宋 (王朝) 軍事

宋 (王朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/08 14:10 UTC 版)

軍事

宋の兵制は基本的に傭兵制(募兵制)で、禁軍・廂軍・郷軍によって構成された。禁軍は皇帝直属の中央軍として編成され、内地では首都や駐屯地の防衛と治安維持を担い、交代制で外地への出征に備えた。武官の待遇は文官に劣り、また唐末から五代期に頻発した将軍達の軍閥化を警戒するあまり、文官の統制下に置かれ、その容喙は多かった。また逃亡を予防する為、兵士の顔には、それまで罪人に課されていた刺青が彫られた為、兵士の社会的地位は著しく低下し「良い鉄は釘にならず、良い人は兵にならず」と言わしめたという。結果的に、膨大な人数を誇ったが、質的には脆弱で、宋の歴史を通して大きな活躍はできなかった。

その一方で不十分ながらも職業軍人制度・保障制度が確立され、近代的軍隊制度に近い仕組みが運用されていた(もっとも、明や清に継承されなかった)と再評価する見解もある[9]

指揮系統・作戦

宋の軍隊は五代以来の習慣として、枢密院を軍事の最高機構として皇帝に直属させ、その長官である枢密使と副使は文官が担ったが、その下僚の枢密院都承旨や検詳官、詳覆官、計議官、編修官などは主に武官から補充される場合が多かった。枢密使の地位は宰相に次いで非常に高く、こうして宋では文武の両権を官僚である士大夫達が握っていた。ただし、南宋前期(孝宗)になると閤門舎人・知閣門事など武官が任じられる皇帝側近の地位が設けられ、南宋後期(寧宗)になると宰相が枢密使を兼ねるようになり、文官における文武の二分制も消滅した。

また、こうして枢密院は宋の軍事全般を管理したが、禁軍の統帥権はなく、それらは皇帝の下に三衙と呼ばれる殿前司(近衛軍)、侍衛馬軍司(騎馬軍)、侍衛歩軍司(歩兵軍)の三部署がそれぞれ独立して統率していた。これらの長官は都指揮使と呼ばれ、侍衛馬軍指揮使と侍衛歩軍指揮使は、それぞれ廂軍の兵士を束ねる権限を名目上は持っていた。

ただし、南宋代になると、御営司や五代帥、各制置司が各地域の軍を指揮するようになり、三衙の権限は大幅に低下した。

一方で、軍隊に適用する特別な法規(軍法)に関しては、唐代の『太白陰経』と宋代の『武経総要』に引用された軍法を比較すると、後者の方がより緻密で国家による軍隊・兵士の統制の意思をより強く出されたものになっていた[10]

各軍

禁軍は北宋中期に82万を数えたものの、唐末の節度使の弊害に鑑みて施行された定期的に駐屯地を変更する更戍制により、軍閥化は避けられた反面「将は兵を知らず、兵は将を知らず」と謂われる状況で、当時から意思疎通が計れず臨機応変な対応を執れないと評されている。兵士は、月給として料銭半貫と糧米を1,5貫、春秋に紬絹6疋と綿12両、衣3貫、ボーナスとして三年に一度、銭15貫を支給され、駐屯地は、首都近辺と北辺(国境地帯)に偏在していた。また募兵時に壮健な者は禁軍に入れられ、劣る者が廂軍に集められ、禁軍の中でも、惰弱な者は随時廂軍に落とされ、これを落廂と言った。

廂軍は名目上は地方の府兵や州兵・軍兵だが、実際は軍事訓練や戦闘参加をせず、専ら行政・軍事上の雑役や警察・輸送に当たった。主に犯罪者(「配軍」と呼んだ)または浮浪者や落伍兵から構成された。ただし、水軍だけは廂軍が主力を担い、訓練や治安維持を行い戦闘に赴いた。

郷軍は地方政府が地元から選抜あるいは募集した傭兵で、平時は生業に携わり農閑期に軍事訓練や防御施設の補修・治安維持・輸送などに当たり、戦争の際は禁軍の補助を務めた。

待遇

「禁軍選補法」が制度化され、基本的に禁軍や廂軍は高齢になると除名されるか、降格されて剰員となり、いずれにしても満六十歳までに退役した(ただし、元祐年間に能力・功績がある禁軍兵士の退役が満六十五歳まで引き上げられた)。また制度上では年に二回の武芸審査が課され、廂軍でも壮健で武芸に勝るものは禁軍に昇格し、逆に禁軍でも最低基準に達しないものは、馬軍から歩軍へ、さらに廂軍へと降格されることが定められた。宋も後期になり、情勢が逼迫すると各村々で健康的な若者を誘拐同然に強制徴募し、兵役につかせることも相次いだ。

