宮沢賢治との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 15:47 UTC 版)
小菅は早生まれであり、学年は宮沢賢治と同じで、盛岡高等農林学校は1915年(大正4年)入学、1918年(大正7年)卒業である。在学期間中に同じ農学二部(後に農芸化学科に改称)でともに文学を愛好した賢治と親交を深め、最終第三学年の年(1916年、大正5年)の7月、同人誌『アザリア』を発行するに至る。なお、小菅は決して柔な文学青年ではなかったようで、陸上競技では常に1番、さらに剣道の竹刀を握っても一流だったようである。 アザリア第1号で、小菅は主筆として巻頭言を書いており、美文調で力強く、青年の志を述べている。 (冒頭省略)感受的詩人が限りなき涙を流すは、げにや此の晩春より初夏への移り目、はりつめたる琴線の見えざる刺戟にも尚ほ微妙なる音を発する時に二あらすや、吾がアザリア会はかゝる詩人(敢て吾曹一派を詩人と名つけん)多忙の初夏、乱れ易く傷みやすき心を育み、現在に対するふ平(ママ)を軽からしめ、自由てう心を積極的に向上せしむべく年来各自の心に、はりつめた琴線愛触れた、こゝに第一歩を踏み出しぬ。此より吾等の放浪する処、足跡を因すべきの旅路、善との行程たるや誠に遠大なるものなり、遠くして而も近きにある、その到達点や各自の、その心眼にある何者かを認めつゝあるにあらず哉。(後略) — 小菅健吉(筆名:流るる子)、『アザリア』1号巻頭言 その後も小菅は終刊までこの同人誌に毎号、詩や短歌や散文を掲載した。賢治と小菅は、『アザリア』創刊前の1916年11月に刊行された高等農林の『校友会会報』32号において、互いの筆名を交換して作品を発表したこともある。 2012年には、さくら市ミュージアム-荒井寛方記念館-で、『小菅健吉・宮沢賢治・保阪嘉内・河本義行―「アザリア」の仲間たち』が開催された。
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