宮沢賢治 宮沢賢治の概要

宮沢賢治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 04:02 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
宮沢 賢治
(みやざわ けんじ)
1924年1月12日[注釈 1]撮影
誕生 宮沢 賢治
1896年8月27日
日本岩手県稗貫郡里川口村
(現・花巻市)
死没 (1933-09-21) 1933年9月21日(37歳没)
日本・岩手県稗貫郡花巻町
(現・花巻市)
墓地 身照寺(花巻市)
職業 詩人童話作家
言語 日本語
国籍 日本
最終学歴 盛岡高等農林学校
(農学得業士[2]
(現・岩手大学農学部
活動期間 1918年 - 1933年
ジャンル
童話
サイエンス・フィクション
仏教哲学
主題 詩・童話・短編小説
文学活動 理想主義[3]
代表作注文の多い料理店』(1924年
雨ニモマケズ
銀河鉄道の夜
風の又三郎
デビュー作春と修羅』(1924年
親族 宮澤清六(弟)
トシ、シゲ、クニ(妹)
テンプレートを表示

仏教法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行った。作品中に登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県モチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴやイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。彼の作品は生前ほとんど一般には知られず無名に近く、没後、草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていき、今でも教科書にも多数取り上げられ、日本には広く愛好者が存在する。

生涯

幼少期・少年期

生家
(賢治在世当時の建物は現存しない)
1902年の小正月、 5歳の賢治(右)と3歳のトシ(左)

1896年明治29年)8月27日、父宮澤政次郎と母イチの長男として生まれる。戸籍上の誕生日は8月1日で生前の賢治も履歴書に1日と書いているが、27日と推定されている[注釈 2]。母イチの実家、鍛冶町の宮澤善治家で出生したが、5日後の8月31日、秋田県東部を震源とする陸羽地震が発生。イチは賢治を収容したエジコ (乳幼児を入れ守る籠) を両手で抱えながら上体を覆って念仏を唱えていたという[5]。政次郎は仕事で旅行中だったため、政次郎の弟の治三郎が「賢治」と名付けた[4]

3歳の頃、婚家から出戻っていた父の姉であるヤギが「正信偈」「白骨の御文章」を唱えるのを聞き覚え、一緒に仏前で暗唱していたという[6]1902年(明治35年)、赤痢で2週間入院。賢治を看病した政次郎も感染し、大腸カタルを起こして胃腸が生涯弱くなった[7][8]1903年(明治36年)、花巻川口尋常小学校(2年後に花城尋常小学校へ改名)に入学。成績は優秀で6年間全科目甲だった。3年と4年を担任した八木英三は生徒たちに『未だ見ぬ親』(五来素川翻案によるマロ作『家なき子』)や『海に塩のあるわけ』(民話海の水はなぜ辛い』)などの童話を話して聞かせ、賢治に大いに影響を与えた[9]。後に賢治は八木と再会した折に「私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです」と語っている[10]鉱物採集、昆虫標本づくりに熱中するようになり、11歳の頃に家族から「石コ賢さん」とあだ名をつけられる[11]。父の主催する花巻仏教会の夏季講習会にも参加、招いた講師の暁烏敏の世話係もした[12]

盛岡中学在学時の賢治

1909年(明治42年)4月、岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学。寄宿舎自彊じきょう寮」に入寮。祖父の喜助は商人の息子で跡継ぎの賢治に学問は不要という考えで、父の政次郎が説得して進学させた。家業の古着屋を嫌っていた賢治は将来を悲観し、成績は落ち込んでゆく[13]。鉱物採集や星座に熱中、岩手山南昌山鞍掛山など盛岡近在の山を歩き、大量の岩石標本を集めた[14]。3年生の頃から石川啄木の影響を受けた短歌を制作[15]1913年大正2年)、4年生の時、二学期から交代した新しい舎監に生徒たちが夜中足を踏み鳴らすなどの嫌がらせを行ったため、4、5年生全員が退寮させられるという事件が発生。賢治は盛岡市北山の清養院に下宿する[16]

1914年(大正3年)3月、盛岡中学卒業。4月、盛岡市岩手病院に入院、肥厚性鼻炎の手術を受ける。術後も熱が下がらず、発疹チフスの疑いで5月末まで入院。この時看病に当たった政次郎も感染して入院。自分の看病で2度も倒れた父に賢治は後までも負い目を感じていたという。入院中に出会った岩手病院の看護婦に思いを寄せ、退院後、両親に結婚したいと申し出たが「若すぎる」という理由で反対される[17][18]。政次郎は「あれはひどく早成なところがあって、困ったんじゃ……」と困惑した[17]。実家で店番や養蚕の手伝いで鬱々とした日々を過ごす賢治を見かねた政次郎は盛岡高等農林学校への進学を認める。賢治は今までと打って変わって、受験のため猛勉強に励んだ[19]。同時期に、島地大等訳『漢和対照 妙法蓮華経』を読み、その中の「如来寿量品」に体が震えるほどの感銘を受ける[20][21][注釈 3]

