須賀家政ら武断派諸侯と婚姻関係を結ぼうとしていた。

翌慶長4年(1599年)初頭、家康による縁組計画が発覚する。これを文禄4年(1595年)8月に作られた「御掟」における大名間の私的婚姻の禁止条項に違反する行為であるとして、前田利家を中心とする諸大名から家康弾劾の動きが起こる。四大老五奉行による問責使が家康に送られる一方、家康も国許から兵を呼び寄せる[50]など対立は先鋭化するが、2月12日に家康が起請文[51]を提出することなどにより一応の解決をみた。

同年閏3月3日に前田利家が病死すると、その直後に加藤清正・福島正則、黒田長政・細川忠興浅野幸長らが、三成の大坂屋敷を襲撃する事件が起きる。三成はのちにこの事件の中心人物として、事件直前に家康より豊後国内に6万石を与えられていた細川忠興の名を挙げている[52]

この後、武断派と三成は伏見城内外で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立。三成は隠居し、閏3月10日、佐和山城に帰城した。この事件の際、「三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた」という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸時代に成立した史料に、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない[53]。この三成失脚に至る事件は七将襲撃事件と呼ばれているが、事件の性格には様々な議論がある。

慶長4年(1599年)11月には家康暗殺計画への関与を疑われた前田利長が、父・利家から引き継いでいた大老の地位を事実上失い、浅野長政も奉行職を解かれ領国の甲斐国に蟄居となる。これによって五大老五奉行は四大老三奉行となり、以降、豊臣政権内部の主導権は家康が握る。

関ヶ原の戦い

笹尾山の石田三成陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町
石田三成の馬印と旗印
石田三成自筆密書の複製(秀吉清正記念館所蔵)。関ヶ原の戦いの直前、1600年7月に三成から真田昌幸に、家康を共に討つよう呼びかける内容。

慶長5年(1600年)6月16日、家康は陸奥国会津を領していた上杉景勝を討つために大坂を発つ(会津征伐)。入れ替わるように前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の上坂要請を受けた毛利輝元が7月17日に到着(大坂入城は19日)。同時に三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(『内府ちがいの条々』)が諸大名に送られた。ここに関ヶ原の戦いの対立構造が成立する。

この西軍の結成に関して三成がどのような役割を果たしたのかについては、研究者によって評価が分かれる。従来の説は単独で決起した三成が諸大名を引き込んだとするものであるが、挙兵に到るまでの三成の詳細な動向は一次史料では不明であり、また三成を西軍結成の首謀者とする史料は江戸時代成立の二次史料が多い点が指摘されている[注釈 5]。また、家康が会津征伐に向かう際に、三成に対して佐和山城を宿所として借りようとして拒絶されたとして、これを挙兵と関連づける考えもあるが、単に家康に会津征伐を再考させるためのものであった可能性が高い[55]

『常山紀談』には三成が挙兵にあたって、大谷吉継を味方に引き入れるため佐和山に招いたときの逸話が載せられている。ただし『常山紀談』は明和7年(1770年)成立の逸話集であり、史実である確証はない。

また上杉家の家老・直江兼続らと連携して事前に挙兵の計画を練っていたとする説があるが、これも江戸時代成立の逸話集などに登場する説であり、一次史料による裏付けはない。七月晦日付真田昌幸宛三成書状には「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と記されており、西軍決起後の七月晦日の段階においても、上杉家との確かな交信経路を持ち合わせていなかった点から、上杉側と三成の具体的な謀議や提携はなかったとする考察がある[56]

決起した西軍は7月18日、家康家臣・鳥居元忠の守る伏見城を包囲。8月1日に城は陥落する(伏見城の戦い)。8月に入って伊勢国に侵攻した西軍は伊賀上野城安濃津城松坂城などを落とすが東軍の西上の動きを知って美濃方面へと転進。こうして東西両軍は関ヶ原で相まみえることになる。

通説では当初はやや西軍優勢で進み、黒田長政細川忠興加藤嘉明ら数倍の敵を一手に引き受けたとされているが、小早川秀秋脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなったとされている。しかし、東西どちらの陣営につくか迷った秀秋の陣に家康が鉄砲を打ち込んだため意を決した秀秋が西軍に襲いかかったとする経緯は、江戸時代成立の二次史料に記されているものであり、合戦後すぐに作成された9月17日付の石川康通彦坂元正による連署書状には秀秋が開戦直後に裏切ったと記されている[57]

大徳寺三玄院前の石田三成墓所石碑

戦いに敗れた三成は、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出て古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。

一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継、兄・正澄を含む石田一族の多くは自刃した。9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後、家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らとともに大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌京都所司代)の監視下に置かれた。

10月1日、家康の命により六条河原斬首された。享年41。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。

政策と実務

奉行としての立場と影響力

三成は、豊臣政権下で秀吉直属の五奉行の一人として、さまざまな政策や実務に関わった。なかでも、各地での検地、地方大名との外交交渉、大名家内部の問題への調停など、現場に赴いて行う業務において、秀吉の側近としての存在感を発揮していった。

こうした活動を通じて、三成の政治的な影響力は、豊臣政権の統一事業が本格化する中で次第に高まっていったと考えられている。その存在感を示すものとして、三成に関する他大名らの証言がいくつか残されている。

  • 毛利輝元:「彼仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候[58][注釈 6]と述べており、これは現代語に訳すと「彼(石田三成)は当時、非常に重要な人物であった。とても軽々しく話せるような相手ではない。おおよそ心得て接するべき存在である(=とても気を遣う相手だ)」となる。三成に対する緊張感ある評価がにじんでいる。
  • 島津義弘:「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし[注釈 7]と述べており、これは現代語に訳すと「近江国佐和山の城主・石田治部少輔(三成)は、太閤(秀吉)のもっとも信頼された腹心のひとりであり、その勢いと権威は他に並ぶ者がいなかった」という意味であり、三成の影響力がいかに大きかったかがうかがえる。

また、奉行職は単に命令を伝えるだけの役職ではなく、大名の要望に応じて実際に調整を行い、場合によっては秀吉の判断さえ変更させることもあった。三成は、特に毛利家島津家との交渉においてその役割を担い、後に関ヶ原の戦いでの連携にもつながっていく[59]

ただし、政策の大枠はあくまで秀吉の意志によって決められ、奉行の仕事は他の奉行との協調によって進められていた。三成一人が特別な権限を持っていたわけではない。たとえば、東国大名に対する影響力では浅野長政は秀次事件で失脚するまで三成を上回っており[60]、また朝廷や寺社との交渉には前田玄以が主にあたっていたとされる。

五奉行による連署文書においても、署名順は前田玄以浅野長政増田長盛・石田三成 → 長束正家となっており、三成の奉行内での序列は3番手または4番手だったとみられる[61]

その一方で、秀吉の死が近づくと、奉行衆と家康・五大老の間で交わされた起請文[62]などにより、奉行の権限は形式的には強化された。これは、家康の台頭を抑え、政権を現体制で維持するための措置だったとされる。しかしこの構造こそが、秀吉没後の政権内対立を生み出し、関ヶ原の戦いという政権を揺るがす大きな対立へと発展することになる[62]

主な政策・実務

太閤検地

三成は、豊臣政権下で実施された「太閤検地」において中心的な役割を果たした。太閤検地とは、豊臣秀吉によって全国的に実施された土地調査であり、天正12年(1584年)頃より本格的に開始された。三成は近江国蒲生郡今在家村(現在の滋賀県東近江市)の検地帳に「石田左吉(三成)」の名で検地奉行の一人として記録されており、初期の段階から関与していたことが確認されている。

その後も三成は、美濃奥羽越後薩摩大隅日向常陸磐城下野尾張など、広範囲に及ぶ地域の検地に従事した。検地に際しては、以下のような全国共通の基準が導入された:

  • 6尺3寸(約191cm)を1間、30歩で1畝、10畝で1反、10反で1町とする面積の統一
  • 田畑の地力を「上・中・下・下々」の四等級に分類
  • 京枡を用い、等級ごとに1反あたりの標準収穫高(石盛)を設定
豊臣政権下の検地で使われた尺(複製、秀吉清正記念館蔵)。両端に三成の花押がある。

これらにより、地域ごとに異なっていた測量・評価方法が統一され、近世における土地支配の基盤が整えられていった。

三成は検地の円滑かつ公正な実施のため、多数の検地役人を起用し、彼らに対して「地主から物や金を受け取らないこと」「百姓をいじめたり威張ったりしないこと」「私怨に基づく不正な検地をしないこと」「担当区域の作業は怠らず迅速かつ丁寧に行うこと」といった誓約を課した。

