夜間戦闘機
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「メッサーシュミット Bf110」の記事における「夜間戦闘機」の解説
開戦直後から英空軍による散発的な夜間爆撃はあったが、1940年5月15日、99機の英軍爆撃機がドイツの重工業地帯、ルール地方に対し、本格的な夜間爆撃を決行する。ゲーリングは防空への自信を内外へ喧伝していたが、開戦時のドイツの防空陣容は88mm 高射砲2600門、37/20mm対空機関砲6700門、探照灯300基であった。 本格化する英軍の夜間爆撃に対し、ドイツ空軍は夜間戦闘機の配備と増強を行なった。しかし、新規の専用夜間戦闘機を開発してもすぐに間に合うはずもなく、現行の機体を充てるしかなかった。 レーダー管制・無線管制・夜間航法などを伴う夜間戦闘は当時の単座戦闘機では困難で、通常は何名かの同乗者を必要とする。開戦時には探照灯や聴音機を頼りに旧式機であるAr68やBf109の旧型などがこの任務に回されていたが、1939年末頃までにはドイツ空軍が唯一持つ双発戦闘機Bf110が夜間戦闘機として転用されることとなり、本機が以後、夜間戦闘機の主力となった。また本機は双発ゆえに既に述べているが比較的重武装が可能であり、また航続距離、すなわち滞空時間が長いため上空待機や追撃も容易で、夜間戦闘機としては、単発機には無い多くの利点があった。また、戦闘機相手には運動性が不足していたBf110であったが、爆撃機を相手にする分には必要十分な運動性を持っており、問題とはならなかった。 しかしながら、英空軍は大戦後期にはボーファイター、モスキート(本来は双発爆撃機。有用な多用途機として夜間戦闘機型も運用された)で爆撃機編隊を護衛し、これら敵夜間戦闘機との交戦も考慮に入れる必要があり、特に1944年以降は重大な脅威となった。さらに英空軍はドイツ空軍より進歩した機上レーダー・・・マイクロ波を利用し、空気抵抗の大きな巨大なアンテナを要せず機首内のパラボラアンテナで賄えるもの・・・を備えていた。そのためか英空軍夜間戦闘機との戦いでは、ドイツ空軍夜間戦闘機は苦戦を強いられた。 1940年6月22日には本格的な夜間戦闘機部隊、第1夜間戦闘航空団が2個飛行隊規模で発足。第I飛行隊は3個中隊編成(12機×3 + 本部小隊4機)でBf110Cを装備、第II飛行隊は同じくBf109Dを装備したもの。直後7月1日には戦闘航空団は通常の3個飛行隊規模に拡大、従来の第II飛行隊は第III飛行隊となり、第II飛行隊は新たに双発爆撃機を重武装に改造した夜間戦闘機、Ju88C-0/C-1/C-2型2個中隊およびDo17の夜間戦闘機型であるZ-7またはZ-6夜戦型、およびZ-10「カウツ」(Kauz, フクロウまたはミミズク。後述するシュパナーを搭載していることからこの名称になった)に1個中隊に機種変更されている。さらに7月17日には、今後複数の夜間戦闘航空団を統括する可能性を見越し、ヨーゼフ・カムフーバー大佐を指揮官とし、その上部組織となる夜間戦闘師団もオランダのツィーゼに創設され、機材調達等の円滑化のほか、探照灯・レーダーなど地上施設などとの連携も緊密に行えるようになった。なお、航空団の初の戦果は恐らく7月9日、また初の夜間公認撃墜は7月20日である。 とは言え当初利用されたC, D(D-1型を除く), E型は、機体を黒く塗りつぶし消炎排気管を採用した程度で専用の装備も無かった。また本機の不足を補うため、Do17、Do215、Do217、Ju88などの双発爆撃機が夜間戦闘機に改造され、運用されることとなった。 なおドイツのレーダー開発は1934年から開始されており、開戦当時、最大120km先の敵機を判別できる基礎的な警戒レーダーフライアを実用化し北海沿岸に8基を設置していたが、初期の頃は英軍も昼間爆撃を選択していた。ただしこれは敵機の高度は判別できないものだった。1940年に入るとドイツも新型の迎撃レーダー「ヴュルツブルク」(ウルツブルグ)の量産を開始、夏頃には本格的な配備が始まっている。