明治政府
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明治2年(1869年)1月東京に移り、集議院に出仕した。7月藩治職制改革のため帰藩した後、12月再び上京し、藩権大参事に就任した。明治3年(1870年)5月他の公議人と明治天皇に謁見し、9月藩制に係る任務のため帰藩した。明治4年(1871年)7月廃藩置県により上京し、11月長崎県設置により失職し、帰郷した。明治5年(1872年)3月長崎県九等出仕となったが、5月辞職した。 1873年(明治6年)1月長崎県第81大区(旧平戸城下)区長となり、郡中勧業掛・学区取締を兼ねた。8月第83大区で徴兵令反対一揆が起こると、権区長成田辰雄等と共に鎮撫に当たった。1874年(明治7年)2月佐賀の乱が起こると、県庁警備のため旧藩士卒を集めて2小隊を編成し、県庁に引き渡した。4月区長・兼務を辞任した。
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明治政府
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慶応4年(1868年)に江戸幕府が倒れると、同年1月から4月にかけて、明治政府によって長崎・京都・大阪・佐渡・新潟・箱館・神奈川・兵庫に裁判所が置かれた。各裁判所は5月から9月にかけて府に改組された(ただし佐渡・兵庫は県)。なお山田・奈良には裁判所を経ずに度会府・奈良県が設置された。また江戸には7月に江戸府が置かれ、9月に東京府に改称している。 明治2年(1869年)7月17日、府の名称は東京府・大阪府・京都府に限るとした太政官布告により、長崎府・度会府・奈良府(奈良県より改称)・新潟府(越後府より改称)・箱館府・神奈川府は県に改称された。そのうち長崎・京都・大阪・奈良(一時的に堺県に編入)・新潟・神奈川・兵庫の各府県は現在も存続しており、遠国奉行が事実上の前身に当たると言える。
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明治政府
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明治5年3月27日(1872年5月4日)、明治政府は、明治五年太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」により、江戸幕府や寺社が仏教の不邪淫戒(五戒の一つ)や儒教の「男女七歳にして席を同じゅうせず」(『礼記』内則)などを根拠として社会の多くの分野で過剰に徹底していた「女人禁制」を、欧米列強に伍していこう(肩を並べよう)としている近代国家には論外の差別(「陋習」)の一つであるとして禁止した。 この結果、「御一新」された「皇国」(明治日本)では、ほとんどの神社仏閣が過剰な「女人禁制」を解除することとなった。関所の廃止とも相俟って、外国人女性を含め女性も日本国内を自由に旅行・観光・参詣できるようになった。
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明治政府
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「侍 (スパイクのゲーム)」の記事における「明治政府」の解説
玉川 上水(たまがわ じょうすい) 声:江川大輔 明治政府工部省の役人。39歳。黒生家からの高炉買収を担当するが、その裏では軍を指揮し、高炉を含む六骨峠を武力で制圧しようとする。すべてのルートにおいて最後に相対することになる敵キャラクター。愛刀は金色の装飾が施された脇構えのサーベル「ニイタカヤマ」。 井ノ頭 茂吉(いのがしら もきち) 声:加藤将之 賄賂によってさまざまな悪行を見逃している汚職警官。35歳。「死刑」が口癖。戦闘では拳銃を使用する。『完全版』においては、政府役人に利用されて殺されるシーンが追加されている。 保世 大佐エ門(ほせ だいざえもん) 声:吉野貴宏 井ノ頭の手下。通称ホセ。怪力だが頭は弱い。もとは高炉作業員で、食い逃げをした際に自分を逮捕した井ノ頭を慕うようになった。武器は下段構えの巨大な鉄の棒「十六門(じゅうろくもん)」。 役人 玉川の部下。見た目のバリエーションは2種類存在する。体が大きいほうは体力が高い。 隠密 政府特務忍軍の忍者。いっさいの感情を破棄した機械のような存在。
