高橋是清 高橋是清の概要

高橋是清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 06:29 UTC 版)

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高橋 是清
たかはし これきよ
肖像
生年月日 1854年9月19日
嘉永7年7月27日
出生地 日本 武蔵国江戸芝中門前町
(現:東京都港区芝大門
没年月日 (1936-02-26) 1936年2月26日(81歳没)
死没地 日本 東京府東京市赤坂区
(現:東京都港区赤坂
出身校 ヘボン塾
(現:明治学院大学
前職 武士仙台藩士
官僚
所属政党 立憲政友会
称号正二位
大勲位菊花大綬章
子爵(1924年隠居)
配偶者 高橋里ゆう(先妻)
高橋品子(後妻)
子女 高橋是賢(長男)
高橋是福(次男)
大久保和喜子(二女)
親族 高橋賢一(孫)
サイン

内閣 高橋内閣
在任期間 1921年11月13日 - 1922年6月12日
天皇 大正天皇

第33代 大蔵大臣
内閣 岡田内閣
在任期間 1934年11月27日 - 1936年2月26日

内閣 犬養内閣
在任期間 1932年5月16日 - 1932年5月26日
天皇 昭和天皇

第31代 大蔵大臣
内閣 犬養内閣
齋藤内閣
在任期間 1931年12月13日 - 1934年7月8日

第28代 大蔵大臣
内閣 田中義一内閣
在任期間 1927年4月20日 - 1927年6月2日

その他の職歴
初代 農林大臣
1925年4月1日 - 1925年4月17日
初代 商工大臣(農相兼任)
(1925年4月1日 - 1925年4月17日)
第21代 大蔵大臣
1918年9月29日 - 1922年6月12日
第16代 大蔵大臣
1913年2月20日 - 1914年4月16日
衆議院議員
1924年5月10日 - 1928年1月21日
貴族院議員
1905年1月29日 - 1924年3月24日
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立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任: 1921年大正10年〉11月13日 - 1922年〈大正11年〉6月12日)。栄典正二位大勲位子爵幼名和喜次わきじ。近代日本を代表する財政家として知られ、総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。愛称は「ダルマさん」。

生涯

1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)幕府御用絵師川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)に生まれた。きんの父は芝白金で代々屋を営んでいる三治郎という人で、家は豊かであったが、妻と離別していたので、きんは中門前町のおばのところへ預けられたこともあり、行儀見習いのために川村家へ奉公していた。庄右衛門の妻は庄右衛門の手が付き身重になったきんに同情し、こっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させ、ときどき見舞って世話をしたという[1]。是清は生後まもなく仙台藩足軽高橋覚治の養子になる。

その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾であるヘボン塾(現・明治学院大学)にて学び、1867年慶応3年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リード[2]によって学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先である彼の両親に騙され年季奉公[3]の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られる。牧童や葡萄園で奴隷として扱われるが、本人は奴隷になっているとは気づかずに、キツイ勉強だと思っていた[注釈 1]。いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。この間、英語の会話と読み書き能力を習得する。

1868年明治元年)、帰国する。帰国後の1873年(明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現・開成中学校・高等学校)の初代校長をも一時務めた。教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。その間、文部省農商務省(現・経済産業省および農林水産省)の官僚としても活躍、1884年(明治17年)には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。1889年(明治22年)、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗。1892年(明治25年)、帰国した後にホームレスとなるが、川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行。

日露戦争 (1904 - 1905) が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役深井英五を伴い、戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国のイギリスに向かった。投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、同盟国英国が建前として局外中立の立場で公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念があった。それに対し、高橋は、

  • この戦争は自衛のためやむを得ず始めたものであり日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存である。
  • 支払い能力は関税収入である(1986年(昭和61年)完済)。当時の国家予算の60年分の借金で英露の代理戦争を担った。
  • 中立問題については米国の南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例がある。

と反論。関税担保において英国人を派遣して税関管理する案に対しては「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」と拒絶した。交渉の結果、当時香港上海銀行ロンドン支部長だったユーウェン・キャメロン英語版デーヴィッド・キャメロンの高祖父)らが公債発行に応じ[4]、さらにジェイコブ・シフなどニューヨークの人脈も外債を引き受け、公債募集は成功し、戦費調達が出来た。1905年(明治38年)、貴族院議員に勅選。1911年(明治44年)に日銀総裁に就任。

6度目の大蔵大臣(1934~36年〔昭和10~11年〕)

1913年大正2年)、第1次山本内閣大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第4代総裁となった。しかし高橋自身思わぬ総裁就任だったため、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。

政友会はその後も迷走し、清浦奎吾超然内閣が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した床次竹二郎らは政友本党を結成し清浦の支持に回った。一方高橋率いる政友会は、憲政会および革新倶楽部護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こした。これに対して清浦は衆議院解散に打って出た(「懲罰解散」)が、これにより告示された第15回総選挙に高橋は隠居して爵位を嫡男に襲わせた上で、原の選挙区だった盛岡の旧岩手1区から出馬することにした。爵位を譲ったのは有爵者には衆議院議員としての被選挙権がなかったためもあるが、清浦内閣を「貴族院内閣」「特権内閣」などと攻撃する手前、その総裁が子爵のままではやはり都合が悪かったこともその背景にある。政友会の現総裁として、盟友だった前総裁の選挙区から出馬したいというのは高橋たっての願いだったが、高橋は与党政友本党の対立候補田子一民に予想外の苦戦を強いられた。結局高橋は49票の僅差で当選を勝ち取り[5]、選挙は護憲三派の圧勝に終わった。清浦内閣はここに総辞職を余儀なくされる。