だが機上レーダーの開発は遅れ(英国はこの点は進んでおり、開戦前に既に配備されていた)、当初はヴュルツブルクで発見、または英軍爆撃機の主要な経路に前進配置した探照灯で敵の侵入を補足し夜間戦闘機が攻撃、これから逃れた敵機をさらに主要施設や都市に配備した探照灯と夜間戦闘機が攻撃する、と言うかたち、「明るい夜間戦闘」であった。これはその後、フライア1基とヴュルツブルク2基に指揮室等を組み合わせた「ヒンメルベット」システムに発展し、敵爆撃機と自軍夜間戦闘機の位置を把握し、地上から空中の夜間戦闘機を管制できるようになる。これはフライアが敵爆撃機を発見し、ヴュルツブルク2基が敵爆撃機と味方夜間戦闘機をそれぞれ補足し続け、地上から無線で誘導し会敵に導くものでもので、レーダーを3基も用いながら初期には各一機ずつ、その後にも2 - 3機の夜間戦闘機を誘導できるものでしかなかったが、探照灯無しでの夜間迎撃システム「暗い夜間戦闘」の嚆矢となった。ただしそれほど精度の高いものではなく、最後の接敵は肉眼頼みであり、時として探照灯の助けを必要とした 機上レーダーが開発される以前の1940年には赤外線暗視装置「シュパナー」を装備した。これには赤外線サーチライトを併用するアクティブ型であるI型と、敵機の排気炎や翼灯を感知するパッシヴ型であるII - IV型があり、主にDo17で、その他Bf110D/E型でも使用されたが、I型はさも望遠鏡のような形状で視野が狭く実用的でなく、II型も敵機がエンジンの排気管を消炎管にすれば感知困難になるなど、戦果には寄与しなかった。 なお1940年9月にはJu88/Do17装備の第1夜間戦闘航空団第II飛行隊を第2夜間戦闘航空団第I飛行隊へと編成替えし、航続力を生かして英本土の夜間飛行場攻撃に充て、元の第1夜間戦闘航空団第II飛行隊にはBf110を装備。10月には新たにBf110基幹の1個飛行隊規模の第3夜間戦闘航空団を設置。これは1941年11月までには3個飛行隊規模に拡大する。第2夜間戦闘航空団へもBf110の1個中隊が配属された。この中途半端な状態は翌1941年11月に2個中隊が増設され第II飛行隊として成立するまで続く。 おおよそこの時期にはBf110が夜間戦闘機の主力であり、生産された機体の6割が夜間戦闘機として用いられた。またDo17は性能が低すぎ(夜間戦闘機型は11機で生産中止)、Ju88は数が少なすぎた。またBf110が最も優速でもあった。。 1941年初頭には195機の夜間戦闘機を保有していた。そしてイギリスから遅れること2年、1941年7月、ドイツのテレフンケン社はついに対空機上レーダー、FuG202「リヒテンシュタインBC」を開発する。探知距離は200 - 3500m、探知角度は30度、周波数は490MHz、出力1.5キロワット。外見上は、送信アンテナ・受信アンテナが4本ずつ装備されたアンテナ支柱が機首から4本突きだしているかたちであり、アンテナは合計32本。 夜間戦闘機はこれを装備することにより、ヒンメルベットで誘導された後の接敵が容易になった。だがこのレーダーは距離・方位・上下を表示する3つの陰極線管(CRT)を注視しクルーが解読するもので、読解及び操作は相当に高度な技術が必要とされるものであった。当初はDo215で実戦テストされ相応の結果を出したが、量産が成るのはまだ先のことであった。なお、渡辺 (2002)によれば、1941年に来襲した英空軍爆撃機は述べ27000機強、うち損失1089機、夜間戦闘機隊の戦果は421機である。またこの年、Bf110は874機生産され、ほとんどが夜間戦闘機部隊に回された。 1942年初頭には夜間戦闘機は約250機ないし367機が配備されていた。1942年にはさらに夜間戦闘機部隊の増強は進み、合計で11個飛行隊が活動していた。うちJu88/Do17を装備し地中海で長距離夜間戦闘に当たって居た第2夜間戦闘航空団を除いた全てが、Bf110を装備していた。この時期にはシュパナーを搭載したBf110Eなども配備されていたが、本格的な夜間戦闘機型としてF-4型が投入されたのもこの時期である。これは後期型ではリヒテンシュタインレーダーを装備していた。なお年末までにはさらに合計で5個飛行隊が増強されており、12月には5個航空団、16個飛行隊(うち2個飛行隊は地中海)、375機という体制であった。