寛保2年 (みずのえいぬ 壬戌)
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年(年号) |
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●1722年 (享保7年) | ■小石川養病所設置 |
●1732年 (享保17年) | ■西日本に蝗害 |
●1742年 (寛保2年) | ■公事方御定書制定 |
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●1744年 (延享元年) | ■神田に天文台設置 |
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・ 尾形 乾山 | 1663年〜1743年(寛文3年〜寛保3年) | 79才 |
・ 小川 笙船 | 1672年〜1760年(寛文12年〜宝暦10年) | 70才 |
・ 大岡 忠相 | 1677年〜1751年(延宝5年〜宝暦元年) | 65才 |
・ 太宰 春台 | 1680年〜1747年(延宝8年〜延享4年) | 62才 |
・ 徳川 吉宗 | 1684年〜1751年(貞享元年〜宝暦元年) | 58才 |
・ 神尾 春央 | 1687年〜1753年(貞享4年〜宝暦3年) | 55才 |
・ 野呂 元丈 | 1693年〜1761年(元禄6年〜宝暦11年) | 49才 |
・ 青木 昆陽 | 1698年〜1769年(元禄11年〜明和6年) | 44才 |
・ 与謝 蕪村 | 1716年〜1783年(享保元年〜天明3年) | 26才 |
・ 田沼 意次 | 1720年〜1788年(享保5年〜天明8年) | 22才 |
・ 山県 大弐 | 1725年〜1767年(享保10年〜明和4年) | 17才 |
・ 平賀 源内 | 1728年〜1779年(享保13年〜安永8年) | 14才 |
・ 杉田 玄白 | 1733年〜1817年(享保18年〜文化14年) | 9才 |
・ 中川 淳庵 | 1739年〜1786年(元文4年〜天明6年) | 3才 |
・ 鈴木 春信 | ????年〜1770年(??年〜明和7年) | ?才 |
1742年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/13 05:19 UTC 版)
千年紀: | 2千年紀 |
---|---|
世紀: | 17世紀 - 18世紀 - 19世紀 |
十年紀: | 1720年代 1730年代 1740年代 1750年代 1760年代 |
年: | 1739年 1740年 1741年 1742年 1743年 1744年 1745年 |

1742年(1742 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
他の紀年法
- 干支 : 壬戌
- 日本
- 中国
- 朝鮮
- ベトナム
- 仏滅紀元 : 2284年 - 2285年
- イスラム暦 : 1154年 - 1155年
- ユダヤ暦 : 5502年 - 5503年
- ユリウス暦 : 1741年12月21日 - 1742年12月20日
カレンダー
できごと
- スウェーデン - アンデルス・セルシウスが、スウェーデン王立科学アカデミーに投稿した論文のなかで、実用的温度計を提唱[1]。これが現在のセルシウス度の基となった。
- グレートブリテン王国
- イングランド - チャールズ・ジャーヴァスによる英訳版『ドン・キホーテ』が、ジャーヴァスの死後3年経ってから出版。出版社のミスで著者名が「Charles Jervas」ではなく「Charles Jarvis」とされたことで『ジャービス版ドン・キホーテ』と呼ばれる。史上最も原文に忠実な英語版として高く評価された。
- スコットランド -
- エディンバラで世界初のスケートクラブ、エディンバラ・スケーティング・クラブが結成。
- コリン・マクローリンが『導関数論』("Treatise on Fluxions")を出版。
- ガーンジー - ダニエル・ル・ペリーが、父であるニコラス・ル・ペリーの跡を継いでサーク領主となる。
- ロシア -
- 宮廷でロプーヒナ陰謀事件起こる。
- イルクーツクに日本航海学校創立[2]
- ロシア・スウェーデン戦争において、フィンランドを占領。フィンランド王国 (1742年)が一時的に成立。
- フランス -
- フランソワ・ブーシェが『水浴のディアナ』を完成。同年、サロン・ド・パリに出品する。
- ノルウェーの街モルデが勅許を得る。
- ドイツ -
- アイゼナハにアイゼナハ宮殿(独: Stadtschloss)が建設。
- バヴァリア、ニュルンベルクにフリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルクが開設される。
