壬生周長とは? わかりやすく解説

壬生周長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/20 15:58 UTC 版)

 
壬生周長 / 壬生徳雪斎
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天正4年(1576年
別名 徳雪斎、徳節斎、徳雪斎周長、徳節斎周長、周良
主君 宇都宮氏
氏族 壬生氏小槻氏
父母 父:壬生綱重
兄弟 綱房周長、資長

壬生 周長(みぶ かねたけ) / 壬生 徳雪斎(みぶ とくせっさい)は、戦国時代武将下野宇都宮氏の家臣。壬生綱重の次男。兄に綱房、弟に資長周良[1]とも。

生涯

下野国の武将・壬生綱重の次男として誕生。

兄の綱房に協力し、壬生氏の勢力拡大に尽力する。主家の宇都宮氏軍師しても活躍しており、大永元年(1521年)、川井合戦で岩城氏那須氏と和睦をするよう進言し、岩城氏那須氏を和睦させることに貢献した[2]天文18年(1549年)、主君・宇都宮尚綱那須高資との合戦(喜連川五月女坂の戦い)で戦死すると、綱房と共に宇都宮城を占拠した。しかし、同24年(1555年)に綱房は急死(芳賀高定による謀殺とも)し、弘治3年(1557年)には宇都宮勢との戦いに敗れ、宇都宮城を奪還された。

周長は以後一貫して宇都宮氏への従属の姿勢であったが、綱房の跡を継いだ甥の壬生綱雄は宇都宮氏からの独立を画策し、一族内で対立。また、周長が宇都宮広綱の意向を代行して佐竹氏や小山氏と外交交渉を行って後北条氏と対抗したり、鹿沼を拠点として綱雄に代わって日光山支配に乗り出したりしたことで、親後北条氏派の綱雄との対立を深めていくことになる。天正4年(1576年)、周長は芳賀高定と謀って綱雄を鹿沼城の天満宮で暗殺した。しかし、同年に綱雄の子・壬生義雄との合戦に敗れ、周長は殺害された。

脚注

  1. ^ 『下野國志』
  2. ^ 『那須記』

参考文献

  • 佐々木茂「徳雪斎周長の政治的位置」(初出:『かぬま 歴史と文化』8号(2003年)/所収:江田郁夫 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』(戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-043-4




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