夜間戦闘機とは? わかりやすく解説

夜間戦闘機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 07:56 UTC 版)

メッサーシュミット Bf110」の記事における「夜間戦闘機」の解説

開戦直後から英空軍による散発的な夜間爆撃はあったが、1940年5月15日99機の英軍爆撃機ドイツ重工業地帯ルール地方対し本格的な夜間爆撃決行するゲーリング防空への自信内外喧伝していたが、開戦時ドイツ防空陣容88mm 高射砲2600門、37/20mm対空機関砲6700門、探照灯300であった本格化する英軍夜間爆撃対しドイツ空軍は夜間戦闘機の配備増強行なった。しかし、新規専用夜間戦闘機を開発してもすぐに間に合うはずもなく、現行の機体充てるしかなかった。 レーダー管制無線管制夜間航法などを伴う夜間戦闘当時単座戦闘機では困難で、通常は何名かの同乗者を必要とする。開戦時には探照灯聴音機頼り旧式機であるAr68Bf109旧型などがこの任務回されていたが、1939年末頃までにはドイツ空軍唯一持つ双発戦闘機Bf110が夜間戦闘機として転用されることとなり、本機以後、夜間戦闘機の主力となった。また本機双発ゆえに既に述べているが比較重武装が可能であり、また航続距離、すなわち滞空時間長いため上空待機追撃も容易で、夜間戦闘機としては、単発機には無い多く利点があった。また、戦闘機相手には運動性不足していたBf110であったが、爆撃機相手にする分には必要十分運動性持っており、問題とはならなかった。 しかしながら英空軍大戦後期にはボーファイターモスキート(本来は双発爆撃機有用な多用途機として夜間戦闘機型も運用された)で爆撃機編隊護衛し、これら敵夜間戦闘機との交戦考慮に入れる必要があり、特に1944年以降重大な脅威となった。さらに英空軍ドイツ空軍より進歩した機上レーダー・・・マイクロ波を利用し空気抵抗大きな巨大なアンテナ要せず機首内のパラボラアンテナ賄えるもの・・・を備えていた。そのためか英空軍夜間戦闘機との戦いでは、ドイツ空軍夜間戦闘機は苦戦強いられた1940年6月22日には本格的な夜間戦闘機部隊第1夜戦闘航空団が2個飛行隊規模発足。第I飛行隊は3個中編成(12×3 + 本部小隊4機)でBf110Cを装備、第II飛行隊同じくBf109D装備したもの。直後7月1日には戦闘航空団通常の3個飛行隊規模拡大従来の第II飛行隊は第III飛行隊となり、第II飛行隊新たに双発爆撃機重武装改造した夜間戦闘機、Ju88C-0/C-1/C-2型2個中隊およびDo17の夜間戦闘機型であるZ-7またはZ-6夜戦型、およびZ-10「カウツ」(Kauz, フクロウまたはミミズク後述するシュパナーを搭載していることからこの名称になった)に1個中隊に機種変更されている。さらに7月17日には、今後複数夜間戦闘航空団統括する可能性見越しヨーゼフ・カムフーバー大佐指揮官とし、その上組織となる夜間戦闘師団オランダのツィーゼに創設され機材調達等の円滑化のほか、探照灯レーダーなど地上施設などとの連携緊密に行えようになった。なお、航空団の初の戦果は恐らく7月9日、また初の夜間公認撃墜7月20日である。 とは言え当初利用されたC, D(D-1型を除く), E型は、機体黒く塗りつぶし消炎排気管採用した程度専用装備無かった。また本機の不足を補うため、Do17、Do215、Do217Ju88などの双発爆撃機が夜間戦闘機に改造され運用されることとなった。 なおドイツレーダー開発1934年から開始されており、開戦当時最大120km先の敵機判別できる基礎的な警戒レーダーフライアを実用化北海沿岸に8基を設置していたが、初期の頃英軍昼間爆撃選択していた。ただしこれは敵機の高度は判別できないのだった1940年に入るとドイツ新型迎撃レーダーヴュルツブルク」(ウルツブルグ)の量産開始、夏頃には本格的な配備始まっている。