ガウタマ・シッダールタとは? わかりやすく解説

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釈迦

(ガウタマ・シッダールタ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/19 04:27 UTC 版)

釈迦
生没年:旧暦4月8日誕生(灌仏会、伝承による)[1] - 旧暦2月15日没(涅槃会、伝承による)
サールナート考古博物館英語版のブッダ像
生地 コーサラ国カピラヴァストゥ
没地 マッラ国クシナガラ
弟子 舎利弗摩訶目犍連摩訶迦葉
須菩提富楼那弥多羅尼子
摩訶迦旃延阿那律優波離
羅睺羅阿難
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ガウタマ・シッダールタ
गौतम सिद्धार्थ
王太子
在位 紀元前624年 - 紀元前595年(諸説あり)

人種 アーリア人ないしモンゴル系人種[2][3]
出生 紀元前624年4月8日
ルンビニー
死去 紀元前544年2月15日(80歳没)[4]
クシナガラ
配偶者 耶輸陀羅
家名 釈迦族
父親 浄飯王
母親 摩耶夫人
宗教 仏教
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釈迦
中国語
繁体字 釋迦牟尼
簡体字 释迦牟尼
発音記号
標準中国語
漢語拼音 Shìjiāmóuní
注音符号 ㄕˋ ㄐㄧㄚ ㄇㄡˊ ㄋㄧˊ
客家語
客家語拼音 Sṳt-kâ-mèu-nì
粤語
粤拼 sik1 gaa1 mau4 nei4
閩南語
閩南語白話字 Sek-khia-mô͘-nî
朝鮮語
ハングル 석가모니
漢字 釋迦牟尼
発音記号
RR式 seog-ga-mo-ni
MR式 sŏk-ka-mo-ni
ベトナム語
クオック・グー Tất-đạt-đa Cồ-đàm
チュノム 悉達多瞿曇
タイ語
タイ語 พระโคตมพุทธเจ้า
RTGS Phra Khotama Phuttha Chao
インドネシア語
インドネシア語 Siddhartha Gautama
ビルマ語
ビルマ語 ဂေါတမ ဗုဒ္ဓ
ヒンディー語
ヒンディー語 गौतम बुद्ध

釈迦(しゃか、旧字体釋迦サンスクリット: शाक्यमुनिŚākyamuni)は、北インド[5]の人物で、仏教開祖。ただし、存命していた時代については後述の通り紀元前7世紀紀元前6世紀紀元前5世紀など複数の説があり、正確な生没年は分かっていない。

釈迦は輪廻からの解脱を目指した。仏教の教義は多様化しているが歴史学的・宗教学的には「死後に天界を含めて、一切皆苦のこの世界で二度と生まれ変わらないこと」を釈迦は目指していたと説明される(大乗非仏説参照)[6][7]

姓名はサンスクリット語の発音に基づいた表記ではガウタマ・シッダールタ: गौतम सिद्धार्थ Gautama Siddhārtha[8][9])、パーリ語の発音に基づいてゴータマ・シッダッタ[10]: Gotama Siddhattha)とも表記される。漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)である[9][注釈 1]

仏舎利と言われる遺骨は真身舎利、真正仏舎利として今も祀られ、信仰を集めている。

名前と呼称

「釈迦」

シャーキヤ(: शाक्य Śākya)は、釈迦の出身部族であるシャーキヤ族[8]またはその領国である、シャーキヤ国を指す名称である。「釈迦」はシャーキヤを音写[8]したものであり、旧字体では釋迦である[11]

シャーキヤムニ(: शाक्यमुनि Śākyamuni)はサンスクリットで「シャーキヤ族の聖者」という意味の尊称であり、これを音写した釈迦牟尼/釈迦牟尼仏(しゃかむに/〃ぶつ)[12]を省略して「釈迦」と呼ばれるようになった[8]天台宗や、臨済宗をはじめとする禅宗などで多く唱えられる念仏である「南無釈迦牟尼仏」も南無は「あなたにおまかせする」という意であるため「釈迦牟尼仏にすべてお任せします」という意味である[13][出典無効][14][出典無効]

姓名

パーリ仏典では、釈迦の父方の従兄弟・アーナンダもゴータマと呼ばれており、釈迦の母のマーヤーと母方の叔母で養母のマハー・プラジャーパティーはゴータマの女性形であるゴータミー(: Gotamī)と呼ばれている[15][16][17]

ガウタマ(ゴートラ)はアーンギラサ族英語版: aṅgīrasa)のリシガウタマの後裔を意味する姓であり、この姓を持つ一族はバラモンである。クシャトリアのシャーキャ族である釈迦の姓がガウタマであることは不自然であり、先祖が養子だったとする説などがある[18]

名のシッダールタは、古い仏典に言及が無いこと、意味が「目的を達成した人」と出来過ぎていることから、後世に付けられた名前とする説がある[19][20]

尊称・敬称・異名

ブッダ: बुद्ध buddha)は、「目覚める」を意味するブドゥ(: बुध् budh)に由来し、「目覚めた人」という意味である[10][注釈 2]。もともとインドの宗教一般において、すぐれた修行者や聖者に対する呼称であったが、仏教で用いられ釈迦の尊称となった[21]。このため、ゴータマ・ブッダ[10]ともいう。漢訳の音写は仏陀、旧字体では佛陀であり、意訳は覚者である。仏陀の略称がであり、「仏教」や「仏像」などの用語はこの尊称に由来する[22]。「仏陀」の発音については「ぶっ-だ」の他に「ぶつ-だ」とも読まれる。

釈迦の異名は多くあるが、その中でも十号がよく知られている[23]

タターガタ: तथागत tathāgata)は、「そのように来た者」または「そのように行った者」[24]を意味する釈迦の尊称である。音写は多陀阿伽度、意訳は如来であり[25][26]釈迦如来ともいう。また、バガヴァント英語版: भगवन्त् Bhagavant)は、世の中で最も尊い者を意味する釈迦の尊称であり[27]、音写は婆伽婆もしくは薄伽梵、漢訳は世尊である[27]