盛岡高等農林学校、国柱会

盛岡高等農林在学時の賢治
盛岡高等農林在学時の宮沢賢治(後列右)

1915年(大正4年)4月、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学し、寄宿舎「自啓寮」に入寮。16日の入学宣誓式では総代として誓文を朗読した[23]。翌年、特待生に選ばれ授業料を免除される[24][25]。高等農林では農学科第二部(のちに農芸化学科)に所属し、土壌学を専門とする部長の関豊太郎の指導を受ける[26]。関は狷介な人物として知られていたが、賢治とは良好な関係を築いたとされる[26]。この頃、毎朝法華経の読経をしていた。寮で同室になった1年後輩の保阪嘉内と親しくなる。保阪は農村改良を志向して進学しており、後の賢治の羅須地人協会の構想にも影響を与えたと言われる[27]1917年(大正6年)7月、保阪、小菅健吉、河本義行(河本緑石)らと同人誌『アザリア』を発行し、賢治は短歌や短編を寄稿。1918年(大正7年)、卒業を控えた賢治に父の政次郎は研究生として農学校に残り、徴兵検査を延期することを勧めるが、賢治は得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』[2]を提出し、検査延期を拒否。化学工業方面に進みたかった賢治は研究生の土性調査に意欲がなく、検査延期は自分の倫理観が許さなかった[28]。3月13日、保阪嘉内が『アザリア』に発表した作品が原因で除籍処分となる。賢治は教授会に抗議したが通らなかった[27]。15日に農学校を卒業、研究生として残り、稗貫郡の土性調査にあたる[29]。これは関からの推薦によるものであった[26]。賢治は誠心誠意この仕事に打ち込み、休ませてもらった家には法華経の印刷物を置いていった[30]。またこの頃から5年間、菜食生活をする[31]。4月28日、徴兵検査を受けて第二乙種合格となり、兵役免除[27]。6月30日、岩手病院で肋膜炎の診断を受けて山歩きを止められた。このため退学を申し出たが、土性調査は9月まで続け報告書を提出した[32]。7月4日、花巻に帰省する際、見送りにきた河本義行に「私の命もあと十五年はありません」と語ったという[33]。8月『蜘蛛となめくじと狸』『双子の星』を執筆、家族に朗読している[34]

12月26日、東京に進学した妹のトシ東京帝国大学医学部附属病院小石川分院に入院したとの知らせが入り、母のイチと上京。病院の近くの旅館「雲台館」に泊まり、翌1919年(大正8年)3月3日まで(イチは1月15日まで)看病する[34]。トシは当初チフスの疑いだったが発熱が続き、肺炎と診断される[35]。翌年1月になると病状も落ち着き、賢治は図書館に通うなどして将来の仕事について考え始める。また国柱会館田中智学の講演を聞き、盛中同級生の阿部孝(当時は東京帝大文学部在学、後に高知大学学長)から萩原朔太郎の『月に吠える』を借りる[36]。父の政次郎に、東京に移住し、宝石の研磨や人造宝石の製造などの事業を始めて家業の転換をはかる計画を手紙で書き送るが、政次郎は実現性の乏しい仕事に反対[37]。3月3日、退院したトシと花巻へ帰り、嫌いな家業を手伝う生活が始まる。賢治が東京で仕入れた「便利瓦(布にアスファルトのようなものを塗ったトタン板の代用品)」が良く売れ、賢治はその儲けでレコード浮世絵を購入した[38]1920年(大正9年)5月、農林学校研究生を卒業。助教授に推薦されたが、父子ともに実業に進む考えであったため辞退する[39]。田中智学著『本化妙宗式目講義録』全5巻を読破、国柱会に入信。法華信仰を強め、寒修行として花巻町内を太鼓を叩き題目を唱えながら歩く[40][41]。また浄土真宗の門徒である父を折伏しようと激しい口論を繰り返した[42][43]

家出上京、農学校教員へ

花巻農学校教諭時代の賢治
田の中に立つ花巻農学校教諭時代の賢治

1921年(大正10年)1月23日夕方、東京行きの汽車に乗り家出。翌朝、上野駅に到着して鶯谷の国柱会館を訪ね「下足番でもビラ張りでもする」と頼みこむが、応対した高知尾智耀になだめられ、父の知人の小林六太郎家に身を寄せる[44]本郷菊坂町に下宿し、東大赤門前の謄写版印刷所「文信社」に勤める[注釈 4]。高知尾の勧めで「法華文学」の創作に取り組む[注釈 5]。1か月に三千枚もの原稿を書いたという。食事はじゃがいもと豆腐と油揚げで、夜は国柱会館の講話を聞き、昼間の街頭布教にも参加した[46]。保阪嘉内には入信を勧める手紙を度々送った。心配した父の政次郎が小切手を送ったが送り返した[45]。4月、政次郎と伊勢比叡山奈良を旅する。政次郎は法華経と国柱会への固執を見直させようとしたが、賢治の心は変わらなかった[47]。7月、保阪と決裂、以後は疎遠になる。8月中旬、「トシビョウキスグカエレ」の電報を受け取り、原稿をトランクに詰めて花巻に戻る[48]。家族には原稿を「童子わらしこさえるかわりに書いたのだもや」と語ったという[49]

