宋 (王朝) 文化

宋 (王朝)

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文化

宋代の初期には、皇帝の詔勅による文化事業として、「四大書」と総称される大部な書物の編纂が、相次いで行われた。太平興国三年(978年)の『太平広記』500巻、太平興国八年(983年)頃の『太平御覧』1000巻、雍熙三年(986年)の『文苑英華』1000巻、大中祥符六年(1013年)の『冊府元亀』1000巻である。

思想・宗教

儒教

程顥
程頤
陸象山
朱熹

科挙の隆盛により、知識人はほぼ完全に儒教を基礎とする人物となった事で、宋は歴代でも儒学の強い時代である。その儒学の中で道学と呼ばれる新しい学問が始まり、後に朱子によって集大成されて朱子学となる。

宋学の主な学派は、王安石王雱親子の新学蘇軾蘇轍兄弟の蜀学、張載関学程顥程頤兄弟の洛学である。それ以外には周敦頤邵雍などが挙げられる。

北宋期宋学の共通点は、漢唐訓詁学に対する批判から始まる点である。訓詁学は孔子が残した(とされる)経書を解釈し、教えの正確な把握に努める。対して宋学では語句の解釈のような「瑣末な」問題には拘らず、この世界を司る天理の解明を追求する。

朱熹の登場

北宋代に形作られた新儒教の流れを大成したのが南宋の朱熹であり、その学問朱子学代まで中国の中心思想であったのみならず、影響は日本朝鮮など東アジア全体に広がり、その影響は現在に至るまで大きい。

朱熹は程顥・程頤の流れを汲む道学の徒だが、その理論を大きく発展させた。

などの理論がある。

朱熹は四書五経などの経書に自らの解釈を持って注釈を施すと共に、細密な理論体系を構築し朱子学を建てた。朱子学は南宋思想界の大勢力の一つとなった。韓侂冑により慶元偽学の禁が出され一時弾圧されたが、禁解除後は再び思想界の主流となる。以後の王朝では官学となり東アジアにも広い影響を及ぼした。

同時代の思想家として他に名声を箔したのは陸象山である。

仏教

唐代は儒仏道の中で最も隆盛を誇った仏教だが、唐代に主流だった経典解釈を中心とする仏教は宋代では振るわず、士大夫層には自己言及的な禅宗が、民衆層では阿弥陀如来の救済を求める浄土教が盛んとなった。

但し、北宋初においては、太祖が971年に『大蔵経』の1076部5048巻という大々的な出版を行い、また太宗と真宗の時代には、伝法院で234部489巻という大規模な訳経事業が行なわれている。これは、主に密教経典が訳されたものだが、この時期はインドの仏教の最末期に当たり各地で仏像や寺院などが破壊され仏僧は国外へと逃亡した。その中で中国へ渡来したのが施護や法賢であり、彼らを中心に訳経が行われた。

禅宗では、いわゆる「五家七宗」が確立したが、その中でも臨済宗が最も栄えた。士大夫層には禅宗の信者が多く、熱心な研究者も多かった。宋学の理論には禅宗の影響が強かったが、同時に研究の上で仏教を「夷狄の学問」とする排撃も見られる。朱熹も初め禅の信徒であった。

道教

太祖は三教を概ね平等に扱い、一つに傾倒することは無かったが、最晩年から変化を始める。道士の張守真が太祖に招聘され、太祖の死と太宗の即位とを予言し、その後は太宗の傍で度々神託を降したという。[注釈 14]

真宗は澶淵の盟によって訪れた平和を最初喜んだが、王欽若に城下の盟と言われ自らの威厳を損ねたと感じるようになった。これを利用して王欽若や道士が画策したとされるのが天書事件である。 [注釈 15] この後、真宗は道教に好意的になり、道士に対する免税や大規模な道観の建築などを次々と行った。また道教の経典の整理を行わせ、1019年に『大宋天宮宝蔵』と名づけられた書物を完成させた。

真宗の死後、宋朝の態度は以前の三教平等に戻ったが、徽宗に至って自ら道君皇帝と名乗り、『老子』や『荘子』に注釈を行う傾倒振りを示した。多数の道士が徽宗に侍ったが、その中で特筆すべきが林霊素である。

林霊素は1115年ごろ徽宗に道教理論を説いて認められ先生の号を授けられた。直後に道学(道教学校)が設けられ、太学に道教の研究を行う『道徳経』・『荘子』・『列子』の博士が設けられた。更に林の教唆により、仏教に対し仏→大覚金仙・僧侶→徳士などの改名や僧侶の道士服着用が強制されたが、これは一年で撤回された。

道教は隆盛したが、皇帝と結びついた教団は一般信者との乖離や堕落が見られ始め、これが北宋末から初期に登場する太一教全真教真大道教などの新道教を導くことになった。

南宋代もある程度の安定が得られた高宗および孝宗時代は、道教よりも仏教を優遇していた。また仏教・道教に共通して度張を売り出すと共に、免役銭を逃れを禁じ僧侶・道士にも免丁銭を課した。

南宋皇室と最も関係が深かったのが天師道である。高宗・孝宗などに天師が度々召され、道術により災いを祓って褒賞を受けたという。一方、上清派は皇室から遠く民間の勢力に留まっていた。総じて南宋代の道教は実態は判然としないが、あまり優遇されなかったようである。

その他・民間の宗教

[19]以上の三教が国家公認の宗教であるが、その他にも民間では様々な信仰対象があった。

例えば家の神として竈神が信仰を集めており、また農村では農業神が、街であれば城隍神が信仰されていた。他に地域の過去の偉人が祀られた場合もある。それらの神居として、社やが用意されるが、村の中心の物を村社・郷の物を郷社といい、村社は農民による自然発生的なものが多いのに対して、郷社の多くは士大夫や兼併など富民によって作られたようである。

規模が大きく規範の面で望ましくない民間信仰は「淫祀」とされ、社や廟が取り壊された。更に、危険な存在であると認識された場合には「邪教」とされ処罰の対象となる。

代表的な宗教はマニ教である。唐代には公認されていたマニ教であったが、呪術的な傾向を強めたため次第に政府の警戒を受け処罰の対象となった。方臘の乱の中核はマニ教徒ではないかとも言われる。