仏教では、釈迦牟尼仏[28][29]、釈迦牟尼如来[28]、釈迦牟尼世尊[30]としたり、またそれらを省略して、釈尊[9]牟尼[31]釈迦尊仏様お釈迦様と呼ぶ。

生涯

釈迦を同時代に客観的に記録した一次史料は皆無に等しく、人種さえ不明である。

上座部仏教大乗仏教のどちらにおいても釈迦は六神通を使う超人的な存在として捉えられている。そのため経典が伝える釈迦の生涯(仏伝)は超人的な逸話が多いうえに、大乗非仏説に基づけば、大乗経典は後世に成立した信仰や教義に合わせて仏伝を改変する傾向もあるとされるため、実在の人物としての釈迦の生涯を知る上では注意して取り扱わなければならない。釈迦の生涯を体系的に網羅した書籍としては『ブッダチャリタ』が著名である。

釈迦を客観的に記録した一次史料が皆無な現代においては「史的ブッダ」を歴史学的に完全に復元することは不可能であるとされる。大谷大学教授の新田智通は次のように説明している。

実際に仏典を紐解いてみると、最初期のものと思われる文献においても、一個人としての「人間ゴータマ(釈迦)」はまったく説かれていないし、また一般的に保守的な見解に立っていたとされる上座部の文献を見ても(略)そこに描かれているゴータマの姿というのは一貫して神話的、超越的なのである[32]
平川彰の「純粋に”人間仏陀”の伝記は現在としては再現不可能である。仏陀の事蹟はすべて神話的に色づけられているからである」という言葉に端的に表されているように、ゴータマの脱神話化は結局不可能な試みなのである[32]

本項の以下の記述は、伝統仏教の信仰的説話の内容も含むものである。

誕生から青年期

十六大国時代のインド(紀元前600年
白象懐胎(大英博物館所蔵、製作年代は1世紀から2世紀頃)

釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国属国であるシャーキヤラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである[33]。マーヤーは、出産のための里帰りの途上、カピラヴァストゥ郊外のルンビニで子を産んだ[9][注釈 3]

仏教の教義では、釈迦は六道輪廻の中で善行を積み天界兜率天)に転生していたが、成道のため現世に降下することにし、釈迦は白象に化して母マーヤーの胎内に宿り、産みの苦しみを与えないためマーヤーの産道を通らず右の脇腹より生まれ出たとされる[34]。そして生誕した釈迦は七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と宣言したとされる。釈迦は生誕時には過去世の記憶を保っており上記の宣言をしたが、その後普通の人間と同じく過去世の記憶を失った。時は流れて釈迦が悟りを開いてブッダになると六神通を得て、六神通の一つである宿命通によって釈迦は過去世の記憶を全て取り戻した、と説明される。

白象懐胎についてキリスト教の教義と混同した西欧人学者によって「マーヤーは処女懐胎によって釈迦を受胎した」と説明されることもあるが、梶山雄一は、『方広大荘厳経』には白象懐胎によってシュッドーダナとの性行為によらずマーヤーが釈迦を受胎したとの記述は見られるものの、釈迦を受胎したときマーヤーが処女であったとする記述は仏典には見られないとしている[34]

上座部仏教の『パーリ仏典希有未曾有法経では釈迦の生誕時の言葉について「私はこの世界で最上の者である。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」、すなわち私はこれまで輪廻転生を繰り返してきたが、前世で功徳を累積し誰も到達したことのない悟りに最も近い者である、兜率天から降下し今世の生で悟りを得て解脱涅槃に入ってみせるという釈迦の決意表明だが、上座部仏教より後に成立した大乗仏教では久遠常住などの教義にそぐわないためか後半の「これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」が省かれて前半のみの「天上天下唯我独尊」となり意味合いが分かりにくくなっていると説明される[35](詳しくは大乗非仏説参照)。

サーリプッタが言った。 「私は未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。このように美わしき師、衆の主(釈迦)が兜率天から来りたもうたことを。

眼ある人(釈迦)は、天の神々と世人が見るように、一切の暗黒を除去して独りで法楽を受けられた。
スッタニパータ』八つの詩句の章(抄)[36]

マーヤーは釈迦を出産した7日後に死去した[37]。マーヤーが出産した子はシッダールタと名付けられた[33]。シャーキャの都カピラヴァストゥにて、釈迦はマーヤーの妹マハープラージャーパティによって育てられた[9][33][注釈 4]

釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけるが[要出典]、「教えることが無くなりました」と教師が辞任を申し出たという話があるほど聡明であったと言われている[38]。16歳または19歳で母方の従妹の[要出典]ヤショーダラーと結婚し、跡継ぎ息子としてラーフラをもうけた[9]

出家

釈迦在世時のインドでは沙門六師外道(外道は仏教側から見て「外道=仏教ではない」という意味である)といった修行者・哲学者が出現し、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派など様々な勢力が伝統的価値観とは異なる新思想運動を展開していた[39]。彼らにとって輪廻からの解脱は一つのテーマとなっていた。古代インドではバラモン教の教義(リグ・ヴェーダなど)と輪廻転生の概念が成立したが、輪廻転生の概念では、アブラハムの宗教のように人間のみを特別な生物だとして特別視するようなことはなく、死後にこの世界で生まれ変わったとしても人間以外の動物や家畜に生まれ変わることもあるとされた。そのため輪廻は苦をもたらすものだとして恐れられ、来世への恐怖感が生まれた。順世派唯物論的観点から輪廻転生を否定し、人は死ねばそれで終わりである、来世はない、わざわざ解脱の修行をしなくても生まれ変わらないのだから解脱修行の必要はないと説いた。

釈迦が出家を志すに至る過程を説明する伝説に、四門出遊の故事がある[9]。釈迦が初めてカピラヴァストゥ城から外出したとき、最初の外出では老人に会い、2回目の外出では病人に会い、3回目の外出では死者に会い、この身には老いも病も死もある、との避けられない苦しみを感じた(四苦)[40]。4回目の外出では一人の沙門に出会い、老いと病と死にとらわれない違った生き方を知り、出家の意志を持つようになった[41]

なぜ私は、自らの法(ダルマ)を有する者でありながら生まれるものを求め、

自ら老の法を有する者でありながら老いるものを求め、

自ら病の法を有する者でありながら病めるものを求め、

自ら死の法を有する者でありながら死ぬものを求め、

自ら憂いの法を有する者でありながら憂いを求め、

自ら煩悩の法を有する者でありながら煩悩を求めているのだろうかと。[42][43]