だが機上レーダー開発は遅れ(英国はこの点は進んでおり、開戦前に既に配備されていた)、当初ヴュルツブルク発見、または英軍爆撃機主要な経路前進配置した探照灯で敵の侵入補足し夜間戦闘機が攻撃これから逃れた敵機をさらに主要施設都市配備した探照灯と夜間戦闘機が攻撃すると言うかたち、「明る夜間戦闘であった。これはその後フライア1基とヴュルツブルク2基に指揮室等を組み合わせたヒンメルベットシステム発展し、敵爆撃機自軍夜間戦闘機の位置把握し地上から空中の夜間戦闘機を管制できるようになる。これはフライアが敵爆撃機発見しヴュルツブルク2基が敵爆撃機味方夜間戦闘機をそれぞれ補足し続け地上から無線誘導し会敵に導くものでもので、レーダーを3基も用いながら初期には各一機ずつ、その後にも2 - 3機の夜間戦闘機を誘導できるものでしかなかったが、探照灯無しでの夜間迎撃システム「暗い夜間戦闘」の嚆矢となった。ただしそれほど精度の高いものではなく最後接敵肉眼頼みであり、時として探照灯助けを必要とした 機上レーダー開発される以前1940年には赤外線暗視装置「シュパナー」を装備した。これには赤外線サーチライト併用するアクティブ型であるI型と、敵機排気炎や翼灯を感知するパッシヴ型であるII - IV型があり、主にDo17で、その他Bf110D/E型でも使用されたが、I型はさも望遠鏡のような形状視野狭く実用的でなく、II型敵機エンジン排気管消炎にすれば感知困難になるなど、戦果には寄与しなかった。 なお1940年9月にはJu88/Do17装備第1夜戦闘航空団II飛行隊第2夜戦闘航空団第I飛行隊へと編成替えし、航続力生かして本土夜間飛行攻撃充て、元の第1夜戦闘航空団II飛行隊にはBf110装備10月には新たにBf110基幹の1個飛行隊規模第3夜戦闘航空団設置。これは1941年11月までには3個飛行隊規模拡大する第2夜戦闘航空団へもBf110の1個中隊が配属された。この中半端な状態は翌1941年11月に2個中隊が増設され第II飛行隊として成立するまで続く。 おおよそこの時期にはBf110が夜間戦闘機の主力であり、生産され機体の6割が夜間戦闘機として用いられた。またDo17性能が低すぎ(夜間戦闘機型は11機で生産中止)、Ju88は数が少なすぎた。またBf110が最も優速でもあった。。 1941年初頭には195機の夜間戦闘機を保有していた。そしてイギリスから遅れること2年1941年7月ドイツテレフンケン社はついに対空機上レーダーFuG202リヒテンシュタインBC」を開発する探知距離は200 - 3500m、探知角度30度、周波数は490MHz、出力1.5キロワット外見上は、送信アンテナ受信アンテナが4本ずつ装備されアンテナ支柱機首から4本突きだしているかたちであり、アンテナ合計32本。 夜間戦闘機はこれを装備することにより、ヒンメルベット誘導された後の接敵容易になった。だがこのレーダーは距離・方位上下表示する3つの陰極線管(CRT)を注視しクルー解読するもので、読解及び操作は相当に高度な技術必要とされるものであった当初はDo215で実戦テストされ相応結果出したが、量産が成るのはまだ先のことであった。なお、渡辺 (2002)によれば1941年来襲した英空軍爆撃機述べ27000機強、うち損失1089機、夜間戦闘機隊の戦果421機である。またこの年Bf110874生産され、ほとんどが夜間戦闘機部隊回された。 1942年初頭には夜間戦闘機は約250機ないし367機が配備されていた。1942年にはさらに夜間戦闘機部隊の増強進み合計11飛行隊活動していた。うちJu88/Do17を装備し地中海で長距離夜間戦闘当たって居た第2夜戦闘航空団除いた全てが、Bf110装備していた。この時期にはシュパナーを搭載したBf110Eなども配備されていたが、本格的な夜間戦闘機型としてF-4型投入されたのもこの時期である。これは後期型ではリヒテンシュタインレーダー装備していた。