12月3日、稗貫郡立稗貫農学校(翌年に岩手県立花巻農学校へ改称)の教諭となる。地元では「桑っこ大学」と呼ばれた小さな学校だった[50]。雑誌『愛国婦人』12月号と翌年1922年(大正11年)1月号に「雪渡り」掲載。この時受け取った原稿料5円が生前唯一の原稿料という[51]。農学校の給料80円はレコード、書籍の購入、飲食などにあてた。下宿代として家に20円入れていたが、それも何かと理屈をつけてまきあげる。それでも3日ももてばいいほうで、本屋でツケで買った上、現金を借りることもあった。同僚の奥寺五郎(1924年死去)が結核になると毎月30円送っている[52]。また花巻高等女学校の音楽教師・藤原嘉藤治と親交を結び、レコード鑑賞や飲食を楽しんだ[53]

1922年(大正11年)11月27日、結核で病臥中のトシの容態が急変、午後8時30分死去。賢治は押入れに顔を入れて「とし子、とし子」と号哭し[54]、亡骸の乱れた髪を火箸で梳いた[55]。『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』を書く。29日の葬儀は真宗大谷派の寺で行われたため賢治は出席せず、出棺の時に現れて棺を担ぎ、持参した丸い缶にトシの遺骨半分を入れた。この遺骨は後に国柱会本部に納めた[56]。それから半年間、作をしなかった[57]1923年(大正12年)7月、農学校生徒の就職依頼で樺太を旅行。『青森挽歌』『樺太挽歌』などトシを思う詩を書く[58]

詩集と童話出版

1924年(大正13年)4月20日『心象スケツチ 春と修羅』刊行。花巻の吉田印刷所に持ち込み1000部を自費出版した(定価2円40銭)。発行所の名義は東京の関根書店になっている。東京での配本を関根喜太郎という人物に頼み500部委託したが、関根はゾッキ本として流してしまい、古本屋で50銭で売られたという[59][60]。本は売れず、賢治もほとんど寄贈してしまったが、7月にダダイスト辻潤が『読売新聞』に連載していたエッセイで紹介。詩人の佐藤惣之助も雑誌『日本詩人』12号で若い詩人に「宮沢君のようなオリジナリティーを持つよう」と例に挙げた[61]中原中也は夜店で5銭で売っていた『春と修羅』のゾッキ本を買い集め、知人に配っている[62]。同年12月1日『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』刊行(定価1円60銭)。盛岡高農の後輩で農薬のパンフレットを作っていた近森善一と及川四郎が賢治の原稿を見て刊行を計画、出版費用の工面に苦労しながら東京で印刷、製本した。出版社「光原社」の名義で1000部作ったが全く売れず、賢治は父親から300円借りて200部買い取った[63][64]。本の挿絵を担当した菊池武雄は『赤い鳥』主宰の鈴木三重吉に『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった』を送ったが「あんな原稿はロシアにでも持っていくんだな」と返された[65]。しかし翌年1月、『赤い鳥』に『注文の多い料理店』の一頁広告が掲載される。三重吉の厚意で無料だった[62]。7月、詩人の草野心平の同人誌『銅鑼』に参加する。11月23日、花巻の北上川小船渡に東北帝国大学地質古生物教室の早坂一郎教授を案内、賢治が採集したバタグルミ(クルミの古種)化石の学術調査に協力。この場所を賢治は「イギリス海岸」と名付けていた[66]

羅須地人協会

羅須地人協会に使われた建物(花巻農業高校内)

1926年(大正15年)3月31日、花巻農学校を依願退職。弟宛ての手紙では校長の転任に伴って義理でやめると書いている[67]が、前年4月13日杉山芳松宛ての手紙では「来春はやめてもう本統の百姓になります」と辞職の決意をしている[66]。4月、実家を出て、かつてトシが療養生活をしていた下根子桜の別宅に移り、改装。周囲を開墾して畑と花壇を作った。ここで白菜、とうもろこし、トマト、セロリ、アスパラガスなど野菜を栽培するとともに、チューリップやヒヤシンスの花を咲かせた。賢治は野菜をリヤカーで売り歩いたが、当時の農民にはリヤカーは高級品で、賢治の農業は金持ちの道楽とみられてしまう[68]。野菜を勝手に持っていかれても笑って許していた。農村の水路修理などの共同作業も参加せず金を包んで済ませている[69]。また畑の白菜を全て盗まれるという嫌がらせにあった話を詩に残している[70]。「羅須地人協会」として農学校の卒業生や近在の篤農家を集め、農業や肥料の講習、レコードコンサートや音楽楽団の練習を始めた。6月『農民芸術概論綱要』起稿[71]。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」として農民芸術の実践を試みた。 また肥料設計事務所を開設、無料で肥料計算の相談に応じた。この様子は「それでは計算いたしませう」という詩に書かれている[72]

