歴史的様相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 02:45 UTC 版)
グレートブリテン島から北欧、モスクワまでの広範囲を覆っていたスカンジナビア氷床が後退したことに続いて、紀元前8000年ごろ、おそらく主に南方や東方から来た人類が現在のフィンランドに到着し始めたとされる。だが、近年の考古学的発見はノルウェー海岸に見られる最も古い物と同等に古いフィンランド北方の北西コムサ文化(en)の存在を明らかにしている。 フィンランドの領域は紀元前5000年までは北西ヨーロッパのクンダ文化(en)に、紀元前4200年ごろから紀元前2000年ごろにかけては櫛目文土器文化に属していた。フィンランド南西海岸のキウカイネン文化は1200年前からみられる。 1100年ごろから1200年ごろスウェーデン王権はフィンランドの編入を始めた。しかしながら、ノヴゴロドもまたフィンランドの支配権を得ようとしていた。このためスウェーデンとノヴゴロドの間で幾度も戦争が行われ、この構造は1400年にノヴゴロドがモスクワに、1700年にモスクワがロシアに変わっても続いた。1721年ニスタット条約が調印されスウェーデンのバルト地方での優勢状態が終わりを迎え、1809年にはフィンランドはロシア帝国に併合された。1809年から1917年にかけて、フィンランドはロシア皇帝の大公国で、立憲君主制の状態にあった。ロシアとスウェーデンの間で戦闘が繰り返されたカレリアは、双方の文化の影響を受けたにもかかわらず、双方の力の震央から末端であったため、その多くが維持された。カレワラの詩歌は多くがカレリアとイングリアに起源を発する。 19世紀はヨーロッパからフィンランドに民族浪漫主義と民族国家主義をもたらした。フィンランドの民族国家主義もまた成長し、文化的個性とフィンランド人の祖地 ランド人になりたいのだ」 という言葉はフィンランド人運動家の信条としてしばしば引用されるようになった。民族国家主義が高められた結果、ロシアからの独立を模索するようになったフィンランドは1917年12月6日、ロシアからの独立宣言を行い、これがフィンランド独立の日となった。しかしながら民族国家主義者もスウェーデン話者が異なった国の一員とは考えていなかった。事実、スウェーデン話者の家系から多くのフィンランド人運動家が生まれている。
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