パンク・ロック
(ロンドン・パンク から転送)
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パンク・ロック(英: punk rock)は、1970年代半ばから後半にかけて発生したロックのスタイルの一つ。パンク(英: punk)と略称されることも多い。
注釈
- ^ ディクテイターズ、ラモーンズ、パティ・スミスなどが挙げられる。
- ^ ジョン・ライドンは2017年のNPRのインタビューに対して「自分は生まれながらのアナーキストだ」「どの地域のいかなる政府も支持しないし、未来も決して(政府を)支持しない」[2]と答えている。
- ^ 彼のスパイクヘア、破れたシャツに安全ピンのファッションは、マルコム・マクラーレンのパンク・ファッションに影響を与えた。
- ^ 共同経営者は、美術大学時代の同級生で当時私的なパートナーでもあったヴィヴィアン・ウエストウッド。ニューヨーク・ドールズのライブ・ツアーで自ら売り込んでマネージャーを務めた経験がある。初めは普通のブティックだったが、後にSM専門のゴムや革の服を売る店に衣替えした。マルコムは、後にバウ・ワウ・ワウ、アダム・アンド・ジ・アンツのマネージャーも務め、さらには自分自身もミュージシャンとしてデビューしている。
- ^ 「アナーキー・イン・ザ・UK」「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」などピストルズの多くの曲を作曲した。
- ^ 腕を貫通するほどの重傷だったという。
- ^ 解散後は「スタイル・カウンシル」を結成した。
- ^ ホルガー・シューカイらがメンバーだった。
- ^ 「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」が全米チャートでもヒットした。
- ^ 「ロック・アゲインスト・ブッシュ」のアルバムに参加している。
- ^ 「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」などパンクの歴史的な名曲を発表。
- ^ 「ホワイト・ライオット」「ロック・ザ・カスバ」などパンクの佳曲多数。
- ^ ビリー・アイドルは後に全米ヒットを何曲か獲得してロックスターになった。
- ^ パンクだけでなくモータウンなど多様な音楽性を持っていた。
- ^ 「ホンコン・ガーデン」はパワーポップ的な音楽性も示していた。
- ^ 代表曲は「ヴィーナス」「マーキー・ムーン」など。
出典
- ^ http://www.allmusic.com/style/new-wave-ma0000002750
- ^ 2017年3月31日 NPRネット記事。マンダリット・デル・バルコ(Mandalit Del Barco)によるジョン・ライドン・インタビューより http://www.npr.org 2019年11月12日閲覧
- ^ パンクロックは取り締まり対象、愛好者を丸刈りに インドネシア AFP(2018年1月10日)2018年1月11日閲覧
- ^ Stevie Chick (2011年6月13日). “The New York Dolls play 'mock rock' on British TV”. 2022年3月19日閲覧。
- ^ http://nme-jp.com/news/11129/
- ^ 500 Greatest Albums of All Time: Suicide, 'Suicide' | Rolling Stone 2022年4月9日閲覧
- ^ Griffin, Jeff, "The Damned", BBC.co.uk. Retrieved on November 11, 2019.
- ^ Van Dorston, A.S., "A History of Punk", fastnbulbous.com, January 1990. Retrieved on December 2, 2019.