新たに総理大臣に就いた憲政会総裁の加藤高明は、高橋を農商務相に任命。

高橋と齋藤内府(右)
ともに滞米経験がある高橋と斎藤は、個人的に親しい友人でもあった。画像は1936年2月20日、斎藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。この六日後に両者は悲劇的な最期をむかえる(→ 詳細は「二・二六事件」を参照)。

その後、高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退するが、1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。

1931年(昭和6年)、政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止12月13日)・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額、時局匡救事業で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。(これより5年後にジョン・メイナード・ケインズが発表するケインズ政策の典型的な例と言われる。)五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任(5度目)。また1934年(昭和9年)に、共立学校出身に当たる岡田啓介首班の内閣にて6度目の蔵相に就任。当時、ケインズ政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく(出口戦略参照)軍事予算の抑制しようとした。陸海軍からの各4000万円の増額に対し、高橋は「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と述べていた[6]。軍事予算を抑制しようとしたことが軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発銃撃され、暗殺された。享年83(満81歳没)。葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に築地本願寺で営まれた。

年譜

渡米時代の高橋是清(写真右側)(1867年)
衆議院議員選挙に初当選後に撮影した家族との記念写真(1924年)

※日付は1872年まで太陰太陽暦

  • 1854年(嘉永7年)閏7月27日:江戸芝中門前町(現東京都港区)に幕府絵師川村庄右衛門の私生児として生まれ、間もなく仙台藩足軽高橋覚治の家に里子に出され後養子となる。
  • 1864年(元治元年):横浜ヘボン夫人家塾に学ぶ。
  • 1866年(慶応2年):イギリスシャンドボーイとなる。
  • 1867年(慶応3年):渡米しオークランド奴隷労働しながら勉強する。
  • 1869年(明治元年)旧暦12月:帰国し森有礼家の書生となる。
  • 1869年(明治2年)
    • 旧暦1月:大学南校に入学。
    • 旧暦3月:大学南校教官三等手伝。
  • 1870年(明治3年)秋頃:放蕩生活に入り教官を辞める。
  • 1871年(明治4年):唐津藩の英語学校耐恒寮の教員となる。この時の教え子に、辰野金吾曽禰達蔵、大島小太郎、天野為之掛下重次郎らがいる。
  • 1872年(明治5年)秋:耐恒寮の教員を辞めて上京する。駅逓寮で翻訳の仕事をするが間もなく辞職。開成学校に入学する。
  • 1873年(明治6年)7月:文部省督学局十等出仕としてモーレー博士の通訳をする。
  • 1876年(明治9年)5月:官立東京英語学校教員に雇われる。
  • 1877年(明治10年)3月:東京英語学校教員を辞める。翻訳・予備校(共立学校)教師などをする。
  • 1878年(明治11年)9月:東京大学予備門英語教員として雇われる。
  • 1881年(明治14年)
    • 4月:文部省御用掛に転じ東京大学予備門教員を兼務。
    • 5月:農商務省御用掛に転じる。
  • 1884年(明治17年)
    • 7月:任農商務権少書記官。
    • 10月:農商務省工務局商標登録所長。
  • 1885年(明治18年)
    • 4月:専売特許所長兼務。
    • 11月:商標登録専売特許制度視察のため欧米各国へ差遣。
  • 1887年(明治20年)12月:特許局長。
  • 1889年(明治22年)
  • 1890年(明治23年)
    • 1月:ペルーのカヤオ港着。
    • 2月:カラワクラ鉱山開坑式を行う。
    • 3月:鉱山が廃坑であることが分かる。
    • 4月:帰国の途に就く。
  • 1892年(明治25年)6月:日本銀行建築所事務主任。
  • 1893年(明治26年)9月:日銀支配役・西部支店長。
  • 1895年(明治28年)8月:横浜正金銀行本店支配人。
  • 1897年(明治30年)3月:横浜正金銀行副頭取に就任。
  • 1899年(明治32年)2月:日本銀行副総裁に就任。
  • 1904年(明治37年)2月 日露戦争始まる。戦時公債募集のため渡米英。
  • 1905年(明治38年)
    • 1月29日:貴族院勅選議員に勅任[8]
    • 2月:戦時公債募集のため再渡英。
  • 1906年(明治39年)3月:日本銀行副総裁のまま横浜正金銀行頭取を兼任。
  • 1907年(明治40年)9月:公債募集の勲功により男爵授爵。
  • 1911年(明治44年)6月:日本銀行総裁に就任。
  • 1913年(大正2年)2月:第一次山本内閣大蔵大臣に就任。立憲政友会入党。
  • 1914年(大正3年)4月:第一次山本内閣総辞職。
  • 1918年(大正7年)9月:原内閣の大蔵大臣に就任(2度目)。
  • 1920年(大正9年)9月:子爵陞爵。
  • 1921年(大正10年)11月:原総理暗殺により後継の内閣総理大臣に就任し、大蔵大臣を兼任(3度目)。政友会総裁となる。
  • 1922年(大正11年)6月:高橋内閣総辞職。
  • 1924年(大正13年)
  • 1925年(大正14年)4月:農商務省の分割再編にともない農林大臣商工大臣に横滑り。約2週間後両大臣を依願免職。政友会総裁を田中義一に譲る。
  • 1927年(昭和2年)
    • 3月:金融恐慌始まる。
    • 4月:田中義一内閣の大蔵大臣に就任(3度目)、3週間の支払猶予を認める緊急勅令渙発と大量の紙幣増発で恐慌を沈静化させる。
    • 6月:金融恐慌が終息したのを節目に大蔵大臣を依願免職。
  • 1931年(昭和6年)12月:犬養内閣の大蔵大臣に就任(4度目)。
  • 1932年(昭和7年)5月:犬養総理暗殺(五・一五事件)により内閣総理大臣を10日間臨時兼任。斎藤内閣の大蔵大臣に留任(5度目)。
  • 1934年(昭和9年)
    • 7月:斎藤内閣総辞職、岡田内閣発足。次官藤井真信を大蔵大臣に推す。
    • 11月:藤井が肺気腫で倒れ辞任、その後任として大蔵大臣に就任(6度目)。
江戸東京たてもの園に移築復元された高橋是清邸の母屋。この2階の寝室で暗殺された。
  • 1936年(昭和11年)2月26日:赤坂表町三丁目の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ、暗殺される(二・二六事件)。享年83(満81歳没)。