さらに文禄3年(1594年)7月16日には検地役人に向けた11ヵ条の注意書を出し、以下のような配慮を指示している:

  • 港・山・川など特殊な生業に従事する者への柔軟な年貢対応
  • 綿やで生計を立てる者は現物納を許可
  • 樹木には課税せず、竹林は毎年十分の一のみ伐採し、その九割を納めさせる
  • 鉄の採掘に対する年貢は過重にならぬよう配慮
  • 寺社や武士屋敷も原則検地対象としつつ、庄屋屋敷は除外する

これらの方針は、単なる土地調査にとどまらず、生業の多様性や住民の生活にも配慮した包括的な政策であり、三成の高い行政能力と公平性を示すものとされる。これらの施策は、江戸時代に継承される土地制度の基盤を形成した点でも歴史的意義が大きい[12][63]

九州征伐における兵糧・弾薬の補給管理

天正15年(1587年)の九州征伐では、豊臣秀吉の本隊約10万、豊臣秀長の別動隊約15万、総勢25万と馬2万頭にも及ぶ大軍が動員されたが、兵糧弾薬の補給が滞りなく行われたことは、当時の戦史上きわめて異例の事例であった。この補給管理を担当したのが三成・大谷吉継長束正家であり、その優れた実務能力が存分に発揮されたとされる[21][64]

博多の町の再興

天正15年(1587年)の九州平定ののち、かつて貿易港として栄えていた博多の町は、大友氏龍造寺氏の戦によって兵火にかかり、荒廃していた。これを憂慮した豊臣秀吉は博多の再興を命じ(『甫庵太閤記』)、三成をはじめ長束正家小西行長・滝川三郎兵衛・山崎志摩守らを復興奉行に任じた。奉行たちは博多の町域を十町四方に区画し、碁盤目状に街路を整備して町割を行った。 さらに、かつて博多に存在した問屋などの既得権益を一切廃止し、誰もが自由に商売できる「自由都市」とする方針を打ち出した。また、地子(地代)や諸役(税)を免除し、借金帳消し令(徳政令)の適用も除外するなど、市民に有利な特例を設けて住民の還住を促した。この「徳政令の適用除外」は、一見すると救済措置を排除するように見えるが、むしろ博多の商人にとっては安定した商取引が保証される重要な方針であった。将来的な帳消しリスクを排除することで、商人たちの経済的信頼を取り戻し、町の復興と活性化を後押ししたと考えられている。加えて、武士が町内に居住することを禁じ、商人・職人による町人中心の自治都市としての復興を目指した。これらの政策により、商人たちは徐々に博多に戻り、町は再び活気を取り戻したとされる[22]

忍城水攻めと実際の指揮構造

三成の忍城攻めは、天正18年(1590年)に豊臣秀吉小田原征伐の一環として行われた。秀吉は大軍をもって北条氏の本拠・小田原城を包囲する一方で、関東各地に点在する北条方の支城を別働隊により攻略させた。三成は別働隊の主将であった浅野長政小田原召還と入れ替わる形[65]で、別働隊の主将として佐竹義宣多賀谷重経宇都宮国綱ら約3万の兵を率いて忍城へ出陣した。三成の自前の軍勢は1500人ほどであったため、その20倍にも及ぶ兵力を預けられたことは、当時31歳であった三成に対する秀吉の信頼と抜擢の大きさを示すものとされている。大谷吉継もこれに従軍し、のちには真田昌幸も加わった。そして、忍城(現在の埼玉県行田市)には、同年6月5日以降に到着したと推定されている[29]。三成は丸墓山古墳の頂上に陣を張った。丸墓山古墳は周囲を一望できる地形であり、三成はここから堤防の築造状況や水位の変化、忍城の様子を俯瞰して指揮を執ったとされる[66]

関八州古戦録』(1726年成立)等の後世の軍記物には、「忍城主・成田氏長はこの時小田原にいたが、城代・成田長親らを中心に3000人余りが立て篭もり三成を迎え撃った。忍城は周りを沼・池に囲まれた要害であり、城方の兵糧の備蓄も十分であることを理由に、三成が水攻めを発案し堤防を築いたが、豪雨による増水で堤防が決壊し作戦が失敗に終わった」と記されており、この逸話は三成の戦下手の証左とされてきた。

しかし、天正18年(1590年)7月3日付の浅野長政宛の秀吉朱印状[30]には、忍城に対する水攻めは秀吉自身の指示によるものであることが明記されており、また作戦の実行にあたっては浅野長政や木村重茲の指示を仰ぐなど、三成はあくまで現地における指揮・実務を担った立場であったとされている。

さらに、同年6月13日付で三成が浅野長政に宛てた書状[67]には、水攻めのみに固執するのではなく、より積極的な攻城戦の必要性を主張しており、三成自身が水攻めに否定的であった姿勢も読み取れる。

また、同年6月12日付の秀吉朱印状[68]には、堤防工事に関する細かな指示が記されるとともに、「別奉行は送らない、忍城はお前に任せる」と明言されており、秀吉が三成に対して高い信頼を寄せていたことがうかがえる[69]

城を水没させる堤の築造は、6月7日から始まり、同13日には総延長約28キロメートルにも及ぶ堤(石田堤)が完成した。この工事をわずか7日間で成し遂げたことは、三成の現場統率力および実務能力の高さを如実に物語るものである。そして利根川の水を利用した水攻めが始まった。ところが予想に反して本丸が沈まず、まるで浮いているかの様に見えたことから「忍の浮き城」と呼ばれた[70]

なお、三成が設計した堤防によって本丸が水没せずに残された点については、堤の高さや水位を調整した結果であることから、三成が城内の全滅を避け、あえて本丸を水没させないよう意図的に配慮した可能性も指摘されている。この見方に立てば、水攻めは単なる制圧ではなく、無益な殺生を避けつつ降伏を促す心理的圧力として機能していたとも考えられる[71]

6月18日には、降り続いた豪雨の影響で本丸まで水没しそうになったが、これを防ぐため、城下忍口を守っていた本庄泰展は、配下の脇本利助、坂本兵衛らを堤防破壊に向かわせた。2人は夜半に城を抜け出し、堤防を2箇所破壊、これにより大雨で溜まりに溜まった水が一気に溢れ出し、豊臣軍に甚大な被害を与えた。約270人が溺死し、周囲は泥沼化して馬のさえ立たない状況となった。この決壊は堤の脆弱さによるものではなく、忍城側の工作による意図的な破壊であったと伝えられている。

忍城の開城には想定以上の時間を要したが、その背景には堤防決壊によって周辺が泥沼化し、攻城戦が著しく困難となったことがあったと考えられている。7月初旬には浅野長政らが、7月6日頃からは上杉景勝前田利家らも攻城戦に加わったが、城はなおも落ちなかった。北条氏政氏照兄弟が自刃し、小田原城が開城された7月11日以後も抵抗を続け、最終的に開城に至ったのは7月16日であった[72]。なお攻城戦終盤や戦後処理では三成ではなく、浅野長政が主導的な役割を果たしていくことになる[73]

この水攻めについては、秀吉による権威の誇示、すなわち新参諸将や占領地である関東の民衆に対し、その圧倒的な物量と支配力を見せつける政治的パフォーマンスであったとの見解も存在する。堤防や水路の構築という大規模な土木工事は、軍事目的とともに、豊臣政権の威光を誇示する象徴的な意味合いを持っていたとされる[74][75]

また、三成とともに忍城攻めに参加した諸将のその後の動向は、三成との関係性をよく示しており、水攻めの実相を考察する上でも重要な手がかりとなっている。以下のように、彼らはいずれも関ヶ原の戦いにおいて西軍に加わるか、それに近い立場を取っている。

  • 大谷吉継:以後も三成と行動を共にし、関ヶ原の戦いでは西軍に参加して討死している。
  • 真田昌幸:関ヶ原では西軍に属し、信州で孤塁を守る。戦後は高野山へ配流された。
  • 多賀谷重経:関ヶ原では上杉景勝に与し西軍として参戦。戦後に改易となった。
  • 佐竹義宣:「治部なくしては生きる甲斐がない」と語ったと伝わるほど三成に心を寄せ、「七将襲撃事件」の際も三成を助けた。関ヶ原では西軍寄りの中立を貫いたが、戦後、常陸国54万石から出羽国久保田20万石へ大幅に減封された。

