昭和初期から中期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 01:36 UTC 版)
復帰後、龍介は1926年(大正15年)に吉野・安部磯雄とともに独立労働協会を結成、続いて社会民衆党中央委員となる。1927年(昭和2年)に松岡駒吉とともに中国を訪れて蔣介石と会談し、社会民衆党と中国国民党との連携を図った。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に社会民衆党から東京府第4区で出馬し、燁子も選挙事務所で和歌の短冊を売って資金集めに協力するなどしたが、結核の再発によって倒れ落選、翌年の同党分裂では除名されて支持派とともに全国民衆党を結成する。その後、無産政党の大合同によって全国大衆党→全国労農大衆党→社会大衆党となり、中央委員や青年・選挙部長などを歴任した。 だが、1933年(昭和8年)には同党と距離を置いて、同じアジア主義者の中野正剛率いる東方会に転じる(1939年に正式入会)。1937年(昭和12年)7月24日午前11時日本郵船、近衛文麿首相の密使として、蔣介石との和平協議のために中国を訪問しようとするが、これに反対する陸軍は憲兵隊を用いて神戸港での乗船間際に、乗船名簿には高田市三とあるのに対し、大型トランクにはR・Mとのイニシャルがあったことから宮﨑龍介を検挙した。この経緯については諸説があり詳細は不明のままで、後に東方会東京府連会長を務め南進論によるアジア解放を進める南鵬会を結成して会長となる。これが、後に大東亜戦争(太平洋戦争)に賛同したとする根拠とされた。戦争で燁子との間に生まれた長男の香織が早稲田大学政経学部在学中に学徒出陣し、終戦の4日前に所属していた陸軍・串木野市の基地に爆撃を受けて戦死している。龍介は本籍地の荒尾に香織の遺骨を受け取りに行った。
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