ビルマの戦い 連合軍の反攻(1944年)

ビルマの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 13:14 UTC 版)

連合軍の反攻(1944年)

レド公路の経路
インドで再建された中国軍
M3軽戦車に乗ってレド公路を前進する中国軍

連合軍はフーコン戦線で反攻を開始した。日本軍はインパール作戦によりその機先を制しようとしたが、作戦は惨憺たる失敗に終わり、ビルマ方面軍の戦力は決定的に低下した。雲南では中国軍が怒江を越え、拉孟と騰越の日本軍守備隊は包囲され玉砕した。米中連合軍はレド公路打通を達成した。

フーコン作戦

フーコン河谷は、ミイトキーナに近いモウガンからシンブイヤン中国語版を経てインド国境の"Hell Pass"英語版に達する、東西30キロから70キロ、南北200キロの大ジャングル地帯である。米中連合軍がフーコン河谷へ進攻したとき、ビルマ方面軍はインパール作戦の準備に追われていた。フーコン河谷を守備する第18師団に対しては、インパール作戦の勝利のときまで持久するよう任務を課した。

フーコン河谷の連合軍は、スティルウェルの指揮する中国軍新編第1軍(通称「インド遠征軍」)とアメリカ軍第5307混成部隊(通称「ガラハッド」部隊または「メリルズ・マローダーズ英語版」)だった。1943年12月24日、中国軍第38師はユパンガを守備する日本軍を攻撃し勝利した。中国兵は日本軍の精鋭部隊に対する初めての勝利に狂喜した[15]

厳しい環境と日本軍の持久戦により、フーコンでの戦闘はのろのろと続いた。

米中連合軍は日本軍の包囲殲滅に何度も失敗した。孫立人ら中国軍指揮官は補給の困難さを理由に統制前進を行なったためスティルウェルを激怒させた。

第二次チンディット(サーズデイ作戦)

チンディット部隊は増強され第3インド師団と改名されていた。1944年2月、フーコン河谷での米中連合軍の作戦を支援するため、チンディット部隊は2回目のビルマ侵入作戦「サーズデイ作戦」を開始した。3月5日、大量のグライダーを使用した空挺作戦により、3個旅団9,000名がマンダレー・ミイトキーナ間に降下し、フーコン河谷で苦闘を続ける第18師団への補給路を切断した。だが指揮官オード・ウィンゲート少将は3月24日、飛行機事故により不慮の死をとげた。

日本軍は再び部隊をかき集めて掃討に努めた。第53師団の掃討部隊4千人はモール付近でチンディット部隊と激しい戦闘となった。 チンディット部隊はモールに陣地を構築し、空輸された増援も含めた1万6千人が立て篭もった。日本軍は4月初めに軽戦車や重砲も繰り出して攻撃したがゲリラ部隊による機動戦と陣地戦を併用したイギリス軍の戦術に撃退され、18日に後退した。 5月、モールのチンディット部隊がインドへ撤退したため第53師団は補給路の回復に成功したものの、陸路で後退するチンディット部隊を完全に捕捉することはできなかった。フーコン河谷では第18師団が補給を回復したのもつかの間、カマインで退路を絶たれ玉砕の危機に至った。6月末、第18師団は退路を切り開きフーコン河谷から撤退した。

第18師団の捕捉に失敗したことは米英中の連帯不足が原因であり、スティルウェルにとって不満の残る結果だった。

第二次アキャブ作戦(ハ号作戦、第二次アラカン作戦)

ビルマ南西部ではイギリス軍第15軍団が再度アキャブへ向けて前進していた。日本軍は2月、アキャブ北方のシンゼイワ盆地において、桜井徳太郎少将が指揮する第55師団桜井支隊が東方から第7インド師団の側背に進出し、正面からの師団主力とともにこれを包囲した。戦況は第一次アキャブ作戦の再来となるかに見えた。だがイギリス軍は戦車と野砲を円形に配置し、航空機による補給を行って戦線を維持した。日本軍はこの空地一体の「円筒陣地」(Admin Box)を崩すことができなかった。イギリス軍が救援を差し向けると、日本軍は2月26日包囲を解いて後退した。

インパール作戦(ウ号作戦)

作戦計画

1944年4月のビルマの戦いの状況

インド北東部マニプル州の中心都市インパールは、ビルマ・インド国境部の要地であり、イギリス軍の反攻拠点だった。第15軍司令官牟田口廉也中将は、インパールの攻略によって連合軍の反攻の機先を制し、さらにインド国民軍によってインド国土の一角に自由インド仮政府の旗を立てさせることでインド独立運動を刺激できると主張した。牟田口はさらにナガランド州ディマプルへの前進をも考えていた。これが成功すれば、ハンプ越えの援蒋ルートを絶ち、スティルウェル指揮下の米中連合軍への補給も絶つことができる。