釈迦は王族としての安逸な生活に飽き足らず、また人生の無常を痛感し、人生の真実を追求しようと志して29歳で出家した[9][43]。ラーフラが産まれて間もない頃、深夜に釈迦は王城を抜け出した[9]。当時の大国であったマガダ国ラージャグリハを訪れ、ビンビサーラ王に出家を思いとどまるよう勧められたがこれを断った[9]。また、バッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天界(デーヴァローカ)に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天界の幸いも尽きればまた六道輪廻すると悟った(天人五衰も参照)[44]。釈迦は、次に教えを受けたアーラーラ・カーラーマの境地(無所有処定)およびウッダカラーマ・プッタの境地(非想非非想処定)と同じ境地に達したが、これらを究極の境地として満足することはできず[9]、またこれらでは人の煩悩を救ったり真の悟りを得ることはできないと覚った。この三人の師は釈迦の優れた資質を知って後継者としたいと願ったが、釈迦はこれらのすべては悟りを得る道ではないとして辞し、彼らのもとを去った[45][44][9][46]

6年の苦行の後に山から出てくる釈迦を表した像。室町時代の15世紀から16世紀の作。奈良国立博物館蔵。

そしてウルヴェーラーヒンディー語版の林へ入ると、父のシュッドーダナは、釈迦の警護も兼ねて五人の沙門(のちの五比丘)を同行させた。その後6年の間に様々な苦行を行った[9][46]断食修行でわずかな水と豆類などで何日も過ごした[45]。断食修行によりシッダールダの心身は消耗し、骨と皮のみのやせ細った肉体となっていた[45]

私はこれらの辛い苦行によっても、人法を超えた聖なる智見殊勝を証得しなかった。菩提のためには、別の道があるのではないだろうか。[45]

しかしスジャーターの施しを得たことで(乳粥供養)、過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟って釈迦は苦行をやめた(苦行放棄[9][45]。その際、五人の沙門は釈迦を堕落者と誹り[45][9][46]、彼をおいて ワーラーナシーサールナート[要出典]去った[9]

悟り

ブッダガヤの大菩提寺ゴータマ・ブッダの菩提樹

釈迦は、悟りを開く直前に悪神マーラによる様々な誘惑を受けたが、それをすべて退けた(降魔成道)[9]

釈迦は、ガヤー(現在のガヤー県内)の近くを流れるナイランジャナー川英語版沐浴したあと、村娘のスジャーターから乳糜布施を受け[11][9]、体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想に入り、悟りに達してブッダとなったとされる(成道)[9]。悟り得た釈迦は六神通を体得した。

解脱したとき、「解脱した」という智が生じました。
「生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされた。(漏尽通によって)もはや二度と生まれ変わることはない」と了知したのです。[45]

この後、釈迦は宿命通で自身の過去世を回想し、7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの余韻を味わった。そののち縁起十二因縁を悟ったといわれる。8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わったという。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかを考えた[47]。その結果、この真理は世間の常識に逆行するものであり、「を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至り、余命を放棄しそのまま涅槃に入ることも考えた[48][42][45]

ところが最高神ブラフマー梵天)が現れ、衆生に法を説くよう繰り返し強く請われたとされる(梵天勧請[45][42][48]。3度の勧請の末[48]、釈迦は世の中には煩悩の汚れも少ない者もいるだろうから、そういった者たちについては教えを説けば理解できるだろうとして開教を決意した[42]

五比丘

釈迦はまず、修行時代のかつての師匠のアーラーラ・カーラーマウッダカ・ラーマプッタに教えを説こうとしたが、二人はすでに死去していたことを知ると[49][46]、ともに苦行をしていた五人の沙門(五比丘)に説くことにした[49][46]

ワーラーナシーのサールナートに着くと、釈迦は五人の沙門に対して中道四諦八正道を説いた(初転法輪[49][9][48][46]。五人は当初、釈迦は苦行を止めたとして蔑んでいたが[49][46]説法を聞くうちに解脱した[49][9]。最初の阿羅漢コンダンニャであった[49][48]。法を説き終えた結果、世界には6人の阿羅漢が存在した[49]

釈迦は無我を説き、常一主宰なを否定した上で(肉体があればこそ意識があるのであり、死後肉体が滅んでも霊魂は不滅であるという考えを否定した上で)、業(カルマ)に基づき輪廻転生すると説いた[50]。その理論を前提として釈迦が目指したものは「輪廻からの解脱を達成し、死後に天界を含めて一切皆苦のこの世界で二度と生まれ変わらないこと」だったというのが宗教学上の通説である[51][52](詳しくは大乗非仏説参照)。大乗非仏説では浄土往生は後世に後付けされた教義と捉える。佐々木閑は「この世を一切皆苦ととらえ、輪廻を断ち切って涅槃に入ることで、二度とこの世に生まれ変わらないことこそが究極の安楽だと考えた」と説明している[53]。釈迦の教えは輪廻からの解脱を望む人々のための教えで、一切衆生の救済を対象とするものではなかった[54]。在家信者とサンガ(僧伽)の関係については、在家信者らは解脱という高尚な目標のために邁進するサンガ(僧伽)に布施をして善業の果報による良い輪廻転生を期待し、サンガは在家信者からの布施を受けて輪廻からの解脱に専念するというギブアンドテイクの関係にあった[55]

中阿含経』(上座部では小マールキヤ経)の「毒矢のたとえ」などの記録をもとに「釈迦は来世について沈黙した(無記)」と説明されることもあるが、清水俊史は来世の質問に釈迦が答えなかったのは相手を混乱させないため、または来世への執着につながり解脱と入涅槃の妨げになると考えたためで「来世について沈黙した」というのは誤った解釈であると説明している。清水は『火ヴァッチャ経』などの記述を元に、一切の衆生は死後転生するが、解脱したのち死を迎え涅槃に入った者(修行完成者、如来)は二度と生まれ変わらないので来世はない、というのが釈迦の真意であると論じている[56]。釈迦は、業(カルマ)によって輪廻転生するのは自然法則の一部であり、欲や執着を絶って輪廻の原動力である業を生み出さなければ転生しないという、極めて科学的な解釈をしていた[55]。釈迦は無我説を否定する教説である常見(人生は一度限りだが霊魂は不滅であるとする見解)・断見(出家し、欲や執着を絶って解脱涅槃に入らなくても、人は死ねば二度と生まれ変わらないとする見解)は、悪見であると批判した。