孝宗期に慈昭子元が創始した白蓮宗は弥勒信仰を中心とする仏教結社で、既存の宗派から異端視されたが民間に多数の信徒を集めた。しかし、後に白蓮宗の一部が弥勒下生を願う反体制集団白蓮教となった。

文学

北宋最高の文人、蘇軾

ウィキソースにそれぞれの原文がいくつかある。楊億林逋寇準欧陽脩梅堯臣蘇舜欽王安石蘇軾黄庭堅陸游楊万里范成大張先柳永周邦彦李清照

五代の詩は繊細な詩風を特徴とするが、が隆盛した一方で、詩は概ね低調であった。

北宋・真宗期の高級官僚の間では西崑体と呼ばれる詩風が流行した。[注釈 16]西崑体の代表としては楊億・銭惟演劉筠といった名前が挙がる。[注釈 17]

宋初には他に独自の詩風を持つ詩人も居り、まとめて晩唐派と呼ばれるが、詩風は同じでない。魏野・林逋寇準といった名前が挙がる。

仁宗期に入り、欧陽脩は韓愈に心を寄せて古文復興運動に取り組み、詩に於いても韓愈を手本、梅堯臣蘇舜欽を同士に新しい詩の流れを生み出した。[注釈 18]

神宗期に活躍したのが王安石であり、宋代最高の詩人である蘇軾である。王安石には政治に関する詩が多く、表現に於いては故事・古詩を盛り込みつつも端正な詩風である。

[注釈 19] 当代一の文人である蘇軾の周りには多くの才能ある文人が集まり、黄庭堅張耒晁補之秦観の四人は蘇門四学士と称されたが、中でも黄庭堅が文名・後世に最も大きい影響を与えた。[注釈 20]黄庭堅の詩風は多くの追従者を生み、後に江西詩派と呼ぶ流れを生んだ。

「漢武」楊億
蓬莱銀闕浪漫漫、弱水迴風欲到難
光照竹宮勞夜拜、露溥金掌費朝餐
力通青海求龍種、死諱文成食馬肝
待詔先生歯編貝、忍令索米向長安
「画眉鳥(ガビチョウ)」欧陽脩
百囀千聲隨意移、山花紅紫樹高低
始知鎖向金籠聽、不及林間自在啼
「鐘山即事」王安石
澗水無聲繞竹流
竹西花草弄春柔
茅檐相對坐終日
一鳥不鳴山更幽
「春夜」蘇軾
春宵一刻値千金
花有淸香月有陰
歌管樓臺聲細細
鞦韆院落夜沈沈

華北を失い江南へ押し篭められた激動の時代を代表するのが、陳与義曾幾呂本中の三人である。[注釈 21]時代を反映し亡国の悲憤を詠んだ歌が多い。杜甫を尊敬した陳与義は杜甫と似た境遇に遭った事で詩も杜甫に近づいたと評される。

孝宗の治世に入り、ある程度の安定を得た南宋で再び詩が全盛期を迎える。代表的なのは范成大楊万里、そして南宋最高の詩人である陸游である。 [注釈 22]

[注釈 23] 陸游は29歳の時に解試(科挙の一次試験)を受けて見事1位で合格したが、そのときの2位が時の宰相秦檜の孫である秦塤であったために省試(二次試験)では秦檜により落第させられたという。[注釈 24]結局86年という長寿を保ち、現存する詩は9000に及ぶ。

孝宗の治世末から平和な時代が続き、詩を詠む人間の数は大きく増加した。代表が永嘉四霊と江湖派であり、永嘉四霊とは徐照・徐璣・翁巻・趙師秀の四人である[注釈 25][注釈 26]

南宋も末に近づき、モンゴルの攻撃が日に日に激化する中で、激情を詠んだのが文天祥である。文天詳の詩としては「正気の歌」が有名で、その亡国を悲しむ詩は後世の愛国者に深い感銘を与えた。

南宋滅亡後、の時代になっても「宋の遺民」として過ごす人々がおり、彼らは在りし日の宋を懐かしんで歌に詠んだ。代表としては汪元量・謝翺・鄭思肖らの名が挙がる。

「墨梅」陳与義
粲粲江南萬玉妃
別来幾度見春帰
相逢京洛渾依旧
唯恨緇塵染素衣
「黄州」陸游

侷促常悲類楚囚、遷流還歎学斉優
江聲不盡英雄恨、天意無私草木秋。

萬里羈愁添白髪,一帆寒日過黄州
君看赤壁終陳蹟、生子何須似仲謀?
「約客」趙師秀
黄梅時節家家雨
青草池塘處處蛙
有約不來過夜半
閑敲碁子落燈花

散文

宋の初期、駢文と呼ばれる華麗で装飾を凝らした文体が主流であった[注釈 27]。柳開・王禹偁・石介・范仲淹などが駢文を空疎なものとし、代の簡素で質実剛健な文体(古文)への回帰を主張した。特に石介の文体は「太学体」と称され、科挙の受験で書かれる文体の主流となった[注釈 28]

だが、太学体の古文は韓愈の文体を受け継いだ晦渋難解なものであった。欧陽脩は嘉祐2年(1057年)、知貢挙(科挙の試験官)を勤めた際、蘇轍曾鞏らの答案を及第させ、太学体で書かれた答案は落第とした。この結果、欧陽脩その人、欧陽脩の同期でその理念に同調した蘇洵、蘇洵の息子の蘇軾・蘇轍、新法改革の王安石、そして欧陽脩の最も忠実な弟子といえる曾鞏、いわゆる「唐宋八大家」の文体が主流となった。なお蘇洵以外は全て欧陽脩の門下である。

同じ古文でも、欧陽脩の古文は韓愈の「陽剛」に対して「陰柔」と評される。欧陽脩は抑揚に欠ける部分もあるが、文体が平易で簡潔な上、論旨が明確で分かり易い。[注釈 29]欧陽脩の文体を最も忠実に受け継いだのが曾鞏であり、南宋以降の古文は基本的に欧陽脩・曾鞏を受け継いでいる。