- 教皇領 - カトリック教会が、儀式を(中国語ではなく)ラテン語で行うことを中国宣教の規則とすることを決定。
- オスマン帝国 - イルミセキザード・メフメト・サイード・パシャが、パリにオスマン帝国の大使として赴任[3]。
- 日本 -
- チベット - ダライ・ラマ7世のもとで『チベット大蔵経』、新ナルタン版テンギュルが完成[5]。
ヘンリー・ミューレンバーグの像 フィラデルフィア・ルーテル神学校 - 北アメリカ
- スペインが、フロリダ州のセントオーガスティンより南におよそ24キロに位置するマタンサス・インレットに、マタンザス要塞を築く。
- ルーテル教会の牧師・宣教師のヘンリー・ミューレンバーグがペンシルベニア植民地の信徒の求めに従いドイツから渡米、同地に赴く。これにより、彼はアメリカ合衆国におけるルーテル教会の祖となった。
1月-3月
- 1月9日 - ロバート・ウォルポールがオーフォード伯爵位を得、第一大蔵卿と財務大臣を辞す。これによってウォルポールはイギリスの首相としての任期を終えた[6]。辞職は前年の総選挙によってホイッグ党が絶対的優位を失い、政権不安定になっていたことによるもの。また、5日後に正式に首相職を退いた時点で、ウォルポールの首相在任期間は20年と314日間であった。これは、イギリスの首相の1期としては史上最長、通算在任日数としても未だ記録を破られていない。初代ウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトン内閣が成立[要出典]。
- 1月14日 -
- エドモンド・ハレー死去。これに伴い、ジェームズ・ブラッドリーが王室天文官の後任に選ばれる。
- ジョゼフ・フランソワ・デュプレクスがフランス王国からポンディシェリ(フランス領インド)の知事に任命される[7]。
-
神聖ローマ皇帝カール7世 彼は1745年に病没し、皇帝の位をマリア・テレジアの夫、フランツ・シュテファンに明け渡すこととなる。 - 1月28日? - 庶民院がチッペナム選挙区での不正操作疑惑について採決[9]。これはロバート・ウォルポールに対する不信任決議となり、彼は辞任することになる[10]。
- 2月12日 -
- 第2代グランヴィル伯爵ジョン・カートレットが北部担当国務大臣に就任。以降、彼がカートレット内閣における指導的立場を担うことになる。
- 神聖ローマ皇帝カール7世が、フランクフルトで戴冠式を挙げる。戴冠はカールの弟でケルン大司教のクレメンス・アウグストが行った。
- 2月15日 - オーストリア継承戦争、第一次シュレージエン戦争:ディートリヒ・フォン・アンハルト=デッサウ指揮下のプロイセン・ザクセン・フランス連合軍が、モラヴィアのイグラウ(現在のイフラヴァ)を占領。フランスとザクセンはこの時点で、両国のプロイセンに対する義務が履行されたことを宣言し、フランス軍は撤退した[11][12]。
- 2月16日 - 初代ウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトンがイギリス首相(カートレット内閣)に就任。
- 2月20日(寛保2年1月16日) - 大坂で2代目市川海老蔵、『雷神不動北山櫻』の「毛抜」(歌舞伎)を初演。旧暦7月まで大入りとなった[13]。
- 2月22日 - ヘンリー・フィールディングがロンドンで、ピカレスク小説『ジョゼフ・アンドリュース』を匿名で発表。「初版……(ロンドン市内の)書店に届く[14]」
- 3月15日 -
- 3月29日 - ポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキがリトアニア大公として、リトアニアの首都ヴィリニュス在住のユダヤ人に対し、ピリエス通りとガルベス通りの両公道以外の市内の居住・転居の自由を認める布告を行う[17]。
4月-6月

- 4月 - 朝鮮で全国的に熱病が流行、死者多数[7]。
- 4月13日 - ヘンデル、オラトリオ『メサイア』をダブリン、聖パトリック大聖堂で初演。
- 5月5日(寛保2年4月1日) - 徳川吉宗のもと、法典『公事方御定書』の下巻、『御定書百箇条』が成り、『公事方御定書』が一応の完成をみる。これは、司法・警察関連法規・刑法・訴訟法を編纂したもの[13]。その後も改訂が進められ、宝暦4年(1754年)に最終的な形となった[18]。
- 5月17日 - オーストリア継承戦争、第一次シュレージエン戦争:コトゥジッツの戦い。ボヘミアのコトゥジッツで、フリードリヒ大王のプロイセン軍がオーストリア軍を破る。実質的にはこの戦いが大王が軍指揮官として経験した初めての戦いとなった[19]。
- 5月24日 - オーストリア継承戦争:ザハーイの戦い。ボヘミア南部のザハーイで、フランス軍がオーストリア軍を破る。
-
フアン・サントス・アタワルパの胸像 リマ - 6月3日(寛保2年5月1日) - 九州から東北までの日本列島の広い範囲で皆既日食が観測された[22]。