これらの武将たちが水攻めの現場において三成とともにあったという事実は、のちに彼らが示した忠誠や親交の深さを裏付けるものであり、水攻めの戦略に対する彼らの評価や立場もまた、後年の三成像を考察する上で重要な視点となっている[76]

宿場の人夫供出に関する規定

三成は、佐和山城下の宿場における住民保護にも努めた。佐和山は、京都江戸北陸方面へ向かう交通の要所に位置しており、これらの宿場では諸大名の通行に際して人夫や食糧を過剰に供出させられる事態が頻発していた。これにより百姓町人の生活は困窮し、地域に深刻な負担を与えていた。こうした状況を受け、三成は人夫や物資の供出に制限を設ける規定を制定した。具体的には、「一日あたり人夫5人、馬草は2頭分、米ぬかは2斗(約36リットル)、野菜は16人分まで」とし、それ以上の提供を免除する内容であった。このように、住民側の負担軽減を図る法令を出した大名は当時としては極めて稀であり、三成の庶民に対する配慮の深さを示すものとされている[77]

人質政策と三成の立場

関ヶ原の戦いの際、会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取ろうとしたが、細川忠興の妻・玉子に自害され、加藤清正、黒田長政らの一部大名妻子の逃亡を許すなど策は不完全なものとなった。また、この処置が結果的に東軍諸大名の敵対心を煽ったとする評価もある。しかし大名妻子に対する人質策は秀吉生存時の天正年間後期より政権の政策として用意されてきたものであって、三成個人の発案ではない[78]。また三成は慶長5年9月12日付増田長盛宛三成書状(『愛知県史資料編13』1019号文書)において大坂における人質の扱いが寛大であることに不満を漏らすとともに、人質を安芸国宮島に移すことを提案しており、人質の処遇について一方的に命令できる立場ではなかったようである。

人物像と逸話

JR長浜駅前にある三献の茶の場面を表した「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」。

石田三成には数多くの逸話が残されており、彼の人物像や評価形成に大きな影響を与えている。これらの多くは江戸時代以降に成立した軍記物や随筆などの二次史料に基づくものであり、史実とは異なる伝承も含まれている点には注意が必要である。特に江戸幕府成立後は、三成が徳川家康に敵対した立場であることから、奸臣的に描かれる例も多い。一方で、近代以降の実証史学の進展により、こうした評価の見直しも進められている。

人柄・信念

三杯の茶(三献茶)

近江国のある寺院に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな心遣いに感服した秀吉は彼を家臣とした。それがのちの石田三成である、という逸話がある。これが俗に「三杯の茶(三献茶)」と呼ばれる逸話である。この寺院については、伊吹山観音寺(滋賀県米原市)という説と伊香郡古橋村(滋賀県長浜市木之本町)の法華寺三珠院もしくは飯福寺とされている。前者は石田家の本拠であった石田村に近く三成も庇護を与えていたこと、後者は三成の母方の岩田家の本拠である杉野村に近く何よりも関ヶ原の合戦で敗れた三成が落ち延びた地であることから、いずれも三成と縁が深かったと考えられる[79]。ただし、この逸話が載せられている史料が江戸時代のもの(正徳6年(1716年)成立の『武将感状記』など)であること、また三成の息子が記した寿聖院『霊牌日鑑』では三成が秀吉に仕えたのは18歳の時に姫路においてと記されていることなどから、後世の創作であるとする説がある。

季節外れの桃に対する献上の断り

ある年の10月、毛利輝元から豊臣秀吉への贈り物として、季節外れのが届けられた。これを受け取った三成は、毛利家の重臣を呼び寄せてこう伝えた。「たしかに立派な桃ですが、今の時期には珍しいゆえに、もし体に合わず公(秀吉)が体調を崩されたら一大事です。それでは、毛利家の名誉にもかかわります。どうか季節にふさわしいものを改めて献上ください。」この判断に「もっともだ。こうした冷静な配慮こそが、三成が秀吉に信頼される理由だ」と評価する声がある一方、「秀吉の権勢を笠に着た高慢な振る舞いだ」と受け取る人もいたという(小早川能久『翁物語』)。

島左近との密議における「平穏」の重視

関ヶ原の戦いが近づく中、石田家の重臣・島左近は密議の場で三成に対し、「もし豊臣家のために立ち上がるつもりであったのなら、もっと早く決断すべきでした。今は好機を逃し、家康に味方する者も多い。この状況では、強引に動くよりも、敵対していた諸大名とも関係を修復して、時機をうかがうべきです」と進言した。 しかし三成は、「目先の成功よりも、戦の後にいかに世を平穏にするかが大切だ」としてこの意見を退けた。 その後、三成が席を外した際、家臣の樫原彦右衛門が左近に「あなたの意見がもっともだ。松永久秀明智光秀は悪人ではあったが、決断力と行動力は人並み外れていた」と語った。 やがて家康は、左近の動きを探るため、同じ大和国出身の柳生宗矩を密かに使者として送り込む。宗矩と天下の行方について語る中で、左近はふとこの密議を思い出し、「今は松永や光秀のような決断力を持つ者もおらず、何も起こらないでしょう」と語ったという(『常山紀談』)。

増田長盛との密談と100万石を辞退した逸話

関ヶ原の戦いの直前、三成は増田長盛と密談した。三成は「五畿内の浪人を集めて兵力とし、家康に決戦を挑もう」と述べ、長盛は「いや、時節を待とう」と言った。すると三成は苦笑いし、「生前の太閤殿下は貴殿と拙者に100万石を与えると言われたが、我々は分不相応ですと断った。思えばあのとき、100万石を受けていれば今になって兵力の心配などする必要もないのに」と述べて長盛のもとを去ったという(多賀谷英珍『遺老物語』)。

教養

禅の実践と母・父を弔う寺院 ── 三玄院・瑞岳寺・壽聖院の建立と寄進

三玄院
  • 三成は、豊臣政権下の武将の中でも特にの教えに深い理解を持っていた人物であり、山城国大徳寺臨済宗大徳寺派)の高僧・円鑑国師(春屋宗園)のもとをたびたび訪ねて参禅し、その教えを受けていた。こうした深い信仰のあらわれとして、天正14年(1586年)、三成は浅野幸長森忠政とともに浄財を喜捨し、大徳寺境内に国師のための塔頭「三玄院」を建立したとされる。三玄院の表門には、三成邸宅の門が移築されたと伝わっており、三成にとって三玄院がいかに重要な場所であったかがうかがえる。現在の三玄院は明治時代に再建されたもので、当時の建物は現存していないが、三成の禅への傾倒を今に伝える貴重な遺構となっている[19]
    • 三成の刑死の後、円鑑国師はその師檀関係に基づき、三成の遺体を大徳寺三玄院の境内に埋葬し、自ら墓碑を建てて香華を手向け、懇ろに弔った。さらに石田正澄・主水正・右近ら石田家に関わる人々のためにも塔影を建立したとされる[80]
瑞岳寺
  • また、三成は文禄3年(1594年)に母の葬儀を三玄院で営み、さらに慶長4年(1599年)には、母の菩提を弔うために佐和山に「瑞岳寺」を建立し、円鑑国師を迎えて開山とした。落慶供養の際には、円鑑国師が弟子の董甫紹仲、江月宗玩沢庵宗彭を伴って佐和山を訪れている。供養後、円鑑国師と江月宗玩は大徳寺へ戻ったが、董甫紹仲は瑞岳寺の住職として同寺に留まり、沢庵宗彭も佐和山に滞在したと伝えられている。江月は泉州の茶人・津田宗及の子であり、宗及と親しかった三成とは自然と親交を結んでいたとされる。三成は、所蔵していた豊臣秀吉の肖像や母の肖像に、円鑑国師による賛を請うなど、禅の師として深く信頼を寄せていた[81][82]
壽聖院
  • また、三成が深く尊敬していた禅僧に、妙心寺の高僧・伯蒲恵稜がいる。伯蒲は当時、学徳に優れた人物として知られており、三成は父・石田正継菩提を弔うため、伯蒲に依頼して妙心寺境内に「壽聖院」を建立。慶長4年(1599年)に堂舎が竣工した。今では僅かに昔の面影をどどめるにすぎないが、壽聖院には、三成が寄進したと伝わる狩野永徳筆の屏風や、伯蒲が文禄3年(1594年)に賛を記した石田正継の寿像が今も伝わっている。関ヶ原の戦後、三成の長男・石田重家が大坂城を脱出し、壽聖院の伯蒲を頼って身を寄せたのも、三成と伯蒲の深い関係性を物語っている[83]
高野山の経蔵
  • 高野山は当時、仏教の聖地として非常に大きな勢力を有しており、大名たちをも凌ぐ影響力を持っていた。豊臣秀吉は当初、高野山が自らの命に従わないことに憤り、攻撃を検討していたとされる。しかし、三成は仏を敬い、平和を重んじる立場からこれを憂慮し、高野山の木食上人と交渉を行った。その上で秀吉に対して巧みにとりなしを行い、高野山攻撃を回避させたと伝わっている。これを契機に、三成と木食上人の間には親しい関係が築かれ、三成は母の菩提を弔うために高野山奥の院に一切経(仏教経典の全集)を寄進し、それを入れる経蔵を建立した。文禄5年(1596年)正月にこの経蔵は火災に見舞われたが、三成の尽力により速やかに再建され、朝鮮出兵の際に持ち帰った高麗版の大蔵経を納めたという。また、三成は自らの死後の安寧を祈念し、奥の院の経蔵近くに自らの墓所も設けていたと伝わっている[84][85]

