歴史的概観
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生活史の研究は、昆虫の研究において重視され、発展してきた。昆虫においては、成虫と幼虫の生活が大きく異なる場合が珍しくなく、成虫の生活からは、思いもよらない習性の幼虫がいる場合も往々にしてある。また、脱皮などによって、その生涯が大きく区切られていることも、そのような関心を呼ぶのに役立っている。さらに、多くのものが1年前後の寿命であり、全生涯の把握がやさしかったこともある。 ただし、まずは分類学が先に発達し、それは成虫の形態に基づいて行われてきた。したがって、新種が記載された時点では、その種の習性や生活史は未知である場合が多く、というより、昔はそれが当たり前であった。また、習性や生活史の研究はあまり専門的研究の対象とは考えられていなかったのも、この傾向に拍車をかけた。 したがって、その段階から、その種の生活史を明らかにするのは、往々にしてアマチュアの仕事であった。たとえば日本の昭和初期から中期において、チョウの生活史解明は、アマチュア昆虫採集家の大きな使命と考えられた時代があった。日本産のチョウ全種の生活史の解明が目標として掲げられた。ちなみに、この場合の生活史には、どのような卵をどこに産み、いつ孵化し、どのような幼虫になってどのように暮らし、どこでどんな風に蛹になり、どれだけの期間で成虫になるか、寿命はどれだけか、などといった情報が含まれる。 ファーブルによる昆虫の習性の研究は、この分野にも重要な影響を与えた。特に彼が力を入れたハチ類の習性研究は、その後、さらにひろい視点からの生活史研究と、より詳細な行動の研究へと進み、社会性の進化の解明などに大きな力となった。特に社会性昆虫の進化に関する検討では、親の繁殖行動や、親による子の保護の習性以外に、子のふるまいが重要であり、いきおい対象とする昆虫の全生涯を視野に入れる必要があった。しかしそれ以外の昆虫、あるいは他の動物においては、個々の習性に関する研究以外は、博物学的な知識の集積と見られた面が大きい。 ファーブルは その後次第に地味な習性の昆虫へと研究の幅を広げたが、これは面白い昆虫がそれほど多くない地域であったためとも言われる。同様に、生活史研究も次第に地味な習性の生物へとその目を広げた。ただし、こちらは、むしろ生活史一般をその視野に収めるためであった。それを可能にしたのは、さまざまな動物の生活史について、その各局面を比較し、その差を進化や適応の観点から論ずる理論の発達である。r-K戦略説はその分野の走りであり、ここから大卵少産や小卵多産戦略という概念やその意味について論じられるようになり、そこから繁殖戦略論などが発展した。動物行動学の理論的発展も大きな役割を果たした。そういった中で、それまでは重視されることの少なかった、産卵数や卵の大きさなど、地味な特徴にも目がむけられるようになった。 ただし、博物学的な意味での生活史の研究ですら未だに手の着いていなし生物群も数多い。そのような分野では、気長で地味な努力の元に、少しずつの蓄積が行われ続けることであろう。
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歴史的概観
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「アメリカ合衆国の外交政策」の記事における「歴史的概観」の解説
詳細は「アメリカ合衆国の外交史」、「アメリカ合衆国領土の変遷」、および「en:Timeline of United States diplomatic history」を参照 独立戦争以降のアメリカの外交政策の推移に関する基本的傾向は、第一次世界大戦以前に採用していた「内政不干渉の原則」からの転換であり、その成長によって大国となり、第二次世界大戦から冷戦の終焉まで、「20世紀の世界の覇権」を制した。また19世紀以降、アメリカの外交政策は国際関係において「現実主義」から「理想主義」または「ウィルソン」主義へと移り変わったと特徴付けることができる。 アメリカの外交政策のテーマの多くは、初代大統領「ジョージ・ワシントンの辞任挨拶」において表現されている。これらの中にはその他のことも含まれており、「誠意を持ち続けること」、「全ての国々に対し公平を貫くこと」、「全てにおいて平和と調和を図ること」、「特定の国に対して度し難い反感を持ったり、その他の国に熱烈な愛着を持ったりしないこと」、「いかなる地域の国とも恒久的な同盟は避けること」、「全ての国々との貿易を擁護すること」などである。これらの方針は1790年代の連邦党の基本政策になった。しかし、ライバルの民主共和党は1790年代、イギリスを嫌い、フランスを好み、1812年にはイギリスに対して宣戦を布告し、かつての宗主国と米英戦争を引き起こした。1778年にフランスと仏米同盟条約を締結した後、第二次世界大戦後の1949年に北大西洋条約を締結するまで、アメリカは恒久的な同盟を締結することはなかった。歴史を通じて、そのほかのテーマ、鍵となる目標、姿勢、あるいはスタンスはアメリカ合衆国大統領のドクトリンと名付けられ、様々に表現されてきた。