戦国時代 (日本)
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戦国時代の「天下」と「国家」
天下という概念は本来的には領域を持たず、内部に地理的な区分としての「国」を含むものとされている[92]。しかし戦国期の日本国では、この時代固有の認識が存在していた。
戦国期の「天下」は、漠然と日本全国のことを指して使用することもあるが、具体的には足利将軍の事を意味し[93]、領域としては京都を含む五畿内のことを「天下」と言う[94]。織田信長が永禄10年(1567年)以降使用するようになった「天下布武」の印章も天下、即ち五畿内に将軍の支配の下に静謐(平和)をもたらそうとする意志の表明であった[95]。戦国期、布教活動のため来日したイエズス会の宣教師たちが編纂した『日葡辞書』は「天下」について、「帝国もしくは君主国」或いは「日本の君主国」と記している[96]。
一方の「国家」や「国」「御国」は戦国大名などが使用した言葉で、「国家」とは「国」と「家」が合体した言葉である。「国」は分国を意味し、その集合体が領国とされる[97]。『日葡辞書』に「国家」のことを「国と家、または国と一族」と記される通り[98]、戦国大名による「国家」は大名家一族による支配が前提にあった。戦国期の「国家」には国民主権は無く、領民は戦国大名に服属し依存するだけの存在でしかなかった[99]。しかし戦国大名の「国家」には明確な限界が存在した。戦国大名は「国家」文言を一族・家臣・寺社に対してのみ使用し、国人・国衆は大名の「国家」を受容してはいなかった[97][100]。また後北条氏は領民に対しては「国家」の代わりに「御国」という言葉を使用したが、その範囲は分国全域に広く行き渡るものではなく、後北条氏一門の直轄地に対して限定的にしか使用されなかった[101]。
「天下」と「国家」は領域の違いだけではなく、それを使用する足利将軍と戦国大名の政治的な次元自体が異なっていたとされ[102]、将軍による「天下の政道」と大名による「分国の政道」が重層的に存在していたとされる[103]。また「天下」の事柄は「国」の事柄よりも優先され[104]、大名が「天下」の平和のために尽力することは将軍への奉仕を意味していた[105]。
注釈
- ^ 一方で遠国の領主の中には両属的な対応を取った事例も確認できる。明応4年、陸奥の結城政朝は上洛の途次、経由地の越中で足利義材に挨拶を行った上で京都に上っている[19]。
- ^ ただし、伊勢氏(後北条氏)が大名格にまで身分を上昇させるのは北条氏康期以降である。それ以前は身分的には国人に過ぎず[21]、天文年間末期の古河公方・足利義氏擁立段階に至っても、後北条氏は古河公方を推戴することによってしか地域支配を貫徹しえない状況であった[22]。
- ^ 既に戦国時代最末期であるが、足利将軍の権威性は依然として健在だった。元亀3年、毛利輝元の攻勢を受け危機に陥っていた備前の浦上宗景は、義昭に芸備和睦の斡旋を願い出た。備前への侵攻作戦を目前にしていた毛利氏にとって、浦上氏との和睦は到底受け入れ難いものであったが、「今度芸備和平之儀、雖非本意候、京都御下知之条、不能違背、応上意候」と京都(将軍)の命令に背くことは出来ないとして和睦を受諾している[85]。
- ^ a b 「日本の近世城郭は16世紀第4四半期に原型が成立し、17世紀第1四半期にもっとも複雑化した。16世紀第3四半期までは日本の拠点城郭(戦国期拠点城郭)はそれぞれの地域性を色濃く備えた。そうした戦国期拠点城郭のプランに表れた地域性は、築城主体であった権力構造の反映であった。そうした地域性は巨視的に見れば城郭構造の求心・階層構造を指向したものと、並立的な城郭構造を指向したものに区分される。」[186]
- ^ 「根小屋」という用語について香川元太郎は、城の前に形成された家臣屋敷の集合集落としている[185]。
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