なお年末までにはさらに合計で5個飛行隊増強されており、12月には5個航空団16飛行隊(うち2個飛行隊地中海)、375機という体制であった英軍夜間爆撃激化しており、5月から6月にかけては一晩に約1000機を動員した飽和爆撃が行われ、以降200 - 300機の大編隊による爆撃繰り返される1942年2月以降Bf110にも徐々に機上レーダーFuG202装備進んでいったが、前述した取り扱い難しさ加え重量増加と「有刺鉄線」と呼ばれた巨大な機首アンテナの装備により増した空気抵抗により速度低下し従来ヒンメルベット慣れた搭乗員には、当初はあまり好評でなかった。Bf110場合、40km/hまたはそれ以上速度低下した1942年ドイツ夜間戦闘機部隊戦果780機。うち691機(そのうち4機は昼間の撃墜)がドイツ本土方面戦果であった1943年7月までにはFuG202普及率80%に達し6月からは性能はほぼ同等ながら機内装備簡略化したFuG212「リヒテンシュタインC-1」の配備もはじまる。探知距離は200 - 3500m、周波数420 - 480MHz。野原 (2006a) によればアンテナ簡略化されている。 1943年初頭にはBf110310機、80機がJu8810機がDo217合計400機の夜間戦闘機が配属されていた。1943年初夏にはDB605B(1475馬力)を装備したBf110G-4が登場し以後主力の座を担う。本来2名だった乗員の間に割り込むかたちでレーダー手乗り込み3名となってしまい、機体内は身動きとれないほどであったという。G-4型1945年2月まで、1850機が生産された。各主翼懸吊された300リットル増槽(B2仕様)と機首の30mm機関砲(R3仕様)は標準装備に近い物であったらしい。なおこの頃からは長距離夜間戦闘専門だったJu88Do217通常の夜間戦闘部隊加わってくる。 また、武装としてシュレーゲ・ムジーク(斜銃)が採用されつつあった。一般的に爆撃機後方防御火力は強力であるが下面防御火力が低い。故にこの位置から攻撃かけたいが、上昇しながら通常の前方機銃攻撃してしまっては、十分な命中弾を与え前に離脱機動を取らねばならず、弾量・命中率共に不満である。ならば後下方を同航飛行し斜め上向けて装備した機関銃思う存分(実際には数秒であるが)撃ち込めば良いではないかと言うのがこの兵器コンセプトである。これは1942年秋 - 末頃から実験されており、1943年9月までに18機を撃墜したとの報告により制式化され、Bf110を含む多くの夜間戦闘機に装備された。ちなみに角度65 - 78程度。この兵器旧日本軍でも用いられていたが、それに比べてかなり垂直に近いものである。ベテランパイロットにはあまり評判良くなく、従来攻撃法好んだとする文献もある。 英軍1943年7月からウインドゥの使用開始する具体的にレーダー撹乱する金属片大量にばらまくと、それぞれ電波反射しレーダーにはまるで大編隊がそこにいるように見える。英軍場合両面錫箔貼った紙を使用した当初はヒンメルベットシステムを対象長さ27cm、幅2cmのものが用いられた。少数同士誘導すると言う特性ヒンメルベットはこれで無力化されてしまう。また機上レーダーFuG202もウインドゥの影響下にあり、接敵困難になった。このため従来の「明る夜戦」の発展形である「ヴィルデ・ザウ」(Wilde Sau) 戦法開発され英軍爆撃機対抗する。 それと同時に、ヴィクトール・フォン・ロスベルク大佐により、ツァーメ・ザウ(ザーメ・ザウ、Zahme Sau飼い慣らされ)という新戦術開発された。渡辺 (2002) によれば英軍爆撃機編隊出動関連する電波傍受し当日天候などを合わせて敵の爆撃目標推定し警戒レーダーにより実際に侵入察知した後は、索敵部隊が幅20 - 30km長さ200 - 300kmに及ぶ英爆撃機大編隊に接触し、その動向逐次司令部報告する。各夜間戦闘機部隊はその情報元に予め会敵予想空域敵編隊待ち伏せ目視敵編隊襲いかかるのである。また従来各夜間戦闘機隊はそれぞれ管区持っておりそれに拘束されていたが、この新戦法では数百機にもおよぶ敵爆撃機長大な帯を自由に襲撃でき、そして反復攻撃加え続けられるシステムとなった。なおこの場合ヒンメルベットシステムは、ただの警戒レーダー落ちぶれてしまう。この戦術1943年7月30日承認された。 