当初はこれらは普遍的な出来事ではなかったが、第二次世界大戦の後、ほとんどの大統領はこれらを形成してきた。 米英戦争や米西戦争のように時にはヨーロッパの大国ともつれたこともあったが、19世紀のアメリカの外交政策は外国との貿易とその範囲を着実に拡大することを目標とし、ヨーロッパの大国との戦争を回避する政策を維持してきた。国内の国境線についていうと、1803年のルイジアナ買収によって国土は倍増し、スペインは1819年にアダムズ=オニス条約によりフロリダを譲渡した。1845年にはテキサスを併合し、1848年にはメキシコとの米墨戦争によってカリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコを獲得した。1867年にはロシア帝国からアラスカを買収し、1898年にはハワイ共和国を併合した。1898年には米西戦争の勝利によってキューバ、フィリピンとプエルトリコを保護国化した。短期間での帝国主義の実験は1908年に終焉を迎え、アメリカはパナマ運河とメキシコを含む南米の安定化に注意を向ける方向を変えた。 20世紀は連合国とともにアメリカも参戦し、敵を破って国際的な評判をあげた2つの世界大戦によって特徴付けられる。ウッドロウ・ウィルソン大統領の「十四か条の平和原則」は、「民主主義を普及させ、戦争を終わらせるために軍国主義と戦う」という彼の理想主義的なウィルソン主義から発展したものである。それは帝政ドイツの休戦(事実上の降伏になった)と1919年のパリ講和会議の根拠になった。その結果であるヴェルサイユ条約はヨーロッパの連合国による懲罰と領土画定において満足のいく合意が得られず、アメリカはこれらに反対する国々と個別に講和を結んだ。アメリカはウィルソン大統領の提案によって創設された国際連盟(League of Nations)に上院の反対もあって加盟しなかった。1920年代、アメリカは独自の路線をとり、ワシントン軍縮会議による海軍の軍縮とドーズ案によってドイツ経済を再生させることに成功した。ニューヨークは「世界の金融の中心」となったが、1929年の株価の下落は大暴落につながり、世界経済を大恐慌に叩き落した。アメリカの貿易政策は共和党が支持する高い関税政策と民主党が支持する自由貿易政策に依っていたが、1930年代は輸出のあらゆる部門がとても低いレベルにあった。 アメリカは1932年から1938年にかけて孤立主義的な政策を採用していたが、フランクリン・ルーズベルト大統領はナチス・ドイツや大日本帝国と戦う連合国を強く支援するよう方向性を大きく変えた。国内における激しい論争の末、「民主主義の造兵廠」になることを国家の政策として決め、アメリカ人の兵士を送ることなく、連合国に経済的、軍事的支援を行った。ルーズベルトは「世界のどこにおいても」謳歌されなければならない4つの基本的な自由について述べた。これらは欠乏からの自由、恐怖からの自由とともに言論と表現の自由とすべての個人がそれぞれの方法で神を礼拝する自由(いわゆる信教の自由)が含まれていた。ルーズベルトはウィンストン・チャーチル英国首相との大西洋会談で潜在的な連合国との戦後世界の建設構想について討議をした。その中には先の国際連盟(League of Nations)の失敗を教訓として後の国際連合(United Nations)につながる特筆すべき点が含まれていた。 アメリカの政策は日本に圧力をかけて日中戦争(支那事変)において中国大陸から日本陸軍を撤退させ、また日本がソ連を攻撃するのを阻止させることだった。しかし、1941年12月、日本海軍はハワイの真珠湾攻撃をし、アメリカは日本、ドイツ、イタリアといった枢軸国との戦争に突入した。第一次世界大戦では連合国に資金を貸与したが、アメリカはレンドリース法によって500億ドルを供与した。イギリスのウィンストン・チャーチル首相、ソ連のヨシフ・スターリン共産党書記長と緊密に行動し、ルーズベルトは日本に対してアジア・太平洋戦線に、そしてイタリアとドイツに対し北アフリカ戦線に、そしてついにフランス、イタリアとともに西部戦線・ヨーロッパ戦線にも軍隊を派遣した。アメリカの経済は前進し、産業生産は倍増し、膨大な量の航空機、艦船、戦車などの軍需品と、そしてついに、原子爆弾を創造し、日本の降伏・ポツダム宣言受諾直前になって広島市と長崎市において非戦闘員・民間人に対する核攻撃を行った(日本への原子爆弾投下)。アメリカの戦争への努力の多くは、日本とドイツの都市を廃墟にした戦略爆撃機の生産に費やされた。 戦争が勝利に終わると、アメリカはハリー・S・トルーマン大統領によるマーシャル・プランとトルーマン・ドクトリンという鍵となる政策とともに世界に大きな影響力を持つ国に浮上し、支配する植民地を所有しない経済大国になった。 しかし、ほとんどすぐに、世界は冷戦を通じて片方はアメリカがリードする資本主義・自由主義陣営の西側諸国、もう片方はソ連によって導かれる社会主義・共産主義陣営の東側諸国という2つの陣営に分裂していくのを目撃した。しかし、この状況は非同盟運動の創設によっても導かれていた。イデオロギーの闘争によって特徴付けられるこの時代はほぼ20世紀が終焉に向かうまで続いた。ソ連の覇権主義・膨張主義を抑える封じ込め政策が採用され、朝鮮戦争やベトナム戦争といった多数の代理戦争が繰り広げられ、様々な結果を残した。 