英軍の夜間爆撃は激化しており、5月から6月にかけては一晩に約1000機を動員した飽和爆撃が行われ、以降も200 - 300機の大編隊による爆撃が繰り返される。 1942年2月以降、Bf110にも徐々に機上レーダーFuG202の装備が進んでいったが、前述した取り扱いの難しさに加え、重量の増加と「有刺鉄線」と呼ばれた巨大な機首アンテナの装備により増した空気抵抗により速度が低下し、従来のヒンメルベットに慣れた搭乗員には、当初はあまり好評でなかった。Bf110の場合、40km/hまたはそれ以上速度が低下した。1942年、ドイツ夜間戦闘機部隊の戦果は780機。うち691機(そのうち4機は昼間の撃墜)がドイツ本土方面の戦果であった。1943年7月までにはFuG202の普及率は80%に達し、6月からは性能はほぼ同等ながら機内装備を簡略化したFuG212「リヒテンシュタインC-1」の配備もはじまる。探知距離は200 - 3500m、周波数は420 - 480MHz。野原 (2006a) によれば、アンテナも簡略化されている。 1943年初頭にはBf110が310機、80機がJu88、10機がDo217、合計400機の夜間戦闘機が配属されていた。1943年初夏にはDB605B(1475馬力)を装備したBf110G-4が登場し、以後は主力の座を担う。本来2名だった乗員の間に割り込むかたちでレーダー手が乗り込み3名となってしまい、機体内は身動きがとれないほどであったという。G-4型は1945年2月まで、1850機が生産された。各主翼に懸吊された300リットルの増槽(B2仕様)と機首の30mm機関砲(R3仕様)は標準装備に近い物であったらしい。なおこの頃からは長距離夜間戦闘専門だったJu88やDo217も通常の夜間戦闘部隊に加わってくる。 また、武装としてシュレーゲ・ムジーク(斜銃)が採用されつつあった。一般的に英爆撃機は後方防御火力は強力であるが下面は防御火力が低い。故にこの位置から攻撃をかけたいが、上昇しながら通常の前方機銃で攻撃してしまっては、十分な命中弾を与える前に離脱機動を取らねばならず、弾量・命中率共に不満である。ならば後下方を同航飛行し、斜め上を向けて装備した機関銃を思う存分(実際には数秒であるが)撃ち込めば良いではないか、と言うのがこの兵器のコンセプトである。これは1942年秋 - 末頃から実験されており、1943年9月までに18機を撃墜したとの報告により制式化され、Bf110を含む多くの夜間戦闘機に装備された。ちなみに角度は65 - 78度程度。この兵器は旧日本軍でも用いられていたが、それに比べてかなり垂直に近いものである。ベテランパイロットにはあまり評判が良くなく、従来の攻撃法を好んだとする文献もある。 英軍は1943年7月からウインドゥの使用を開始する具体的にはレーダーを撹乱する金属片を大量にばらまくと、それぞれが電波を反射しレーダーにはまるで大編隊がそこにいるように見える。英軍の場合、両面に錫箔を貼った紙を使用した。当初はヒンメルベットシステムを対象に長さ27cm、幅2cmのものが用いられた。少数機同士を誘導すると言う特性上ヒンメルベットはこれで無力化されてしまう。また機上レーダーFuG202もウインドゥの影響下にあり、接敵が困難になった。このため従来の「明るい夜戦」の発展形である「ヴィルデ・ザウ」(Wilde Sau) 戦法が開発され、英軍爆撃機に対抗する。 それと同時に、ヴィクトール・フォン・ロスベルク大佐により、ツァーメ・ザウ(ザーメ・ザウ、Zahme Sau、飼い慣らされた猪)という新戦術が開発された。渡辺 (2002) によれば、英軍爆撃機編隊の出動に関連する電波を傍受し、当日の天候などを合わせて敵の爆撃目標を推定し、警戒レーダーにより実際に侵入を察知した後は、索敵部隊が幅20 - 30km、長さ200 - 300kmに及ぶ英爆撃機の大編隊に接触し、その動向を逐次司令部に報告する。各夜間戦闘機部隊はその情報を元に予め会敵予想空域で敵編隊を待ち伏せ、目視で敵編隊に襲いかかるのである。また従来各夜間戦闘機隊はそれぞれが管区を持っておりそれに拘束されていたが、この新戦法では数百機にもおよぶ敵爆撃機の長大な帯を自由に襲撃でき、そして反復攻撃を加え続けられるシステムとなった。