開教に際しての、バラモンの神ブラフマーが釈迦に教えを請うた梵天勧請の故事については「天界の神々よりも真理体得者のブッダの方が上位に位置する」、「天界の神々も衆生であって不死ではなく(天人五衰参照)、死後どのようになるか分からないので、輪廻からの解脱を望んでいる」のだと仏教側からは説明された(古代インドでは死後何処に、何の生物に転生するか分からないという来世への恐怖から解脱を望む、という感情があった)。大乗仏教の教義にも引き継がれているが、釈迦はこの世界や輪廻転生の摂理は因果によって生じたのであり天界の神々の存在は認めるが(他宗教で例えるならばヤハウェのような)世界の創造者絶対者)はいないと釈迦は説いた[57]

繰り返し行われる(ジャーティ)はである。

ビンギヤが尋ねた。

「私は年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。眼もはっきりしませんし、耳もよく聞こえません。私が迷ったまま死ぬことのないようにして下さい。どうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることができるのですか。その理(ことわり)を説いてください。それを私は知りたいのです。」

師(釈迦)は答えた 「ビンギヤよ。物質的な形態があるが故に人々は害され、物質的な形態があるが故に人々は病などに悩まされる。ビンギヤよ。それ故に、あなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態に戻らないようにせよ。」

「四方と上と下と、これらの十方の世界において、あなたに見られず、聞かれず、考えられず、また認識できないものもありません。どうか理法を説いてください。それを私は知りたいのです。─どうしたらこの世において(輪廻転生せず)生と老いとを捨て去ることができるかを。」

師は答えた 「ビンギヤよ。人々は妄執に陥って苦悩を生じ老いに襲われているのをあなたは見ているのだから、それ故にビンギヤよ、あなたは怠ることなく励み妄執を捨てて再び迷いの生存状態に戻らないようにせよ。」

スッタニパータ』彼岸に至る道の章、Piṅgiyamāṇavapucchā[59]

教化と伝道

ラージャグリハ霊鷲山
ラージャグリハ竹林精舎

釈迦は自らブッダ(目覚めた者)を名乗り、主に北インドを中心として教化活動を行った。釈迦の説く法は自ら悟り得たもので「私に師はいない」と釈迦は称した。現在ではブッダは釈迦の固有名詞のように捉えられているが、本来の意味合いとしては真理体得者(悟りを得た者)の称号の一つでありジャイナ教マハーヴィーラも「ブッダ」と呼ばれていた(ただし仏教側はマハーヴィーラをブッダとは認めていない)。

バラモンのセーラは言った。「あなた(釈迦)は見るも美しい修行者(比丘)で、その皮膚は黄金のようです。このように容色が優れているのに、どうして求道者となる必要がありましょうか。あなたは転輪聖王(世界を支配する帝王)になって全土(インド全土)の支配者となるべきです。クシャトリヤや地方の王どもは、あなたに忠誠を誓うでしょう。ゴータマ(釈迦)よ。王の中の王として、人類の帝王として、統治をなさってください。」

師(釈迦)は答えた、「セーラよ。私は王だが、真理の王である。真理によって法輪を回すのである。」

セーラは言った。「あなたは目覚めた者(ブッダ)であると、みずから称しておられます。ゴータマ(釈迦)よ。あなたは「真理の王」だと説いておられます。では誰があなたの将軍なのですか? 師の相続者である弟子は誰ですか?あなたが回された法輪を、誰があなたに続いて回すのですか?」

師(釈迦)が答えた。「セーラよ。私が回した輪、すなわち無上の法輪はサーリプッタが回す。私は、知らねばならぬことをすでに知り、修むべきことをすでに修め、断つべきことをすでに断った。それ故に、私は目覚めた者(ブッダ)である。
スッタニパータ』大いなる章、Sela Sutta(抄)[60]

宗勢の拡大

ナーガに守護されるブッダ

釈迦はワーラーナシーの長者ヤシャスやカピラヴァストゥのプルナらを教化した。その後、ウルヴェーラ・カッサパナディー・カッサパガヤー・カッサパの3人(三迦葉)は釈迦の六神通を目の当たりにして改宗した[61]。当時、この3人はそれぞれがアグニを信仰する数百名からなる教団を率いていたため、信徒ごと吸収した仏教教団は1000人を超える大きな勢力になった。

釈迦はマガダ国の都ラージャグリハに行く途中、ガヤー山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって、あなた自身も、あなたたちの世界も燃えさかっている」と説き、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。

釈迦がラージャグリハに行くと、マガダ国の王ビンビサーラも仏教に帰依し、ビンビサーラは竹林精舎を教団に寄進した[61]。このころサーリプッタマウドゥガリヤーヤナ倶絺羅マハー・カッサパらが改宗した。

以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハを中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者がだんだんと帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため、様々な戒律が設けられるようになった。

サーンチーの仏教レリーフの父子相見の場面(紀元前1世紀頃)。紀元前の仏教では釈迦の偶像化が徹底的に忌避されたため、父王シュッドーダナは上を見上げて合掌しているが、釈迦の身体は一切描写されていない[62]。レリーフの詳細についてはen:Sanchi Stupa参照のこと。

これより後、最後の1年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、成道した釈迦は故郷に一度帰還したとされ、父王シュッドーダナと面会した(父子相見[63])。仏伝によれば、釈迦は六神通を使って空を飛ぶ、自分の分身を作り出すなどの奇跡を起こし、一族は皆、釈迦に恐れおののいたという[63]。故郷カピラヴァストゥへの釈迦の帰還によって、釈迦族の王子や子弟たちである、ラーフラアーナンダアニルッダデーヴァダッタ 、またシュードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国のカンマーサダンマ (kammāsadamma) や、ヴァンサ国コーサンビーなどである。成道後14年目の安居はコーサラ国のシュラーヴァスティー祇園精舎で開かれた。

このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aṅga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathurā)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (pañcālā)、ヴァンサ (vaṃsa) などの諸国に及んでいる。