王安石・蘇軾は基本的には欧陽脩の文体を引き継ぎつつも、その生涯と同じく独特な個性を放っている。[注釈 30]

漢文・唐詩・宋詞・元曲と後世に言われるように、北宋は五代を引き継いでが大きく隆盛した。

詞は唐代の燕楽(宴楽)を源流とする。宴楽という語の示すように宴席で演奏される曲に付けた歌謡が詞である。詞は叙情的な物が多く、また詩に於いては禁忌とされた恋愛歌などの俗な題材も扱われた。定型詩とは違い曲に合わせて謡うため、句の長短が様々なのが特徴である。

宋初では寇準などの詞が挙がるが、仁宗朝以降が真の隆盛期といえる。当該期の詞人には晏殊・欧陽脩・張先[注釈 31]柳永[注釈 32]らの名前が挙がり、特に後者二人は詞の新しい境地を開いた。張先により詞は日常的な事柄が詠まれ始め、詞が士大夫の間に敷衍したとされる。また柳永以降、小令という六十字までの詞以外にも、民間で流行した慢詞と呼ばれる長文が士大夫にも謡われるようになった。

神宗期で最も重要な詞人が蘇軾である。蘇軾は通判として杭州に赴任した際に張先と親交を結び、その影響を大きく受けた。しかし蘇軾の天才はそこに留まらず、従来の詞には登場しなかった『三国志』の赤壁の戦いなど勇壮な題材を選び、新境地を開いた。

#詩の節で紹介した蘇門四学士は何連も優秀な詞人でもあったが、その中でも秦観が最も文名が高く、師とは違って繊細で叙情的な詞を得意とする。

徽宗朝に入り、詞を集大成したのが周邦彦である。周邦彦は音楽に詳しく、徽宗に命ぜられて大晟府という音楽の部署を作った。周邦彦の影響力は極めて大きく、南宋の詞人は全て周邦彦を出発点として派生したといえる。その詞風は「渾厚和雅」と評される。[注釈 33]

もう一人挙げるべきは女流詞人李清照である。李清照は口語的な表現を多用し、女性らしい繊細な感情表現が特徴である。

「天仙子」張先
水調數聲持酒聽
午醉醒來愁未醒
送春春去幾時回
臨晩鏡
傷流景
往事後期空記省
沙上並禽池上暝
雲破月來花弄影
重重簾幕密遮燈
風不定
人初靜
明日落紅應滿徑
「甘草子」柳永
秋暮
亂灑衰荷
顆顆真珠雨
雨過月華生
冷徹鴛鴦浦
池上憑闌愁無侶
奈此箇
單棲情緒
卻傍金籠共鸚鵡
念粉郎言語
「念奴嬌」蘇軾
大江東去
浪淘盡 千古風流人物
故壘西邊
人道是 三國周郎赤壁
亂石崩雲
驚濤裂岸
捲起千堆雪
江山如畫
一時多少豪傑

遙想公瑾當年
小喬初嫁了
雄姿英發
羽扇綸巾
談笑間 檣櫓灰飛煙滅
故國神遊
多情應笑我
早生華髪
人間如夢
一樽還酹江月
「瑞龍吟」周邦彦
章臺路
還見褪粉梅梢
試花桃樹
愔愔坊陌人家
定巣燕子
歸來舊處

黯凝佇
因念箇人癡小
乍窺門戸
侵晨淺約宮黄
障風映袖
盈盈笑語

前度劉郎重到
訪鄰尋里
同時歌舞
唯有舊家秋娘
聲價如故
吟牋賦筆
猶記燕臺句
知誰伴、名園露飲
東城閑歩
事與孤鴻去
探春盡是、傷離意緒
宮柳低金縷
歸騎晩、纖纖池塘飛雨
断腸院落
一簾風絮
「声声慢」李清照
尋尋覓覓
冷冷清清
淒淒慘慘戚戚
乍暖還寒時候
最難將息
三杯兩盞淡酒
怎敵他
晩來風急
雁過也
正傷心
卻是舊時相識

滿地黄花堆積
憔悴損
如今有誰堪摘
守著窗兒
獨自怎生得黑
梧桐更兼細雨
到黄昏
點點滴滴
這次第
怎一個愁字了得

宋が南に移り、詞において古い歴史を持つ旧南唐の地域に入ったことで新しい段階を迎えた。

南宋初の詞人として辛棄疾姜夔が挙がる。

辛棄疾は金に対する主戦論者で、そのため官僚としては不遇であった[注釈 34]。その詞は蘇軾と通じるものがあり、蘇軾と共に豪放派の代表とされ、蘇軾と並んで蘇辛と称される。

これに対して姜夔は周邦彦の流れを汲んだ典雅な詞風が特徴である。姜夔は生涯官途に付くことは無かったが、その文名により多数の高級官僚と親交を持っていた。[注釈 35]

南宋後半期の代表詞人としては呉文英・周密・張炎などが挙がる。呉文英は南宋滅亡と同じ頃に死去[注釈 36]。元において亡国の憂き目に遭った宋の遺民として生きた詞人が周密・張炎である。亡国の悲しみを詠み込んだ詞が多い。元以降は散曲という新しい音楽が主流となり、詞は長い間忘れ去られた。

「東坡引」辛棄疾
花梢紅未足 條破驚新緑
重簾下遍闌干曲
有人春睡熟 有人春睡熟

鳴禽破夢 雲偏目蹙 起來香腮褪紅玉
花時愛與愁相續
羅裙過半幅 羅裙過半幅
「揚州慢」姜夔
淳熙丙申至日,予過維揚。夜雪初霽,薺麥彌望。入其城則四顧蕭條,寒水自碧,暮色漸起,戍角悲吟。予懐愴然,感慨今昔。因自度此曲。千巖老人以為有《黍離》之悲也。

淮左名都,竹西佳處,解鞍少駐初程。
過春風十里,盡薺麥青青。
自胡馬窺江去後,廢池喬木,猶厭言兵。
漸黄昏,清角吹寒,都在空城。

杜郎俊賞,算而今,重到須驚。
縱豆蔻詞工,青樓夢好,難賦深情。
二十四橋仍在,波心蕩,冷月無聲。
念橋邊紅藥,年年知為誰生?

