歴史的検証、サルコジ批判
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「ギィ・モケ」の記事における「歴史的検証、サルコジ批判」の解説
だが、上述の戦略を含む戦時中の共産党の方針・地下活動、特に独ソ不可侵条約締結から独ソ開戦に至るまでの困難な時期における党の大義名分、離党者との関係、およびこうした状況から対独レジスタンス、特にゲリラ戦開始に至った経緯について明らかになったのは2004年のことである。この年、警察史専門の歴史学者ジャン=マルク・ベルリエール(フランス語版)が同じく歴史学者のフランク・リエーグル(フランス語版)とともに機密解除された1940年から1942年の警視庁の文書を検証して『共産党員の血 - 武装闘争における青年部隊、1941年の秋』として発表した。これは、書名が示唆するように、ギィ・モケが属していた共産主義青年運動の青年らによる青年部隊の隊員が流した血が、共産党の汚名をそそぎ、名誉挽回につながったこと、また、その過程でギィ・モケのような英雄的・悲劇的な青年の神話がいかに作られ、利用されたかを明らかにするものであった。両研究者はさらに調査を続け、2007年に『裏切り者を片付ける - フランス共産党の隠された顔 1941-1943』、2009年に『ギィ・モケ事件 - 公式な大衆欺瞞に関する調査』 を著した。 とりわけ、『ギィ・モケ事件』は、2007年に大統領に就任したばかりのニコラ・サルコジが、ギィ・モケを「青年共産党員」としてではなく、「フランスと自由のために命を捧げた若いフランス人」として称え、彼の最後の手紙をフランスのすべてのリセ(高等学校)で読み上げるよう提案したことに対する批判であった。グザヴィエ・ダルコス国民教育相は、サルコジの提案を受けて、毎年ギィ・モケが処刑された10月22日にすべてのリセでこの手紙を読み上げるようにという通達を出し、しかも、「朗読をするのは歴史・地理の教員に限られてはならない」とした。すなわち、歴史・地理の授業において第二次世界大戦や自由フランス、対独レジスタンスなどの文脈において教えるのとは別に、こうした歴史的背景から切り離して、手紙を読み上げること自体の重要性を強調したことになり、9月24日付『フランス共和国官報』にも10月22日を「ギィ・モケを追悼する」日と記された。 この提案・通達に野党はもちろん、知識人、現場の教員からも批判が殺到した。歴史的背景から切り離して生徒に手紙だけを紹介するのは、百年戦争でフランス軍を勝利に導き、最後に異端者として火刑に処されたジャンヌ・ダルクや、ヴァンデの反乱で捕虜になり、王党派に「国王万歳!」と叫ぶよう強要されながらも「共和国万歳!」と叫んで処刑されたジョゼフ・バラの場合にありがちなように、「歴史」ではなく「神話」を教えることになると批判された。また、ギィ・モケが処刑されたのは、共産党がレジスタンス運動を開始する前のことであり、彼が配布した冊子やビラはもちろん、『リュマニテ』紙にもナチズム批判ではなく、ヴィシー政権の「資本主義擁護」や「人民の弾圧」に対する批判、あるいは上述の「帝国主義」批判が書かれ、ソ連を、「社会主義の祖国、自由の国、労働者の理想郷」と称えるだけの内容であったため、「フランスと自由のために命を捧げた」とは言い難かった。これはギィ・モケの手紙の内容についても同様であり、彼の手紙は何らかの価値観や愛国心を表現したものではなく、両親と弟、共産党の仲間たちへの思いを綴った私信にすぎなかった。加えて、サルコジは右派の代表でありながら、大統領選挙戦中から、フランス社会党(SFIO)を率い、『リュマニテ』紙の創刊者でもある左派のジャン・ジョレスについて、「今日の左派はジョレスの左派とほとんど関係がない。今日の左派にはもはや社会を変える力がない」、「自分こそがジョレスの後継者だと感じる」として批判を浴びていただけに、再び左派の英雄の神話を利用したと批判された。この結果、2009年9月24日付『官報』では、「イニシアティヴは各教育機関に委ねられる」と、事実上、手紙の朗読は義務付けられなくなった。
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