注釈

  1. ^ 英語のIndentured servantはslaveとは区別される存在であり、「年季奉公人」と和訳されることが多いが、日本古来の年季奉公とは意味が異なり、期間限定の奴隷に等しい。そのため奴隷、あるいは年季奴隷と和訳されることも多い。高橋是清のことを記した著作物でも、この時期の高橋を境遇を「奴隷」と記すものが多々見られる。

出典

  1. ^ 『高橋是清―財政家の数奇な生涯』7頁
  2. ^ (Eugene M. Van Reed)
  3. ^ (Indentured servant)
  4. ^ 日本の戦費調達を支援したのはキャメロン英首相の高祖父だった! 銀行家として高橋是清から真っ先に外債引き受け…” (2016年6月13日). 2019年10月6日閲覧。
  5. ^ 望月和彦「大正デモクラシー期における政界再編」2010年3月(『桃山法学 15』)
  6. ^ 大谷健『大蔵大臣の昭和史』ビジネス社、1986年、195頁。ISBN 4828402667
  7. ^ 『官報』第1712号「叙任及辞令」1889年3月18日。
  8. ^ 『官報』第6474号、明治38年2月1日。
  9. ^ 『官報』第354号「叙任及辞令」1884年9月1日。
  10. ^ 『官報』第740号「賞勲叙任」1885年12月17日。
  11. ^ 『官報』第5077号「叙任及辞令」1900年6月7日。
  12. ^ 『官報』第6480号「叙任及辞令」1905年2月8日。
  13. ^ 『官報』第174号「叙任及辞令」1913年3月1日。
  14. ^ 『官報』第2148号「叙任及辞令」1919年10月1日。
  15. ^ 『官報』第3646号「叙任及辞令」1924年10月16日。
  16. ^ 『官報』第2205号「叙任及辞令」1934年5月11日。
  17. ^ 『官報』第2747号「叙任及辞令」1936年3月2日。
  18. ^ 『官報』第1901号「叙任及辞令」1889年10月29日。
  19. ^ 『官報』第1935号「叙任及辞令」1889年12月9日。
  20. ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
  21. ^ 『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。
  22. ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
  23. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  24. ^ 『官報』第2431号「叙任及辞令」1920年9月8日。
  25. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  26. ^ 『官報』第128号「叙任及辞令」1927年6月4日。
  27. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  28. ^ 『官報』第2747号「叙任及辞令」1936年3月2日。
  29. ^ 『官報』第7437号「叙任及辞令」1908年4月15日。
  30. ^ 『官報』第2854号「叙任及辞令」1922年2月8日。
  31. ^ 『官報』第3560号「叙任及辞令」1924年7月5日。
  32. ^ 『官報』第3325号「叙任及辞令」1923年8月29日。
  33. ^ 大島清著『高橋是清―財政家の数奇な生涯』7-9頁






高橋是清と同じ種類の言葉


固有名詞の分類

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貴族院勅選議員 辻新次  鮎川義介  高橋是清  東郷茂徳  山崎延吉
第二次世界大戦前の日本の政治家 飯村丈三郎  斎藤隆夫  高橋是清  安井英二  板垣退助
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日本の官僚 (農商務省・商工省) 副島千八  和田敏信  高橋是清  山本重信  周東英雄
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