12月2日、上京。タイプライターセロオルガンエスペラント語を習い、観劇をする。資金は父親頼みだった。18日、高村光太郎を訪ねている。年末帰花[73]1927年昭和2年)2月1日『岩手日報』夕刊二面で「農村文化の創造に努む/花巻の青年有志が/地人協会を組織し/自然生活に立ち返る」の見出しで賢治の活動が紹介される。これが社会主義教育と疑われ、花巻警察の聴取を受ける。以後、羅須地人協会の集会は不定期になり、オーケストラも一時解散した[74]

この頃、小学校教員の高瀬露という女性が協会にしばしば通ってくるようになる。高瀬は賢治の身の回りの世話をしようとしたが、賢治は居留守を使ったり、顔に灰を塗って出てきたりするなどして彼女の厚意を避けようとした。協会に人が集まった時、高瀬はカレーライスを作ってもてなしたが、賢治は「私には食べる資格がありません」と拒否。怒った高瀬はオルガンを激しく引き鳴らした[75]。その後、彼女は賢治の悪口を言って回るようになったが、父の政次郎は「はじめて女のひとにあったとき、おまえは甘い言葉をかけ白い歯を出して笑ったろう」と賢治の態度を叱った[76]

1928年(昭和3年)6月、胆沢郡水沢町(現在の水沢市)の豪家出身で、伊豆大島に住む伊藤七雄を訪問。伊藤は結核療養のため大島に移り、ここに園芸学校を建設するにあたって賢治の助言を得るため相談していた(1931年伊藤の死去に伴い学校は消滅した)[77]。この訪問は伊藤の妹チヱとの見合いの意味もあったが、チヱの回想によれば賢治は結婚について全く眼中にない様子だったという[78]。しかし1931年、森荘已池を訪ねた賢治は「伊藤さんと結婚するかもしれません」と話している[79]

肥料相談や稲作指導に奔走していたが、8月10日、高熱で倒れ、花巻病院で両側肺湿潤との診断を受ける。以後、実家で病臥生活となる[80][81]

東北砕石工場技師、死

1930年(昭和5年)、体調が回復に向かい、文語詩の制作をはじめる[82]。5月、東磐井郡陸中松川駅前にあった東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪。鈴木は石灰岩とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画しており、賢治も賛同する[83]1931年(昭和6年)2月21日、東北砕石工場花巻出張所が開設。父の政次郎は病弱な賢治を外に出すのを心配し、工場に融資を行って花巻に出張所を作り、仕事をさせようとの考えだった[84]。しかし技師となった賢治は製品の改造、広告文の起草、製品の注文取り、販売などで東奔西走する[85]。農閑期、石灰は売れなくなる。そこで賢治は石灰を壁材料に転用することを考え、9月19日、40キログラムもの製品見本を鞄に詰めて上京する。翌20日、神田駿河台の旅館「八幡館」[注釈 6]に泊まるが高熱で倒れ、死を覚悟して、家族に遺書を書く[87]。27日、最期の別れのつもりで父親に電話をかける。政次郎は東京の小林六太郎に頼み、翌日賢治は花巻に戻ってすぐ病臥生活となる。11月、手帳に『雨ニモマケズ』を書く[88]

1932年(昭和7年)3月『児童文学』第二冊に「グスコーブドリの伝記」発表。挿絵は棟方志功[注釈 7]。病床では文語詩の制作や過去の作品の推敲に取り組む[90]。前年冬から医者にもかからず、薬はビール酵母と竹の皮を煎じたものを飲むだけだった[91][92]

賢治が1933年9月19日に詠んだ「絶筆」の短歌2首。
「方十里稗貫のみかも稲熟れて み祭三日そらはれわたる」
「病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり みのりに棄てばうれしからまし」

1933年(昭和8年)9月17日から19日まで鳥谷ヶ崎神社のお祭りが行われ、賢治は門口に椅子を出して座り、神輿山車を見物した。翌日の朝、昨夜賢治が門口にいるのを見た農民が相談に来た。話をした後、賢治は呼吸が苦しくなり、往診した医者から急性肺炎の兆しと診断される。その夜、別の農民が稲作や肥料の相談にやって来る。賢治は着物を着換え1時間ほど丁寧に相談に乗った後、すぐ二階の病室に運ばれた。心配した清六が付き添って一緒に寝たが、賢治は「この原稿はみなおまえにやるから、もし小さな本屋からでも出したいところがあったら出してもいい」と話した[93]。 9月21日、午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」と唱題する声が聞こえたので家族が急いで二階の病室に行ってみると、賢治は喀血して真っ青な顔になっていた。政次郎が「何か言っておくことはないか」と尋ねると、賢治は「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」「私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますようにということを書いておいてください」と語った。政次郎が「おまえもなかなかえらい」と答えて階下に降りると、賢治は清六に「おれもとうとうおとうさんにほめられたものな」と言った。病室に残ったイチが賢治に水を飲ませ、体を拭いてやると「ああいい気持ちだ」と繰り返し、午後1時半、呼吸が変わり潮が引くように息を引き取った。没時年齢は満37歳[93][94]。葬儀は宮沢家の菩提寺で営まれた。18年後の1951年(昭和26年)、宮沢家は日蓮宗に改宗し、墓所は花巻市の身照寺に移された。また国柱会から法名「真金院三不日賢善男子」が贈られた。東京都江戸川区の国柱会には賢治の遺骨の一部が納められている[95]

