戦国時代 (日本)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/06 19:14 UTC 版)
経済と社会
中世の列島社会は生産力水準から、畿内近国地域・中間地域・辺境地域(先進地帯・中間地帯・後進地帯)の3つの地域に分類されている[189][190]。
中世の日本列島では、米と麦の二毛作が普及し、15世紀の畿内では三毛作を実施している地域も存在した[191](ただし、二毛作が積極的に行われたのは畿内や西日本であって、東日本では殆ど行われなかった[192])。麦は米と違い非課税で収穫のすべてが農民のものとなる。そのため農民にとって二毛作の重要性は高かった[193]。中世の日本の農業生産は、二毛作の普及のほか用水の整備、土地の改善によって向上していった[194]。
戦国時代は戦乱の影響もあって人や物の流動が活発化し、貨幣の持つ相対的な価値が向上した。戦国時代初期には勘合貿易および一種の密貿易である私貿易といった明との貿易や南蛮貿易によって、明から舶来品だけでなく大量の銅銭の導入を図り、貨幣経済の確立をなしとげる段階にあった。また、ヨーロッパ人の来航とともに金銀比価の関係から、金銀の輸出入が盛んになった。世界遺産にも登録された石見銀山に代表される、金山・銀山の運営が経済の発展に伴い重要性を増した。この頃、金銀の品位改善のための灰吹法や砂鉄による鑪生産などといった新技術も導入された。金山・銀山の保持が主目的の城砦も築かれ、金山・銀山といった権益が絡む戦国大名同士の争いが繰り広げられることもあった。
1568年に織田信長が上洛するとこれまでの座、問丸、株仲間を排斥し楽市・楽座により自由な市場取引を推奨した。その後の豊臣政権においても直轄地および全国の大名領において楽市・楽座が推進された。 市場取引の活発化にも伴い、これまでの領国貨幣から、統一貨幣の発行も秀吉により行われた。
その一方で農村部では各地に存在した荘園は戦国大名や国人領主による押領の対象となり、荘園制は解体する。だが、徴税体制の中に依然として従来の名体制・職の体系を継承した部分も残されたものの、次第に大名主導による年貢などの負担の平均化が進められた。また、一地一作人原則が確立されて土地に対する借耕が盛んになり加地子・作徳分が成立するようになる。戦国大名の元で大規模な新田開発や灌漑整備が進められ、築城技術で培われた土木技術が農業面でも応用された。『拾芥抄』によれば100万町歩とされた全国の田畑面積が、慶長年間の慶長日本図編纂においては160万町歩であったとされている。更に各地で米以外の特産物も盛んに生産されるようになり、山城・大和の茶や紀伊の蜜柑などが知られるようになった。また、木綿栽培が普及したのもこの時期である。
商業中心地としては、ハブ港としての役割を担った堺や博多が栄えた。拠点間輸送には水運が多用され、東南アジア地域の輸送ネットワークの一部としても機能していた。堺の繁栄は特に顕著で、会合衆である納屋衆による合議制の元、自治を行い、都市全体に濠を巡らし、牢人を傭兵として雇うなど、戦国大名による支配も拒絶していた。他の都市としては、京都や、地方では山口・小浜・品川湊なども集積地や中継拠点としての役割を果たしている。
戦術の個人戦法から集団戦法への変換は、武器や甲冑の需要を増し、刀鍛冶らの職人も、それまでの銘物としての一品生産を中心とする生産方法から、ある程度の使い捨てを念頭に置いた大量生産を行うようになった。さらに、火縄銃など火器類の流入は、従来、非常時には徴発によってかなりの部分を賄いえていた軍需物資に、火薬など大量消費型の品々を加えることになり、ロジスティクスの重要性が高まった。茶屋四郎次郎のように、戦国大名の兵站を請け負う商人も出現した。
「食うための戦争」と民衆
藤木久志は著書『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社)などで、戦国大名の英雄的な活躍の影で繰り広げられた雑兵たちの「食うための戦争」について論じている。
