収容された主な日本人戦犯と供述
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「撫順戦犯管理所」の記事における「収容された主な日本人戦犯と供述」の解説
武部六蔵 - 元満州国国務院総務庁長官。治安維持法、思想矯正法による共産主義弾圧政策を満州国で行ったため最高級戦犯と認定された 古海忠之(国務院総務庁次長) 今吉均(満州国警察総局警務処長)1932年からの抗日運動弾圧の罪が問われた 斉藤美夫(満州国憲兵訓練所長少将) 土屋芳雄 - チチハル憲兵隊少尉伍長。1956年7月20日第二次中国最高人民検察院によって起訴を免れ釈放。戦後、中帰連会員 田井久二郎(満州、国三江省鶴立県興山警察署署長) 三宅秀也(満州国熱河警務課長) 大野泰治(満州国濱江警務庁特務課外事係長)、1945年8月以降は国民党閻錫山部隊の教官となる。1935年より抗日運動弾圧、拷問、敗戦までに654人を殺害。また殺害した者の脳を生薬にしたり、癩病の乞食に亜砒酸饅頭で殺害した。(なお、亜ヒ酸饅頭による殺害は、『聊斎志異』にも記載されているように中国では古くから毒物として知られていた)。 大村忍(撫順監獄長) 柏葉勇一(撫順警察局長) 富永順太郎(日本特務華北交通防衛本部、いわゆる富永機関) 佐々木到一(陸軍中将。1955年5月30日、管理所で死去。) 鈴木啓久- 第117師団師団長、陸軍中将。1940年9月、安徽省宣白作戦や1942年4月魯家峪や河北省での毒ガス攻撃、1944年11月、林縣南でコレラ菌散布があったとの報告を受けたこと、長路県での焼き払い、空気注射による殺人実験、婦女輪姦と腹割きを供述した。一方、帰国後の鈴木は1979年のインタビューでは以下のように述べている 軍事裁判で一審だけですからな。弁護人だって「上官の命令を受けてやったんだから、仕方ないじゃないですか」と言うだけだから、あまり弁護にもなりませんよ。そして、ありもしないことを住民は何だかんだといいますからね。「鈴木部隊が、ここにこういう風に入ってきた」 と住民が言うので、「そんな所に私の兵隊を配置したことはありませんよ」といったって、「住民の言うことに間違いはない」と言うんだから。まあ、他隊の者がやったこともあるでしょうし、広い場所だから、やっぱり止むを得ないんですよ。罪を犯した本人が居らなければ、そこにおった司令官が罪にされるのは当然だと思って、「ああ、そうですか」って。 また、鈴木は防衛庁戦史室の依頼で「中北支における剿共戦の実態と教訓」「第百十七師団長の回想」を執筆した。ほか鈴木は裁判供述で慰安婦の強制連行などを供述したが、当時鈴木の副官であった炭江秀郎は冀東作戦の命令には全て目を通したが、慰安婦狩りの事実は聞いたことがないと証言し、また炭江の次に副官となった森友衛も慰安婦狩りは聞いたことがないと証言してる。 藤田茂 (第59師団師団長、中国帰還者連絡会初代会長)は、戦後の回想で学習による改心について以下述べている。学習によって、日清戦争、日露戦争、欧州第一次大戦、大東亜戦争も「自分の欲望をみたす侵略戦争」であったことを初めて学んでいき、田中上奏文にも侵略意図が書かれていると学んだ。(なお、現在の研究では田中上奏文は偽書とされる) 随分、日本は無理をしたが、その根本はどこにあったのか、このように考えると、われわれが金科玉条としていた八紘一宇だとか、聖戦ということにも、非常な疑いを持ち始めた 撫順での収容生活2年目になると、自分がかつてサーベルをぶら下げ、勲章をつけてかっ歩していた姿が、おかしいように考えるようになった。何が日本のためなのか、何のための戦争だったのかがわからなくなり、強いノイローゼになり、食事も取れず、不眠の日々が続き、屋外で失神するようになった。 (収容所の中国人職員に対して)初めはチャンコロ、馬鹿野郎ぐらいに思っていたのが、日を経るにしたがって、何だか頭が上がらなくなってきた。