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明治政府
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廃藩置県後帰京し、明治5年(1872年)清次と改称、3月4日博覧会事務局に出仕し、明治6年(1873年)ウィーン万国博覧会品物取扱として佐々井半十郎、中島仰山と静岡県、浜松県、額田県を巡り、各地の物産、生物等を調査し、10月4日帰京した。翌年の博覧会には、静岡県からは賤機織、竹網代細工、寄木細工等が出品された。 明治7年(1874年)3月31日人員削減のため一時罷免されたが、後内務省(後農商務省)御用掛として博物局(現東京国立博物館)に勤務した。 明治25年(1892年)11月5日76歳で死去した。戒名は清澄院浄誉徹心居士。墓石は杉並区梅里西方寺にあったが、現存しない。
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明治政府
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西郷隆盛 (西郷吉之助 → 西郷隆盛) 演:吉川晃司 薩摩出身の陸軍大将で、明治維新の原動力。 藩主・島津斉彬に重用され、江戸や京都で政治工作に従事する。 禁門の変では薩摩藩兵を率いて覚馬の危機を救った。第一次長州征伐の参謀に登用されるが、勝海舟に内戦の愚を説かれ、長州藩に恭順を求める穏便な策で事を収める。また勝の公議政体論に影響され、幕府を倒して新体制を作ることを目指して暗躍。薩長同盟を結んで、第二次長州征伐を幕府の敗戦に導き、岩倉具視と組んで朝廷から倒幕の密勅を引き出すことに成功する。徳川慶喜が大政奉還で徳川家の延命を図ると、兵を動かして会津藩を御所から追い出す。当初は江戸城を総攻撃する予定だったが、勝との会談によって中止し、そのことで攻撃の矛先が会津に向かった。 戊辰戦争後、京都の薩摩藩邸跡地を覚馬に譲渡しており、この土地が同志社の設立の際に使われた。また敵となったとはいえ同じ「尚武」の士風を持つ会津に親近感を抱いていた。 新政府にも参画し岩倉らと武士の時代を完全に終らせる為に廃藩置県を断行する。この時生じた新政府に対する士族の不平を抑えるため、征韓論を唱えて自ら朝鮮に渡ると宣言するが、朝鮮派遣延期とした岩倉の案が受け入れられず、参議を辞職した。 帰郷後、自分を慕って新政府を去った鹿児島の士族たちを集め私学校を設立する。その後、士族たちに担がれる形で西南戦争を起こすが、被弾した西郷は別府晋介に介錯を頼み自害。 木戸孝允(きど たかよし) (桂小五郎 → 木戸孝允) 演:及川光博 長州出身の明治政府参議。 攘夷論者だが、過激な行動をとる久坂らに全面的には賛同しておらず、時に彼らを諌めることもある。 池田屋・蛤御門の危機を辛くも逃げ延びると国元に逃れ、藩の兵制改革を行う。さらに水面下では西郷・大久保らと密約を結び、軍備の拡充に成功する。 戊辰戦争後、廃藩置県を主張。岩倉使節団の中心人物として渡米。その際、襄と出会い文部省に誘うが断られた。 鹿児島の士族が西郷を担いで暴発すると追討を主張。自宅を訪れた覚馬に停戦を求められたが、これは維新の総仕上げだとして拒否。西郷と新政府の両方を案じながら西南戦争の終結を待たずに病死した。 岩倉具視(いわくら ともみ) 演:小堺一機 元公家の明治政府右大臣。 攘夷派に命を狙われ、洛北・岩倉村に隠棲していたが、倒幕を目指す薩摩藩と手を組んで復権を画策。謹慎がとかれると、朝廷に復帰して「王政復古」を宣言。「頴慮」を振りかざして会津藩ら旧幕府勢力を追い詰めていくが、大垣屋から渡された『管見』を読んで会津にも人材がいることを悟る。 