史学

司馬光[20]

『新唐書』『新五代史』は『旧唐書』に不満を持った欧陽脩が新たに編纂した物である。また、司馬光が紀元前403年戦国時代の開始から宋が成立する直前までを書いた、編年体の『資治通鑑』もある。

宋代は金石学欧陽脩により本格的に始められたことも特筆される。彼は周代から五代までの金石文を集め、『集古録』全1000巻に纏め上げた。これは現存しないが、跋文である『集古録跋尾』全10巻が現存する。他に呂大臨の『考古図中国語版』・徽宗の『宣和博古図録』などがある。

芸術

絵画

唐代半ばに誕生した水墨画は宋代が最盛期とされ、また人物画・宗教画から山水画花鳥画に流行が移った。文人画院体画という描き手による分類もある。文人画とは素人画家の士大夫が描く絵であり、院体画とは翰林図画院(略して画院)などに属する専門の画家が描いた絵である。

唐代までの絵画は書などと比べ下に見られていたが[注釈 37]、宋代になると士大夫も画を嗜むようになった。

北宋初期の山水画の代表は李成董源の二人である。[注釈 38]その後、李成の華北山水画は弟子の范寛に受け継がれ、李成流と范寛流の二つの流派が華北山水画の主流となった。江南山水画は董源の後に僧巨然が登場する。

郭煕『早春図』[21]
徽宗『桃鳩図[22]
牧谿『漁村夕照図』[23]

その後、華北山水画を大成させたのが郭煕である。郭煕は李成に私淑してその技法を受け継ぎ、范寛をも取り込んで二流派を統合[注釈 39]した。李成と郭煕の李郭派と董源と巨然の董巨派が山水画の二大潮流となる。

花鳥画もまた南北の違いが如実に顕われていた。五代の頃、後蜀では[注釈 40]「鉤勒填彩」画法が宮廷画家黄筌の一族を中心として行われ、その画風は「黄氏体」と呼ばれた。黄氏は開封で画院の指導的立場を担い、以後の画院では黄氏体が基本とされる。

一方、南唐には徐熙とその画風である「徐氏体」があった。[注釈 41]徐氏も開封へ移住するが、黄氏が徐氏を排除したため、徐氏は在野となった。以後、黄氏体では崔白、徐氏体では趙昌などが登場、北宋を通じて両派は発展を遂げ、北宋・南宋交代期の花鳥画の変へと繋がる。以上の専門画家と徽宗が院体画の代表である。

他方、文人画の代表としては蘇軾、その師文同、蘇軾の弟子黄庭堅米芾とその息子米友仁が挙がる。 [注釈 42]米芾は江南山水を称揚し、米法山水の技法を生み出した。

華北失陥の大変動の中で絵画様式にも大きな変化が生まれた。

画院は李唐などにより紹興の末年に再建された。当時の院体画家には、李唐・馬遠夏珪・劉松年がおり、南宋四大家と呼ぶ。[注釈 43] [注釈 44]

南宋の山水画で評価が高いのは、文人画および禅僧の作品である。画院の華北山水に対して江南山水および米法山水が受け継がれ、淡墨表現と連想[注釈 45]による手法が特徴的である。宋迪・智融などの名が挙がる。

花鳥画は現存する数が極端に少ない。[注釈 46]前述のように黄氏体と徐氏体があったが、南宋になって輪郭は鉤勒・色彩は没骨という風にこの二つは融合した。

南宋代は禅僧が修行の合間に描いた絵が多く残る。牧谿は淡墨と描線の簡略化が特徴で、同時代には毀誉褒貶が激しく、後の中国絵画に与えた影響はあまり大きくないが、日本では極めて高く評価された。

蘇軾「寒食帖」部分[21]
黄庭堅「伏波神祠詩巻」部分
米芾「呉江舟中詩巻」部分[24]

[25]唐代の「形」を尊ぶ書に対して北宋の書は「意」を尊ぶことに特徴があるとされる。「意」とは書の上で作者の個人としての性・精神性が表現されることを言う。

北宋を代表する書家としては蘇軾・米芾・黄庭堅蔡襄の4人(宋の四大家)が挙げられる。但し蔡襄は元は悪名高い蔡京が挙げられていたが宰相として評判が悪かったため忌避されて蔡襄に変わったとも言われる。蔡襄・蔡京共に唐以来の「形」を尊ぶ伝統的な書であり、北宋の「意」を尊ぶ書の代表としては前三者が適当と言える。また、蔡京を重用した徽宗も書の達人として知られている。

#詩の節で述べたように蘇軾・黄庭堅は師弟関係にあり、書の上でも深い関係があった。蘇軾の書はその詩と同じく自由闊達、黄庭堅もまたその詩と同じく技巧を凝らした点に特徴がある。

米芾は特に書の研究により後世に与えた影響が大きい。米芾は知人から書画を借り受け、その精密な複製を作り、知人に対して複製を返したという逸話を持つ。この過程で書画の真贋を見分けるには作者が気を抜く細部を見ることが重要であると発見した。

南宋では呉説・陸游などの名前が挙がる。

彫刻

菩薩坐像[26]

宋政府が法律で、何ら意味の無い像や鐘の建造の為に銅・鉄を用いる事を禁止したため、この時代の彫像は基本的に木製である。

彫刻(主に仏教彫刻)は盛唐期を頂点とし、五代から宋代は衰退期にある。現存する数が少なく、その様式の変遷は解らない点も多い。唐の彫刻が概ね豊満で華麗なのに対して宋の彫刻は概ねスレンダーで瀟洒である。唐と宋の美人の概念がそれぞれ顕われた物と考えられる。

服飾

[27]男性に最も多く着用された普段着は襴衫(らんさん)である。袖は手を覆うほど長さで、袖口が非常に広く、袖山が無い。襟は丸く、裾は襴が前で縫い合わされ帯で結ぶ。これに幞頭(帽子)を被り、皮製の履を履くのが官僚・胥吏の普段の服装で、素材は綿が多い。