1991年、70年間続いたソ連は崩壊して国家が分裂し、冷戦は恐れられていた「熱戦」への発展、第三次世界大戦を経験することなく終焉した。これにより、新しい挑戦がアメリカの政策立案者に立ちはだかった[要出典]。 アメリカの外交政策は今でも自由貿易への関与、国益の保護、人権への関心によって特徴づけられる[要出典]。 21世紀に突入し、アメリカは依然として国際社会に強い影響力を維持しているが、経済の視点から見ると、BRICsと呼ばれる中国やインド、ロシア、ブラジルといった新興国、そして新たに統合して成立された欧州連合(EU)などの台頭により陰りが見えつつある。気候変動や核不拡散、核テロリズムの恐怖など持続可能性の問題の問題も残っている。外交政策アナリストでアメリカ合衆国大統領次席補佐官のモナ・サトフェンとニナ・ハチギアンは著書「ザ・ネクスト・アメリカン・センチュリー」において、これら6つの大(国)はすべて安定性、テロ予防、貿易の面で同様の利害を持っていると提言し、もしこれらの国々が協力すれば、これからの数十年で平和的な成長と繁栄を享受できるだろうと説いている。
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歴史的概観
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遺伝子がどのように複製されるのかは、DNAが遺伝子であることが判明する以前からの重要な関心事であった。遺伝子は単なる形質を伝える仮定的な存在から、細胞の核内にあって生命活動の中心的役割を果たす物質であるとの見方へと変わった。また、細胞分裂のたびにそれが複製されると推察されたこと、突然変異などの出現の様子から見て、その複製が極めて正確なものであることが推察されたことから、その正体と、その複製のしくみに大きな関心が持たれるようになった。そういった中で、遺伝子の本体がDNAであることはエイブリーらによる肺炎双球菌の研究等によって明らかになり、ワトソンとクリックによって1953年にその構造が明らかにされた。 発表されたDNAモデルが、相補的な二重鎖の構造を持っていたことから、直ちに上記のような半保存的複製が行われている可能性が考えられた。ワトソンとクリックら自身もその構造を発見した時点でこれを考え、論文中でもそのことに言及していたほどである。しかしながら、この時点ではそれは可能性に過ぎなかった。例えば古い二本鎖を元に、全く新しい二本鎖を作るようなやり方(保存的複製)や、新たに作られたDNA鎖に、不連続に古い鎖が混じっているような形の合成(不連続的複製)、それ以外の方法が取られている可能性も否定できなかったからである。 DNAが半保存的に複製されていることを証明したのは、M.メセルソンとF.スタール(1958)である。彼らは、窒素の同位体を用いて古いポリヌクレオチド鎖と新しく合成されるそれを区別することを考え、これによってこの問題を実証した(メセルソン-スタールの実験)。
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歴史的概観
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反ユダヤ主義の歴史的発展については、ジェローム・チェーンズによる次のような整理がある。 キリスト教以前の古代ギリシャや古代ローマにおける反ユダヤ教(英語版)。これは民族意識的な性格であった。 古代・中世におけるキリスト教的なもの。これは宗教的・神学的な性格を持ち、近代まで拡大していった。 イスラームにおけるもの。ただし、イスラム教ではユダヤ教徒はキリスト教文化圏よりも厚遇された。 啓蒙時代の政治的経済的なもの。これは後の人種的なもの(反セム主義)の基盤をなした。 19世紀以降の人種的反セム主義(英語版)。これはナチズムにおいて最高潮に達した。 現代のもの(新しい反セム主義(英語版)ともいう)。 チェーンズは、さらに反ユダヤ主義を大きく以下の3つのカテゴリに分けることができるとする。 民族的な性格の強かった古代のもの 宗教的な理由によるキリスト教的なもの 19世紀以降の人種的なもの 実際には、古代ローマ以前で民族間の一般的な虐待や酷使と後世の意味での反ユダヤ主義を識別することは難しい。ヨーロッパ諸国家がキリスト教を受け入れてからは、明確に反ユダヤ主義と呼ぶべき事態が生じていった。イスラム教世界ではユダヤ人はアウトサイダーと見なされてきた。科学革命と産業革命以後の近代社会では人種に基づく反ユダヤ主義(反セム主義)が唱えられ、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺をもたらした。1948年のイスラエル建国以後は中東においても反ユダヤ主義がはびこるようになった。 以下では、反ユダヤ主義の歴史だけでなく、反ユダヤ主義が生まれた背景として、ユダヤ人をとりまく時代ごとの状況、各国各社会におけるユダヤ人の取り扱いのほか、ユダヤ側の反応などの歴史を述べる。
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