作品と評価

手帳に記された『雨ニモマケズ』

生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』がある。また、生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品も少ないながら存在する(『やまなし』『グスコーブドリの伝記』など)。ただし、賢治が受け取った原稿料は、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話『雪渡り』で得た5円だけであったといわれる。

しかし生前から注目されていた経緯もあり、死の直後から、主に草野心平の尽力により多数の作品が刊行された。最初の全集は(作品全体からは一部の収録ではあるものの)早くも死去の翌年に野々上慶一が営んでいた文圃堂より刊行され、続いて文圃堂から紙型を買い取った十字屋書店が、それに増補する形で1939年から1944年にかけて出版した。戦時下『雨ニモマケズ』は滅私奉公的に受け取られ、求道者としての賢治像ができあがった[96]。戦後は筑摩書房から文庫判も含め数次にわたり刊行されている(#作品一覧参照)。戦後は賢治の生き方や作品にみられるヒューマニズムを聖化する一方、反動としての批判『雨ニモマケズ』論争が行われるなど再評価の動きもあらわれた[要出典]

賢治の作品は、一旦完成した後も次から次へ書き換えられて全く別の作品になってしまうことがある。これは雑誌に発表された作品でも同様で、変化そのものが一つの作品と言える。『農民芸術概論綱要』においても「永久の未完成これ完成である」という記述がある[97]。多くの作品が死後に未定稿のまま残されたこともあり、作品によっては何度も修正した跡が残されていて、全集の編集者が判読に苦労するケースも少なくなかった。そうした背景から原稿の徹底した調査に基づき、逐次形態を全て明らかにする『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房、1973~77年)が刊行され、作品内容の整理が図られた。これ以後、文学研究の対象として、賢治とその作品を論評する動きが増え、精神医学地学物理学など他の領域や時代背景を踏まえた論考も多くなった[98]

死去から49年後の1982年、花巻市矢沢の胡四王山に花巻市立宮沢賢治記念館が開館している[99]

草稿調査によって、賢治の遺稿はほぼ調べ尽くされたと見られていたが、生家の土蔵から未発表の詩の草稿1枚(地形図の裏に書かれたもの)が発見されたことが2009年4月に公表され『新校本 宮澤賢治全集』別巻(筑摩書房)に収録された[100]

広く作品世界を覆っているのは、作者自らの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神である。また幼い頃から親しんだ仏教も強い影響を与えている。その主な契機としては浄土真宗暁烏敏らの講話・説教が挙げられる。特に18歳の時に同宗の学僧である島地大等編訳の法華経を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより、賢治は後に国粋主義的な法華宗教団「国柱会」に入信するが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いであったので、父親との対立を深めることとなった。弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素は、これらの経緯と深い関わりがあると思われる。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は、以後の作品に特有の陰影を加えた。

また、童話作品においては擬声語を多用し、作品によっては韻文にも近いリズム感を持った文体を使用したことも大きな特徴である。賢治の童話は同時代に主流とされた『赤い鳥』に掲載されるなどしていた児童文学作品とはかなり異質なものであった。

賢治の作品には世界主義的な雰囲気があり、岩手県という郷土への愛着こそあれ、軍国主義民族主義的な要素を直接反映した作品はほとんど見られない。ただ、24歳の時に国柱会に入信してから、時期によって活動、傾倒の度合いに差はあるものの、生涯その一員であり続けたため、その社会的活動や自己犠牲的な思想について当時のファシズム的風潮との関連も議論されている。晩年には遺作『銀河鉄道の夜』に見られるようにキリスト教的な救済信仰をも取り上げ、全人類への宗教的寛容に達していたことが垣間見られる。宗教学者からは、賢治のこうした考え方の根本は、法華経に基づくものであると指摘されている[101][102]。この宗教的思想と自然科学の融合した独自の世界観は第二次世界大戦後に日本国外の研究者からも評価され、1996年9月、宮沢賢治生誕100周年を記念して花巻市にて開催された宮沢賢治国際学会では20ヶ国程の研究者、翻訳者が集ったことを歴史家色川大吉は著書で言及している[103]

賢治は自ら学んだエスペラントでも詩作を試みたが、公表されたのは1953年である。これらの作品のほとんどは自らの作品のエスペラントへの翻訳、改作である[104]