舎衛城の神変・三道宝階降下

釈迦が40代の時のある同じ年に連続して起こしたとされる奇跡として、「舎衛城の神変」と「三道宝階降下」が著名である。

釈迦が40代の時のある年に、舎衛城で外道(仏教以外の沙門)から神通力による勝負を挑まれたため、六神通を使って大量の自分の分身を作り出す(千仏化現)、肩口から火炎を上げて足元から水流を放つ(双神変英語版)などの奇跡を釈迦は披露して見せ、外道らを退散させた(舎衛城の神変)。その後釈迦は亡き母の元を訪れることを思い付き、神足通を使って三十三天を訪れて、三十三天に転生していた母マーヤーと天界の神々に説法を行った。帰りは帝釈天が用意した豪華な階梯を使って地上に帰還した(三道宝階降下)、という内容である。

ブッダチャリタ』では三道宝階降下について以下のように記述される。

彼(釈迦)は三種の生存界(三有)を超えて、天に昇って行かれたが、それは母に利益を与え、彼女のために教えを説こうと思われたからである。こうして天に行かれた牟尼(釈迦)は天に住む母を知恵をもって教化しおわり、空中の神々の供養を受けたのちに、神々の世界からサンカーシュヤに降りられた。

パーリ仏典』では地上に帰還した際の経緯は次のように説明される。釈迦が天界から人間界のサーリプッタの元に帰る予定であると帝釈天インドラ)に告げると、帝釈天は見送りのもてなしとして天界と地上(人間界)を結ぶ豪華な階梯を用意させた。階梯は三種あり黄金製・銀製・瑠璃製のものがあった。釈迦は神足通を使わず階梯を使って帰還し、帝釈天梵天ブラフマー)、その眷属らが付き従った。釈迦は黄金の階梯、梵天は銀の階梯、帝釈天は瑠璃の階梯を使ってサンカーシュヤに降下したという[65]

釈迦が天界から地上(人間界)に帰還したとする日はラバブ・ドゥーチェン英語版(降臨祭)としてスリランカチベットタイなどで祝われている。

入滅までの1年間

釈迦の伝記の中で今日まで最も克明に記録として残されているのは、入滅前の1年間の事歴である。『パーリ仏典』収録の『大パリニッバーナ経』や、漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳などの記録である。

アーナンダよ。私はもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。たとえば古ぼけた荷車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らく私の身体も革紐の助けによってもっているのだ。[66]

シャーキャ国の滅亡

涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道はラージャグリハの竹林精舎から始められたといわれている。

プラセーナジットの王子ヴィドゥーダバが挙兵して王位を簒奪した。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトルを頼って向かったが、城門に達する直前に死んだ。

ヴィドゥーダバは即位後、即座にカピラヴァストゥの攻略に向かった。この時、釈迦はまだカピラヴァストゥに残っていた。釈迦は、故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァストゥは攻略された。 その後、このヴィドゥーダバも河で戦勝の宴の最中に洪水または落雷によって死んだ。

釈迦はカピラヴァストゥから南下してラージャグリハに着き、しばらく留まった。

自灯明・法灯明

釈迦は多くの弟子を従え、ラージャグリハから最後の旅に出た。アンバラッティカ(: ambalaṭṭhika)へ、ナーランダを通ってパータリ村(後のパータリプトラ)に着いた。ここで釈迦は在家信者に対して、仏法を拠り所として戒律(五戒)を遵守して生きれば、その果報として死後天界に転生(生天)すると説いた[67]。パータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を渡り、コーティ村に着いた。『ブッダチャリタ』では、釈迦一行は六神通の一つ神足通を使ってガンジス川を瞬間移動で渡河したという逸話がある[68]

次に釈迦は、ナーディカ村を訪れた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、人々に、三悪趣が滅し預流果の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして法の鏡の説法をする。次にヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処三学を説いた。やがてここを去ってベールヴァ(Beluva)村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。 この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、

修行者たちは私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別なく、ことごとく法を説いた。アーナンダよ、如来(修行完成者、釈迦本人を指す)の教法には教師の握り拳(ācariyamuṭṭhi、秘密の奥義)はない。[69]

と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。

アーナンダよ、あなたたちは、自らを灯明とし、自らを拠り所として、他のもの(añña)を拠り所としてはならない[69]

と訓戒し、また、「自らを灯明とすること・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、

ではアーナンダよ、修行者が自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?アーナンダよ、ここに修行者は、身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し(anupassī)、熱心につとめ(ātāpī)、明確に理解し(sampajāno)、よく気をつけていて(satimā)、この世界における欲と憂い(執着)を捨て去るべきである。[69]

として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。

これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。

余命を自ら捨てる決意

大パリニッバーナ経』と『ブッダチャリタ』では具体的に何の神通力によるものかは明記されていないが、釈迦は入涅槃にあたり、釈迦は死期を自ら定めたということになっている。それらの仏典によれば経緯は以下の通り。病から回復した釈迦の前に、かつて成道を妨害しようとした悪神マーラが再び現れた。マーラは釈迦の教化によって堕落した人間が減り、自らの領域が狭まることを恐れ「あなた様はこの世界で法を説いて回り、もうなすべき事は全てなした筈です。生に執着せず涅槃に入られたらいかがですか」と釈迦に入涅槃を勧めた。これに対して釈迦は余命(一説には釈迦は現世で善行をなしていたので一劫年の余命があったとも[70]、一方「一劫年」は経典の誤読とする説もある[71])を捨てる決意をし、釈迦はマーラに「慌てることはない、あと3か月もすれば私は涅槃に入るだろう」と答えた。釈迦が自ら余命を捨てたため大地で地震が起こり、アーナンダが何かの変事かと思い釈迦の元に駆け付けて理由を問うと、「私は自ら余命を捨てる決意をしたので地震が起きたのである」と答えたという[72][73]

鍛冶工チュンダの供養

やがて雨期も終わって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢に戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かった。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと六神通について説いた[74]

托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来(釈迦)のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagāma) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigāma)、アンバ村 (ambagāma)、ジャンブ村 (jāmbugāma)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (pāvā) に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。釈迦は、ここで鍛冶工のチュンダのために法を説き供養を受けたが、チュンダが供した料理を食した釈迦は激しい腹痛に見舞われた。

