夜間戦闘司令官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/13 15:28 UTC 版)
「ヨーゼフ・カムフーバー」の記事における「夜間戦闘司令官」の解説
1940年7月、第1夜間戦闘師団長に任命され、探照灯、対空砲、レーダー施設を統括して指揮する任務を与えられた。ドイツの防空施設それまでばらばらの指揮と報告・情報・経験が共有されないという問題があったため、カムフーバーがドイツの防空を統括することになった。1940年10月少将に昇進。1941年10月中将に昇進。第XII航空軍団の指揮を命じられ、ドイツ全土の夜間防空を一手に指揮することになった。司令部はオランダのユトレヒト近郊ツァイストに置かれた。 カムフーバーははじめ高射砲とサーチライトによってメッサーシュミット Bf110など165機で夜間防空組織を構成したが効果がなかった。そのためフライヤ・レーダー(長距離早期警戒レーダー)とヴュルツブルグ・レーダー(短距離精密探知レーダー)をもってするレーダー管制による迎撃体制を組織しヒンメルベッド(天蓋付ベッド)と名付ける。1941年末には迎撃機300機を配備しイギリスからカムフーバーラインと恐れられた。 さらにカムフーバーは、遠距離迎撃群II./NJG 1(のちにI. /NJG 2に改名)を構成した。敵の爆撃機に対するもっとも効率的な迎撃は離陸及び着陸時の攻撃であるというカムフーバーの構想によるものだった。また爆撃機隊の訓練を妨害することにも繋がる作戦だった。「敵はその根っこから断たねばならない」というのがその理由であり、夜間戦闘機の隊員たちはカムフーバーに「根っこのゼップ」というあだ名をつけた。ドイツの通信手たちはイギリスの爆撃機から発信される無線通信を傍受して攻撃の波を察知した。この作戦は1940年7月にデュッセルドルフで開始され、のちにアムステルダム・スキポール空港でも配置についた。成功を収めたがヒトラーは10月にこの作戦を中止して部隊を地中海戦域に移すよう命じた。 カムフーバーは特別な夜間戦闘機開発に注目し1942年試験飛行を実見したHe 219「ウーフー」の能力を認めて採用を主張した。しかしミルヒはカムフーバーとは反対の決定を下して両者は対立した。 1942年3月から始まる連合国の絨毯爆撃によってドイツの都市は灰燼に帰した。ヒトラーは防空を担当するカムフーバーとガーランド(昼間防空)を叱責した。そのため夜間機300機と昼間機200機を集めた大迎撃が試みられるが撃墜率は5,6パーセント程度であった。後にウインドウ(チャフ)というレーダーかく乱兵器によって夜間レーダーは用をなさなくなり、撃墜率は3パーセント以下まで落ちる。 1943年1月には、カムフーバーは大将に昇進。ヒトラーの命令で連合国のレーダー対策に対しカムフーバー、ガーランドは「ヴィルデ・ザウ」、「ザーメ・ザウ」という2つの作戦を採った。「ヴィルデ・ザウ」は1943年8月17日ペーネミュンデ爆撃で戦果をあげ、「ザーメ・ザウ」は1944年3月31日ニュルンベルクで戦果をあげた。 1943年11月ノルウェーに駐屯する第5航空艦隊に左遷された。この艦隊は機体も少なく、旧式化した航空機が多かった。1945年2月、ミルヒの失脚に伴いヒトラーはカムフーバーをドイツに呼び戻し「敵四発爆撃機迎撃特別司令官」に任命した。しかし実質的な対抗策はすでになくなっていた。
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