- 6月7日 - クリスティアン・ゴルトバハが、レオンハルト・オイラーとの書簡のなかで「ゴールドバッハの予想」(全ての2よりも大きな偶数は2つの素数の和として表すことができる)について初めて言及する[23]。
- 6月11日 - ブレスラウ条約。オーストリアがプロイセンにシレジアを割譲[8]。
- 6月20日 - イズミルが火事で破壊[24]。
7月-9月
- 7月 - 江戸幕府によって、御触書をまとめた法令集(のちに『御触書集成』と命名)の編纂始まる[7]。
- 7月10日 - ジェンキンスの耳の戦争:ブラッディ・マーシュの戦い。ジョージア植民地で、イギリス軍がマヌエル・デ・モンティアノ率いるスペイン軍を撃退。
- 7月14日 - ウィリアム・パルトニーが初代バース伯爵に叙勲。
- 8月17日 -
- フランス兵10名を伴ったフレンチ領ルイジアナのチョクトー族がトンビグビ川を渡り、ジョージア植民地にあるチカソー族の集落を略奪する[25]。以後3日の間に、チョクトー側は50名、チカソー側は25名の犠牲を出した。この襲撃を許可したフランス領ルイジアナ総督ジャン=バティスト・ル・モワイヤン・ド・ビエンヴィユは、後日パリに召喚された。
- アイルランドの詩人で作家のジョナサン・スウィフトが、「不安定な精神と記憶力」(痴呆)とする勧告を裁判所から受ける。スウィフトは3年後の1745年に亡くなるまで、監禁状態での自宅療養を余儀なくされた[26]。
- 8月19日 -
- 8月20日 - ハット党戦争:ヘルシングフォシュ(現在のヘルシンキ)でスウェーデン軍の兵17,000人がロシア帝国に投降、これによって戦争が事実上終結[29]。
- 8月27日 - 提督ジョージ・アンソンの戦列艦センチュリオンが、船内で病気が蔓延しながらもテニアン島(現アメリカの自治領)にたどり着く。これによって、アンソン一行は世界周航を続行できた[30]。
- 8月30日 - ライプツィヒ近郊のクラインチョハー村で、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの世俗カンタータ『わしらの新しいご領主に』(通称『農民カンタータ』)が初演される。
- 8月 - イギリス、ハートフォードシャーでロイストン洞窟が再発見。
- 旧暦7月下旬 - 日本、信濃で戌の満水(千曲川の洪水)。松代・上田・小諸に被害[13]。
- 旧暦8月上旬 - 日本、寛保二年江戸洪水(暴風雨による関東地方大水害)[31]。溺死者3,800人とも[13]。
-
「ヴィトゥス・ベーリング#2度目の探検」も参照
- 9月5日 - 大北方探検の生存者46人がペトロパブロフスク・カムチャツキーに帰還。ベーリング海峡で座礁してから10ヶ月後のことであった。彼らは同年8月21日に聖ピョートル号の残骸から新しく船を完成させていた[32]。
- 9月16日 - ロンドンで捨子養育院が着工[33]。設計はセオドア・ジェイコブセン。西棟は1745年に、東棟は1752年に完成。
10月-12月
- 10月5日 -
- 第5代フエンクララ伯爵ペドロ・セブリアン・イ・アウグスティンがベラクルスに到着、ヌエバ・エスパーニャ副王に就任する[34]。
- ペンシルベニア植民地総督のジョージ・トマスが、ランカスター郡、ならびにブルーマウンテン以西に定住することを禁止[35]。
- 旧暦9月 - 幕府が、江戸市中で富士山の加持水を薬の代替として病人に服用させることを取り締まる[36]。
- 11月13日 - デンマーク王立科学文学アカデミー創立。
- 11月18日 - カール・ペーター・ウルリヒ(のちにロシア皇帝ピョートル3世)が東方正教に改宗し、ピョートル・フョードロヴィチを名乗る[37]。
誕生
- 3月14日 - アーガー・モハンマド・シャー、ガージャール朝初代シャー(+ 1797年)
- 3月28日 - ヨハン・ダビット・ウィース、児童文学作家(+ 1818年)
- 4月14日 - ピウス7世、第251代ローマ教皇(+ 1823年)
- 4月24日 - ロマン・ホフシュテッター、作曲家(+ 1815年)
- 5月8日 - ヤン・クシチテル・クルンプホルツ、作曲家・ハープ奏者(+1790年)
- 5月23日(寛保2年4月19日) - 伊達重村、第7代仙台藩主(+ 1796年)
- 6月16日 - アーサー・ミドルトン、アメリカ独立宣言署名者(+ 1787年)
- 6月28日 - ウィリアム・フーパー、アメリカ独立宣言署名者(+ 1790年)
- 7月14日 - ジェイムズ・ウィルソン、アメリカ独立宣言署名者・アメリカ合衆国連邦最高裁判所陪席判事(+ 1798年)
- 8月7日 - ナサニエル・グリーン、アメリカ独立戦争における大陸軍の少将(+ 1786年)
- 9月14日 - ジェイムズ・ウィルソン、アメリカ独立宣言署名者(+ 1798年)