一方で剰員は退役した兵士を待遇を切り下げて再雇用する制度で禁軍および傷病者は七十歳まで、廂軍は六十五歳まで所属する事ができ、年齢に達すると放停されたが、事実上国家が終身の面倒をみる形となった。剰員には倉庫や宮観の警備や役人の護衛、物資の輸送などの軽微な仕事が与えられた(禁軍には「帯甲剰員」と呼ばれる武装を認められた予備役的存在もいたが、元祐年間に能力・功績があるものの退役が満六十五歳まで引き上げられたのに伴い廃止されている)が、戦乱続きの後には剰員の多さとそれに伴う財政負担の問題が生じた。また、年老いて帰国する事もままならない外国人兵士も剰員に加えられ、その中には契丹人・渤海人と並んで日本人兵士が存在したことをうかがわせる史料[11]がある。戦死者の遺族や高齢や病気・怪我で退役した兵士にも不十分ながら保障が与えられている。また、郷兵の場合には退役後には帰農する場合も多かった[12][13][14]

編成

当初は営(別称:指揮)と都を基本とし、一営は五都からなり、一都は100人で編成された。営には指揮使が任命され、この営が集まって一つの軍が組織され、その指揮官は都指揮使と呼ばれた。ただし、北宋後期には、集まる指揮に特に決まりのない将兵という単位が新設され、また末端単位も兵五十人からなる隊に改められた。

兵種・武器

宋は西北の馬産地を常に隣国に押さえられていた為、軍馬に乏しく歩兵が部隊の大半を占めた。(仁宗時、禁軍の約七割が歩兵軍)北方の騎馬部隊を相手にする必要上、その歩兵の武器は次第に飛び道具に重点が置かれ、中期以降は大多数が弓弩手で、次に槍兵や刀兵が、最後に少数の火器兵から構成された。(初期は三割が弓弩手)