和歌

  • 九州征伐の途中、豊臣秀吉ら一行は広島県の厳島神社を参拝し、境内の水精寺で和歌の会を開いた。この際、三成は「春ごとの頃しもたえぬ山桜 よも霧島の心ちこそすれ」と詠んだとされる(『芸藩通志』)[86]。三成が詠んだこの和歌は、に咲く山桜の変わらぬ美しさを霧島の神秘的な情景になぞらえたものと解釈されることがある。
  • また、滋賀県彦根市にある龍潭寺には、三成の遺詠と伝わる和歌が寺宝として伝えられている。龍潭寺は、関ヶ原の戦い後に井伊直政が、井伊氏の先祖の地である遠州井伊谷(現在の静岡県浜松市)から移建した寺で、もとは佐和山城の構内の敷地であったとされる。境内には、佐和山城門の古材を用いて建てられた茶室「果然室」が残されており、ほかにも佐和山城の梵鐘とともに、三成の遺詠「丹尺(たんじゃく)」が寺宝として伝わっている。その和歌は以下の通りである。「散残る 紅葉は殊に いとほしき 秋の名残は こればかりとぞ」この和歌は、の終わりに散り残った紅葉への哀惜の情を詠んだものとされ、過ぎ去った季節を惜しむなかに、わずかに残された美しさへの慈しみを込めた一首である。詠まれた時期は不明だが、彼の繊細な感受性と教養を象徴する和歌とされている[87]
  • 三成は、当時の代表的な儒学者であり、詩文や和歌にも通じていた藤原惺窩を深く尊敬していた。慶長4年(1599年)、三成は惺窩を佐和山に招き、その学問と教養を直接学ぼうとしたが、日程や情勢の都合がつかず、面会は実現しなかった。結局、関ヶ原の戦いが起こる直前となり、そのまま交流の機会は失われたと伝えられている[88]

茶の湯

  • 天正15年(1587年)正月、にいた神屋宗湛のもとへ、大坂の津田宗及から急報が届き、豊臣秀吉大坂城内で大茶の湯会を催し、その席に宗湛を招くことになったと伝えられた。宗湛は直ちに大坂へ向かい、宗及が滞在していた三成の邸を訪れた。三成は宗湛を奥の間に招いてもてなし、翌日、宗湛を案内して大坂城へ赴き、三成一人で茶の湯の飾り付けを行った(『宗湛日記』)[89]
  • 慶長3年(1598年)11月23日、三成は博多の倉本の書院で茶会を催し、神屋宗湛や、九州に下向していた毛利秀元らを招いた。この際の茶道具は、釜が「右小細く端落」、蓋が青銅、茶碗が白の高麗もの、水指が「唐の面桶引切」であった。三成は二度、茶を点てた後、夜咄(よばなし)を行ったとされる(『宗湛日記』)[90]

源平盛衰記

  • 慶長2年(1597年)、三成は神竜院の僧・梵舜に『源平盛衰記』の書写を依頼しており、この書物が三成の愛読書であったと考えられている。関ヶ原の戦いに敗れ、伊吹山の山中へと落ち延びた際、三成の脳裏には、石橋山の戦いに敗れて朽木の中に身を潜めた源頼朝の姿が重なっていたのではないかとされる。『源平盛衰記』には、敗戦後に頼朝が家臣たちに「戦とは勝つこともあれば負けることもある。一度の敗北で命を捨てるのではなく、生き延びて大義を成し遂げることこそ兵法にかなう」と語ったと記されている。三成が敗走してなお再起を目指した姿勢は、この頼朝の言葉から深い影響を受けていた可能性がある。また、捕縛後に本多正純が「自害もせずに捕らえられるとは」と暗に非難した際、三成が「汝は軍略を露ほども知らぬ。大将の道を語っても耳には入らぬであろう」と厳しく言い返したという逸話も、この背景と結びつけて語られている[91]

対人関係

大谷吉継との交友関係と関ヶ原前の密談

  • 三成と大谷吉継の深い友情を示す逸話として、次のような話が広く知られている。あるとき、豊臣秀吉が開いた茶会において、茶碗を一口ずつ飲み回す形式で茶がふるまわれた。らい病を患っていた吉継は、顔から落ちた膿が茶に混じってしまったため、口にせずにそのまま茶碗を回した。以降の諸大名は誰も茶に口をつけずに回していったが、三成だけはためらわずに茶を飲み干したという。この出来事をきっかけに、二人の間には強い信頼関係が結ばれたとされる。しかしこの逸話は、典拠が明確でないことに注意を要する。歴史学者の本郷和人によれば、この話が江戸時代の記録にさかのぼることは確認されておらず、明治44年(1911年)にジャーナリスト福本日南が記した『英雄論』では、三成ではなく秀吉が茶を飲んだという異なる形で紹介されている。本郷は「これがぼくが知っているものとしては一番古い」としており、逸話の成立時期や信憑性については議論の余地がある[92]
  • また、吉継が徳川家康会津征伐に従軍しようとしていた慶長5年(1600年)7月2日、三成は吉継を佐和山城に招いて密談を行った。三成は「上杉景勝が家康に対して挙兵した以上、豊臣家のためにこれを支援すべきである」として、打倒家康に向けた決起の意思を語った。このとき吉継はすでに病を患い、視力を失いかけていた。彼は家康と景勝の間を調停する可能性も考慮し、三成に対し挙兵の成功が困難であることや、戦いの得失を冷静に説き、翻意を促した。しかし三成の決意は固く、吉継に対しても豊臣家のために力を貸してほしいと強く求めた。吉継は佐和山に数日間滞在しながら深く熟慮したが、容易に結論を出すことはできなかった。7日に佐和山を去って垂井へ向かい、さらに家臣の平塚為広を三成のもとに遣わして再度の忠告を試みたものの、三成の意志は揺るがなかった。吉継は旧友を見捨てて東軍に与することを友情の上から忍びがたく思い悩み、ついに意を決して11日に佐和山へ戻り、三成と行動を共にする覚悟を固めたという。三成は吉継の決断を大いに喜び、それ以降、吉継は三成の主要な相談相手となり、挙兵に向けた画策が本格化していったとされる(『常山紀談』)[93]