これら新戦術は敵の爆撃目標推定すると言う要素存在するなどするため、例え攻撃側陽動や囮を用い余地があり迎撃戦果が司令部判断大きく依存してしまう嫌いがあるものの、従来のヒンメルベットシステムより効果的であったとされ、その効果のほどはすぐに現れた。英爆撃機隊は1943年8月17日ペーネミュンデ爆撃では597機中41機(6.8%)を、1943年8月23日から9月4日にかけての3回ベルリン空襲で計125機(7.5%)の爆撃機失った。この戦術終戦まで継続された。 1943年9月には新型機上レーダーFuG220「リヒテンシュタインSN-2」の量産開始され配備されはじめた。これは波長が3.3mと長いレーダーで、さらに周波数を37.5 - 118MHzまで3段階に切り替えられることから、英爆撃隊の使用するウインドゥの影響を受けにくかった最大探知距離も4000m、範囲左右120度、上下100度と、性能格段に向上している。ただし低周波用いたその代償としてアンテナ従来より大型化し、「鹿の角」と呼ばれるようなものとなった。 なお1944年には英軍機の装備しているH2S地形表示レーダーを100km先から探知するFuG350「ナクソスZ」、後方警戒レーダーモニカ」の電波探知するFuG227「フレンスブルク」も実用化され、アクティブパッシヴ両面での探知が可能となった。なお、1943年時点でのドイツ夜間戦闘機の配備機数は627機、稼働機数は421であったまた、地上の「ヴュルツブルク」にはドップラー効果応用し飛行し続ける敵爆撃機散布後はその場舞い散るだけのウインドゥを識別する「ヴュルツラウス」、および機体よりの反射波ウィンドウからの反射波の差を音で表す装置ニュルンベルク」が追加され、ウインドゥ対策としている。 Bf1101944年春にはドイツ空軍夜間戦闘機部隊の約6割を占め主力機であり、最盛期である1944年2月には630機、または1944年5月には580機が配備されていた。だが1944年長く夜間戦闘機の主力担ってきたBf110転機訪れる。主力の座をJu88奪われてしまうのである1943年生産数Bf110が789機、Ju88706であったが、1944年には1397機に対して2518機と、大きく逆転してしまったのだ。また実際部隊配備機数でも1944年7月にはJu88が674機、Bf110が558機と、逆転してしまっている。渡辺 (1980)は、FuG220の「鹿の角」を装備し重量空気抵抗増した上にその他電波装備シュレーゲ・ムジークまでも装備したBf110G-4d/R3は485km/hしか発揮し得ず、英爆撃機に対して優速ではなくなったことが主要な原因としている。ただし野原 (2009) によればG-4型速度は510km/hである。 その点大型Ju88速度低下度合い比較低く胴体の上下および後方警戒アンテナの装備さえも可能で(G-7型からは標準装備とされた)、さらにエンジンパワーアップ補いBf110より優速を保ち得たのである。Ju88G-1はBMW801エンジン(離昇出力1700馬力)を装備し胴体下面20mm機関砲を4門装備シュレーゲ・ムジーク装備可能で、高度6000mで520km/hを発揮できた。さらにG-6ではJumo213A(離昇出力1750馬力)を装備し野原 (2006a) では540km/h (6000m)を発揮したとされている。Ju88戦況の悪化による爆撃機型需要低下もあり2000機以上の生産を見る、Bf110G-4に代わる主力夜間戦闘機となった。 なお、最終的にBf110にもFFO社FuG218「ネプトゥーンV/R」が搭載されている。探知距離は120 - 5000mであり、波長157 - 187MHz。従来は4本独立していたアンテナが1本の支柱から分岐するかたちに改められたため、野原 (2006a) によれば空気抵抗低減したらしい。また、CRT表示カラー化され、読解が行いやすくもなっている。単座用のものと複座用のものがあり、Bf110には複座用のものが装備された。