注釈

  1. ^ 法律上は1袋が18斤、茶葉の等級により1等が1斤(約500g)100文・2等90文・3等70文だが、実際は官僚が4~5割を抜取り1袋12 - 15斤、1等60文・2等47文・3等37文で計算した
  2. ^ 河南府・鳳翔府・同・虢・儀・蘄・黄・袁・英州・興国軍
  3. ^ 晋・磁・鳳・澧・道・渠・合・梅・陝・耀・坊・虔・汀・吉州
  4. ^ 信・鄂・連・建・南剣州・邵武軍
  5. ^ 白地黒掻き落としとは胎土の上に白化粧土を施し、更にその上に黒化粧土を施す、その後で黒化粧土だけを掻き落とすことで模様を描く手法のことである。掻き落とす際に黒化粧土のみを落として白化粧土を落とさない細心の注意が必要となる高度な技術である。黒掻き落としの技法は非常に手間が掛かるため新たに白地に直接描く方法が生まれた。これが赤絵の技法となる。
  6. ^ 10世紀。ギメ東洋美術館所蔵。
  7. ^ 『泊宅編』では日本で生まれた技法と記す。
  8. ^ a b 季節によって変動する不定時制。大体夜11時から朝の4時まで。
  9. ^ 北宋・南宋交代期やモンゴルによる攻撃が強まった時期などは米価も跳ね上がり、1升で340銭という極端な数字が残る。
  10. ^ 太極とは天地万物の理、天地は太極の間にあり、万物は太極の間にある。まず理があり、理が無ければ天地は無く、また万物も無い。理があって気が生じる。宇宙に理が無ければ気も無く、また気が無ければ理も無い、万物は気を以て形作る。気が積もって質となり、性が具わる。理は法則であり、気は実体である、先後は無い。気は理に従い、理は気の中にある。以下略
  11. ^ 宇宙に性の無い物は無い。そこに物が有れば、則ちそこに性がある、物が無ければ、性は無い。人と物の生は、天賦が偏り、固より同じではない。その偏りに従って、清濁昏明の差異がある。物々は運動し、人との違いは無い。しかし、人の仁義礼智は本来の姿であり、物々には無い。そこで改めて人の生を性とする。人の性には明暗通蔽開塞があり、塞者は牢固で開かれず、厚者は開き難く、薄者は開き易い。以下略
  12. ^ 性の人に在っては形有る心を為す。意識すればそこに有り、しなければ見えない。心は性が具体化したもので、本来同一である。全ては理であり、理を天と言い、天賦を性と言う、人々はそれを心と言う。ゆえに性は即ち理であり、所謂理とは性である。
  13. ^ 「所以然」そうであるがゆえに「所当然」そうせねばらならない。「人間としての性」ゆえ(所以然)に、「仁義礼智を実行」せねばならない(所当然)。ということである。
  14. ^ 真宗の代になって翊聖保徳真君と称され像が建てられた。建像は(1014年大中祥符七年であるが、大中祥符という元号もまた道教の影響である。
  15. ^ 1008年、宮殿の屋根に大中祥符なる天人が降した天書(天の書物)が現れたという事件が起こった。これに喜んだ真宗は大中祥符へ改元し、封禅の儀を盛大に執り行なった。この事件は道教に好意的な王欽若と道士が結託し、宋皇室による道教の保護を獲得するため画策したと思われる。
  16. ^ 西崑とは西方の崑崙の意味であり、晩唐の李商隠に倣い、詩の中で幻想の世界に遊ぶ華麗な詩風である。故事や先人の詩を多く引いた装飾を凝らした表現が特徴である。
  17. ^ 西崑体は後に欧陽脩によって危機感に欠けると批判され、長らく省みられなかった。
  18. ^ 欧陽脩は感情を抑制した端正な情景描写が特徴である。梅堯臣はミミズなどのそれまで詠まれなかった事物を使った詩が有名。蘇舜欽は霹靂や蛟龍などを使った激情的で豪放な詩を得意とする。いずれも、物事を正面から捉え、平易な言葉で表現した叙事詩である点に特徴があり、欧陽脩らによって宋詩の様式は完成に至ったといえる。
  19. ^ 蘇軾は若き日より文名が極めて高く、蘇軾に無許可で詩集が出版されたもある。蘇軾は自由闊達・縦横無尽な表現を駆使する。自由闊達であり一定した詩風は見出せない。
  20. ^ 黄庭堅の詩は故事や古詩から「換骨奪胎」し、思索と推敲を重ねて自分の詩を創る詩論を提唱した。
  21. ^ いずれも黄庭堅の流れを汲む江西詩派であり、
  22. ^ 范成大は参知政事まで昇った高級官僚であり、その地位に相応しく端正な詩風である。一方で田園詩人の顔も持ち、農村の人々を詠む際には人懐っこい表現を見せる。楊万里は絶句を得意とし、精緻な観察眼の元にハエやスズメなどの動物の動向を詠んだ詩、あるいは人々の日常の細々とした出来事を読み込んだ詩に特徴がある。
  23. ^ 陸游は曾幾に師事したこともあって、初めは江西詩派の技巧を凝らした詩風であったが、次第にそれに飽き足らず独自の境地を開いた。
  24. ^ これが元で生涯官僚としては不遇であったが、その環境が彼の詩にさらに深みを与えることとなった。官僚としての不遇・金に国土を奪われていることへの憤慨・その状況に何も成しえない朝廷への失望といった感情を読み込んだ詩が若き日には多かったが、年を経るごとにそのような感情から一歩引いて広く見渡せるようになり、日常の何気ない出来事や生活を読み込んだ詩も多くなる。
  25. ^ 永嘉、現在の浙江省温州市出身ないし居住で字や諡に霊を含むことに由来する
  26. ^ 趙師秀が最も高名で、平易な文章で平淡に山水を詠んだ詩が特徴。江湖派は民間の詩人の詩を集めた『江湖集』という詩集に由来があり、民間の詩らしく当事の政治を風刺した詩が特徴的。
  27. ^ これに対し、唐の韓愈柳宗元らの古文復興運動の流れを受け継ぎ、
  28. ^ 太学体の実態については具体的には不明である。従来は『御覧経史講義』の沈徳潜の見解に従い、駢文であろうと考えられていたが、葛暁音「欧陽修排抑「太学体」新探」(1983年)、および日本の東英寿「「太学体」考─その北宋古文運動に於ける一考察」(1988年)らの研究よって、現在の学界では古文の一種であったというのが通説となっている。本節でもこの見解に従うことにする。さらに近年提出された朱剛「「太学体」及其周辺諸問題」(2007年)では、太学体は石介の文体とは関係なく、程頤らの思想の影響を受けた文章であるとするが、朱氏も太学体が古文であったことは否定していない。