上杉景勝・直江兼続との関係  

  • 三成は、豊臣政権初期より上杉家と深い関係を築いていた。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い柴田勝家が滅亡した直後、三成は秀吉の命を受けて、上杉家の重臣である直江兼続狩野秀治に書状を送り、秀吉との提携を求めた。これに応じて上杉景勝大石綱元を派遣し、三成を通じて秀吉に戦勝の祝意を伝えるとともに、和睦の意を表した。兼続はこのとき、三成の斡旋に対する謝礼として馬一匹と白布五十端を贈っている。その後も三成は秀吉と上杉家との間の調整役を務め、天正14年(1586年)に景勝が上洛する際には、三成自らが金沢まで出迎えている。このような関係を通じて、三成と上杉家との間には早くから親密な信頼関係が築かれたとされ、関ヶ原の戦いにおいても、三成が上杉景勝・直江兼続と結んで挙兵した背景には、こうした長年の絆があったと考えられている[10]
  • 慶長3年(1598年)11月、秀吉は上杉景勝に対して、会津米沢九十二万石に旧領の佐渡庄内を加えた総計百二十万石への加増および転封を命じた。この領地替えは、岩出山に拠る伊達政宗や山形の最上義光の抑えとして景勝を東国に配する狙いがあったとされるが、上杉家にとっても豊臣政権にとっても大規模な異動であった。この転封の実行に際し、秀吉は三成を現地に派遣し、上杉家の執政・直江兼続と連携して事務処理を進めさせた。現地には、三成と兼続の連署による掟書(不法行為を禁ずる通達)が残されており、主人の異なる二人の名が並んで発せられた文書は、当時としては極めて珍しい例とされる。これは、両者が強い信頼関係のもとで緊密に協力していたことを示す史料上の証左とされている[94]
  • 慶長4年(1599年)8月、三成の次女・小石殿は、会津若松へ帰国する直江兼続に託され、上杉家に仕えていた岡重政に嫁いだ。重政はもとは蒲生氏郷の小姓であったが、のちに蒲生秀行に仕官し、蒲生騒動で秀行が改易された後、直江兼続の招きにより上杉家に転じた経歴を持つ。この縁談が成立した当時、三成は同年3月に発生した「七将襲撃事件」により五奉行罷免され、佐和山城蟄居していた。政権中枢から退いた不遇の中にあっても、三成は娘・小石殿の将来を案じ、深く信頼する直江兼続と上杉家に娘を託した。これは、娘の安寧を守るために選び取った縁談であったと考えられている。徳川家康直江状を受けて会津征伐を決意する慶長5年(1600年)5月の直前にあたるこの時期、三成が西軍として挙兵する動機には、豊臣政権を守ろうとする信念と並び、上杉家や小石殿を守ろうとする切実な想いも含まれていたとされる[95]

島津義久・島津義弘との関係

  • 三成は島津家との外交・調整役を務め、深い信頼関係を築いていた。天正15年(1587年)の九州平定後、島津義久豊臣秀吉の命により上京の途についた。その道中、義久は筑前国筥崎で催された秀吉の茶会に招かれ、ついで赤間ヶ関(現在の下関市)に到着した。このとき、三成はすでに赤間ヶ関城に滞在しており、義久の到着に際して出迎えを行い、また人質として薩摩から海路で先に到着していた義久の娘・亀寿と義久とを引き合わせた。義久の一行は高野山木食上人を案内役とし、赤間ヶ関から瀬戸内海を舟で進み、7月10日に和泉国へ到着した。堺の代官であった三成は、多くの小船を準備して義久の乗船を出迎え、丁重な接待にあたった。この上京を契機として、三成と島津氏の関係は急速に深まり、三成は島津家との間で外交・調整の役割を担っていくこととなる。天正16年(1588年)、三成のとりなしによって義久は大坂城で秀吉に謁見し、1万石の在京料を与えられた。滞京中、三成は細川幽斎とともに義久の支援役を務め、その帰国にも尽力した。幽斎が新納忠元に宛てた書簡では、「万事三成と相談しつつ、しかるべく取り計らっている」と記されており、三成が重要な調整役であったことがうかがえる[96]
  • また同年6月、義久の弟・島津義弘が上坂し秀吉に謁見した際にも、三成は義弘とたびたび会合を重ね、必要な調整にあたった。最終的に義久の帰国が許可され、質子であった亀寿の帰国も特例として認められた。当時の状況下では異例とも言える恩恵であり、三成の斡旋による功績は大きいとされる。この際、三成の父・石田正継において代官を務めており、島津一行を手厚くもてなしたという。義久はこの恩義に報いるため、三成と幽斎に対し起請文を提出し、豊臣家への忠誠を誓うとともに、両名への感謝と今後の関係維持を強く願った。この文書には、「逆心の輩が現れても決して与せず」「不調法あらば幾度でも御指南を仰ぎたい」など、三成への深い信頼が表現されている[97]
  • その後も島津氏と三成の関係は良好に保たれ、慶長3年(1598年)には義久・三成の連署で、薩摩から大坂への米の輸送・販売や、台所方の物資調達・経理処理、領地の免目録の作成など、実務面における指示書が発給されている。これにより、三成は島津家の藩政においても重要な助言者・調整役として信頼を得ていたことが窺える[98]

真田家との関係

  • 豊臣政権下において、三成は真田家、特に真田信之との間に親密な関係を築いていた。三成は真田家の取次を務めており、その関係は他の大名たちにも広く知られていたとされる。真田家に伝わる『真田家文書』には、三成からの書状が15通(奉公連名の書状を除く)現存している[99]
  • このうち2通は「吉光腰物箪笥」に、残る13通は「青貝御紋附御文庫」に収められており、「吉光腰物箪笥」の文書は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際して、西軍に属する決断をした真田昌幸への返書と、上杉景勝との連絡を依頼し、信濃の仕置を任せる内容で、昌幸・信之・真田幸村宛てに送られたものである。「青貝御紋附御文庫」に納められた信之宛ての13通は白桐箱に収められ、その数は徳川秀忠徳川家光に次ぐとみられている。これらの文書は七印文書の2通に比して極めて私的な内容が多く、花押の押されていないものも複数含まれている。その内容は、三成が自らを飾ることなく、感情を素直に表し、謙虚な日常のやりとりが多く記されていることが特徴である。たとえば、織田秀信の湯治の世話を信之に依頼する書状や、進物のやりとり、京の屋敷を行き来して語り合う様子などが含まれている。こうした書状の存在は、信之の几帳面な性格をうかがわせるとともに、三成との交流が私的かつ親密なものであったことを示す一因とされている[99][100]
  • また、三成が信之に宛てた13通の書状の宛名には、官位「伊豆守」に基づく「眞田伊豆守殿」が多く見られる一方で、5通が「眞豆州(御報・人々御中)」宛、残る8通が「さいつ(さま・様・殿)」という独特な宛名で記されている。「さいつ」は「真田伊豆守」から苗字と官位の一部を略した形と見られ、苗字と官位を一部省略するのはこの時代珍しいことではないものの、真田家に現存する他の書状では「眞田伊豆守」の正式表記が主であるため、三成の手紙がより親しみを込めた関係性を感じさせる表現であると指摘されている[101]

他の武将たちとの交友

是斎重鑑・海北友松との交友

  • 慶長3年(1598年)、三成は小早川秀秋の旧領の代官として九州へ下向する際に、文人の是斎重鑑や画家の海北友松らを伴い、文化的な親交を深めながら旅を続けた。旅の途中である6月3日には、厳島神社に参詣し、平家納経を拝観。平清盛の自筆と伝わる筆跡に感銘を受けたという記録が残っている。さらに6月27日には九州の太宰府天満宮を訪れ、荒廃していた社殿の再建に尽力。社司の大鳥居信寛に命じて、社務所である安楽寺をはじめ、堂舎や回廊などの整備を行わせたとされる(是斎重鑑『九州下向記』)[103]

最期と伝承

古橋村での潜伏と与次郎太夫の義挙

関ヶ原の戦いで敗走した三成は、自身の領地である近江国の古橋村に身を潜めた。初めは三珠院を頼ったが、そのとき住職の善説より「何を所望か」と問われて「家康の首が欲しい」と答え、善説をあきれかつ恐れさせたとされる。その後、与次郎太夫という百姓の招きで、山中の岩窟に身を隠した。与次郎はこのとき徳川軍による咎めの責任を一身に引き受けるために妻を離縁し、刑死を覚悟で三成を介抱した。三成はこの義侠心に感じ入り、与次郎に咎めが及ばないよう、与次郎を説得して自分の居場所を徳川軍へ告げさせた。徳川軍を代表して三成の捜索にあたっていた田中吉政は、近辺の村々に対し、三成を生け捕りにした場合にはその村の年貢を永久に免除する、生け捕りにせず殺した場合にはその者に賞金百両を与える、逆に三成をかくまった場合には当事者のみならずその親族および村人全員にいたるまで処刑すると触れを出していたが、最終的には与次郎が三成の説得に従って自首したため、村は虐殺を免れている。捕縛された際の三成は、きこりのふりをして身にはぼろをまとい、兵糧米を少し持ち、破れ笠で顔を隠していたが、田中の兵でかつて三成の顔を知っている者がおり看破された(『田中系図』[104])。

  • このとき、与次郎が死を覚悟で三成をかくまったのは、かつて古橋村が飢饉に襲われた際、三成が村人たちを救うために米百石を分け与えたことがあり、与次郎はそのことに深く恩義を感じていたためとされる。
  • しかし他説では、三成が村人達に対し、「私がこのように逃れてきたのは、再び家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。天下統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人達はこの言葉に惹かれて三成をかくまった。しかし、隣村の出身で与次郎太夫の養子であった者が裏切って徳川軍に密告したため三成は捕らえられたとする。これ以降、古橋村では他村から養子を取らない慣習ができたという。