1945年には出力を2.5kWから20kWに増強し、さらに周波数可変域を拡げ、アンテナ小型化したFuG228「リヒテンシュタインSN-3」が開発されたが、完成品はただの10であった。 そして1944年以降連合軍による精油施設人造石油工場などの対す爆撃激化により、燃料事情急激に悪化する実戦もちろんのこと訓練回せ燃料少なくなり、さらに燃料単発戦闘機優先的に回され、さらに通信網レーダー破壊占領などの理由から、夜間戦闘機の活動低下一途辿った例え1945年2月13日のドレステン空襲には、わずか27機での迎撃か行えなかった。ただし機体増産自体は順調で、1944年12月には1355機と、予定配備機数以上が配備されていた。そのような状況下でも1945年2月21日夜にデュースブルク目標とする450機の敵重爆撃機129機が迎撃爆撃機護衛するモスキート妨害にもかかわらず、わずか4機の損失62機を撃墜する戦果挙げたことは特筆するに値するドイツ夜間戦闘機隊のトップ・エースはハインツ=ヴォルフガング・シュナウファー少佐で、夜間撃墜121機、うち114機が4発機である。彼は敵軍にもその名を知られ出撃基地の名から「サントロン幽霊」と渾名されたという。

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夜間戦闘機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 15:32 UTC 版)

ボールトンポール デファイアント」の記事における「夜間戦闘機」の解説

こうして昼間戦闘機としては失敗終わったデファイアントではあったが、8月大損以前行った夜間出撃2度戦果をあげていたことに着目され、夜間戦闘機として使用されることとなった夜間戦闘転用されたものはNFMk I呼ばれ、さらにレーダー搭載改修が行われたものはNFMk IA型番与えられた。第264141飛行中隊は夜間戦闘機部隊改編され、さらに4中隊新設された。さらにAI Mk IV要撃戦闘用レーダーおよびマーリン XXエンジン搭載したMk II開発されたが207生産、3個飛行中隊運用されたにとどまったこの間開発進んでいたボーファイターモスキートの夜間戦闘機仕様でも、銃塔搭載案が検討され試験もされたものの結果芳しくなく廃案となっている。 デファイアント夜間戦闘方法は、後の斜銃での攻撃同様に敵機下後方に接近し銃塔射撃するというものであったパイロットレーダー手兼ね射手従来通り射撃のみを行う。その後登場する夜間戦闘機のほとんどはこれと異なりパイロット射撃手兼ね、もう1名がレーダー手となる役割分担とっている。このことからデファイアント分担があまり効率的では無く、夜間戦闘機としてMk II以降の発展無かった理由とされている。 夜間戦闘機としての能力は完全では無かったものの、必要な時期に能力をもった機体として防空任務活躍したということで、夜間戦闘機としては一定の評価をされている。

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夜間戦闘機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/21 01:38 UTC 版)

ハインリヒ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン」の記事における「夜間戦闘機」の解説

1941年11月1日ザイン=ヴィトゲンシュタインは夜間戦闘機部隊志願し第2夜戦闘航空団(NJG 2)/第9飛行中隊飛行中隊長に任命された後の1942年1月に第51爆撃航空団離任した。NJG 2の補充飛行隊Ergänzungsgruppe)に配属されていた1942年5月6日夜にワルヘレンの西40kilometers (25 mi)でブリストル ブレニム機を撃墜したのが夜間での初の戦果であった7月23日9月10日両日には各々15機目から17機目と19機目から21機目となる一晩で3機を撃墜し22機目を撃墜した後の10月7日騎士鉄十字章授与された。