1998年頃に、山折哲雄がある小学校で授業をした際に、賢治の3つの作品『風の又三郎』『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』を示し、これらに共通する問題があり、それは何だと子供たちに問い、自らはがすごく大きな役割を果たしている、この3つの童話の中心的大問題は「風」だと力説した。この時、子供の一人が「」だと言おうとしたが、山折が「風」と言ったのであれっと思ったが、山折の話を聞く内にやっぱり「風」だと思った。ところがこのエピソードを聞いた河合隼雄は、賢治作品における猫の役割の重要性をずっと考えていたため、「猫と風」というヒントから、風のつかまえどころの無さと優しさと荒々しさの同居、少しの隙間でも入り込んでくる点など猫との共通点を感じ、賢治作品に登場する猫は、正にそのような性格を持って登場すると論じている。賢治の『猫』という短編には「私は猫は大嫌いです。猫のからだの中を考えると吐きそうになります」という一節が見られる[105]。しかし、この「猫」は高瀬露が転嫁された表現であり、実際に賢治が猫嫌いだったわけではないという指摘もある(ますむらひろし著『イーハトーブ乱入記―僕の宮沢賢治体験』[要ページ番号])。

愛知県出身の児童文学作家である新美南吉は、賢治の作品を読んで評価し、没後の1934年に開かれた「宮沢賢治友の会」に出席した[106] 。


注釈

  1. ^ 献呈写真の自筆記入日付による[1]
  2. ^ 佐藤隆房は旧暦7月19日出生、旧暦8月1日に旧暦で届けを出したための間違いと推測している[4]
  3. ^ 千葉一幹は、賢治が「如来寿量品」の中の「良医病子」(毒を飲んだ子供が父の作った解毒剤を飲めず、「父が死んだ」と嘘を聞かされ、正気に戻って薬を飲んだという寓話)に自身を重ね、不幸は自分が飛躍する契機になると読み取ったのではないかと推測している[22]
  4. ^ 文信社には、太平洋戦争後に釜石市長となった鈴木東民がおり、当時の模様を「筆耕のころの賢治」(筑摩書房版宮澤賢治全集別巻『宮澤賢治研究』、1958年)として書き残している。
  5. ^ 「雨ニモマケズ手帳」に高知尾から「法華文学」の制作を勧められたというメモが残っているが、高知尾によればそのような記憶はなく、ただ法華経修行は出家することではなく、農家は、商人はソロバン、文学者はペンを持ってそれぞれの道で法華経を広めるのが正しい修行と説いたという[45]
  6. ^ 跡地はカザルスホールとなり、その位置はホールの舞台中央付近と推測されている[86]
  7. ^ のちに棟方はこの仕事の記憶がほとんどないと回想している[89]
  8. ^ 原子朗編の『新 宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍、1999年)の「レコード」の項では「ポリドールの社長からレコードがよく売れるので、花巻の高喜商店に問い合わせがあり、町一番のコレクター賢治の名を挙げたところ、社長から賢治あてに感謝状がきた」とある。
  9. ^ 実際は「尽力」というより「協力」と言った方が正確である。花巻銀行は善治が役員に招かれただけ、岩手軽便鉄道も株主として協力した程度という[151]
  10. ^ のちに推敲後『洞熊学校を卒業した三人』と改題[157]
  11. ^ メーカーの公称ジャンルはRPGとなっている。

