昭和初期の「楽水群像」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 04:23 UTC 版)
「浜寺水練学校」の記事における「昭和初期の「楽水群像」」の解説
1925年(大正14年)、水練学校女子部長に就任した松本楢雄は、アメリカの無声映画で映されていた水中バレエを参考に、日本泳法やクロールを組み合わせ、「日本の印象」「オランダの印象」といった題目で一つの流れに組み立てたページェントを考案、女子部の水泳教師に団体演技を指導した。この団体演技は「楽水群像」と呼ばれた。楽水群像が初めて一般公開されたのは1932年(昭和7年)のことで、その年の夏に宝塚に完成した50mプールで、華岡芳三の指導のもと披露された。初期の楽水群像は、日本泳法(能島流の基本泳法)と近代泳法を組み合わせたもので、笛によって指揮されていた。その後、観客により美しく見せるための工夫が繰り返され、多くの泳法が加えられ、マスゲーム的なものとして発展した。
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