なおこの場合ヒンメルベットシステムは、ただの警戒レーダーに落ちぶれてしまう。この戦術は1943年7月30日に承認された。 これら新戦術は敵の爆撃目標を推定すると言う要素が存在するなどするため、例えば攻撃側は陽動や囮を用いる余地があり迎撃戦果が司令部の判断に大きく依存してしまう嫌いがあるものの、従来のヒンメルベットシステムより効果的であったとされ、その効果のほどはすぐに現れた。英爆撃機隊は1943年8月17日のペーネミュンデ爆撃では597機中41機(6.8%)を、1943年8月23日から9月4日にかけての3回のベルリン空襲で計125機(7.5%)の爆撃機を失った。この戦術は終戦まで継続された。 1943年9月には新型機上レーダーFuG220「リヒテンシュタインSN-2」の量産が開始され、配備されはじめた。これは波長が3.3mと長いレーダーで、さらに周波数を37.5 - 118MHzまで3段階に切り替えられることから、英爆撃隊の使用するウインドゥの影響を受けにくかった。最大探知距離も4000m、範囲は左右120度、上下100度と、性能は格段に向上している。ただし低周波を用いたその代償としてアンテナは従来より大型化し、「鹿の角」と呼ばれるようなものとなった。 なお1944年には英軍機の装備しているH2S地形表示レーダーを100km先から探知するFuG350「ナクソスZ」、後方警戒レーダー「モニカ」の電波を探知するFuG227「フレンスブルク」も実用化され、アクティブ、パッシヴ両面での探知が可能となった。なお、1943年末時点でのドイツ夜間戦闘機の配備機数は627機、稼働機数は421機であった。また、地上の「ヴュルツブルク」にはドップラー効果を応用し、飛行し続ける敵爆撃機と散布後はその場で舞い散るだけのウインドゥを識別する「ヴュルツラウス」、および機体よりの反射波とウィンドウからの反射波の差を音で表す装置「ニュルンベルク」が追加され、ウインドゥ対策としている。 Bf110は1944年春にはドイツ空軍夜間戦闘機部隊の約6割を占める主力機であり、最盛期である1944年2月には630機、または1944年5月には580機が配備されていた。だが1944年、長く夜間戦闘機の主力を担ってきたBf110に転機が訪れる。主力の座をJu88に奪われてしまうのである。1943年の生産数はBf110が789機、Ju88が706機であったが、1944年には1397機に対して2518機と、大きく逆転してしまったのだ。また実際の部隊配備機数でも1944年7月にはJu88が674機、Bf110が558機と、逆転してしまっている。渡辺 (1980)は、FuG220の「鹿の角」を装備し重量と空気抵抗が増した上にその他電波装備やシュレーゲ・ムジークまでも装備したBf110G-4d/R3は485km/hしか発揮し得ず、英爆撃機に対して優速ではなくなったことが主要な原因としている。ただし野原 (2009) によれば、G-4型の速度は510km/hである。 その点大型のJu88は速度低下の度合いも比較的低く、胴体への上下および後方警戒用アンテナの装備さえも可能で(G-7型からは標準装備とされた)、さらにエンジンのパワーアップで補い、Bf110より優速を保ち得たのである。Ju88G-1はBMW801エンジン(離昇出力1700馬力)を装備し胴体下面に20mm機関砲を4門装備、シュレーゲ・ムジークも装備可能で、高度6000mで520km/hを発揮できた。さらにG-6ではJumo213A(離昇出力1750馬力)を装備し、野原 (2006a) では540km/h (6000m)を発揮したとされている。Ju88は戦況の悪化による爆撃機型の需要低下もあり2000機以上の生産を見る、Bf110G-4に代わる主力夜間戦闘機となった。 なお、最終的にはBf110にもFFO社FuG218「ネプトゥーンV/R」が搭載されている。探知距離は120 - 5000mであり、波長は157 - 187MHz。従来は4本独立していたアンテナが1本の支柱から分岐するかたちに改められたため、野原 (2006a) によれば空気抵抗も低減したらしい。