牟田口の案は、第15軍の3個師団(第15、第31、第33師団)に3週間分の食糧を持たせてインパールを急襲し占領するというものだった。そのためには川幅1,000メートルのチンドウィン川を渡河し、標高2,000メートル級のアラカン山脈を踏破せねばならない。さらに困難な問題は作戦が長期化した場合の前線部隊への補給だった。ビルマ方面軍は当初牟田口の案を無謀と判断したが、南方軍大本営は最終的にこの案を支持した。背景には、各方面で敗北続きの戦局を打開したいという軍中央の思惑があったと言われる。

抗命

第33師団は1944年3月8日に、第15師団第31師団は3月15日に作戦を発起し、インパールとコヒマへ向けて前進した。作戦は順調に進むかに見えたが、この地域を守備していたイギリス第4軍団の後退は予定の行動だった。インパール周辺まで後退し、日本軍の補給線が伸びきったところを叩くのがイギリス第14軍司令官ウィリアム・スリム中将の作戦だったのである。

3月29日、第15師団の一部が、インパールへの唯一の地上連絡線であるコヒマ・インパール道を遮断した。4月5日、宮崎繁三郎少将の率いる歩兵第58連隊がコヒマへ突入した。だがイギリス第33軍団が反撃に移り、コヒマをめぐる戦いは長期化した。南からの第33師団の前進もイギリス軍の防衛線に阻まれていた。日本軍はイギリス第4軍団をインパールで包囲したものの、イギリス軍は補給物資を空輸して持ちこたえた。

第33師団長柳田元三中将は作戦中止を意見具申したが、牟田口は柳田を罷免した。第15師団長山内正文中将は健康を害して後送された。やがて雨季が訪れた。日本軍の前線部隊は作戦開始以来満足な補給を受けておらず、弾薬は尽き飢餓に瀕していた。第31師団長佐藤幸徳中将はたびたび軍司令部へ補給を要請するが、牟田口は空約束を繰り返すのみで、やがて両者が交わす電報は感情的な内容に変わっていった。激怒した佐藤は6月1日に独断で師団主力を撤退させた。

作戦成功の望みがなくなったにも関わらず、牟田口は攻撃命令を出し続けた。第33師団は、新しい師団長田中信男中将の指揮の下、インパール南側の防衛線ビシェンプール英語版への肉弾攻撃を繰り返すが、死傷者の山を築いた。

白骨街道

撤退した第31師団の最後尾を務めた宮崎繁三郎少将は、歩兵第58連隊を率い、インパール救出を目指すイギリス第33軍団の前進を巧みな戦術で遅らせ続けた。だが6月22日、ついにイギリス第4軍団と第33軍団がコヒマ・インパール道英語版上で握手した。7月3日日本軍は作戦中止を正式に決定した。将兵は豪雨の中、傷つき疲れ果て、飢えと病に苦しみながら、泥濘に覆われた山道を退却していった。退却路に沿って死体が続く有様は「白骨街道」と呼ばれた。

インパール作戦は、イギリス軍側の損害17,587名[16]に対し、日本軍は参加兵力約85,600名のうち30,000名が戦死・戦病死し、20,000名の戦病者が後送された[17][19]。インパール作戦の失敗はビルマ方面軍の戦力を決定的に低下させた。また、作戦にはインド国民軍7,000名が参加し、占領地の行政は自由インド仮政府に一任すると協定されていたが、作戦の失敗により雲散霧消した。

抗命事件を起こした佐藤は精神錯乱として扱われ軍法会議への起訴は見送られた。ビルマ方面軍司令官河辺正三中将、参謀長中永太郎中将、第15軍司令官牟田口廉也中将らは解任され、後任にはそれぞれ木村兵太郎中将、田中新一中将、片村四八中将が任命された。

ミイトキーナの戦い

ミイトキーナの前線に補給物資を投下するアメリカ軍の輸送機
1944年7月頃の雲南方面の状況。中国軍による騰越、拉孟、平戛、龍陵の攻囲
米中連合軍によるレド公路打通。1945年1月頃の状況

ビルマ北部では5月17日、ガラハッド部隊を中心とする空挺部隊と地上部隊がミイトキーナ(現在のミッチーナー)郊外の飛行場を急襲し奪取した。ミイトキーナはビルマ北部最大の要衝であり、インド・中国間の空輸ルートの中継点でもあった。守備兵力は丸山房安大佐の指揮する歩兵第114連隊だったが、各地に兵力を派遣し、手元の兵力はわずかだった。