幞頭は外側を布で作り、内側に革などを重ね合わせて硬くした頭巾で、宋代の特徴は両側に大きな角が付く点である。上層階級では真っ直ぐに長く伸びた「直脚」が多く、下層では曲がった角の「交脚」・「曲脚」が多い。幞頭が広く行き渡ると頭巾は廃れた。

働く者の服装については、一目で職業が判るよう乞食に至るまで職業ごとに服装が定められており、外れた者は相手にされなかったという。例えば香料屋の番頭は帽子を被り、背子を羽織り、質屋の番頭は黒い上着に牛角を張った革帯を締め、帽子は被らないといった具合である。

女性の服装に付いて。襦・襖・背子・半臂(ひじまでの袖)・背心(袖無し)・胸当て・腹当て・裙(スカート)・ズボンなどがあり、その中でも背子は上は皇后・皇太后から下は召使などまで好んで着た。背子とは前が閉じられず、襟が平行なものを言う。背子は男性も着たが、特に女性の間で流行した。丈は様々なものがある。

士大夫階級の妻は髪飾りとして花を飾ることが一般的であり、様々な趣向が凝らされた。

[29]宋の食については陶穀『清異録』・蘇軾の料理を題材に読んだ詩、『東京夢華録』・『夢粱録』などが参考となる。唐宋の間に文化の他の分野では大きな変革が起きたが、料理はそれほど唐と変わりがない[30]

現代の中華料理は非常に油っこい印象があるが、これは代にモンゴルの影響を受けたもので、宋代の料理はむしろあっさりとして日本料理を髣髴とさせるという[31]

主食

華北は麦などの雑穀類を主とし、華南は米を主とする。米はそのまま炊いて食べるか雑炊のように煮込む、小麦は粒状に加工して食べる。宋代を通じて次第に互いの間へ浸透して行き、華北の米食・江南の粉食がそれぞれ増加する。小麦の加工品は極めて種類が多いので分類のみ挙げると、蒸す・焼く・揚げる餅類と茹でる麺類に分けられる。

餅類の中で料理名を挙げると、饅頭・角兒(餃子)・包兒(包子[注釈 49]、焼餅(小麦粉を薄く延ばして焼き、中に肉などの餡を包んで食べる)・胡餅(平たく焼き上にゴマと餡を乗せて食べる)など。麺類は包丁で切る切麺、手で延ばす延麺、水に溶いた小麦粉を湯に流し込んで作る発麺に分かれる。麺には細切りの鳥や魚などを乗せ食べていた。

米(とそれ以外の穀物)を粒状にして遣う場合、粒のままで蒸して餅状にする場合は餈(し)といい、粉にしてから餅状にする場合を餌(じ)という。

食材

食材は新大陸原産の物を除き、現代の中華料理で使われる材料がこの時代にほぼ出尽くしている[32]

肉類ではヒツジアヒルガチョウニワトリウズラハト・ヒナドリ・ウサギなどが料理名として挙げられている。ブタは盛んに食べられたが、当時のブタ肉は蘇軾の『猪肉頌』に「泥みたいに安く、金持ちは見向きもせず、貧乏人は料理の仕方を知らない。」[注釈 50]とあり、安物とされていた。肉料理だけでなく内臓料理なども多い。

魚介類ではコイエツイシモチアオウオコクレンハクレンソウギョフグ・ヒラウオ・フナ甲殻類エビカニ)・貝類ホラガイホタテガイアカガイ)・ドジョウウナギなどなど(他にも多数)。

野菜・果物もまた数多く利用されており、一部を挙げるとダイコンウマゴヤシシュンギクタケノコ他多数。調理方法としてはおひたし吸い物が多い。果物はウリモモナシなどが食べられ、またレイシは高級品として珍重されていた。

調理法もまた非常に多岐にわたるのでここでは記さないが、特筆すべきは魚肉を生で食べるである。膾は元は肉を細切りにして食べるものであったが、次第に魚が膾と呼ばれるようになり、肉の膾は「生」と呼ばれるようになった。この時代の膾は南方の料理であり、華北ではあまり無かった。唐代まではニンニクだれが主流であったが、宋代にはユズだれが好まれるようになった。肉の生(膾)もニンニクだれが主流であった。魚・肉共に生食は代以降は急速に廃れ、代になるとほとんど存在しなくなった。

また水晶膾という料理もあった。これは魚皮から出るゼラチン質を固めて薄切りにする、日本の煮固りのことで、テングサなどを使って固める料理もあった。

唐代には既に喫茶の風習が広がっており、『旧唐書』「李玨伝」に「茶為食物、無異米塩」(茶は食物であり、米や塩と異ならない)と米や塩などと同じ重要性をもって語られ、陸羽により『茶経』が著された。宋代には上は皇帝から下は貧民まで、茶は生活に不可欠となった。

宋代では茶は片茶(へんちゃ)と散茶(さんちゃ)に分かれる。片茶は茶葉を磨り潰して固形にしたもの、散茶は現在一般的な葉で淹れる茶のこと。宮廷で使用する最高級の片茶を「龍鳳茶」といい、詳しい製法が残っている。散茶については製法が伝わらない。なお、散茶の一種として「末散茶・屑茶・末茶」があり、これは葉茶を粉状にした現在の抹茶のようなものと思われる。

宮廷で使用する茶は、建州(福建)にある北苑と呼ばれる宮廷御用達の茶園で(大半は)作られる。その量は宋初の太宗の太平興国の初めにはわずか50片であったのが、哲宗の元符年間(1098年 - 1100年)には1万8千となり、徽宗の宣和年間(1119年 - 1125年)には4万7千になっている。なお、唐代には3千6百串で、茶の使用量が大幅に増えたことが解る[注釈 51]

龍鳳茶の製法を述べる。[注釈 52]