  29. ^ 彼の「酔翁亭の記」では、山に囲まれた風景を書き表そうとした時に東に何々山があり、西に何々山があり…と文章を並べてみた所、どうにも長すぎる。と悩んだ末に「環滁皆山也」(周りは皆山)という五字に圧縮したという逸話は彼の精神を良く現しているといえる。
  30. ^ 王安石の文章は「健」と評される。世間一般と対立しても方針を貫く王安石の政治姿勢と同じく、その文章にも気魄が現れている。蘇軾の文章は「奇」と評される。詩風と同じく一つ所に留まらず、才能の赴くままに飛び回るのが所以である。
  31. ^ 張先は都官郎中を最後として退官し、以後は杭州に隠棲してこの地で八十九まで長寿を誇った。その間、様々な人物が張先の元を訪れてこの時代に於ける詞のサロンを作っていた。それまでの詞では元の曲名(詞牌)のみが記されていることが多く、その詞の背景に付いては全く分からなかったのだが、張先の始めたことから詞を詠んだときの状況が簡単に付されるようになった。
  32. ^ 柳永は科挙を受けるため開封へ来たが、身を持ち崩し娼館に入り浸るに至った人物である。その経験からか男女に関する詞が多く、使われる表現も俗語を交えたもので、士大夫からは激しく批判された。
  33. ^ 表現が露骨でなく奥深く、全体の調和が取れて雅であるという意味である。
  34. ^ その憂国の志を詠んだ詞が多く、周邦彦とは異なり率直な表現が特徴。
  35. ^ その生涯とその詩風は孤高という点で通じ「清空」と評される。南宋以降には官途に就かず詩・詞などに専従する専門文人が登場するが、姜夔はそのはしりである。
  36. ^ 詞は精巧さを極めるが、解り辛い面もある
  37. ^ 唐の閻立本太宗に「画師」と呼びつけられたことを屈辱に思い、子孫は画家にならないよう遺言したという。
  38. ^ 李成は唐李氏の末裔で華北黄土地帯の険しい山岳の風景を得意とし、董源は元南唐の宮廷画家で江南のなだらかな風景を得意とする。
  39. ^ 部分部分はよくある風景ながらも全体を見渡すとこの世の何処にも存在しない理想化された山水画を作り上げ
  40. ^ 唐の伝統を受け継いだ明確な輪郭線・豊かな色彩・写実主義が特徴の
  41. ^ 「徐氏体」は墨のみを使い、画題も自然の中の鳥を対称にする、没骨(輪郭線が無い)などが特徴である。
  42. ^ 院体画では華北山水が主流であり、江南山水はその中で次第に忘れられた。
  43. ^ 馬遠・夏珪の山水画は、自然の一部分を切り取って描いたため「馬の一辺」「夏の一角」と後の批評家に批評される。また北宋様式は近景・中景・遠景の三段階であったが、南宋様式では近景・中景の二段階になり、遠景が入る部分は空白が占めるようになった。
  44. ^ この様な様式の求める所は、観る者の想像力を掻き立てて形無いものを表現する所にあるとされる。馬遠・夏珪などの南宋院体画は日本で高い人気を誇り、日本の水墨画に大きな影響を与えた。しかし、南宋の専門画家の山水画は高い評価を与えられず、前述の「馬の一辺」「夏の一角」にしても「南宋偏安」と、北宋の厳しく雄大な山水画に比べ、南の狭い所で安寧を得たので画風も狭くなったと批判的に評される。
  45. ^ 宋迪には薄絹を通して壊れた土塀を見、そこから連想した風景を創造したという逸話がある。
  46. ^ 日本に輸入されたものが多いが、床の間に飾るためにトリミングされたものが多く、全体の傾向が捉え難い。
  47. ^ 南唐顧閎中『韓煕載夜宴図』を宋人が模写したもの。
  48. ^ 徽宗皇后鄭氏。
  49. ^ 饅頭と包子の違いは皮を発酵させるかどうか。
  50. ^ ここから「蘇軾が東坡肉を作った」という話がある。
  51. ^ 片・串はいずれも片茶一個のこと。
  52. ^
    1. 茶摘み
      • まず茶葉を摘む季節は驚蟄(今の暦で3月6日ごろ)に行う。茶を摘むときには細心の注意を払わねばならず、熟練の腕が必要になる。摘む時に、指の腹を使うと指の脂などが茶葉に移るので、爪を使って摘む。摘んだ葉は上から「闘品」(闘茶に使われる最高級品)・「揀芽」(芽一つに葉一枚。一槍一旗)「次品」(芽一つに葉二枚。一槍二旗。現代ではこれが茶摘の基本である)・「下茶」(それ以下)と分けられる。
    2. 蒸す
      • 摘んだ茶葉を水洗いし、蒸す。蒸し過ぎると味が薄くなり、蒸しが足りないと味が濃過ぎる。なお、現代の中国茶は炒るのが一般的である。
    3. 搾る
      • 蒸した葉を水洗いし、小搾(搾り器)にかけて水分を出し、更に布帛で包んで大搾にかけて膏(茶の成分)を出し、乾くまで行う。『茶経』では膏がなるべく出ないよう注意するとあるのに対して、宋代は膏を出す。膏を出しては味が薄くなると思えるが、建茶(福建の茶)は江茶(長江流域の茶。唐代までは福建よりも長江流域が主な産地)に比べて遥かに味が濃いので、江茶は膏を出さず、建茶は膏を出す方が良いということである。
    4. 研る(する)
      • 茶葉をすり鉢に入れ、水を加えて研り、水を加えて熟す。この作業は強力の者が行ない、高級品は1日に1個作れる程度というから、繊細な作業でもあったと推察される。
    5. 型入れ・仕上げ
      • 磨った茶を型枠に入れて固形にする。型に龍や鳳の絵が書かれており、茶へ龍・鳳の印が押される。型から出した後、焙った後に熱湯へくぐらせる作業を3度繰り返し、火を1晩入れた後、煙焙(煙で燻す機械)に入れて小さいものは6日から8日、大きいものは10日から15日ほど経たせる。煙焙から出した後、湯にくぐらせ扇いで乾燥させる。以上で完成である。
  53. ^ 11世紀。ギメ東洋美術館所蔵。