この危急に第56師団から増援部隊を率いてかけつけた水上源蔵少将に対して、第33軍作戦参謀辻政信大佐は、「水上少将はミイトキーナを死守すべし」という個人宛の死守命令を送った。ミイトキーナでは、ガラハッド部隊と中国軍新編第1軍および新編第6軍の攻撃を、水上と丸山の指揮する日本軍が迎え撃ち激闘が展開された。だが日本軍は限界に達し、8月2日、水上は生き残った将兵に脱出を命じた後、死守命令違反の責任を取って自決した。

ミイトキーナ飛行場の占領で、従来の危険なハンプ越えのルートは大きく改善された。攻防戦の最中にも、輸送量は7月には25,000トンという実績を示した。8月2日、スティルウェルは大将へ昇進した。

AFPFL結成

ビルマは独立を達成したものの、日本は戦争への協力を要求し、バー・モウのビルマ政府の政策も日本軍優先とならざるを得なかった。またインパール作戦の失敗により日本の敗北は明白な情勢となってきた。8月1日の独立一周年式典で、オンサンは「われわれの独立は紙の上の独立に過ぎない」と演説した。この頃オンサンらは多方面の勢力との接触を持ったらしい。8月から9月にかけて、抗日運動の秘密組織「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL)が結成され、タキン党、共産党、ビルマ国民軍をはじめ、農民、労働者の諸団体、少数民族の政治結社も加わり、勢力を拡大していった。日本軍はこの動きを察知できなかった[20]

拉孟・騰越の戦い(断作戦、サルウィン作戦)

断作戦

1944年4月、蒋介石は中国軍のビルマへの再出兵を決断した。5月11日夜半、衛立煌大将を司令官とする16個師の中国軍雲南遠征軍が怒江を渡った。守備する第56師団は、騰越、拉孟、平戛、龍陵などの要地を固めるとともに、機動兵力による果敢な反撃を行った。しかし中国軍は圧倒的な兵力をもって各地の守備隊を包囲した。

ビルマ方面軍は第33軍(第18、第56師団)へ第2師団を増援するとともに、ビルマルート遮断の堅持を命じ「断作戦」を発令した。第33軍は各地の守備隊を救出すべく反撃に移り、9月上旬に龍陵を解囲し、平戛守備隊を救出したものの、拉孟と騰越の救出はできなかった。

拉孟・騰越の戦い

拉孟は、ビルマルートが怒江を横切る「恵通橋」の近くの陣地である。陣地は標高2,000メートルの山上に位置し、深さ1,000メートルの怒江の峡谷を隔てて中国軍と向かい合う最前線だった。日本軍は歩兵第113連隊を守備隊とし陣地設備を強化していた。6月2日、中国軍が拉孟を包囲したとき、連隊長松井秀治大佐は出撃中だった。金光恵次郎少佐以下1,270名の守備隊は、41,000名の中国軍の攻撃をたびたび撃退した。だが9月7日、木下正巳中尉と兵2名[注 3]を報告のため脱出させた後、拉孟守備隊は玉砕した。

騰越は、連隊長蔵重康美大佐の指揮する歩兵第148連隊が守備していた。騰越は中世式の城郭都市であり、周囲を高地に囲まれ、近代戦の戦場としては守備の難しい地勢だった。騰越周辺での戦闘は6月27日に開始された。守備兵力は2,025名、攻囲する中国軍は49,600名だった。蔵重は8月13日に戦死し、大田正人大尉が代わって指揮を取った。8月下旬以降城壁は破壊され市街戦が展開された。守備隊は9月13日に玉砕した。

レド公路打通

太平洋方面の戦局悪化により、断作戦の目的も、ビルマルート遮断の堅持から、後退しつつ時間を稼ぐことに変わっていった。任務の変化に伴って第2師団はサイゴンへ転用され、断作戦は第18師団と第56師団のみで継続された。ミイトキーナ、拉孟、騰越を攻略した米中連合軍は、補充ののち進撃を再開した。雲南遠征軍は11月初旬に龍陵を攻略、ビルマ領内へ兵を進めた。インド遠征軍は12月15日にバーモを攻略した。第33軍は「15対1」の兵力差となるなか、持久戦を続けた。

1945年1月27日、雲南遠征軍とインド遠征軍はついにレド公路上で握手した。ラングーン陥落から2年半、ビルマルート遮断は終わりを告げたのである。物資を満載したトラック群は昆明へと向かっていった。目的を達成した蒋介石は中国軍を順次帰国させた。