武士たちのぶつかり合いによる戦闘という戦場の一般的なイメージの裏で、雑兵たちは戦闘以上に「乱取り」と呼ばれる略奪行為に熱中していた。放火や刈田による略奪、そして一般民衆や農民を奴隷として拉致するという、現在であれば戦争犯罪にあたる行為が、戦国時代の戦場では(すくなくとも行っている側からは)認められていた。農民から徴用されたばかりの足軽にとって、手柄をあげない限り報酬は出ないが名のある武将を討ち取るのは難しく、また、大名の方でも彼らの士気が下がらないようにしなければならないため、兵たちの乱取りを黙認あるいは推奨した。藤木によれば、越後の上杉謙信(長尾景虎)は他国出兵を積極的に行っているが、これは短期(北信濃)・長期(関東)に関わらず冬期に行われており、「出稼ぎ」と「口減らし」の性格を持つものだという。
奴隷狩りと略奪は各地で行われた記録が残り、キリスト教宣教師を通じて海外へ売り払われた人々もいた。こうした背景から豊臣秀吉は1587年(天正15年)にバテレン追放令を発布してキリスト教を禁じている。
なお戦地での略奪以外の刈田は対立する大名領の収穫量を減らし、経済力を奪う目的の謀略という性格が強かった。
注釈
- ^ 一方で遠国の領主の中には両属的な対応を取った事例も確認できる。明応4年、陸奥の結城政朝は上洛の途次、経由地の越中で足利義材に挨拶を行った上で京都に上っている[19]。
- ^ ただし、伊勢氏(後北条氏)が大名格にまで身分を上昇させるのは北条氏康期以降である。それ以前は身分的には国人に過ぎず[21]、天文年間末期の古河公方・足利義氏擁立段階に至っても、後北条氏は古河公方を推戴することによってしか地域支配を貫徹しえない状況であった[22]。
- ^ 既に戦国時代最末期であるが、足利将軍の権威性は依然として健在だった。元亀3年、毛利輝元の攻勢を受け危機に陥っていた備前の浦上宗景は、義昭に芸備和睦の斡旋を願い出た。備前への侵攻作戦を目前にしていた毛利氏にとって、浦上氏との和睦は到底受け入れ難いものであったが、「今度芸備和平之儀、雖非本意候、京都御下知之条、不能違背、応上意候」と京都(将軍)の命令に背くことは出来ないとして和睦を受諾している[85]。
- ^ a b 「日本の近世城郭は16世紀第4四半期に原型が成立し、17世紀第1四半期にもっとも複雑化した。16世紀第3四半期までは日本の拠点城郭(戦国期拠点城郭)はそれぞれの地域性を色濃く備えた。そうした戦国期拠点城郭のプランに表れた地域性は、築城主体であった権力構造の反映であった。そうした地域性は巨視的に見れば城郭構造の求心・階層構造を指向したものと、並立的な城郭構造を指向したものに区分される。」[186]
- ^ 「根小屋」という用語について香川元太郎は、城の前に形成された家臣屋敷の集合集落としている[185]。
出典
- ^ 鍛代敏雄『神国論の系譜』、法藏館, 2006年、p.109
- ^ 西島太郎 2015, p. 13、国会図書館蔵書の使用例の最古書は、教育資料研究会(編)『高等小学校外日本歴史』第4編巻1巻2 目次第7「戦國時代」、1873年(明治6年)
- ^ 鈴木良一「戦国の争乱」『岩波講座日本歴史』 第8巻 中世4、1963年、4頁。
- ^ 遠藤 2015, p. 3.
- ^ 渡邊大門 編『真実の戦国時代』柏書房、2015年、220頁。
- ^ 遠藤 2015, p. 2.
- ^ 遠藤 2015, p. 6.
- ^ 山本浩樹 編『西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年、8頁。
- ^ 福島 2009, p. 50.
- ^ 福島 2009, p. 52.
- ^ 家永 2004, p. 10.
- ^ 山田 2012, pp. 38–39.
- ^ 家永 2004, p. 12.