作られた龍鳳茶は皇帝や皇后の食事に供され、また臣下に下賜されて消費される。後に太祖により「民力を疲弊させる」として、龍鳳茶は廃止された。

下賜された茶を士大夫は尊び、他の士大夫への贈り物としても非常に喜ばれた。士大夫の文化生活には茶が深く関わっており、この時代は茶を読んだが多い。また士大夫の間では茶を味わい、その産地や銘柄を当てることを競う闘茶が盛んに行われた。茶を下賜されるのは一部の高級官僚のみであったので、その他の者は民間の茶店から買うか、自分の領地で栽培した。

町に出れば茶坊・茶肆と呼ばれる茶店が多数あった。店では士大夫・市民・商人・妓女など職業・身分の関係なく、同じ席で茶を飲んでおり、交流の場となっていたことがうかがえる。農村にも喫茶の風習は広がっており、王安石も「貧民であっても米・塩・茶は毎日欠かすことが出来ない」と述べている。

宋以前の酒は主に米・黍・高粱から造られたが、宋代の酒造は他にも粟・小麦・大麦など原料が多様化し、中でも庶民に好まれたのが今もある清酒の白酒である。

都市や鎮市などの居住地区には酒舗があり、客商や住人を相手に小酒が(春から秋まで熟成)5~30銭の26等級、大酒が(春から翌夏まで熟成)8~48銭の23等級に分けられ販売されていた。

料理店

酒楼の様子[28]

首都・開封の大通りには酒楼・飯館・茶肆・点心舗が多数軒を連ね、その数は酒店だけで3000を超え、合わせると万を超えたという。店に入ると行菜と呼ばれる給仕が箸と紙を持って注文を聞きに来る。この時、熱い・冷たい・脂の多少など好みを細かく注文することも出来る。注文を間違った場合には店主の叱責を受け、減俸や酷い場合には首になったという。また店で出す料理以外にも、碗などに料理を入れて持ってくる物売りが出入りしたが、押し売り気味に売ることもあったようである。

士大夫や富豪の通う、正店と呼ばれる72の高級酒楼には妓女が付き物で、最大級の任店には数百人の妓女が居り、正店の多くは風流な庭園を設けていたという。また妓女にも流しの妓女がおり、店の中に勝手に入って勝手に酌をして後から料金を請求したという。

大きな料理店を分茶といい、これが総合レストランとすれば、各種の特別な料理を出す「素分茶」・「川飯店」・「南食店」・「瓢羹店」などの専門店もあり。それぞれ、素分茶は精進料理、川飯店は四川料理・南食店は江南料理、瓢羹店は羹(スープ)料理を専門とした。