維新後、覚馬を京都府の顧問として推薦するが、「賊徒」である会津人の中央政府への登用には反対した。遣欧使節団を率いて欧米を回り、帰国後は西郷ら征韓派を巧みな政治工作で押さえ込む。 大久保利通(おおくぼ としみち) (大久保一蔵 → 大久保利通) 演:徳重聡 薩摩出身の明治政府参議。 隠棲中の岩倉具視と通じ倒幕を画策する。 戊辰戦争後は、岩倉使節団の中心人物として渡米。帰国後、征韓論を主張する西郷らと対立し、岩倉・木戸と共にこれを押さえ込むことに成功する。西郷が鹿児島で挙兵すると、西郷の追討をためらい自ら鹿児島に説得に出向こうとしたが、西郷軍が熊本に侵攻したことで苦渋の決断で追討を決意する。西南戦争終結後、西郷の戦死を知り一人嘆いていた。その翌年、暗殺された。 板垣退助(いたがき たいすけ) (乾退助 → 板垣退助) 演:加藤雅也 土佐出身の明治政府参議で、自由党の総理。 政局が討幕に傾く中、討幕派に土佐藩を加えようと西郷に接近し薩土討幕の密約を結ぶ。 甲州に攻め込む際、先祖が武田家ゆかりの武将であったため、岩倉に勧められて先祖の板垣姓に復する。 会津戦争では日光口を守備する山川大蔵軍に苦戦し、破ることができなかった。鶴ヶ城攻略の際は、総攻めから包囲戦に持ち込み会津藩を降伏させた。後に、この際に戦に非協力的な民衆の姿を見たことが、自由民権運動に身を投じるきっかけとなったと語っている。 戊辰戦争後、参議に就任し岩倉使節団の渡米の際は留守組として政府を取り仕切っていたが、西郷に与して征韓論を主張し、岩倉や大久保によって「朝鮮派遣を延期」とされたことで憤怒し西郷らとともに参議を辞職した。 下野後、自由民権運動の中心人物となり、自由党の総理に就任。また国家を支える人材を育成するため同志社の大学化を目指す襄にも協力する。 大山巌(おおやま いわお) (大山弥助 → 大山巖) 演:反町隆史 薩摩出身の陸軍大佐(後に大将)で、西郷隆盛の従弟。 京都の情勢が風雲急を告げる中、薩摩兵1,000を率いて上洛する。戊辰戦争にも参加し、従来の四斤山砲の改良して射程を延ばし、白河城攻略戦では寡勢で頼母率いる列藩同盟軍を撃破する。 会津戦争では、薩摩兵を率いて戦ったが、八重の狙撃を受けて負傷する。 維新後、政府や陸軍の要職を歴任する。西南戦争では西郷と敵対し、田原坂・城山総攻撃では自ら指揮をとって西郷を追い詰めた。また、この西南戦争には元・会津藩の佐川官兵衛らも従軍しており、会津と手を組んで西郷と戦うことを嘆いていた。 西南戦争後、浩の末妹・捨松を見初め求婚した。仇敵・薩摩藩出身であることを理由に山川家側から猛反対されたが、捨松本人が大山と相思相愛となったことで認められ、結婚にこぎつける。 日清戦争後、健次郎が『京都守護職始末』を刊行しようとしていることを知って圧力をかけるが、捨松の仲裁もあり永久封印はしない条件で刊行を遅らせた。 三条実美(さんじょう さねとみ) 演:篠井英介 元公卿の明治政府太政大臣。 攘夷派で長州藩と手を組み、国事御用掛の立場を使って偽勅を作成して会津藩を都から追い出そうとするなど、様々な妨害工作を行うが、八月十八日の政変で京都を追われ、長州に都落ちする。王政復古と共に朝廷に復帰。維新後、征韓論を巡る賛成派と反対派の争いの板挟となる。 伊藤博文(いとう ひろぶみ) 演:加藤虎ノ介 長州藩出身。 大久保亡き後、内務卿として岩倉と共に政府を主導し、大隈重信を追放するなどして民権派を迫害。内閣制度が施行されると初代の内閣総理大臣となり、帝国憲法の制定や日清戦争でも主導的立場にあった。 「国家に必要な人材は国家が育てる」と称して私学を敵視しており、優秀な学生を国立大学に集めるために私学にも与えられていた徴兵免除の特権を剥奪するなどの圧力を加える。 山県有朋(やまがた ありとも) 演:猪野学 長州藩出身。 西南戦争では陸軍の総司令官を務めていた。やはり会津人を「賊徒」と見下しており、西南戦争後に戦功のあった将校を集めた場で、浩に握手を求めながら「会津の名誉回復への道は険しい」と愚弄して、握手を拒否された。 