- ^ ビキニ・キル 『プッシー・ホイップド』花の絵 2014年2月17日
- ^ https://www.allmusic.com/artist/the-damned-mn0000138520
- 1 パンク・ロックとは
- 2 パンク・ロックの概要
- 3 主なパンク・アーティスト
- 4 関連項目
ロンドン・パンク
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ロンドン・パンクはニューヨーク・パンクにわずかに遅れて、76年ごろから始まった。ロンドン・パンクの特徴としては、初期のロックンロールが持っていた攻撃性と反社会性、スリーコード中心の曲調が挙げられる。また、少し前に流行っていたパブロックといわれる音楽も、ロンドン・パンクに大きな影響を与えた。安全ピン、ワッペン、破れた細いジーンズや古着のTシャツ、革ジャンなどのファッションも若者の間で流行した。初期に人気があったのはセックス・ピストルズ、クラッシュ、ダムドらだが、ピストルズのアメリカ進出は成功せず、アメリカのチャートで成功を収めたのは、ザ・クラッシュだった。 1976年末、ダムドがデビューした。ロンドン・パンクのバンドでは、最初にシングル「ニュー・ローズ」をリリースした。彼らはほかのパンク・バンドに比べて政治色が薄く、圧倒的なスピードの演奏が特徴で、アルバム『地獄に堕ちた野郎ども』も発表した。 セックス・ピストルズは、ロンドンで「SEX」という名前のブティックを経営していたマルコム・マクラレン彼は店にたむろしていた若者たちが作ったアマチュア・バンドを、1975年にライブデビューさせた。破れたシャツ、安全ピン、逆立てた髪という奇抜なファッションは、マルコムの助言によるものだと言われている。メンバーのグレン・マトロックらが制作した曲の数々は、アナーキズムを煽動したり、エリザベス女王をからかった。これは保守的なイギリスのタブーを犯しており、そのことがマスコミの餌食となって一大スキャンダルとなった。ライブでは客に唾を吐きかけ、テレビに出演すれば必ず司会者とトラブルを起こすと言われ、イギリスでパンク・ロックが知られるきっかけとなっていった。なお、ジョニー・ロットンはイギリス右翼に襲撃され、重傷を負ったこともある。 ザ・クラッシュは1976年にロンドンで結成され、翌1977年『白い暴動』でデビュー。2作目のアルバムはパンクだったが、パンクと通じる階級的な位置づけをもつレゲエへの接近を試みた、1979年のアルバム『ロンドン・コーリング』を発表、次第にロック・スターへと成長していく。シングル「ロック・ザ・カスバ」のヒットによってアメリカ進出に成功し、スタジアム規模のライブツアーを何度か行った。 他に、ザ・ジャムがネオ・モッズ・ムーブメントを巻き起こし、UKチャートでNo.1ヒットを4曲も出すなど、1982年に解散するまで人気バンドとなった。ストラングラーズは、短いギターソロ、攻撃的な歌詞と音楽を売り物にした。ストラングラーズは、アイスクリーム販売用のバンで、イギリス国内を移動してライヴを行った。このバンドはスウェーデン公演の際に、地元の右翼に襲撃されている。彼らは政治団体の標的となるなどトラブルもあったが、アルバムをイギリスのチャートの上位に送り込むようになった。 ブームの火付役であったセックス・ピストルズは、アメリカ・ツアーの途中で空中分解し、ジョニー・ロットンの脱退により、スタジオ・アルバム1作を残しただけで実質解散。ジョニー・ロットン改めジョン・ライドンは、新たにPIL(パブリック・イメージ・リミテッド)を結成。ドイツのカンなどの前衛ロックや、レゲエの先鋭的なミキシング方法であるダブを採り入れた音楽は話題となり、パンクからニュー・ウェイヴへという時代の変化を印象づけた。 イギリスでは、失業者の増加と言う社会問題が下地となって、若者たちの不満、怒り、反抗、暴力性などを掬い上げたパンクが大きな社会現象となった。ジェネレーションX(ビリー・アイドルが在籍)などのポップなバンドも次々に生まれた。ファッション、絵画などの芸術にまでその波は広がり、髪を逆立たせ、服を破いたスタイルのロンドン・パンク・ファッションは世界中で知られた。だがパンク・ファッションはパリ・コレに登場するなどして、鋭さを失っていった。パンクのブームが去った後は、エルヴィス・コステロ、ニック・ロウ、イアン・デューリー、グラハム・パーカーらのニュー・ウェイヴの時代となった。キャリアのあるミュージシャン達によって結成されたポリスも、デビューアルバムの内容はレゲエとパンクであった。また、スペシャルズやマッドネス、セレクターなどのネオ・スカバンドが人気を博した
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