出典

  1. ^ 『新校本宮澤賢治全集 第16巻(下)補遺・資料 補遺・伝記資料篇』筑摩書房、2001年、p.303
  2. ^ a b 盛岡高等農林学校 第13回得業証書授与式」『官報』1918年3月19日、2016年9月21日閲覧。(左ページ左下隅)
  3. ^ 加藤道理 『常用国語便覧』(改訂版) 浜島書店、2010年2月3日、343、354頁。ISBN 978-4-8343-1000-9 
  4. ^ a b 作家読本 1989, p. 12.
  5. ^ 堀尾 1991, pp. 25.
  6. ^ 作家読本 1989, p. 14.
  7. ^ a b 作家読本 1989, p. 13.
  8. ^ 千葉 2014, p. 38.
  9. ^ 作家読本 1989, p. 17.
  10. ^ a b 堀尾 1991, p. 29.
  11. ^ a b 堀尾 1991, p. 31.
  12. ^ 作家読本 1989, p. 19.
  13. ^ 作家読本 1989, p. 25.
  14. ^ 作家読本 1989, pp. 26–27.
  15. ^ 堀尾 1991, p. 54.
  16. ^ 作家読本 1989, pp. 34–35.
  17. ^ a b 作家読本 1989, p. 36.
  18. ^ 山下 2008, pp. 52–53.
  19. ^ 作家読本 1989, pp. 37–38.
  20. ^ 堀尾 1991, p. 69.
  21. ^ 千葉 2014, p. 86.
  22. ^ 千葉 2014, p. 88-91.
  23. ^ 作家読本 1989, pp. 42–43.
  24. ^ 作家読本 1989, p. 45.
  25. ^ 特待生選定 盛岡高等農林学校」『官報』1916年3月22日、2016年9月21日閲覧。(左ページ下欄)。
  26. ^ a b c 堀尾 1991, p. 124-126.
  27. ^ a b c 作家読本 1989, p. 54.
  28. ^ 作家読本 1989, p. 52.
  29. ^ 堀尾 1991, p. 95.
  30. ^ 堀尾 1991, p. 130-135.
  31. ^ a b 堀尾 1991, p. 96.
  32. ^ 堀尾 1991, p. 100-102.
  33. ^ 堀尾 1991, p. 146.
  34. ^ a b 作家読本 1989, p. 56.
  35. ^ a b 堀尾 1991, p. 103.
  36. ^ 作家読本 1989, p. 58.
  37. ^ 堀尾 1991, p. 106-109.
  38. ^ 作家読本 1989, p. 59.
  39. ^ 作家読本 1989, p. 62.
  40. ^ 堀尾 1991, p. 113-114.
  41. ^ 作家読本 1989, p. 64.
  42. ^ 山下 2008, p. 81.
  43. ^ 千葉 2014, p. 140.
  44. ^ 作家読本 1989, pp. 70–71.
  45. ^ a b 作家読本 1989, p. 74.
  46. ^ 山下 2008, pp. 84–87.
  47. ^ 堀尾 1991, p. 117-118.
  48. ^ 作家読本 1989, p. 77.
  49. ^ 山下 2008, p. 87.
  50. ^ 作家読本 1989, p. 80.
  51. ^ 堀尾 1991, p. 161.
  52. ^ 堀尾 1991, pp. 243–246.
  53. ^ 堀尾 1991, p. 210.
  54. ^ 堀尾 1991, p. 166.
  55. ^ 堀尾 1991, p. 208.
  56. ^ a b 作家読本 1989, p. 88.
  57. ^ 作家読本 1989, p. 89.
  58. ^ 作家読本 1989, p. 93.
  59. ^ 堀尾 1991, pp. 219–222.
  60. ^ 山下 2008, p. 121.
  61. ^ 堀尾 1991, p. 222.
  62. ^ a b 作家読本 1989, p. 108.
  63. ^ 作家読本 1989, p. 105.
  64. ^ 堀尾 1991, p. 235.
  65. ^ 堀尾 1991, pp. 240–241.
  66. ^ a b 作家読本 1989, p. 112.
  67. ^ 作家読本 1989, p. 119.
  68. ^ 千葉 2014, pp. 246–248.
  69. ^ 山下 2008, pp. 138–139.
  70. ^ 宮沢賢治. “七四三〔盗まれた白菜の根へ〕春と修羅 第三集”. 青空文庫. 2016年10月21日閲覧。
  71. ^ 宮沢賢治. “農民芸術概論綱要”. 青空文庫. 2016年10月21日閲覧。
  72. ^ 宮沢賢治. “〔それでは計算いたしませう〕春と修羅補遺”. 森羅情報サービス. 2016年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月21日閲覧。
  73. ^ 作家読本 1989, pp. 134–136.
  74. ^ 作家読本 1989, p. 139.
  75. ^ 山下 2008, pp. 143–144.
  76. ^ 堀尾 1991, p. 360.
  77. ^ 作家読本 1989, p. 153.
  78. ^ 山下 2008, p. 111.
  79. ^ 作家読本 1989, p. 154.
  80. ^ 堀尾 1991, p. 278.
  81. ^ 作家読本 1989, pp. 158–159.
  82. ^ 堀尾 1991, p. 287.
  83. ^ 堀尾 1991, p. 371.
  84. ^ 堀尾 1991, p. 379.
  85. ^ 作家読本 1989, p. 182.
  86. ^ 御茶ノ水スクエアA館 - NPO神田神田学会
  87. ^ 千葉 2014, p. 256-257.
  88. ^ 作家読本 1989, p. 191.
  89. ^ 作家読本 1989, p. 195.
  90. ^ 作家読本 1989, p. 199.
  91. ^ 作家読本 1989, p. 198.
  92. ^ 堀尾 1991, p. 462.
  93. ^ a b 作家読本 1989, pp. 207–209.
  94. ^ 千葉 2014, p. 259-261.
  95. ^ 山下 2008, p. 178.
  96. ^ 作家読本 1989, p. 214.
  97. ^ 作家読本 1989, p. 180.
  98. ^ 作家読本 1989, p. 181.
  99. ^ 宮沢賢治記念館 - 花巻市
  100. ^ 宮沢賢治、地図の裏に未発表詩 三十数年ぶりの新作”. asahi.com (2009年4月8日). 2016年10月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月13日閲覧。
  101. ^ 正木晃(話者) (2012年8月26日). 宮澤賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか. 日蓮宗.. http://www.youtube.com/watch?v=OQnEDI-QYhA&list=PL29809B3CE9F5C44B 