出典

  1. ^ 『南宋・金 世界美術大全集 東洋編6』小学館、2000年3月。ISBN 978-4096010563 
  2. ^ 土肥(2017)57ページ
  3. ^ 周藤・中嶋(2004)401頁以下
  4. ^ 菊池(2021)14頁
  5. ^ 『鶏肋編』
  6. ^ a b c 11世紀。フリーアサックラーギャラリー所蔵。
  7. ^ 斯波1988、P17
  8. ^ 岡元司「南宋期浙東港湾諸都市の停滞と森林環境」「周防から明州へ」『宋代沿海地域社会史研究』汲古書院、2012年(原論文:1998年・2006年)
  9. ^ 齋藤忠和『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7 終章「募兵制と近代的軍隊の指標」
  10. ^ 齋藤忠和「北宋の軍法について」(初出:梅原郁『中国近世の法制と社会』(京都大学人文科学研究所、1993年)/所収:齋藤『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7
  11. ^ 『宋史』巻189「兵三廂兵」大中祥符5年2月条
  12. ^ 齋藤忠和「北宋の剰員・帯甲剰員制」(初出:『立命館史学』8号(立命館史学会、1987年)/所収:齋藤『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7
  13. ^ 齋藤忠和「南宋の剰員制」(初出:『立命館史学』11号(立命館史学会、1990年)/所収:齋藤『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7
  14. ^ 齋藤忠和「兵士はどこへ行くのかー禁軍兵士への保障からみた北宋募兵制の一側面」(初出:『社会経済史学』(社会経済史学会、2007年)/所収:齋藤『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7
  15. ^ この節は井上2002を参照。
  16. ^ 宋史』「邢昺伝」
  17. ^ この節は傅1997を参照。
  18. ^ 岡元司「疫病多発地帯としての南宋期両浙路」『宋代沿海地域社会史研究』汲古書院、2012年(原論文:2009年)
  19. ^ この節は金井1980を参照。
  20. ^ 『晩笑堂竹荘畫傳』より。
  21. ^ a b c d e f g 台北国立故宮博物院所蔵。
  22. ^ 個人蔵。
  23. ^ 日本根津美術館所蔵。
  24. ^ アメリカ個人蔵。
  25. ^ この節は杉村2002を参照。
  26. ^ 上海美術館所蔵。木製
  27. ^ この節は華2003を参照。
  28. ^ a b c 清明上河図』の一部。
  29. ^ この節は篠田1981、石毛編1985、張1997、中村2000を参照。
  30. ^ 篠田1981、P127。
  31. ^ 石毛編1985、246p及び張1997、P154。
  32. ^ 篠田1981、P127
  33. ^ アメリカネルソン・アトキンズ美術館所蔵。





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