- ^ 小池辰典「鈎の陣にみる戦国初期の将軍と諸大名」『日本歴史』851号、吉川弘文館、2019年4月、13頁。
- ^ 石田晴男 「京・鎌倉府体制の崩壊」 『古文書の語る日本史』5 戦国・織豊 筑摩書房、1989年5月、33頁。
- ^ 家永遵嗣「将軍権力と大名との関係を見る視点」『歴史評論』572号、校倉書房、1997年12月、17-18頁。
- ^ 今谷明 「戦国時代の社会」 『中世文学』41巻 中世文学会、1996年、4頁。
- ^ 神田千里 『織田信長』 筑摩書房、2014年10月、23頁。
- ^ 佐藤圭 「奥羽大名と越前朝倉氏の通好」 『秋大史学』61巻 秋田大学史学会、2015年3月、24頁。
- ^ a b 家永 2004, p. 13.
- ^ 市村高男 「戦国期の地域権力と「国家」・「日本国」」 『日本史研究』519 日本史研究会、2005年11月、48頁。
- ^ 佐藤博信 「後北条氏と古河公方足利氏の関係をめぐって : 芳春院殿・芳春院周興を通じて」 『史学雑誌』87巻2号 史学会、1978年、71頁
- ^ 石田晴男、1989年、64頁。
- ^ 山田 2012, p. 49.
- ^ 山田 2012, p. 50.
- ^ 山田 2012, p. 42.
- ^ 山田 2012, pp. 54–55.
- ^ 山田 2012, pp. 51–53.
- ^ 山田 2012, p. 52.
- ^ 山田 2012, pp. 58–59.
- ^ 山田 2012, pp. 59–60.
- ^ 山田 2012, p. 63.
- ^ 馬部 2018, p. 379.
- ^ 馬部 2018, p. 743.
- ^ 福島 2009, p. 66.
- ^ 馬部 2018, p. 236-237.
- ^ 馬部 2018, p. 237-238.
- ^ 山田邦明 『戦国の活力』 小学館、2008年7月、82頁。
- ^ 馬部 2018, p. 218.
- ^ 長江正一 『三好長慶』 吉川弘文館、1968年、30頁。
- ^ 馬部 2018, p. 242-243.
- ^ 浜口誠至『在京大名細川京兆家の政治史的研究』思文閣出版、2014年4月、276頁。
- ^ 遠藤巌「<研究ノート>音喜多勝氏所蔵八戸湊文書覚書」『弘前大学國史研究』第107号、弘前大学國史研究会、1999年、39-40頁、NAID 110000322919。
- ^ 福島 2009, p. 71.
- ^ 福島 2009, p. 72-73.
- ^ 馬部 2018, p. 255-256.
- ^ 福島 2009, p. 73-74.
- ^ 福島 2009, p. 75.
- ^ 馬部 2018, p. 295.
- ^ 馬部 2018, p. 744.
- ^ 平野明夫 編『室町幕府全将軍管領列伝』星海社、2018年10月、480-481頁。
- ^ 黒嶋 2012, p. 145.
- ^ a b 長谷川博史「15・16世紀山陰地方の政治と流通」『貿易陶磁研究』36号、貿易陶磁研究会、2016年9月、7頁。
- ^ 馬部 2018, p. 748頁.
- ^ 小谷利明 著「畠山稙長の動向」、矢田俊文 編『戦国期の権力と文書』高志書院、2004年2月、69頁。ISBN 4906641806。
- ^ 馬部 2018, p. 602-603.
- ^ 馬部 2018, p. 719.
- ^ 福島 2009, p. 111-112.
- ^ 矢田俊文 「戦国大名の登場」 『古文書の語る日本史』5 戦国・織豊 筑摩書房、1989年5月、120頁。
- ^ a b 家永 2004, p. 3.
- ^ 今岡典和 「幕府―守護体制の変質過程 : 十六世紀前半の「国役」を中心に』 『史林』68巻4号 史学研究会 (京都大学文学部内)、1985年7月、38頁。
- ^ 山田康弘 『戦国時代の足利将軍』 吉川弘文館、2011年7月、44頁。
- ^ 今谷明、天野忠幸 『三好長慶』 宮帯出版社、2013年、110頁。
- ^ 福島 2009, p. 114-116.
- ^ 黒嶋 2012, p. 277.