また、CRT表示がカラー化され、読解が行いやすくもなっている。単座用のものと複座用のものがあり、Bf110には複座用のものが装備された。1945年には出力を2.5kWから20kWに増強し、さらに周波数の可変域を拡げ、アンテナも小型化したFuG228「リヒテンシュタインSN-3」が開発されたが、完成品はただの10基であった。 そして1944年以降、連合軍による精油施設、人造石油工場などの対する爆撃の激化により、燃料事情は急激に悪化する。実戦はもちろんのこと訓練に回せる燃料も少なくなり、さらに燃料が単発戦闘機へ優先的に回され、さらに通信網やレーダーの破壊・占領などの理由から、夜間戦闘機の活動は低下の一途を辿った。例えば1945年2月13日のドレステン空襲には、わずか27機での迎撃しか行えなかった。ただし機体の増産自体は順調で、1944年12月には1355機と、予定配備機数以上が配備されていた。そのような状況下でも1945年2月21日夜にはデュースブルクを目標とする450機の敵重爆撃機を129機が迎撃、爆撃機を護衛するモスキートの妨害にもかかわらず、わずか4機の損失で62機を撃墜する戦果を挙げたことは特筆するに値する。 ドイツ夜間戦闘機隊のトップ・エースはハインツ=ヴォルフガング・シュナウファー少佐で、夜間撃墜数121機、うち114機が4発機である。彼は敵軍にもその名を知られ、出撃基地の名から「サントロンの幽霊」と渾名されたという。
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夜間戦闘機
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「ボールトンポール デファイアント」の記事における「夜間戦闘機」の解説
こうして昼間戦闘機としては失敗に終わったデファイアントではあったが、8月の大損害以前に行った夜間出撃で2度の戦果をあげていたことに着目され、夜間戦闘機として使用されることとなった。夜間戦闘に転用されたものはNF・Mk Iと呼ばれ、さらにレーダー搭載の改修が行われたものはNF・Mk IAの型番が与えられた。第264、141飛行中隊は夜間戦闘機部隊に改編され、さらに4中隊が新設された。さらにAI Mk IV要撃戦闘用レーダーおよびマーリン XXエンジンを搭載したMk IIが開発されたが207機生産、3個飛行中隊で運用されたにとどまった。この間に開発が進んでいたボーファイターとモスキートの夜間戦闘機仕様でも、銃塔搭載案が検討され試験もされたものの結果は芳しくなく廃案となっている。 デファイアントの夜間戦闘の方法は、後の斜銃での攻撃と同様に、敵機の下後方に接近し、銃塔で射撃するというものであった。パイロットがレーダー手を兼ね、射手は従来通り射撃のみを行う。その後に登場する夜間戦闘機のほとんどはこれと異なり、パイロットは射撃手を兼ね、もう1名がレーダー手となる役割分担をとっている。このことからデファイアントの分担があまり効率的では無く、夜間戦闘機としてMk II以降の発展が無かった理由とされている。 夜間戦闘機としての能力は完全では無かったものの、必要な時期に能力をもった機体として防空任務に活躍したということで、夜間戦闘機としては一定の評価をされている。
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夜間戦闘機
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「ハインリヒ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン」の記事における「夜間戦闘機」の解説