- 9月19日 - ロシャンブロワーズ・キュキュロン・シカール、ろう教育者(+ 1822年)
- 12月8日 - ジャン=マテュー・フィリベール・セリュリエ、フランス帝国元帥(+ 1819年)
- 12月9日 - カール・ヴィルヘルム・シェーレ、化学者(+ 1786年)
- 12月16日 - ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル、プロイセン陸軍の元帥(+ 1819年)
- 月日不明 -
死去
- 1月25日 - エドモンド・ハレー、天文学者、数学者、物理学者(* 1656年)
- 7月1日 - ボフスラフ・チェルノホルスキー、チェコの作曲家、オルガン教師(* 1684年)
- 7月12日 - エヴァリスト・ダッラーバコ、作曲家・ヴァイオリニスト(* 1675年)
- 12月31日 - カール3世フィリップ、プファルツ選帝侯(* 1661年)
脚注
注釈
出典
- ^ DK 2013, p. 249.
- ^ “日露交渉史関連年表 土田真紀編 ロシア宮廷美術展図録”. www.bunka.pref.mie.lg.jp. 2024年3月22日閲覧。
- ^ East encounters West by Fatma Müge Göçek p.85
- ^ 武田 2000, p. 47.
- ^ 梶山 1984, p. 4.
- ^ Williams, Hywel (2005). Cassell's Chronology of World History. London: Weidenfeld & Nicolson. p. 309. ISBN 0-304-35730-8
- ^ a b c 歴史学研究会 2017, p. 196.
- ^ a b c 歴史学研究会 2017, p. 197.
- ^ R. B. Mowat, A New History of Great Britain: From the accession of James I to the Congress of Vienna (Oxford University Press, 1922) p464
- ^ “A dozen Downing Street departures”. BBC News (2007年5月9日). August 23, 2007時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月14日閲覧。
- ^ Thomas Carlyle, History of Friedrich II of Prussia, called Frederick the Great, Vol. 15 (1865, reprinted by Charles Scribner's Sons, 1903) p319
- ^ Carlyle 1862b, pp. 538–544.
- ^ a b c d 山本 2007, p. 116.
- ^ "Appendix E: History of the Publication", by Paul A. Scanlon in Joseph Andrews, by Henry Fielding (Broadview Press, 2001) p504
- ^ International Military Alliances, 1648-2008, ed. by Douglas M. Gibler (Congressional Quarterly Press, 2008) pp. 88, 105.
- ^ Doane Robinson, History of South Dakota (B. F. Bowen & Company, 1904) p53
- ^ "The Jewish living space in the Grand Duchy of Lithuania: tendencies and ways of its formation", by Jurgita Šiaučiūnaitė-Verbickienė, in Jewish Space in Central and Eastern Europe: Day-to-Day History (Cambridge Scholars Publishing, 2009) p24
- ^ “名古屋大学附属図書館2006年春季特別展「地獄物語」の世界〜江戸時代の法と刑罰〜図録ガイド”. 名古屋大学附属図書館. p. 9. 2021年1月7日閲覧。
- ^ Dennis E.Showalter『The War of Frederick the Great』 60頁。
- ^ Colonial Latin America: A Documentary History, ed. by Kenneth Mills, et al. (Rowman & Littlefield, 2002) p302
- ^ 眞鍋 2010, p. 86.