- ^ a b 黒嶋 2012, p. 81.
- ^ 黒嶋 2012, pp. 39–41.
- ^ 黒嶋 2012, p. 44.
- ^ 黒嶋 2012, pp. 46–47.
- ^ 小林健彦『越後上杉氏と京都雑掌』岩田書院、2015年5月、52頁。ISBN 9784872948981。
- ^ 矢田俊文『上杉謙信』ミネルヴァ書房、2005年12月、52頁。
- ^ 矢田、2005年、73頁。
- ^ 山田邦明『戦国の活力』小学館、2008年7月、127頁。
- ^ 堀新(編) 『信長公記を読む』 吉川弘文館、2009年2月、4頁。
- ^ 福島 2009, p. 128-130.
- ^ 山田康弘 「戦国期足利将軍存続の諸要因」 『日本史研究』672 日本史研究会、2018年8月、15頁。
- ^ 下川雅弘 「『上杉本洛中洛外図屏風』の注文時期とその動機に関するノート ─近年の戦国期畿内政治史研究の成果に学ぶ─」 『駒沢女子大学研究紀要』22号、2015年12月、77頁
- ^ 天野忠幸他編『戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年10月、133‐134頁
- ^ 福島克彦 『畿内・近国の戦国合戦』 吉川弘文館、2009年7月、140頁。
- ^ 馬部隆弘「永禄9年の畿内和平と信長の上洛」『史敏』4号、史敏刊行会、2007年4月、67頁
- ^ 金子拓 『織田信長<天下人>の実像』 講談社、2014年8月、14頁。
- ^ 久野雅司 「織田信長と足利義昭の政治・軍事的関係-永禄十三年正月二十三日付け「五ヶ条の条書の検討を中心としてー」 『東洋大学人間科学総合研究所紀要』22巻 東洋大学人間科学総合研究所、2020年3月、250‐249頁。
- ^ 今谷・天野忠幸、2013年、203‐204頁。
- ^ 久野、2020年、252頁。
- ^ 松原勝也「元亀年間における大友氏の政治的・軍事的動向 : 元亀三年伊予出兵の検討を中心として」(『大分縣地方史』194号、2005年7月)21頁。
- ^ 久野、2020年、248‐247頁。
- ^ 金子拓、2014年、52‐53頁。
- ^ 谷口克広『織田信長合戦全録』(中央公論社、2002年1月)82頁。
- ^ 金子、2014年、51‐53頁
- ^ a b 久野雅司「足利義昭政権滅亡の政治的背景」(『戦国史研究』74号、2017年)4頁
- ^ 久野、2017年、1頁。
- ^ 川岡勉「中世日本の王権と天下成敗権」『愛媛大学教育学部紀要』56号、愛媛大学教育学部、2009年10月、366頁。
- ^ 神田、2014年、104‐105頁。
- ^ 神田、2014年、108頁。
- ^ 神田、2014年、113-114頁。
- ^ 堀新(編)、2009年、121頁。
- ^ a b 市村、2005年、37‐38頁。
- ^ 鈴木芳道「後北条氏権力と「国」」『鷹陵史学』21号、鷹陵史学会、1995年9月、82頁。
- ^ 有光友學(編)『戦国の地域国家』 川弘文館、2003年5月、154頁。
- ^ 久保健一郎 「公儀と地域権力」 『早稲田大学大学院文学研究科紀要 : 第4分冊』54巻4号、早稲田大学大学院文学研究科、2009年2月、9頁。
- ^ 市村、2005年、39頁。
- ^ 山田康弘 「戦国期大名間外交と将軍」『史学雑誌』112巻11号、史学会、2003年、52頁。
- ^ 川岡、2009年、369頁。
- ^ 堀新(編)『信長公記を読む』吉川弘文館、2009年2月、167頁。
- ^ 神田、2014年、104‐105頁。
- ^ a b 垣内和孝「伊達政宗と南奥の戦国時代」『伊達政宗と南奥の戦国時代』吉川弘文館、2017年、182-201頁。ISBN 978-4-642-02938-4。
- ^ 恩田浩孝『座禅院昌尊の生涯 日光山の終焉と上三川 今泉家』随想舎、2015年、182頁。
- ^ 瀬田勝哉『洛中洛外の群像』平凡社、1994年、129-130頁。ISBN 4582475051。
- ^ 山田康弘『戦国期足利将軍研究の最前線』山川出版社、2020年、72頁。ISBN 978-4634151741。
- ^ 山田 2020, p. 80.