1941年11月1日にザイン=ヴィトゲンシュタインは夜間戦闘機部隊に志願し、第2夜間戦闘航空団(NJG 2)/第9飛行中隊の飛行中隊長に任命された後の1942年1月に第51爆撃航空団を離任した。NJG 2の補充飛行隊(Ergänzungsgruppe)に配属されていた1942年5月6日の夜にワルヘレンの西40kilometers (25 mi)でブリストル ブレニム機を撃墜したのが夜間での初の戦果であった。7月23日と9月10日の両日には各々15機目から17機目と19機目から21機目となる一晩で3機を撃墜し、22機目を撃墜した後の10月7日に騎士鉄十字章を授与された。この勲章はヨーゼフ・カムフーバー将軍から授与され、授与式の後2人は第9飛行中隊の部隊員を視察した。 ザイン=ヴィトゲンシュタイン大尉は1942年12月1日に第5夜間戦闘航空団(NJG 5)/第IV飛行隊の飛行隊長に任命され、1943年2月に東部戦線へ転戦した。ここでヘルベルト・キュムリッツ(Herbert Kümmritz)伍長(Unteroffizier)が無線士/レーダー操作員(Bordfunker)としてザイン=ヴィトゲンシュタインの搭乗員に加わった。この当時キュムリッツは既にシュターデに駐屯する第3夜間戦闘航空団/第II飛行隊のメッサーシュミット Bf 110で6カ月の作戦任務の経験があり、大戦開始以前にはベルリンのテレフンケン社で短波無線技術を習得していた。キュムリッツが来る前にザイン=ヴィトゲンシュタインはそれまでの全ての無線士/レーダー操作員を数回共に飛行した後で拒否していた。1943年3月と4月にカムフーバーは、フランスにあるUボート基地の防衛のためにNJG 5/第IV飛行隊にレンヌへの移動命令を出した。 ギルゼ=レイエンに駐屯しているときに装備機をBf 110に改編するようにという命令が発せられた。ザイン=ヴィトゲンシュタインはBf 110を1回短時間のみ操縦しただけであったが、1943年6月24日夜にこの機体は技術的問題を起こし、任務には不適格だと判断された。キュムリッツとザイン=ヴィトゲンシュタインは馴染みのJu 88 Cに搭乗し、32機目から35機目の戦果となる4機のアブロ ランカスター爆撃機を撃墜した。ザイン=ヴィトゲンシュタインはBf 110よりもJu 88の方を好み、以後2度とBf 110を操縦しなかった。飛行隊は再度東部戦線へと転戦し、1943年8月1日に第100夜間戦闘航空団(NJG 100)/第I飛行隊と改称された。東プロイセンのインステルブルクに駐屯している期間の1943年7月20日にザイン=ヴィトゲンシュタインは1回の作戦飛行で7機を撃墜し、36機目から41機目の戦果に当たるその内6機はオリョール北東地域での47分間に記録された。 1943年8月1日にザイン=ヴィトゲンシュタインは44機目から46機目の戦果となる3機を、8月3日夜には更に48機目から50機目となる3機を撃墜し、8月15日にNJG 3/第II飛行隊の飛行隊長に任命された。54機目を撃墜した後の8月31日にザイン=ヴィトゲンシュタインは290番目の柏葉付騎士鉄十字章受章者となった。この勲章の授与式は9月22日に東プロイセンの総統大本営で催された。この功績により第4戦闘機師団の師団長ヨアヒム=フリードリヒ・フート中将からも感状が送られた。 1943年12月1日にザイン=ヴィトゲンシュタインは第2夜間戦闘航空団(NJG 2)/第II飛行隊の指揮を引き継ぐように命令され、既に68機の戦果を記録していた1944年1月1日にはNJG 2の戦闘航空団司令に任命された。更に69機目から74機目の戦果となる一晩で6機の4発爆撃機を撃墜した。1943年遅くに無線士/レーダー操作員のキュムリッツが講習のためにフリードリヒ・オストハイマー(Friedrich Ostheimer)軍曹(Feldwebel)と入れ替わり、オストハイマーは1943年10月から1944年1月までザイン=ヴィトゲンシュタインと飛行を共にした。 1944年1月20日にザイン=ヴィトゲンシュタインはベルリン地域で76機目から78機目の戦果となる3機を撃墜したが、乗機のJu 88すれすれに墜落する3機目の炎上するランカスター機とあやうく衝突しそうになった。Ju 88は制御が効かなくなったが、ザイン=ヴィトゲンシュタインはかろうじて飛行可能な状態まで制御を回復した。車輪とフラップを下すと失速し始めるため搭乗員は胴体着陸させることにした。不時着した機体の主翼約2meters (6.6 ft)分がランカスター機のプロペラで切断されていた。
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