鍛冶工のチュンダのささげた食物を召して、死に至る激しい病に罹られた。下痢をしながらも師(釈迦)は言われた。「私はクシナガラへ行こう」と。

腹痛の原因は「スーカラ・マッタヴァ」という料理だったが『大パリニッバーナ経』ではそれが何の料理だったかについて具体的な説明はない。上座部仏教で最も権威ある仏典注釈者のブッダゴーサは「若すぎず老いすぎない上等な野豚の生肉である」と注釈を付けている[76]宇井伯寿はキノコ料理説を提示している[77]。かつては、鍛冶工チュンダは貧しい貧民であり供された供物も粗悪なものだったので食中毒を発症したという説が存在したが、現代の研究では鍛冶工はカーストの下位に属するものの『大パリニッバーナ経』に「チュンダはマンゴー林を所有していた」という記述が見られることから、チュンダは貧民ではなく富裕層に属すると解されるのが一般的である[78]

釈迦は「スーカラ・マッタヴァを完全に消化できるのは、修行完成者(釈迦)の他にいない。人間を含む全ての生物や天の神々でも消化できる者を見出すことはできない」と説き、残ったスーカラ・マッタヴァを他の者は食べずに、地面に穴を掘って埋めるよう指示した[79]

現代人の感覚から見れば「釈迦は食中毒で死去した」と受け止められる。しかし上座部仏教徒は、釈迦の直接の死因は釈迦が悪神マーラとの対話の中で自ら余命を放棄したことによるもので、余命の放棄で生命力が減退していたために食中毒を発症したという、食中毒はあくまで二次的な死因と解釈している[80]

入滅

涅槃

激しい腹痛に見舞われた釈迦だったが歩みを止めることなく、カクッター河で沐浴したのちマッラ国クシナガラへ向かった。釈迦はクシナガラで自らの最期が近いと覚り、この地で入滅する決意を固めた。アーナンダは「尊師(釈迦)は小さな町で入滅してはなりません。尊師は王舎城のような大都市でお亡くなりになってください。そうした大都市には裕福な王族、裕福なバラモン、裕福な資産者がおり修行完成者(釈迦)を崇拝しています。彼らは修行完成者の遺骨を崇敬の対象にすることでしょう」と進言したが、釈迦は「そのような(クシナガラを蔑視する)発言をしてはならない」と戒めた[81]

釈迦は、チュンダが「修行完成者(釈迦)を死に追いやった悪業の報いが必ず自分に降りかかる」という恐怖にかられている可能性を考慮し、アーナンダに「修行完成者(釈迦)はスーカラ・マッタヴァを食して涅槃に入った(輪廻からの解脱を達成した)。よってチュンダには大いに功徳がある」とチュンダに伝えるよう指示した[82]

釈迦はクシナガラ近くのヒランニャバッティ河のほとりへ行って横たわり、そこで入滅して涅槃に入った。80歳であった。佐々木閑は釈迦の説く涅槃の意味合いについて「解脱し悟りを開いた者(修行完成者)だけが到達できる特別な死であり、二度とこの世に生まれ変わることのない完全なる消滅を意味する」と説明している[83]。『ブッダチャリタ』では涅槃に入った釈迦について「地上においては老・死の恐怖はなく、天上においては天界から落ちる恐怖(天人五衰)はない。(中略)生があれば不快が生じる。再び輪廻に生まれないことによる非常な快以上の快はない。」と述べている[84]

悲しむなかれ、嘆くなかれ、アーナンダよ。私は説いていたではないか。最愛で、愛しい全ての者たちは、離ればなれになり、別離する運命ではないかと。[85][86]

アーナンダよ、あなたたちのために私が示し定めた「」が、私の滅後は、あなたたちの師である。[85]

釈迦の最期の言葉は以下であった。

さあ修行者たちよ、いまあなたたちに伝えよう。
全ての事象は変わり過ぎ去るものである(諸行無常)。怠ることなく修行を完成させなさい。[85]

滅後

サーンチーの仏教レリーフ。七大国の大軍に包囲されるクシナガラ。レリーフの詳細についてはen:Sanchi Stupa参照のこと。

釈迦の滅後、その遺骸はマッラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた七大国の王たちは、釈迦の遺骨(仏舎利)を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。そのため七大国の王たちは軍勢をクシナガラに差し向け、クシナガラは大軍に包囲されたが[87]、ドーナ(dona、香姓。独楼那、徒盧那とも[88])というバラモンの調停を得て仏舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てたという。

その八大国とは、

  1. クシナガラのマッラ族
  2. マガダ国のアジャタシャトゥル王
  3. ベーシャーリーのリッチャビ族
  4. カピラヴァストゥシャーキャ族
  5. アッラカッパのプリ族
  6. ラーマ村のコーリャ族
  7. ヴェータデーバのバラモン
  8. バーヴァーのマッラ族

である。

弟子たちは釈迦の遺した教えと戒律に従って跡を歩もうとし、何度か結集を行い釈迦の教法と律とを口伝で伝世させた。それらが文字化されたものが『パーリ仏典』や『阿含経典』群であるとされる。

生涯についての歴史学的検証

釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の原資料の確定が困難で、一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。

阿含経典群のうち、いずれが古層であるかについて、中村元パーリ仏典の『スッタニパータ』の韻文部分が恐らく最も成立が古いとし[89]、日本の学会では大筋においてこの説を踏襲している。

文献

釈迦の生涯を伝える経典

注:以下〔大正〕とは、大正新脩大蔵経のことで、続く数字は巻数とページ数である。

  • 修行本起経 〔大正・3・461〕
  • 瑞応本起経 〔大正・3・472〕 - これらは錠光仏の物語から三迦葉が釈尊に帰依するところまでの伝記を記している。
  • 過去現在因果経 〔大正・3・620〕 - 普光如来の物語をはじめとして舎利弗、目連の帰仏までの伝記。
  • 中本起経 〔大正・4・147〕 - 成道から晩年までの後半生について説く。
  • 仏説衆許摩房帝経 〔大正・3・932〕
  • 仏本行集経 〔大正・3・655〕 - これらは仏弟子の因縁などを述べ、仏伝としては成道後の母国の教化まで。
  • 十二遊経 〔大正・4・146〕 - 成道後十二年間の伝記。
  • 方広大荘厳経(普曜経) - これらは大乗の仏伝としての特徴をもっている[要出典]
  • 仏所行讃 〔大正・4・1〕(梵:Buddha-carita) 馬鳴
  • マハーヴァストゥ
  • 遊行経 『長阿含経』中
  • 仏般泥洹経 白法祖訳
  • 大般涅槃経 法賢訳 - 以上3件は、釈尊入滅前後の事情を述べたもの。
  • 自説経(ウダーナ)』 - パーリ語による仏典[注釈 5]
アショーカ王の建てた石柱には、ブラーフミー文字で『ブッダ生誕地なのでルンビニでは税を免除する』と刻まれている。