当時の家庭では、脚店から出前を取って自宅で料理しないことも多かったという。

ギャラリー


注釈

  1. ^ 法律上は1袋が18斤、茶葉の等級により1等が1斤(約500g)100文・2等90文・3等70文だが、実際は官僚が4~5割を抜取り1袋12~15斤、1等60文・2等47文・3等37文で計算した
  2. ^ 河南府・鳳翔府・同・虢・儀・蘄・黄・袁・英州・興国軍
  3. ^ 晋・磁・鳳・澧・道・渠・合・梅・陝・耀・坊・虔・汀・吉州
  4. ^ 信・鄂・連・建・南剣州・邵武軍
  5. ^ 白地黒掻き落としとは胎土の上に白化粧土を施し、更にその上に黒化粧土を施す、その後で黒化粧土だけを掻き落とすことで模様を描く手法のことである。掻き落とす際に黒化粧土のみを落として白化粧土を落とさない細心の注意が必要となる高度な技術である。黒掻き落としの技法は非常に手間が掛かるため新たに白地に直接描く方法が生まれた。これが赤絵の技法となる。
  6. ^ 10世紀。ギメ東洋美術館所蔵。
  7. ^ 『泊宅編』では日本で生まれた技法と記す。
  8. ^ a b 季節によって変動する不定時制。大体夜11時から朝の4時まで。
  9. ^ 北宋・南宋交代期やモンゴルによる攻撃が強まった時期などは米価も跳ね上がり、1升で340銭という極端な数字が残る。
  10. ^ 太極とは天地万物の理、天地は太極の間にあり、万物は太極の間にある。まず理があり、理が無ければ天地は無く、また万物も無い。理があって気が生じる。宇宙に理が無ければ気も無く、また気が無ければ理も無い、万物は気を以て形作る。気が積もって質となり、性が具わる。理は法則であり、気は実体である、先後は無い。気は理に従い、理は気の中にある。以下略
  11. ^ 宇宙に性の無い物は無い。そこに物が有れば、則ちそこに性がある、物が無ければ、性は無い。人と物の生は、天賦が偏り、固より同じではない。その偏りに従って、清濁昏明の差異がある。物々は運動し、人との違いは無い。しかし、人の仁義礼智は本来の姿であり、物々には無い。そこで改めて人の生を性とする。人の性には明暗通蔽開塞があり、塞者は牢固で開かれず、厚者は開き難く、薄者は開き易い。以下略
  12. ^ 性の人に在っては形有る心を為す。意識すればそこに有り、しなければ見えない。心は性が具体化したもので、本来同一である。全ては理であり、理を天と言い、天賦を性と言う、人々はそれを心と言う。ゆえに性は即ち理であり、所謂理とは性である。
  13. ^ 「所以然」そうであるがゆえに「所当然」そうせねばらならない。「人間としての性」ゆえ(所以然)に、「仁義礼智を実行」せねばならない(所当然)。ということである。
  14. ^ 真宗の代になって翊聖保徳真君と称され像が建てられた。建像は(1014年大中祥符七年であるが、大中祥符という元号もまた道教の影響である。
  15. ^ 1008年、宮殿の屋根に大中祥符なる天人が降した天書(天の書物)が現れたという事件が起こった。これに喜んだ真宗は大中祥符へ改元し、封禅の儀を盛大に執り行なった。この事件は道教に好意的な王欽若と道士が結託し、宋皇室による道教の保護を獲得するため画策したと思われる。
  16. ^ 西崑とは西方の崑崙の意味であり、晩唐の李商隠に倣い、詩の中で幻想の世界に遊ぶ華麗な詩風である。故事や先人の詩を多く引いた装飾を凝らした表現が特徴である。
  17. ^ 西崑体は後に欧陽脩によって危機感に欠けると批判され、長らく省みられなかった。
  18. ^ 欧陽脩は感情を抑制した端正な情景描写が特徴である。梅堯臣はミミズなどのそれまで詠まれなかった事物を使った詩が有名。蘇舜欽は霹靂や蛟龍などを使った激情的で豪放な詩を得意とする。いずれも、物事を正面から捉え、平易な言葉で表現した叙事詩である点に特徴があり、欧陽脩らによって宋詩の様式は完成に至ったといえる。
  19. ^ 蘇軾は若き日より文名が極めて高く、蘇軾に無許可で詩集が出版されたもある。蘇軾は自由闊達・縦横無尽な表現を駆使する。自由闊達であり一定した詩風は見出せない。
  20. ^ 黄庭堅の詩は故事や古詩から「換骨奪胎」し、思索と推敲を重ねて自分の詩を創る詩論を提唱した。
  21. ^ いずれも黄庭堅の流れを汲む江西詩派であり、
  22. ^ 范成大は参知政事まで昇った高級官僚であり、その地位に相応しく端正な詩風である。一方で田園詩人の顔も持ち、農村の人々を詠む際には人懐っこい表現を見せる。楊万里は絶句を得意とし、精緻な観察眼の元にハエやスズメなどの動物の動向を詠んだ詩、あるいは人々の日常の細々とした出来事を読み込んだ詩に特徴がある。
  23. ^ 陸游は曾幾に師事したこともあって、初めは江西詩派の技巧を凝らした詩風であったが、次第にそれに飽き足らず独自の境地を開いた。
  24. ^ これが元で生涯官僚としては不遇であったが、その環境が彼の詩にさらに深みを与えることとなった。官僚としての不遇・金に国土を奪われていることへの憤慨・その状況に何も成しえない朝廷への失望といった感情を読み込んだ詩が若き日には多かったが、年を経るごとにそのような感情から一歩引いて広く見渡せるようになり、日常の何気ない出来事や生活を読み込んだ詩も多くなる。
  25. ^ 永嘉、現在の浙江省温州市出身ないし居住で字や諡に霊を含むことに由来する
  26. ^ 趙師秀が最も高名で、平易な文章で平淡に山水を詠んだ詩が特徴。江湖派は民間の詩人の詩を集めた『江湖集』という詩集に由来があり、民間の詩らしく当事の政治を風刺した詩が特徴的。
  27. ^ これに対し、唐の韓愈柳宗元らの古文復興運動の流れを受け継ぎ、
  28. ^ 太学体の実態については具体的には不明である。従来は『御覧経史講義』の沈徳潜の見解に従い、駢文であろうと考えられていたが、葛暁音「欧陽修排抑「太学体」新探」(1983年)、および日本の東英寿「「太学体」考─その北宋古文運動に於ける一考察」(1988年)らの研究よって、現在の学界では古文の一種であったというのが通説となっている。本節でもこの見解に従うことにする。さらに近年提出された朱剛「「太学体」及其周辺諸問題」(2007年)では、太学体は石介の文体とは関係なく、程頤らの思想の影響を受けた文章であるとするが、朱氏も太学体が古文であったことは否定していない。
  29. ^ 彼の「酔翁亭の記」では、山に囲まれた風景を書き表そうとした時に東に何々山があり、西に何々山があり…と文章を並べてみた所、どうにも長すぎる。と悩んだ末に「環滁皆山也」(周りは皆山)という五字に圧縮したという逸話は彼の精神を良く現しているといえる。
  30. ^ 王安石の文章は「健」と評される。世間一般と対立しても方針を貫く王安石の政治姿勢と同じく、その文章にも気魄が現れている。蘇軾の文章は「奇」と評される。詩風と同じく一つ所に留まらず、才能の赴くままに飛び回るのが所以である。
  31. ^ 張先は都官郎中を最後として退官し、以後は杭州に隠棲してこの地で八十九まで長寿を誇った。その間、様々な人物が張先の元を訪れてこの時代に於ける詞のサロンを作っていた。それまでの詞では元の曲名(詞牌)のみが記されていることが多く、その詞の背景に付いては全く分からなかったのだが、張先の始めたことから詞を詠んだときの状況が簡単に付されるようになった。
  32. ^ 柳永は科挙を受けるため開封へ来たが、身を持ち崩し娼館に入り浸るに至った人物である。その経験からか男女に関する詞が多く、使われる表現も俗語を交えたもので、士大夫からは激しく批判された。
  33. ^ 表現が露骨でなく奥深く、全体の調和が取れて雅であるという意味である。
  34. ^ その憂国の志を詠んだ詞が多く、周邦彦とは異なり率直な表現が特徴。
  35. ^ その生涯とその詩風は孤高という点で通じ「清空」と評される。南宋以降には官途に就かず詩・詞などに専従する専門文人が登場するが、姜夔はそのはしりである。
  36. ^ 詞は精巧さを極めるが、解り辛い面もある
  37. ^ 唐の閻立本太宗に「画師」と呼びつけられたことを屈辱に思い、子孫は画家にならないよう遺言したという。
  38. ^ 李成は唐李氏の末裔で華北黄土地帯の険しい山岳の風景を得意とし、董源は元南唐の宮廷画家で江南のなだらかな風景を得意とする。
  39. ^ 部分部分はよくある風景ながらも全体を見渡すとこの世の何処にも存在しない理想化された山水画を作り上げ
  40. ^ 唐の伝統を受け継いだ明確な輪郭線・豊かな色彩・写実主義が特徴の
  41. ^ 「徐氏体」は墨のみを使い、画題も自然の中の鳥を対称にする、没骨(輪郭線が無い)などが特徴である。
  42. ^ 院体画では華北山水が主流であり、江南山水はその中で次第に忘れられた。
  43. ^ 馬遠・夏珪の山水画は、自然の一部分を切り取って描いたため「馬の一辺」「夏の一角」と後の批評家に批評される。また北宋様式は近景・中景・遠景の三段階であったが、南宋様式では近景・中景の二段階になり、遠景が入る部分は空白が占めるようになった。
  44. ^ この様な様式の求める所は、観る者の想像力を掻き立てて形無いものを表現する所にあるとされる。馬遠・夏珪などの南宋院体画は日本で高い人気を誇り、日本の水墨画に大きな影響を与えた。しかし、南宋の専門画家の山水画は高い評価を与えられず、前述の「馬の一辺」「夏の一角」にしても「南宋偏安」と、北宋の厳しく雄大な山水画に比べ、南の狭い所で安寧を得たので画風も狭くなったと批判的に評される。
  45. ^ 宋迪には薄絹を通して壊れた土塀を見、そこから連想した風景を創造したという逸話がある。
  46. ^ 日本に輸入されたものが多いが、床の間に飾るためにトリミングされたものが多く、全体の傾向が捉え難い。
  47. ^ 南唐顧閎中『韓煕載夜宴図』を宋人が模写したもの。
  48. ^ 徽宗皇后鄭氏。
  49. ^ 饅頭と包子の違いは皮を発酵させるかどうか。
  50. ^ ここから「蘇軾が東坡肉を作った」という話がある。
  51. ^ 片・串はいずれも片茶一個のこと。
  52. ^
    1. 茶摘み
      • まず茶葉を摘む季節は驚蟄(今の暦で3月6日ごろ)に行う。茶を摘むときには細心の注意を払わねばならず、熟練の腕が必要になる。摘む時に、指の腹を使うと指の脂などが茶葉に移るので、爪を使って摘む。摘んだ葉は上から「闘品」(闘茶に使われる最高級品)・「揀芽」(芽一つに葉一枚。一槍一旗)「次品」(芽一つに葉二枚。一槍二旗。現代ではこれが茶摘の基本である)・「下茶」(それ以下)と分けられる。
    2. 蒸す
      • 摘んだ茶葉を水洗いし、蒸す。蒸し過ぎると味が薄くなり、蒸しが足りないと味が濃過ぎる。なお、現代の中国茶は炒るのが一般的である。
    3. 搾る
      • 蒸した葉を水洗いし、小搾(搾り器)にかけて水分を出し、更に布帛で包んで大搾にかけて膏(茶の成分)を出し、乾くまで行う。『茶経』では膏がなるべく出ないよう注意するとあるのに対して、宋代は膏を出す。膏を出しては味が薄くなると思えるが、建茶(福建の茶)は江茶(長江流域の茶。唐代までは福建よりも長江流域が主な産地)に比べて遥かに味が濃いので、江茶は膏を出さず、建茶は膏を出す方が良いということである。
    4. 研る(する)
      • 茶葉をすり鉢に入れ、水を加えて研り、水を加えて熟す。この作業は強力の者が行ない、高級品は1日に1個作れる程度というから、繊細な作業でもあったと推察される。
    5. 型入れ・仕上げ
      • 磨った茶を型枠に入れて固形にする。型に龍や鳳の絵が書かれており、茶へ龍・鳳の印が押される。型から出した後、焙った後に熱湯へくぐらせる作業を3度繰り返し、火を1晩入れた後、煙焙(煙で燻す機械)に入れて小さいものは6日から8日、大きいものは10日から15日ほど経たせる。煙焙から出した後、湯にくぐらせ扇いで乾燥させる。以上で完成である。
  53. ^ 11世紀。ギメ東洋美術館所蔵。