- ^ “1742年6月3日-日本の広い範囲で皆既日食|年代別の日食一覧表”. eclipse-navi.com. 2024年1月17日閲覧。
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- ^ S. G. Tallentyre, The Life of Voltaire, Volume 1 (G. P. Putnam's Sons, 1910) p141.
- ^ "Russo-Swedish War of 1741–43", in Dictionary of Wars, by George Childs Kohn (Routledge, 2013) p420
- ^ "Anson, George", by Keith A. Parker, in Historical Dictionary of the British Empire, ed. by James S. Olson and Robert Shadle (Greenwood Publishing, 1996) p68
- ^ 知野泰明「近世の災害2」/ 北原糸子編著『日本災害史』吉川弘文館 2006年 178ページ
- ^ Edward Heawood, "A History of Geographical Discovery in the Seventeenth and Eighteenth Centuries" (Cambridge University Press, CUP Archive, 1912) p267
- ^ An Account of the Foundling Hospital in London, for the Maintenance and Education of Exposed and Deserted Young Children (Foundling Hospital, 1826) p20
- ^ Lorenzo Boturini Benaduci, Idea of a New General History of North America: An Account of Colonial Native Mexico (University of Oklahoma Press, 2015) p6
- ^ Lois Mulkearn, ed., George Mercer Papers: Relating to the Ohio Company of Virginia (University of Pittsburgh Press, 1954) p657
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- ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
- ^ 日本人名大辞典+Plus, デジタル版. “飯田義山とは”. コトバンク. 2021年12月27日閲覧。
参考文献
- Carlyle, Thomas (1862b). "Book XIII – First Silesian War, Leaving the General European One Ablaze All Round, Gets Ended – May 1741 – July 1742". History of Friedrich II of Prussia, Called Frederick the Great (英語). Vol. III. London: Chapman & Hall. OCLC 1045538020。
- 岩佐愛「捨子養育院における芸術と慈善 : ヘンデルの〈メサイア〉慈善演奏会の背景」『武蔵大学人文学会雑誌』第41巻3・4、2010年3月20日、608-574頁、 NAID 120005662247。
- 梶山雄一「資料紹介(1) : 外国図書 (大型コレクション)について デルゲ版チベット大蔵経」『静脩』第20巻第2号、1984年、2-4頁。
- 遠藤元男『江戸時代年鑑』雄山閣〈雄山閣アーカイブス 資料篇〉、2017年。 ISBN 9784639024828。 NCID BB23634815 。
- 武田光一『日本の南画』(初)東信堂、2000年7月20日。 ISBN 4-88713-347-2。
- ドーリング・キンダースリー 著、藤井留美 訳、樺山紘一 編『ビジュアル版 人類の歴史大年表』柊風舎、2013年11月11日。 ISBN 9784864980074。
- 眞鍋周三「18世紀ペルーにおける フアン・サントス・アタワルパの反乱の社会経済的背景」(PDF)『京都ラテンアメリカ研究所「紀要」』第10巻、2010年、85-126頁。
- 山本博文 編『見る、読む、調べる 江戸時代年表』小学館、2007年10月10日。 ISBN 978-4-09-626606-9。
- 歴史学研究会 編『世界史年表 第3版』岩波書店、2017年10月28日。 ISBN 9784000612265。
関連項目
1742年
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「ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)」の記事における「1742年」の解説