大隈重信(おおくま しげのぶ) 演:池田成志 佐賀藩出身。 参議として明治政府に参画し、早期の内閣設立を訴えていたが、反対する伊藤によって政府を追われた。 下野後、東京専門学校(後の早稲田大学)を設立し、同志社大学設立のための資金提供を募る席を設けるなど襄にも協力した。その後、伊藤内閣の外務大臣に就任して政府に復帰するが、条約改正交渉の態度を弱腰と批判する暴漢に襲われ、右足切断の重傷を負う。 江藤新平(えとう しんぺい) 演:山崎銀之丞 司法卿。佐賀藩出身。 征韓論争では西郷に与して、反対する長州閥への見せしめに小野組転籍事件を利用して槇村を司法省に逮捕させる。岩倉の工作で征韓派が破れると、西郷や板垣と共に新政府を去った。後に地元・佐賀で反乱をおこすが新政府軍に鎮圧された。 寺島宗則(てらしま むねのり) 演:久ヶ沢徹 外務卿。薩摩藩出身。 川上操六(かわかみ そうろく) 演:奥田達士 陸軍参謀次長。薩摩藩出身。
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明治政府
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明治政府では、1869年(明治2年9月17日)公布において諸陵寮は再興されて、神祇官の配属とし、頭、助、允、属等の官員を置いたが、このとき諸陵頭は宮内大丞の戸田忠至が兼任した。。このとき歴代の陵墓の調査などがおこなわれ、1870年(明治3年)7月23日、大友皇子に弘文天皇、大炊王に淳仁天皇、懐成親王に仲恭天皇の諡号が追贈された。 1871年(明治4年)8月4日、諸陵寮は神祇省に統廃合されたが、神祇省を廃止分割して1872年(明治5年)3月14日に新設した教部省に諸陵課が置かれた。教部省は、1874年(明治7年)8月3日に諸陵掛を設置。のちに事務が宮内省に移管され、1878年(明治11年)3月1日に宮内省御陵墓掛が置かれ、1883年(明治16年)1月19日に御陵墓課に改められ、ついに1886年(明治19年)2月4日、諸陵寮が復興した。
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明治政府
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慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が発表され、明治維新の政体改革が始められた。摂政・関白を中心とする摂関政治と、征夷大将軍を中心とする幕府政治を廃し、「総裁」・「議定」・「参与」の「三職」を設置し、諸事神武創業の昔への復帰などを宣言し、天皇中心の新政府樹立を目指した。「総裁」は、三職の最高官職として、「萬機ヲ統ヘ、一切ノ事務ヲ裁決ス」とされて政務を統括し、有栖川宮熾仁親王が就任した。月給は金1000両と定められた(明治元年3月制定。なお、議定は金800両、参与は金500両)。 三職は、小御所会議(三職会議)を開催して、徳川慶喜の辞官納地(内大臣の辞任と領地の一部返納)などを決定した。その後、総裁の熾仁親王が、すぐに戊辰戦争における東征大総督として関東に出征してしまったため、実際には政務の中心となることはなかった。翌明治元年1月17日、三職の下に神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度の七科を置いて三職七科とし、同年2月3日には科を局として総裁局を設置し三職八局とした。また、このとき、総裁局に副総裁を置いて三条実美と岩倉具視をこれに任命し、実際の政務を執ることとなった。副総裁の月給は、総裁に準じて金1000両と定められた。 明治元年閏4月21日(1868年6月11日)、五箇条の御誓文に基づく政治の基本組織を定めた政体書を発表した。政体書では、太政官を中心とした政治体制を採り、それまでの総裁をはじめとする三職は開始から半年足らずで廃止された。
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