- ^ 小谷利明「戦国期畿内研究の再構成と「細川両家記」」『都市文化研究』第012巻、大阪市立大学大学院文学研究科 : 都市文化研究センター、2010年、167頁、NAID 40017042334。
- ^ 山田 2020, pp. 135–136.
- ^ 黒嶋 2012, pp. 320–321.
- ^ 山田 2018, pp. 15–17.
- ^ 平野編 2018, p. 12.
- ^ 岡田謙一 著「細川澄元(晴元)派の和泉守護」、小山靖憲 編『戦国期畿内の政治社会構造』和泉書院、2006年、107頁。ISBN 4757603746。
- ^ 岡田 2006, p. 115.
- ^ 長江 1968, p. 10.
- ^ 長江 1968, pp. 14–15.
- ^ 今谷、天野 2013, p. 36.
- ^ 長江 1968, p. 35.
- ^ 今谷、天野 2013, p. 41.
- ^ 長江 1968, pp. 96‐98.
- ^ 長江 1968, pp. 105‐106.
- ^ 長江 1968, p. 161.
- ^ 長江 1968, pp. 178–180.
- ^ 長江 1968, p. 196.
- ^ a b 福島 2009, p. 142.
- ^ 今谷、天野 2013, pp. 152‐153.
- ^ 今谷、天野 2014, pp. 153‐154.
- ^ 田中信司「松永久秀と京都政局」『青山史学』第26号、2008年、48-49頁、NAID 110007536209。
- ^ 福島 2009, p. 132.
- ^ 弓倉 2006, pp. 38–39.
- ^ 弓倉 2006, pp. 40–41.
- ^ 弓倉 2006, p. 45.
- ^ 弓倉 2006, p. 270.
- ^ 弓倉 2006, p. 316.
- ^ 小谷 2003, pp. 74–75.
- ^ a b 弓倉 2006, p. 236.
- ^ 川岡, 勉「河内国守護畠山氏における守護代と奉行人」『愛媛大学教育学部紀要. 第II部, 人文・社会科学』第30巻第1号、愛媛大学教育学部、1997年、36頁、NAID 110000116593。
- ^ 小谷利明「畿内戦国期守護と室町幕府」『日本史研究』第510号、日本史研究会、2005年、71頁、NAID 40006645994。
- ^ 弓倉 2006, p. 328.
- ^ 弓倉 2006, p. 277.
- ^ 弓倉 2006, p. 332.
- ^ 小谷 2003, p. 295.
- ^ 小谷 2005, p. 74.
- ^ 弓倉 2006, p. 338.
- ^ 弓倉 2006, p. 222.
- ^ 弓倉 2006, p. 340.
- ^ 弓倉 2006, pp. 346–347.
- ^ 川岡 1997, p. 37.
- ^ 小谷 2003, p. 104.
- ^ 清水, 敦之「戦国期丹後一色氏の基礎的研究」『戦国史研究』第82号、戦国史研究会、2021年、11頁、NAID 40022732005。
- ^ 川岡勉「戦国期但馬の守護と領主」『愛媛大学教育学部紀要』第61巻、愛媛大学教育学部、2014年、255頁、NAID 120006527004。
- ^ 野田泰三「戦国期における守護・守護代・国人」『日本史研究』第464号、日本史研究会、2001年、91‐92、NAID 40002931450。
- ^ 村井 2019, p. iii.
- ^ 新谷和之「戦国期近江三雲氏の動向 : 大名権力と惣国一揆の接点」『市大日本史』第023号、大阪市立大学日本史学会、2020年、43頁、NAID 120007046084。
- ^ 高橋昌明『増補 湖の国の中世史』中央公論新社、2008年、252頁。ISBN 9784122050655。
- ^ 宮島 2008, p. 44.