福島正則らに対する毅然とした応答

三成は関ヶ原の戦いの数日後に捕縛されて大津城でさらされた。このとき、福島正則が馬上から「汝は無益の乱を起こして、いまのその有様は何事であるか」と大声で叱咤した。三成は毅然として「武運拙くして汝を生捕ってこのようにすることができなかったのを残念に思う」と言い放った(『武功雑記[105]、寛文年間成立)。小早川秀秋は「亡き太閤を裏切って恥ずかしくないのか」と罵り、黒田長政に同情させられると涙を流した。[106]

干し柿を断った逸話と「命を大切にする」発言

三成が京都の町を引廻されている最中に水が飲みたくなったので、警護の者に伝えたところ、水がなかったので干し柿を差出された。三成は「痰の毒であるから食べない」と言って断った。「間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしい」と笑われたが、三成は「そなた達小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うから」であると答えた。(『明良洪範』[107]享保以降成立)。なお、横浜一庵から柿100個が送られた際の礼状に「拙者好物御存知候(私の好物をよくご存知ですね)」と書いている[108]ことや、ほかにも三成への柿の贈答が記録されたことから、三成の好物が柿だったことは広く世間に知られており、柿の逸話とも関連がある可能性がある[109]

家康との面会と処刑直前の態度

家康は関ヶ原の戦いで敗れて捕縛された三成に面会した際、「このように戦に敗れることは、古今よくあることで少しも恥ではない」といった。三成が「天運によってこのようになったのだ。早々に首を刎ねよ」と応えると家康も「三成はさすがに大将の器量である。平宗盛などとは大いに異なる」と嘆じた。また家康は処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人が破れた衣服ままであることを聞き、「将たるものに恥辱を与える行為は自分の恥である。」として小袖を送り届けた。三成は小袖を見て「誰からのものか」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「それは誰だ」と聞き返した。「徳川殿だ」と言われると「なぜ徳川殿を尊ぶ必要があるのか」と礼もいわずに嘲笑った(『常山紀談[注釈 8])。

板坂卜斎による佐和山城の記録

関ヶ原の戦いの後、佐和山城に入った徳川方の医師・板坂卜斎は、城内に金銀の蓄えがまったくなかったことを『慶長年中卜斎記』(寛永年間成立)に記している。これに関連して、慶長5年(1600年)9月12日付で三成が増田長盛に宛てた書状には、「金銀米銭を用いるべき時は今である」としたうえで、「自分の持つ限りをすべて投じ、人も召し抱えたため、現在は逼迫していることをご理解いただきたい」と述べている。これらの記録からは、三成が関ヶ原の戦いに際し、自らの財産や蓄えを惜しまず投じ、全力で臨んでいたことがうかがえる[110][111]

伝承と実証の検証

水口城入城伝承と史実の検証

天正13年(1585年)の年末、三成は近江国水口に4万石を与えられ、城主となったとする説がある。これは、賤ヶ岳の戦いで功を立てた「賤ヶ岳の七本槍」が4000〜6000石の加増であったのに対し、三成の異例の厚遇を示すものとされる。ただし、水口城については同年7月の時点で中村一氏が6万石で入封していたことが確認されており、その後も天正18年(1590年)には増田長盛、文禄4年(1595年)には長束正家が後任として領していることから、三成の水口城主説には異論もある[注釈 9]

黒田孝高との囲碁逸話の検証

『黒田家譜』(1688年成立)によると文禄の役のとき、石田三成・増田長盛・大谷吉継の三名が軍議のため黒田孝高と浅野長吉(長政)を訪ねたが、両名は囲碁に興じて三奉行と速やかに対面しようとしなかった。これを恨んだ三成が秀吉に讒言したため朝鮮より帰国した孝高は秀吉の怒りを買い疎んじられるようになった、というものである。しかし、文禄2年8月に秀吉が黒田長政に送った朱印状によれば、孝高が成敗直前にいたるほどの怒りを買ったことは事実であるものの、原因は讒言ではなく秀吉の許可を得ずに帰国した孝高自身にあったことが判明している[113]

加藤清正に関する「地震加藤」説の再検証

文禄の役出陣中に三成らの讒言によって帰国蟄居を命じられた加藤清正が、慶長元年(1596年)閏7月に起きた慶長伏見地震の際、伏見城の秀吉のもとにいち早く駆け付け、これに感激した秀吉により処罰を解かれたとする、いわゆる「地震加藤」の逸話は、『清正記』『清正高麗陣覚書』といった江戸時代成立の清正記系諸本を出典としており、清正自身の記した書状を含め当時の一次史料にこれを裏付けるものはない。清正が地震後の7月15日に発給した書状に伏見の清正邸が建築中であったことと、京から胡麻を取り寄せるようにとの指示が記されていることから、地震発生時に清正は京にも伏見にもいなかったと考えられる[114]

蔚山城の戦いと小早川秀秋に関する伝承

慶長3年(1598年)に行われた蔚山城の戦いでの小早川秀秋の行動が軽挙であるとして三成が秀吉に讒言した。そのため秀秋は越前国への転封を命じられるも徳川家康のとりなしによって免れたとする説がある。ただし出典は寛文12年(1672年)成立の『朝鮮物語』[115]である。実際に小早川勢を率いて蔚山の戦いに参加したのは秀秋ではなく秀秋家臣の山口宗永であったうえに[116]、越前転封を実現していることから史実とは考えられない[注釈 10]

三成と淀殿・高台院を巡る諸説の検証

  • 一般的に広まっている誤解に、三成は旧主(浅井氏)の姫である淀殿を崇拝していたというものがある。これは両者が近江出身ということからイメージされたものと推測されるが、三成の石田家は近江の土豪であり、京極氏に代々仕官していた国人である。間接して、浅井氏にも仕えていた(浅井氏が京極氏を保護していた)ことになるが、基本的に当時の浅井氏と京極氏は敵対関係にあったため(浅井氏は、京極氏への下剋上で当時、台頭していた)、淀殿は「仇敵の娘」ともいえる。
  • また、豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子ではなく三成が淀殿と密通して生ませた子であるという説がある。淀殿不行跡の史料的根拠である『萩藩閥閲録』において、その風聞があったのは秀吉の死後で、かつ相手も大野治長と記載があることおよびこの話の出典が江戸中期以降ということ、秀頼は文禄2年8月3日(1593年8月29日)生まれであり、前年の文禄元年6月から朝鮮半島に赴いていたことから三成が秀頼の父親であるとは考えにくい。
  • その一方で白川亨は、三成が秀吉の正室である高台院と親密であり、逆に秀頼の母として政治に介入する淀殿とその側近を嫌っていたとする、それまでの通説とは正反対の説を唱えている。その論拠として白川は以下のことなどを挙げている(詳しくは高台院を参照)[118]
    • 三成の三女・辰姫は高台院の養女となっている(『杉山家由緒書』『岡家由緒書』)。
    • 側近の東殿は大谷吉継の母である
    • 小西行長の母ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)は(バテレン追放令が出されるまで)北政所の侍女であった。
    • 三成の家老島左近の娘ジョアンナ(小野木重勝の妻)も高台院に仕えていた。
    • 高台院の側近の筆頭である孝蔵主は三成の縁戚で、関ヶ原でも西軍のために大津城の開城交渉を行っている。
    • 淀殿の周辺に三成ら西軍派の縁者がいない
    • 西軍寄りとみられる行動を取っていて三成が加藤清正ら七将に襲撃された際、家康に三成の保護を依頼している(『言経卿記』)。
    • 甥である木下家の兄弟(小早川秀秋の兄弟)の多くが西軍として参加し領地を没収されている
    • 関ヶ原の戦い後、急遽宮中に逃げ込んでいる(『言経卿記』)。(このとき、裸足だったと『梵舜日記』(『舜旧記』)に記されており、非常に狼狽していたことが確認できる)
    •  東軍諸将との関係が薄く、側近に東軍関係者が全くいない
    • 『梵舜日記』に高台院の大坂退去から関ヶ原の戦いの数年後まで高台院と正則らが面会したという記録がない。