この勲章ヨーゼフ・カムフーバー将軍から授与され授与式の後2人は第9飛行中隊部隊員を視察したザイン=ヴィトゲンシュタイン大尉1942年12月1日に第5夜間戦闘航空団(NJG 5)/第IV飛行隊飛行隊長任命され1943年2月東部戦線転戦した。ここでヘルベルト・キュムリッツ(Herbert Kümmritz)伍長(Unteroffizier)が無線士/レーダー操作員(Bordfunker)としてザイン=ヴィトゲンシュタイン搭乗員加わった。この当時キュムリッツは既にシュターデ駐屯する第3夜戦闘航空団/第II飛行隊メッサーシュミット Bf 110で6カ月作戦任務経験があり、大戦開始以前にはベルリンテレフンケン社短波無線技術習得していた。キュムリッツが来る前にザイン=ヴィトゲンシュタインそれまで全ての無線士/レーダー操作員を数回共に飛行した後で拒否していた。1943年3月4月にカムフーバーは、フランスにあるUボート基地防衛のためにNJG 5/第IV飛行隊レンヌへの移動命令出した。 ギルゼ=レイエン駐屯しているときに装備機をBf 110改編するようにという命令が発せられた。ザイン=ヴィトゲンシュタインBf 1101回短時間のみ操縦しただけであったが、1943年6月24日夜にこの機体技術的問題起こし任務には不適格だ判断された。キュムリッツとザイン=ヴィトゲンシュタイン馴染みJu 88 C搭乗し32機目から35機目の戦果となる4機のアブロ ランカスター爆撃機撃墜したザイン=ヴィトゲンシュタインBf 110よりもJu 88の方を好み以後2度Bf 110操縦しなかった。飛行隊再度東部戦線へと転戦し1943年8月1日に第100夜間戦闘航空団(NJG 100)/第I飛行隊改称された。東プロイセンインステルブルク駐屯している期間の1943年7月20日ザイン=ヴィトゲンシュタイン1回作戦飛行で7機を撃墜し36機目から41機目の戦果に当たるその内6機はオリョール北東地域での47分間記録された。 1943年8月1日ザイン=ヴィトゲンシュタイン44機目から46機目の戦果となる3機を、8月3日夜には更に48機目から50機目となる3機を撃墜し8月15日にNJG 3/第II飛行隊飛行隊長任命された。54機目を撃墜した後の8月31日ザイン=ヴィトゲンシュタイン290番目の柏葉付騎士鉄十字章受章者となった。この勲章の授与式は9月22日東プロイセン総統大本営催された。この功績により第4戦闘機師団師団長ヨアヒム=フリードリヒ・フート中将からも感状送られた。 1943年12月1日ザイン=ヴィトゲンシュタイン第2夜戦闘航空団(NJG 2)/第II飛行隊指揮引き継ぐように命令され、既に68機の戦果記録していた1944年1月1日にはNJG 2の戦闘航空団司令任命された。更に69機目から74機目の戦果となる一晩で6機の4発爆撃機撃墜した1943年遅く無線士/レーダー操作員のキュムリッツが講習のためにフリードリヒ・オストハイマー(Friedrich Ostheimer)軍曹Feldwebel)と入れ替わり、オストハイマーは1943年10月から1944年1月までザイン=ヴィトゲンシュタイン飛行を共にした。 1944年1月20日ザイン=ヴィトゲンシュタインベルリン地域76機目から78機目の戦果となる3機を撃墜したが、乗機Ju 88すれすれに墜落する3機目の炎上するランカスター機とあやうく衝突しそうになったJu 88制御が効かなくなったが、ザイン=ヴィトゲンシュタインはかろうじて飛行可能な状態まで制御回復した車輪フラップ下す失速し始めるため搭乗員胴体着陸させることにした。不時着した機体主翼約2meters (6.6 ft)分がランカスター機のプロペラ切断されていた。

※この「夜間戦闘機」の解説は、「ハインリヒ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン」の解説の一部です。
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