  102. ^ 定方晟『銀河鉄道の夜』と法華経」『東海大学紀要. 文学部』第64巻、東海大学文学部、東京、1995年、 110-88頁、 ISSN 05636760NAID 1100010484022016年9月21日閲覧。110頁。
  103. ^ 色川大吉 「歴史家の見た宮沢賢治の光と闇」 『色川大吉歴史論集:近代の光と闇』 日本経済評論社、2頁、2013年1月18日。ISBN 978-4-8188-2254-2NCID BB11426978 
  104. ^ 宮沢賢治・自訳エスペラント詩集”. 2016年9月3日閲覧。(このサイトには公表状態でなく、校訂された作品が掲載されている)
  105. ^ 河合隼雄 『猫だましい』 新潮社、2000年5月20日。[要ページ番号]
  106. ^ 南吉Q & A - 新美南吉記念館(「南吉は宮沢賢治を知ってたの?」を参照、20215月16日閲覧)
  107. ^ 山下 2008, p. 30-34.
  108. ^ 千葉 2014, pp. 2–3.
  109. ^ 作家読本 1989, p. 11.
  110. ^ 詩人大木実あて書簡 宮沢賢治学会・会報31号”. 宮沢賢治学会. 2006年2月7日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年11月10日閲覧。
  111. ^ 勉誠出版株式会社『月光』2、勉誠出版、2010年7月。ISBN 978-4-585-05226-5[要ページ番号]
  112. ^ a b c 堀尾 1991, p. 36.
  113. ^ 堀尾 1991, p. 63.
  114. ^ 堀尾 1991, p. 136.
  115. ^ 桜井弘『宮沢賢治の元素図鑑ー作品を彩る元素と鉱物』化学同人、2018年、p.3、ISBN 978-4759819663
  116. ^ 宮澤賢治関係資料 - 岩手大学農学部農業教育資料館
  117. ^ 作家読本 1989, p. 95.
  118. ^ 中村節也「作曲家・賢治の宇宙音感◇独特なリズムの8曲残す 童話生んだ音楽センス解明」『日本経済新聞』朝刊2018年7月17日(文化面)2018年7月27日閲覧。
  119. ^ 宮沢賢治を愛する会 『宮沢賢治エピソード313』 扶桑社、1996年10月、112頁。ISBN 4594021085NCID BN15493836 
  120. ^ 鎌田としき「宮沢賢治「ビヂテリアン大祭」考
  121. ^ 1918年5月19日 保阪嘉内あて 封書(封筒ナシ)”. 宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス. 2016年9月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月3日閲覧。
  122. ^ 作家読本 1989, p. 68.
  123. ^ 堀尾 1991, p. 456.
  124. ^ (1921年8月11日)関徳彌あて 封書”. 宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス. 2014年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月3日閲覧。
  125. ^ 宮澤賢治とやぶ屋”. 岩手花巻名物わんこそば やぶ屋. 2017年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月3日閲覧。
  126. ^ 山下 2008, pp. 156–157.
  127. ^ 作家読本 1989, p. 97.
  128. ^ 堀尾 1991, p. 214.
  129. ^ 作家読本 1989, p. 142.
  130. ^ 山下 2008, pp. 152–153.
  131. ^ 千葉 2014, pp. 36–30.
  132. ^ 1932年6月1日(森佐一あて) 下書”. 宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス. 2016年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月13日閲覧。
  133. ^ 堀尾 1991, p. 459-462.
  134. ^ 堀尾 1991, pp. 356–357.
  135. ^ 山下 2008, pp. 145–146.
  136. ^ 山下 2008, p. 105.
  137. ^ 作家読本 1989, p. 186.
  138. ^ a b 堀尾 1991, p. 355.
  139. ^ 作家読本 1989, p. 69.
  140. ^ 山下 2008, p. 106.
  141. ^ 山下 2008, p. 107.
  142. ^ 菅原千恵子 『宮沢賢治の青春: “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』(初版) 宝島社、1994年8月5日、265頁。ISBN 4-7966-0839-7 
  143. ^ 宮沢賢治 『<新>校本宮沢賢治全集』 筑摩書房、1997年4月、472頁。 
  144. ^ 菅原千恵子『宮沢賢治の青春“ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』角川書店、1997年、第一章 2-3頁。
  145. ^ 堀尾 1991, pp. 13–15.
  146. ^ 千葉 2014, pp. 23–30.
  147. ^ 作家読本 1989, p. 10.
  148. ^ 山下 2008, pp. 16–17.
  149. ^ 堀尾 1991, p. 18.
  150. ^ 千葉 2014, p. 25.
  151. ^ 山下 2008, p. 33-34.
  152. ^ 千葉 2014, pp. 36–37.
  153. ^ 山下 2008, pp. 68–69.
  154. ^ 作家読本 1989, p. 85.
  155. ^ 作家読本 1989, p. 136.
  156. ^ 山下 2008, pp. 34–35.
  157. ^ 宮沢賢治『校本宮沢賢治全集 第7巻』筑摩書房、1973年。
  158. ^ 久世番子 『よちよち文藝部』 文芸春秋、2012年10月、98頁。ISBN 978-4-16-375750-6NCID BB10774414 






宮沢賢治と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「宮沢賢治」の関連用語

宮沢賢治のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



宮沢賢治のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの宮沢賢治 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2021 GRAS Group, Inc.RSS