外観と家系

家紋

定紋は定かではなく、大一大万大吉だいいちだいまんだいきち、または「大吉大一大万」が、足軽たちに貸し出していた甲冑の胴や石田三成画像のに描かれている。石田氏としては九曜紋や桔梗紋の使用がある。「大一大万大吉」紋は文字の配置や書体は不明であるが、鎌倉時代の武将、石田次郎為久源義仲を射落とした武将)も使用しており、ほかには備後山内首藤氏も使用している。三成の家紋として九曜紋が取り上げられることもある。

佩刀

三成が佩用していたとされる「石田正宗

前田利家の死後、加藤清正・福島正則らが三成を襲撃するという事件が起こり、家康の仲裁によって三成は奉行を辞し佐和山城に蟄居することになった(石田三成襲撃事件[119]。三成が佐和山城への護送役を務めた結城秀康に「無銘正宗」を贈ると[119]、秀康はこれを喜び、「石田正宗」と名付けて終生大切にしたという。この「正宗」は三成が秀吉から拝領したものといわれるが、江戸時代の享保期に出版された書物『刀剣名物帳』では、毛利若狭守が所持していたものを宇喜多秀家が買い取り、三成に贈ったと記されている[120]

関ヶ原の戦いで田中吉政配下の田中吉忠(田中伝左衛門)と沢田少左衛門に捕縛されたとき、無銘の打刀と短刀を差していた。捕らえられる直前、三成は名誉ある死である切腹を田中伝左衛門に願ったが、伝左衛門はそれを無視して捕縛、三成は士の道に背くと憤って伝左衛門を呪っている(『石卵余史』)[121]。打刀(備後貝三原正真作)の方は徳川家に没収された後、家康からの恩賞として吉政を介して捕縛の実行者である伝左衛門の手に渡り、のちに「さゝのつゆ」の号を与えられた(『甲子夜話』巻之九十一)[121][122]。一方、三成は吉政父子には非常に手厚く扱われ、その礼として自ら愛用する短刀の方を贈呈した[123]。このときに贈ったのは名物「切刃貞宗」だという伝説が有名だが、『寛政重修諸家譜』によると実際は手掻包永の短刀で、吉政本人ではなく、長男の田中吉次に手渡したらしい[123]

肖像画

少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身(と伝えられる)の頭蓋骨から復顔した肖像画を取り上げる。

関ヶ原の戦いから約300余年を経た明治40年(1907年)、時事新報社と実業家・朝吹英二の呼びかけで、東京帝国大学渡辺世祐が三成の伝記執筆のために、大徳寺三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘した。このとき発見されたのは頭蓋骨や大腿骨、上腕骨など一体分の骨が揃っていた。京都帝国大学解剖学教室の足立文太郎が遺骨を鑑定調査し、1943年に清野謙次が調査を引き継ぎ[124]、損傷が激しい頭蓋骨を丹念に接合・復元し、遺骨の正確な記録・写真・計測表・透視図を作成し鑑定文を執筆した。調査の結果は「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当」で、このとき頭蓋骨の石膏模型が作られた。なお、三成の遺骨は当初の場所と位置を変えて、再び三玄院に埋葬された。

下って昭和51年(1976年)、末裔の一人である石田多加幸(写真家)からの依頼を受け、東京科学警察研究所元主任技官・長安周一が先の鑑定調査を元に石膏復顔を行った。さらにそれを元に関西医科大学の石田哲郎の指導の下、昭和55年(1980年)3月、日本画家・前田幹雄の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は4幅制作され、現在、大阪城天守閣、長浜城歴史博物館、大徳寺三玄院、石田家に所蔵されている[125][126]。 同時に身長の推測も行い、156cmと試算された。小柄であるとされていた石田三成であるが、当時の男子の平均身長は160cm程度であり、骨格から考えると取り立てて小柄であったとは言いにくい。ちなみに家康は159cmと計算されている。

名前の読みと表記

石田三成の名の読みについては、江戸時代成立の『甲子夜話』などに「かずしげ」とする説があるが、自筆の仮名消息が現存しないため確定はできない。若年期の署名として「三也」と記されたものが存在し、初名であるとする説や、「成」と「也」を併用していたとする説もある。関ヶ原後に三成から一字を与えられた相馬三胤が「蜜胤」に改名していることなどから、現在では「みつなり」と読むのが妥当とされている[127]

系譜

出自と姓の由来

石田氏平姓または藤原姓を称していたが、その出自には諸説がある[128]。一説には、北面武士であった下毛野朝臣の系統とされ、また別説では、三浦氏の一流である蘆名氏の支流・石田氏に連なるともいわれている。後者は、相模国大住郡糟屋庄石田郷(現在の神奈川県伊勢原市石田)に住んでいた石田為久(または為重)を祖とする説である。

なお、三成の生まれた石田村は、かつて「石田郷」とも呼ばれていた地域であり、郷名を苗字とする在地土豪の家系であった可能性も指摘されている。

兄弟

  • 石田弥治郎 - 一説に三成の長兄で石田正継の長男といわれる。
  • 石田正澄
  • 石田三成
  • 女(福原長堯室)

子女

3男3女もしくは2男5女がいたとされる。三成本人は家康の命により死罪となったものの、子孫には比較的寛容であったことは特徴的である。

  • 長男:石田重家 - 関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家。父・三成と親交が深かった春屋宗園の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に祖心尼がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる岡吉右衛門に娘おたあを嫁がせている(以下、次女・小石殿の項参照)。また、重家の子直重[129]松平忠直の庇護をうけ[要出典]、国替えで越後高田藩に入封した際に随伴。[要出典]妙高市(妙高高原一)の新田開発を命ぜられ、以降、当地に定住した。

また重家の直系子孫を名乗る石田秀雄によると3代目の直重(重家の子)の代に越後高田松平家に仕官したがその次の代からは庄屋になり現在まで男系で繋いでいるというが[129]、それを示す史料は戦争で燃えたという[130]

  • 次男:石田重成 - 関ヶ原の戦い後、津軽信建の助力で畿内を脱出。若狭国小浜に逃れた後、津軽氏にかくまわれ、杉山源吾を名乗る。のちに弘前藩家老職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。
  • 長女:某 - 名は定かではないが、生前は吹殿と呼ばれていたという説がある。石田家臣の山田勝重(隼人正)に嫁ぐ。山田勝重の叔母は家康の側室・茶阿局で、その縁から石田家没落後は妻(三成の娘)を連れ松平忠輝に2万5,000石にて仕えた。忠輝改易後、山田勝重は妻の妹・辰姫の縁で津軽藩から捨扶持として150石を賜り、草山と号して江戸で余生を送った。次男・富岡武兵衛、三男・山田彦兵衛が津軽藩に登用され、子孫は津軽藩士となり城代や側用人などを務めた。
  • 次女:小石殿 - 蒲生家の家臣岡重政(岡半兵衛)室。重政が蒲生家の御家騒動に関与し(藩主・蒲生忠郷の母・振姫(家康の三女)の勘気に触れ)、幕府により江戸に呼び出されて切腹処分になると会津を離れる。のちに若狭国へ移り住み、小浜で没したと伝わる。子の岡吉右衛門の娘は徳川家光の側室・お振の方(自証院)(三成の曾孫にあたる)となり、家光の長女・千代姫を産んだ。尾張徳川家に嫁いだ千代姫の血筋は第7代藩主・徳川宗春まで続き、さらに女系(千代姫の孫徳川吉通の娘三千君)を通じ二条家九条家を経て貞明皇后、そして現在の皇室などに三成の血を伝えている(系譜 石田三成 - 小石殿 - 岡吉右衛門 - 自証院 - 霊仙院(千代姫) - 徳川綱誠 - 徳川吉通 - 三千君 - 二条宗基 - 二条治孝 - 九条尚忠 - 九条道孝 - 貞明皇后 - 昭和天皇)。また、吉右衛門の子孫は千代姫の縁で尾張藩士となった。
  • 三女:辰姫 - 高台院養女。弘前藩第2代藩主・津軽信枚の正室、のちに満天姫(家康養女)降嫁により側室に降格したが、産んだ子は第3代藩主(津軽信義)となった。さらに女系を通じ雅楽頭酒井家などに三成の血を伝えている。
  • 三男:佐吉 - 佐和山城が東軍に包囲された際、徳川家の旧臣で三成の兄・石田正澄に仕えていた津田清幽が開城交渉を行っていた最中に、豊臣家家臣で援軍に来ていた長谷川守知が裏切り小早川秀秋田中吉政の兵を引き入れたため、正澄や父の正継らが自刃する悲劇が起こった。違約に怒った清幽が家康に迫って生き残った佐吉らの助命を承知させた。佐吉は父・三成と親交の深かった木食応其の弟子となって出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗った。