遺跡

ルンビニ

1868年、ドイツ人の考古学者アロイス・アントン・フューラー英語版ネパールの南部にあるバダリアで遺跡を発見した。そこで出土した石柱には、ブラーフミー文字で、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれており、同地が仏教巡礼の八大聖地のひとつ、釈迦の生誕地ルンビニだとわかった。

カピラヴァストゥ

シャーキャの都であり釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、法顕が5世紀に、玄奘が7世紀に訪れてそれについて書いたように、釈迦の死後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。だがその後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教イスラム教にとってかわられ、釈迦のことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった。

ネパール中南部のティロリコート英語版と、インド側ではネパールとの国境に近いウッタル・プラデーシュ州バスティ県のピプラーワー英語版の両遺跡がカピラヴァストゥと推定され、ネパール側とインド側で、位置を巡って論争になっている。

1898年にイギリス駐在官W・C・ペッペが、ピプラーワーから、「ガウタマ・シッダールタの遺骨及びその一族の遺骨」であると書かれた壺を発掘した。ペッペが発見した遺骨の壺は、現在では真の仏舎利として最も信憑性があるとされている[90]。この壺は当時のイギリス領インド政府からタイ王室に譲り渡され、仏舎利の一部は日本では覚王山日泰寺に納められている[91]

生没年

釈迦の没年は、アショーカ王の即位年(紀元前268年ごろ)を基準に推定されている。しかし、釈迦の死後何年がアショーカ王の即位年であるかは典拠によって違いがあり、特に北伝仏教南伝仏教経典で100年以上の差があるが、いずれが正確であるかを具体的に確認する術はない[注釈 6]

宇井伯寿中村元は北伝仏教の経典に基づき、タイスリランカなど東南アジア・南アジアの仏教国や欧米の学者の多くは南伝仏教の経典(パーリ経典)に基づいて没年を推定している。一方、『大般涅槃経』その他いずれの典拠においても釈迦が80歳で死去したとする記述は共通しているため、没年を決定できれば自動的に生年も導けることになる。

主な推定生没年は、

等があるが、他にも様々な説がある[注釈 7]

考古学による調査結果からの推定もあり、2013年にルンビニで紀元前6世紀の仏教寺院の遺構が見付かったと報道された[94]。この遺構の年代が正確であれば、釈迦は遅くとも紀元前6世紀またはそれ以前に存命していたことが確実となり、釈迦の生年を紀元前5世紀とする宇井説や中村説は否定されることになる。ただし、問題の遺構は必ずしも仏教寺院のものとは限らないとする反論もある[95]

釈迦は何語で話していたのか

釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、紀元前7~5世紀頃のインド北部(現在のビハール州マガダ地方)で生まれたため、主にマガダ語(Magadhi Prakrit)というプラークリット語の方言を話していたと考えられている。

これは、当時の東部インドの一般的な口語で、サンスクリット(古典語)とは異なり、庶民的な言語であった。

釈迦の教えは多様な聴衆に届けるため、地方の方言を使い分けていた可能性もあるが、経典の記述からマガダ語が本人の母語とされている。

背景と証拠

  • 言語環境: 釈迦の時代はヴェーダ語(サンスクリットの祖語)とプラークリット語(口語)が並存。釈迦は王族だが、庶民に近いマガダ語を使い、教えを平易に伝えたとされる。パーリ語(経典の保存言語)は後世の標準化版で、釈迦の口語に近いが、釈迦自身が話したわけではない。
  • 経典の記述: 『マハーパリニッバーナ・スッタ』(長部経典)で、釈迦は死の床で「私の言葉はマガダ語で伝えた」と示唆。後世の注釈書(アッタカター)でもマガダ語が釈迦の言語とされる。
  • 学説: 学者(例: エドウィン・アーノルドの研究)では、マガダ語が釈迦の自然な話し言葉で、パーリ語はスリランカでの経典編纂(紀元前1世紀)で標準化されたものとされる。

釈迦の教えは口承で伝えられ、言語の違いを超えて普遍的に広がった。

評価

上座部仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。一方大乗仏教では三身説をとり、姿・形をもたない宇宙の真理たる法身仏、有始・無終の存在で衆生を救う仏である報身仏(人間に対する方便として人の姿をして現れることもある)に対して、応身仏である釈迦は衆生を救うため人間としてこの世に現れた仏であると説明される。

他宗教

釈迦の死後、インドで仏教とヴェーダの宗教は互いに影響を与え、ヴィシュヌ派プラーナ文献に釈迦はヴィシュヌアヴァターラとして描写されている。ただし、ヴェーダを否定した釈迦は、神の化身とはいえ、必ずしも肯定的な評価ではない。

この件に関して、20世紀新仏教運動を興したアンベードカルはヴィシュヌ派による釈迦の扱いを「偽りのプロパガンダ」と呼んで非難している[96]。一方で、新ヴェーダーンタ学派英語版サルヴパッリー・ラーダークリシュナンは、『法句経』を英訳した際の註釈で、釈迦の思想が極端に誇張されて伝わったのは当時とそれ以降の時代背景のせいで、釈迦の思想はウパニシャッドから派生したもの、と評価している[97]。なお、インド憲法でも仏教はシク教・ジャイナ教と並んでヒンドゥー教の分派のひとつとして扱われている[98]

マニ教の開祖であるマニは、釈迦を自身に先行する聖者の一人として認めたが、釈迦が自ら著作をなさなかったために後世に正しくその教えが伝わらなかった、としている。

マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロの体験を記録した『東方見聞録』においては、釈迦の事を「彼の生き方の清らかさから、もしキリスト教徒であればイエスにかしずく聖人になっていただろう」[99]あるいは、「もし彼がキリスト教徒であったなら、きっと彼はわが主イエス・キリストと並ぶ偉大な聖者となったにちがいないであろう」[100]としている。また『東方見聞録』の記述では仏教という言葉は無く、アブラハムの宗教以外の宗教は全て「偶像崇拝教」と記述されているが、その偶像崇拝の起源は、釈迦の死後にその生前の姿を作ったのものとしている。釈迦はマルコ・ポーロの時代より1世紀前に、ローマ教会よりヨサファトの名で聖人として加えられていた(仏教とキリスト教)が、マルコ・ポーロはそんな事はまったく知らなかった[101]