- ^ 村井 2019, pp. 87–90.
- ^ 新谷和之「戦国期六角氏の地域支配構造 : 地方寺社への関与を手掛かりに」『市大日本史』第013巻、大阪市立大学日本史学会、2010年、92頁、NAID 120006002945。
- ^ 村井 2019, p. 183.
- ^ 山田 2003, pp. 48–50.
- ^ 宮島 2008, p. 72.
- ^ 宮島 2008, pp. 153–155.
- ^ 木村靖「六角氏式目制定の目的と背景」『鷹陵史学』第1号、鷹陵史学会、1975年、88頁、NAID 120007020919。
- ^ 村井 2019, p. 284.
- ^ 宮島 2008, pp. 192‐193.
- ^ 宮島 2008, p. 198.
- ^ 宮島 2008, p. 221.
- ^ 宮島 2008, p. 267.
- ^ 平野健一郎「中世日本における文化的・政治的統合-文化運搬者としての連歌師宗祇をめぐって-」『国際政治』第1978巻第59号、日本国際政治学会、1978年、11頁、NAID 130004302331。
- ^ 鶴崎裕雄「銭を運ぶ連歌師 : 日記・紀行文を資料として」『國文學』第103巻、関西大学国文学会、2019年、190頁、NAID 120006602815。
- ^ 平野 1978, p. 7.
- ^ 鶴崎 2019, p. 191.
- ^ 脇田晴子「文化の政治性--天皇と中世文化をめぐって」『大谷学報』第84巻第3-4号、大谷学会、2006年、50頁、NAID 120005745269。
- ^ 脇田 2006, p. 49.
- ^ 畠山亮「中世後期村落に於ける領主についての一考察」『法制史研究』第2001巻第51号、法制史学会、2001年、107頁、NAID 130003445600。
- ^ 神田千里『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002年、86-87頁。ISBN 978-4124902204。
- ^ 山本 2007, pp. 272–274.
- ^ 神田 2002, p. 88.
- ^ 朝尾 1993, p. 25.
- ^ 朝尾 1993, p. 53.
- ^ 香川 2012.
- ^ a b 香川 2012, p. 72.
- ^ 千田嘉博「戦国領主と城郭」『文化財学報』27集、奈良大学文学部文化財学科、2009年3月、47-54頁。
- ^ a b c 中井均『城館調査の手引き』山川出版社、2006年。ISBN 978-4-634-15091-1。
- ^ 西ヶ谷恭弘; 阿部和彦; 大橋健一; 笹崎明 著、西ヶ谷恭弘 編『城郭の見方・調べ方ハンドブック』東京堂出版、2008年。ISBN 978-4-490-20636-4。
- ^ 川岡勉「武家権門の成立と西国領主 : 伊予国の事例から」『愛媛大学教育学部紀要. 第II部, 人文・社会科学』第26巻第1号、愛媛大学教育学部、1993年、11頁。
- ^ 北西弘「戦国大名と本願寺--武家門徒の問題をめぐって」『大谷学報』41巻3号、大谷学会、1962年、16頁。
- ^ 西谷正浩「中世後期における山城国上久世荘の農業生産」「中世後期における山城国上久世荘の農業生産」 『福岡大学人文論叢』 47巻3号、2015年, p.679-730, ISSN 0285-2764。
- ^ 西谷、2015年、pp.40-41
- ^ 西谷、2015年、pp.38-39
- ^ 西谷、2015年、pp.41-42
- ^ 湯川敏治「戦国期の公家」『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会、2005年。ISBN 978-4-7971-0744-9。
- ^ 神田千里『宗教で読む戦国時代』〈講談社選書メチエ〉2010年、49-87頁。ISBN 978-4-06-258459-3。
- ^ 有光友學 編『戦国の地域国家』吉川弘文館〈日本の時代史12〉、2003年、16頁。
- ^ 太田牛一「信長公記」巻14、八月朔日御馬揃への事。
- ^ 松本和也 著「宣教師から見た信長・秀吉」、堀新 編『信長公記を読む』吉川弘文館、2009年、124-125頁。
- 戦国時代 (日本)のページへのリンク