出典

  1. ^ 『南宋・金 世界美術大全集 東洋編6』小学館、2000年3月。ISBN 978-4096010563 
  2. ^ 土肥(2017)57ページ
  3. ^ 周藤・中嶋(2004)401頁以下
  4. ^ 菊池(2021)14頁
  5. ^ 『鶏肋編』
  6. ^ a b c 11世紀。フリーアサックラーギャラリー所蔵。
  7. ^ 斯波1988、P17
  8. ^ 岡元司「南宋期浙東港湾諸都市の停滞と森林環境」「周防から明州へ」『宋代沿海地域社会史研究』汲古書院、2012年(原論文:1998年・2006年)
  9. ^ 齋藤忠和『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7 終章「募兵制と近代的軍隊の指標」
  10. ^ 齋藤忠和「北宋の軍法について」(初出:梅原郁『中国近世の法制と社会』(京都大学人文科学研究所、1993年)/所収:齋藤『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7
  11. ^ 『宋史』巻189「兵三廂兵」大中祥符5年2月条
  12. ^ 齋藤忠和「北宋の剰員・帯甲剰員制」(初出:『立命館史学』8号(立命館史学会、1987年)/所収:齋藤『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7
  13. ^ 齋藤忠和「南宋の剰員制」(初出:『立命館史学』11号(立命館史学会、1990年)/所収:齋藤『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7
  14. ^ 齋藤忠和「兵士はどこへ行くのかー禁軍兵士への保障からみた北宋募兵制の一側面」(初出:『社会経済史学』(社会経済史学会、2007年)/所収:齋藤『宋代募兵制の研究 -近世職業兵士の実相-』(勉誠出版、2014年) ISBN 978-4-585-22081-7
  15. ^ この節は井上2002を参照。
  16. ^ 宋史』「邢昺伝」
  17. ^ この節は傅1997を参照。
  18. ^ 岡元司「疫病多発地帯としての南宋期両浙路」『宋代沿海地域社会史研究』汲古書院、2012年(原論文:2009年)
  19. ^ この節は金井1980を参照。
  20. ^ 『晩笑堂竹荘畫傳』より。
  21. ^ a b c d e f g 台北国立故宮博物院所蔵。
  22. ^ 個人蔵。
  23. ^ 日本根津美術館所蔵。
  24. ^ アメリカ個人蔵。
  25. ^ この節は杉村2002を参照。
  26. ^ 上海美術館所蔵。木製
  27. ^ この節は華2003を参照。
  28. ^ a b c 清明上河図』の一部。
  29. ^ この節は篠田1981、石毛編1985、張1997、中村2000を参照。
  30. ^ 篠田1981、P127。
  31. ^ 石毛編1985、246p及び張1997、P154。
  32. ^ 篠田1981、P127
  33. ^ アメリカネルソン・アトキンズ美術館所蔵。





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