釈迦の像

多種多様な仏像を祀る大乗仏教偶像崇拝という印象もあるが、紀元前の仏教では反偶像主義の立場がとられ、ムハンマドの表象のように開祖の釈迦を像や絵画として描写することが忌避されていた[102]サーンチーの仏教レリーフでは釈迦を描写することが徹底的に忌避され、場面的に釈迦が登場せざるを得ないシーンでも法輪や聖樹に置き換えて表現するなどの対応がとられている[103]。例えば『パーリ仏典』や『ブッダチャリタ』などに記録される、舎衛城の神変で 肩口から火炎を上げて足元から水流を放ったという奇跡(双神変英語版)を釈迦が披露した場面や、成道した釈迦が父の浄飯王に再びまみえ六神通で釈迦が空中に浮遊した場面(父子相見[63])などでも、釈迦の身体は一切描写されていない[104]。釈迦の描写が忌避された理由については「私の死後は私の説いた法を拠り所にすべきであって、私自身を信仰の対象にしてはならない」という釈迦の遺言に基づいていたなど諸説ある[105]。釈迦の図像化はガンダーラ仏の出現によって忌避されるものではなくなり、多種多様な仏像が造像されるようになり今日に至っている[106]

釈迦を題材にした作品

小説

漫画

アニメ

ゲーム

映画

実写ドラマ

写真

音楽

演劇

脚注

注釈

  1. ^ 名の漢訳は悉達多のほかに悉多もある[9]
  2. ^ ブッダの尊称を漢訳したのが「覚王」である(覚王山日泰寺の名称の由来ともなった)。
  3. ^ シャーキャ族が当時住んでいた地域は、現代ではネパールに属する[9]
  4. ^ 当時は姉妹婚の風習があり[33]、マハープラージャーパティはシュッドーダナの後妻となった[9]
  5. ^ 日本語訳:小部経典3:ウダーナ
  6. ^ 南北両伝の間には約100年の違いがあるが、これを会通し、万人を納得せしめる結論を導き出すことは、現在としては不可能である。[92]
  7. ^ 仏滅年代論については異説が極めて多く、100種以上ある[93]

出典

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  4. ^ 仏滅紀元
  5. ^ 現在のネパール領も含む広義の「北インド」
  6. ^ 佐々木閑『ブッダ 最期のことば』NHK出版 2016年、p22-24
  7. ^ 佐々木閑『いかにして多様化したか 部派仏教の成立』NHK出版 2025年、p85-86
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  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 総合仏教大辞典 1988, p. 595-599.
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  11. ^ a b 大島宏之 『宗教のしくみ事典―教えから歴史・系譜・宗派まで早わかり』 日本実業出版社、1999年、ISBN 4534029098、44-45頁。
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    Ananda, Sakyamuni's cousin and attendant, was also called Gotama, and Mahāpajāpatī, his aunt and foster mother, was called Gotamī (a female member of Gotama clan).
    Māyā was called Gotami (Therag. 535)
  16. ^ テーラガーター 535.
    Sā gotamī kālakatā ito cutā, dibbehi kāmehi samaṅgibhūtā;
    Sāmodati kāmaguṇehi pañcahi, parivāritā devagakhehi tehi.
  17. ^ en:Paul Carus, The Gospel of Buddha, Compiled from Ancient Records, p. 281, - Google ブックス
    Pajāpatī, p., Prajāpatī or Mahā-Prajāpatī, skt., the sister of Māyā-devī, second wife of Shuddhodana, aunt and fostermother of Buddha. She is also called by her husband's family name Gotami (feminine form of Gotama).
  18. ^ The Life of Buddha as Legend and History, p. 23, - Google ブックス
  19. ^ 岩本裕, 仏教の内相と外相, p. 207, - Google ブックス
    佛伝文学によると,幼少時代の名をシッダールタといったと伝えられ,漢訳佛典では悉達とか悉達多などの写音が見られるが,この名は「目的を達成した人」という意味であるので,恐らくは後世の命名であると考えられる。
  20. ^ 春日井真也, インド仏教文化の学際的研究, p. 199, - Google ブックス
    またシッダールタ(悉達多)は釈尊の個人名であったと一般に伝えられているが、それは「目的を達成せる」「義を成した」という意味であるが、古い聖典にはこの名は現れて来ないので、後代の信者達が奉った尊称ではないかという疑いをもたれるのである。
  21. ^ 岩波仏教辞典第2版 1989, p. 702.
  22. ^ 以下ではブッダの音写として、佛陀、浮陀、浮圖、浮頭、勃陀、勃馱、部陀、母陀、没馱が、意訳として覺者と智者が挙げられている。
  23. ^ 「如来」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)
  24. ^ Damien Keown (2004). A Dictionary of Buddhism. p. 296. https://books.google.co.jp/books?id=985a1M7L1NcC&pg=PA296. "The term can mean either 'one who has thus come' or 'one who has thus gone'." 
  25. ^ 総合仏教大辞典 1988, p. 1124.
  26. ^ 音写は多陀阿伽度の他に多陀阿伽陀と怛他蘖多がある。
  27. ^ a b 「世尊」 - デジタル大辞泉
  28. ^ a b 玄奘大般若波羅蜜多経』。「今正是時。隨汝意往。即以千莖金色蓮花。其花千葉衆寶莊嚴。授普光菩薩而誨之言。汝持此花。至釋迦牟尼佛所。
    時彼十方殑伽沙等諸佛世界一切有情。尋佛光明。亦見此土釋迦牟尼如來應正等覺。」
     
  29. ^ 万仞道坦『禪戒鈔』。「我大師釋迦牟尼佛陀付授摩訶迦葉。迦葉付阿難陀。乃至嫡嫡相授既幾世到堂頭和尚。」 
  30. ^ 鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』。「善哉善哉。釋迦牟尼世尊 (sādhu sādhu bhagavan śākyamune)。能以平等大慧教菩薩法佛所護念妙法華經爲大衆説。」 
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参考文献

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