注釈

  1. ^ 「ハンプ」とは「こぶ」の意味である。
  2. ^ 『大東亜戦争全史』, pp.419-420 に記載されている部隊番号は誤りとみられる。
  3. ^ 兵1名は途中で脱落し、2名が第33軍司令部までたどり着いた。
  4. ^ (戦史叢書32 1969, pp. 501-502)厚生省援護局1952年調べ。陸軍のみであり、航空部隊は含まない。終戦直前にタイ、インドシナ等の他戦域に転進した兵力が少なくないが、それらを含め、ビルマ作戦に従事した部隊の作戦間の兵力、損害を調査したものである。戦没者数にはインドおよび雲南省での戦没者並びに輸送船沈没による戦没者を含んでいる。
  5. ^
  6. ^ 象徴的な存在としてチドウィン川の鉄橋復旧工事など。
  7. ^ 現在、Paluzawa coal mines と呼ばれている。
  8. ^ 質については久留島秀三郎はボイラー炭としては十分使え、常磐炭よりも良質だが、九州や北海道の一等炭よりは劣ると述べている。
  9. ^ 当時、ミャンマーは石炭をインドからの輸入に依存しており、エネルギーの自給は課題であった。
  10. ^ 委員長、甲谷秀太郎

出典

  1. ^ 戦史叢書5 1967, pp. 1-2.
  2. ^ 戦史叢書5 1967, pp. 12-16.
  3. ^ 戦史叢書5 1967, p. 316.
  4. ^ 戦史叢書5 1967, p. 565.
  5. ^ ソーン 1995a, p. 422.
  6. ^ ソーン 1995a, 66, 330.
  7. ^ ソーン 1995a, pp. 422-425.
  8. ^ タックマン 1996, pp. 344-370.
  9. ^ 太田常蔵 1967, pp. 326-329.
  10. ^ アレン 1995c, pp. 198-199.
  11. ^ 太田常蔵 1967, p. 429.
  12. ^ 太田常蔵 1967, pp. 423-424.
  13. ^ アレン 1995c, p. 198.
  14. ^ 『ビルマの夜明け - バー・モウ(元国家元首)独立運動回想録』373頁。
  15. ^ アレン1995b, pp. 177-178.
  16. ^ アレン 1995c, 付録 p.4.
  17. ^ 服部卓四郎 1965, p. 605.
  18. ^ 戦史叢書25 1969, pp. 208-212.
  19. ^ 『戦史叢書 イラワジ会戦』では、各師団固有部隊将兵の40 - 50パーセントが死亡、残りの50 - 60パーセントのうち約半数が後送患者と推定し、軍直轄部隊及び各師団配属部隊の損耗については集計困難としている[18]
  20. ^ 太田常蔵 1967, pp. 443-446.
  21. ^ 戦史叢書92 1976, pp. 424-425.
  22. ^ 太田常蔵 1967, p. 466.
  23. ^ アレン 1995c, p. 221.
  24. ^ アレン 1995c, p. 196.
  25. ^ アレン 1995c, 付録 p.9.
  26. ^ アレン 1995c, pp. 292-293.
  27. ^ The Merrill's Marauders Site
  28. ^ タックマン 1996, pp. 544-572.
  29. ^ タックマン 1996, p. 596.
  30. ^ 春秋2014/7/12付 -日本経済新聞
  31. ^ 高塚年明、参議院常任委員会調査室・特別調査室(編) (2006年6月29日). “国会から見た経済協力・ODA(1)〜賠償協定を中心に〜 (PDF)”. 2017年1月18日閲覧。
  32. ^ 佐久間平喜 1993, pp. 10-11.
  33. ^ 藤井厳喜 (2014年2月26日). “【世界を感動させた日本】教科書が教えない歴史 ミャンマー、インドネシア独立に尽力した日本人に勲章”. ZAKZAK. http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140226/dms1402260733000-n1.htm 2017年1月18日閲覧。 
  34. ^ 馬場公彦 2004, p. 132.
  35. ^ 馬場公彦 2004, pp. 134-135.
  36. ^ 第24国会海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会(1956年03月30日)における厚生省引揚援護局の美山要藏の説明他
  37. ^ 「片倉衷氏 死去=元陸軍少将」『毎日新聞』1991年7月24日大阪朝刊23面
  38. ^ 「日本兵眠るインパールで、慰霊碑を建立へ インド」『毎日新聞』1993年5月20日大阪夕刊11面
    38 海外戦没者遺骨収集等 平成5年度厚生白書
  39. ^ インパールにある慰霊施設英霊にこたえる会』HP内 靖国神社
  40. ^ インド平和記念碑 厚生労働省HP内
  41. ^ ミャンマー、ビルマ、インパール慰霊巡拝”. キャラウェイツアーズ. 2007年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月18日閲覧。
  42. ^ ビルマ侵攻作戦 1968, pp. 241-250.
  43. ^ アレン 1995c, 付録 pp.23-24.
  44. ^ アレン 1995c, 付録 62-85を参考に補足した。
  45. ^ 馬場公彦 2004, pp. 9-10.
  46. ^ 馬場公彦 2004, p. 40.





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