上記の3男3女は全て正室の皎月院の所生だが、このほかに側室との間に数人の庶子がいたとの伝承がその子孫に伝わっている。いずれも史実としての確認はできない。写真家・石田多加幸の家には庄屋となった備中石田氏の祖である、三成の次男八郎(三成の三男は佐吉ではなく八郎とする説も)の子孫という伝承がある(杉山重成の家に伝わる系図に該当する子孫はないため、重家と重成の間に生まれた側室所生の次男の子孫と推測することもできる)。『石田三成の末裔として育った』(近代文藝社)を書いた澁谷理恵子の家には、三成の末子の姫が、大坂の陣後、乳母に抱かれて越後高田へ落ち延びたのが祖先だとの口伝が残っている。

家臣

偏諱を与えた人物

研究書籍

関連作品

小説
漫画
  • 『戦国人物伝 石田三成』(2010年、漫画:やまざきまこと、原作:すぎたとおる、企画:加来耕三
  • 『三成さんは京都を許さない』(2017年、さかなこうじ
  • 『学研まんが 日本の伝記 石田三成』(2019年、漫画:木原飛鳥、原作:田中顕)
  • 『ミツナリズム』(2020年、鈴木コイチ)
  • 『石田三成の妻は大変』(2024年、重野なおき
テレビアニメ
ゲーム
映画
テレビドラマ
楽曲
  • 『夢のあと〜石田三成』(1973年、歌:三田明、作詞:千家和也、作曲:冬木透。コンピレーション・アルバム「戦国の武将」(規格品番:SJX-155)収録)
  • 『道、分かつとも』(2010年、歌:竹本英史杉田智和、作詞:森由里子、作曲:鈴木盛広、「戦国無双3 閃 烈歌奥義」収録、石田三成・加藤清正イメージ曲)
  • 『仰ぎて天に愧じず』(2010年、歌:竹本英史草尾毅高塚正也、作詞:森由里子、作曲:ARCHIBOLD、「戦国無双3 閃 烈歌奥義」収録、石田三成・真田幸村・直江兼続イメージ曲)
  • 『狭霧之彼方』(2010年、歌:竹本英史山田真一、作詞:森由里子、作・編曲:増田武史、「戦国無双3 飛 翔歌奥義」収録、石田三成・島左近イメージ曲)
  • 『夢陽炎』(2010年、歌:さくらゆき、作詞:遠野ゆき、作曲:あきつ、石田三成・大谷吉継イメージ曲)
  • 『天晴!』(2011年、歌:竹本英史草尾毅高塚正也、作詞:森由里子、作曲:河田真央、「戦国無双3Z 天 轟歌奥義」収録、石田三成・真田幸村・直江兼続イメージ曲)
  • 『夢のあとさき』(2014年、歌:さくらゆき、作詞:小栗さくら、作曲:真鍋貴之)
  • 『在りし日よ常しえに』(2015年、歌:竹本英史、作詞:宮原康平、作曲:堀内ユウ、編曲:原田ナオ、「戦国無双キャラクターソング其ノ二」収録)
  • 『物申す』(2015年、歌:竹本英史、作詞:森由里子、作・編曲:渡辺和紀、「戦国無双ヴォーカル・ベスト2」収録)
  • 『草枕之夢』(2015年、歌:竹本英史草尾毅高塚正也、作詞:森由里子、作・編曲:佐々倉有吾、「戦国無双ヴォーカル・ベスト2」収録、石田三成・真田幸村・直江兼続イメージ曲)
  • 『一騎当千』(2015年、歌:竹本英史草尾毅檜山修之松風雅也、作詞:森由里子、作・編曲:あおい吉勇、「戦国無双ヴォーカル・ベスト2」収録、石田三成・真田幸村・伊達政宗・藤堂高虎イメージ曲)
  • 『一期一会でよろしく!』(2015年、歌:竹本英史山田真一、作詞:森由里子、作・編曲:渡辺未来、「戦国無双ヴォーカル・ベスト2」収録、石田三成・島左近イメージ曲)
  • 『万世之絆』(2015年、歌:竹本英史草尾毅高塚正也、作詞:森由里子、作・編曲:ARCHIBOLD、「戦国無双ヴォーカル・ベスト2」収録、石田三成・真田幸村・直江兼続イメージ曲)
  • 『戦国ロボ「逆転評価 石田三成」』(2021年、歌:カンケ、作詞:土屋亮一、作曲:カンケ)
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現代の湖東地域と三成

上記のように、江戸時代以降の三成に対する評価はさまざまであるが、滋賀県では、三成の知行地があった湖東(長浜市・米原市彦根市など)を中心に、観光客誘致や地域おこしのため顕彰対象になっている[134][135]

脚注

注釈

  1. ^ ※補記:東京大学史料編纂所に所蔵されている石田三成像(通称「杉山家伝来の肖像画」)は、三成の次男・石田重成(のちに杉山源吾と改名)を祖とする杉山家に伝えられたもので、江戸時代前期に製作されたと推定されている。しかし、重成は関ヶ原の戦い当時まだ12歳であり、この肖像が三成存命中に描かれたものではないことから、実際の容貌を忠実に写したものではない可能性が高い。また、肖像に描かれた三成の風貌は60歳前後に見えるとも言われており、関ヶ原当時41歳だった実年齢との乖離が指摘されている。
  2. ^ ※補記:東京大学史料編纂所に所蔵されている石田三成像(通称「杉山家伝来の肖像画」)は、三成の次男・石田重成(のちに杉山源吾と改名)を祖とする杉山家に伝えられたもので、江戸時代前期に製作されたと推定されている。しかし、重成は関ヶ原の戦い当時まだ12歳であり、この肖像が三成存命中に描かれたものではないことから、実際の容貌を忠実に写したものではない可能性が高い。また、肖像に描かれた三成の風貌は60歳前後に見えるとも言われており、関ヶ原当時41歳だった実年齢との乖離が指摘されている。
  3. ^ 三成が左近を召抱えたのは、左近の先主・羽柴秀保が死去した文禄4年(1595年)以降ともいわれており、この場合、三成はすでに佐和山19万石の城主になっている[14]。ただし、天正18年(1590年)5月に左近の妻が伊勢亀山(関一政の本拠)に留まっている一方、同月に三成から佐竹義久への使者を左近が務めていることから、小田原征伐のころに関氏の厄介になっていた左近が三成に登用されたとするのが近年の有力説である[15]。また、水口4万石の半分の2万石で召し抱えたという説もあるが、三成が水口を領有した事実はないため、これは誤りである。
  4. ^ 当初は同じく旧領であった尾張清須21万石が与えられる予定であったが、こちらは福島正則に与えられた
  5. ^ 布谷陽子は慶長3年7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状に毛利輝元、大坂の三奉行、小西行長大谷吉継が三成とともに談合を行ったことが記されていることから、西軍結成計画は複数人によって早くから進行していたものとする[54]
  6. ^ 家臣の児玉玉三郎右衛門に秀吉に献上する脇差を譲るよう命じた書状の一節。
  7. ^ 三成が奉行として行う検地への協力のために、義弘が兄の義久へ、その協力が島津家のために必要であることを説得した書状の一節。
  8. ^ 『武功雑記』にも三将に小袖が送られる逸話が載せられているが、家康が三将の体面を気にかけるくだりがないなど細部が異なる。
  9. ^ 近年では水口城は中村一氏の築城で、またその入封は甲賀衆の内紛による没落とされていることから、三成が領有することは考えられないとみられている。もっとも、後年の小田原征伐のころには7、8万石相当の軍役を負担していた[112]
  10. ^ 本多博之は蔚山での秀秋の失態に史料的な裏付けはなく、また越前への転封については秀吉による筑前直轄領化構想のもと行われたとする[117]

出典

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  135. ^ 長浜市観光PRキャラクター「三成くん」(2018年10月6日閲覧)。

参考文献

関連項目

外部リンク


石田三成(佐吉)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 00:19 UTC 版)

石田三成の青春」の記事における「石田三成(佐吉)」の解説

本編の主人公近江国坂田郡石田村地侍石田正継三男好物ふなずし

※この「石田三成(佐吉)」の解説は、「石田三成の青春」の解説の一部です。
「石田三成(佐吉)」を含む「石田三成の青春」の記事については、「石田三成の青春」の概要を参照ください。

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