宮沢賢治との交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/15 02:21 UTC 版)
同郷の出身で日蓮宗(国柱会)の信者だった宮沢賢治とは宗派を超えた交流があり、1924年(大正13年)の日記には賢治の勤めていた花巻農学校に斎藤が新聞の集金に行くと賢治が招き入れ一緒に蓄音機で音楽を聞いたり、賢治の詩「永訣の朝」らしきゲラ刷りを見せられたという記述が見られる。また、賢治の散文詩「冬のスケッチ」には斎藤をもじったと思しき「加藤宗二郎」という人物が出てくる。 一部には「雨ニモマケズ」のモデルであるという説がある。これについては、岩波書店から刊行された日記「二荊自叙伝」の解説で賢治研究者の栗原敦が、「雨ニモマケズ」には賢治の嘆きや弱さがにじんでおり、安易に斎藤に重ねることは、迫害に耐えた斎藤の強固なキリスト者としての独自性を見逃すおそれがあると指摘している。 1927年(昭和2年)、上京。1968年(昭和43年)、90歳で死去。
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