ロシアは1742年3月に早速停戦協定を破棄してきたが、冬が厳しかったこともあり本軍は動けなかった。ロシアの軽騎兵(コサックとユサール)はスウェーデンとの国境地帯を度々襲撃したが、現地の住民に撃退された。3月、ウルリク・フレデリック・ウォルデマール(英語版)率いるロシア軍は凍った水面を通ってフレデリクスハムン付近で錨を下ろしていたスウェーデン艦隊を襲撃しようとしたが、厳しい天候で襲撃が不可能になった。1742年春、レーヴェンハウプトはヴィボルグへの攻撃を再開しようとし、支援艦隊も5月中旬に到着したが、艦隊はレヴァルとヘルシングフォシュの間の巡航を命じられていたのでレーヴェンハウプトの命令を拒否した。 シェスティエルナ率いるスウェーデン艦隊の本隊(戦列艦15隻、フリゲート5隻)は6月3日に到着し、続いてアスペ(フィンランド語版)(現コトカから南南東25キロメートル)へ向かった。1週間後、ファルケングレン提督率いるガレー船25隻と支援船数隻が本隊と合流した。しかし、前年と違いロシア軍もヴァシーリー・ヤコヴレヴィチ・レヴァショフ将軍率いるガレー船45隻とザハール・ダニーロヴィチ・ミシュコフ率いる少なくとも戦列艦12隻で構成された艦隊の準備を整え、待機していた。レーヴェンハウプトは6月5日に参謀会議を開き、艦隊にビェルケ諸島へ向かうよう再び説得しようとしたが、危険すぎるとして海軍に拒否され、計画の放棄を余儀なくされた。 スウェーデン艦隊が動けないのを尻目に、ロシア軍が動き出した。ロシアのガレー船隊の援護のもと、ピョートル・ラシ率いるロシア軍3万がヴィボルグから進軍、6月13日に国境線を越えてフレデリクスハムンへ向かった。スウェーデン軍はロシア軍の侵攻を予想してフレデリクスハムン近郊のメントラーティ(フィンランド語版)で強固な防御工事を築いていたが、メントラーティを守備していたスウェーデン軍の大佐はロシア軍の接近を知ると、総攻撃が予定された6月25日の前日に全軍でフレデリクスハムンへ撤退した。しかし、守備上の要地を失ったことでフレデリクスハムンも危うくなり、6月28日にはレーヴェンハウプトが町に火を放ち、撤退した。 スウェーデン陸軍と海軍の連携が上手くいかず、陸軍が撤退を始めたとき、海軍は援護の代わりに直接ハンゲ半島へ向かい、ガレー船隊もペルリンゲ(英語版)へ出航してしまった。これにより陸軍の補給線は断たれ、レーヴェンハウプトは仕方なく補給拠点のボルゴへ撤退した。ロシア軍は追撃したが、スウェーデン軍後衛とロシア騎兵の間に小競り合いがおきた以外は大規模な戦闘がなかった。7月18日、内陸のスウェーデン駐留軍が撤退したという報せがもたらされると、レーヴェンハウプトはヘルシングフォシュへの撤退とその守備を固めることを決断した。 スウェーデン軍はボルゴに集中した食料と補給を運び出して撤退した。7月27日、ロシア軍がボルゴ近郊に到着、スウェーデン軍が29日にボルゴを放棄した直後の30日に入城した。2か月間にわたるスウェーデン軍の撤退は8月11日にヘルシングフォシュに到着したことでようやく終わったが、その数日後にロシア軍が同地を陸上から包囲した。スウェーデンのガレー船隊はヘルシングフォシュの東に駐留していたが、足場を固められないと思い城内へ撤退、代わりにロシアのガレー船隊が20日に包囲網を完成させる結果となった。 ヘルシングフォシュが完全に包囲される直前の8月19日、レーヴェンハウプトとブッデンブロックはストックホルムに召還され、到着した直後に逮捕され軍法会議にかけられた。ヘルシングフォシュに留まったスウェーデン軍の副官ジャン・ルイ・ブスケ(スウェーデン語版)は8月24日に降伏した。 降伏文書の規定により、スウェーデン軍のフィンランド人は解放され、スウェーデン人は船でスウェーデン本土へ戻ることを許されたが、銃器、補給や家畜の飼い葉などは全てロシア軍に引き渡された。スウェーデン艦隊は1742年9月の初めにスウェーデンに到着した。ロシア軍はオーランド諸島まで進軍、フィンランドをスウェーデン本土から切り離した。フィンランド全土はロシアに占領され、フィンランド史上で「小さな怒り」(フィンランド語: Pikkuviha)と呼ばれる時期となった。
※この「1742年」の解説は、「ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)」の解説の一部です。
「1742年」を含む「ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)」の記事については、「ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)」の概要を参照ください。
「1742年」の例文・使い方・用例・文例
- 1742年にヘンデルにより創作されたオラトリオ
- プロシアの将軍で、ナポレオンとの戦いにおけるリーダーシップで知られる(1742年−1819年)
- アメリカの発明者で、1775年に人力の潜水艦を設計し、当時は無力だっが、その後、潜水艦の先駆者としての認知をもたらした(1742年−1824年)
- 英国人の天文学者で、彗星の周期を予測するのにニュートンの運動の法則を用いた(1656年−1742年)
- スウェーデンの化学者(ドイツ生まれ)で、プリーストリーより前に酸素を発見した(1742年−1786年)
- アメリカの革命指導者で、独立宣言の署名者のうちの1人であった(1742年−1798年)
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