中国の人の言うことと行動、私らにたいする態度、これらが常に柔らかく、親切で、いたれり尽くせりなんだ。私らは当時まだ軍国主義が残っているから、「何だ! この野郎!」などと随分、怒鳴ったりしたものだが「まあ、そう言わずに膝をつき合せてお話しましょう」と日本語のうまい呉先生など、実に柔かい態度で応対してくれる。(略)「何か顧慮(心配)ありませんか」と何時も親切に尋ねてくれる。これに対しても「心配はあるさ、こんな牢屋の中に入れておいて、心配があるか、とは何ごとだ。私は日本人だから、日本へ帰してくれることが、心配をなくすことだ。早く帰せ!」など無茶なことを私は言っていた。「それは駄目ですよ。貴方は中国に来たことは良いことだと思いますか、悪いことだったと思いますか」と静かな態度で呉先生は問答してくる。これには参った。 (呉先生が)「藤田さん、貴方は軍人だから、衣部隊が八路軍に対して果敢に戦ったのは解るが、住民に対しての行為は、決して良い軍隊のやることじゃないですな」と静かに話しだした。私も、二言目には、「何だ! この野郎」で過ごしてきたが、これにはまったく考え込まされた。食糧をとりに入って何もなければ、豚を殺してしまう。日本へ送るために労働者を集めろということで、言うことをきかない者は、片っ端から叩き殺したり、野原にいる者を数珠つなぎにして貨車に積み込んで日本に送ったという話もある。ところが、当時は、こういうことをしておっても、悪いという気が起こらなかったんだ。「藤田さん、貴方の衣部隊の収容所にいた兵隊は、随分恨んでいましたよ」とこう言うんだ。その時だった「待てよ。私は一体どんな身分なんだ」結局、今は休戦状態だ。私は軍人だ。戦犯管理規則など書いてあったところをみると、私は捕虜なんだ。このことに気がついた時、私も全く参ってしまった。(略)今日まで捕虜になってからの三年間、私の人格は、絶対に尊重されている。怒鳴られたことはないし、文句を言われたこともない。健康の問題、生活の問題について言えば、絶対といって保証されている。このことに気がついた時、全く頭が上がらなくなった。 (このような話を古海忠之や佐々真之助に話すと)佐々君は膝をたたいて、「うーん、参った! そこに私らが今まで気がつかなかったのは全くどうかしていたんだ。私らの頭の方が余程、狂っているかも知れん」と同感してくれた。 過去の反省を行うなか良心が「蘇った」体験については以下のように述べる。 結局、戦地におけるわれわれの軍国主義思想には、良心などかけらもなく、狂っとったという以外いう言葉もない。師団長級のわれわれでさえ、そういう頭だったから、いわんや兵隊は、惰性で、中国人を虫けらのように考え、何かというと直ぐ叩き殺したということは、当然だったと思う。このことに思い至ったとき、本当に頭が上がらなくなった。(略)(胃潰瘍の治療を受けて)その時も参った。所謂、自責の念が起ってきたんだ。自分には良心といったものが甦えってきたような気がする。しかし、それでもまだ、はっきりと「私は悪かった」ということは口に出して言えない。大変なジレンマに陥ったわけだ。実に苦しい。だが、前途に何か良心の甦えったことの爽かな自覚だけはあった。 1956年5月頃になると、収容されて以降、毎日、午前中の学習によって、日本による侵略戦争、軍国主義が悪いものであったことを完全に納得した。 「君に忠」ということで、国民を盲目にしていた。 「愛国心」というが、民族の愛国心ではなく、極端な皇室中心の愛国心という方向で、誤っていた 戦犯裁判(1956年)についての予審では「当時、住民を殺したことなど覚えていないし、知らない。しかし指揮官として、そのような事実があるなら道義上の責任は取ります」と答えた。また、検事が出した起訴状について不審な点があれば指摘せよといわれたので、罪科のうち「1名虐殺」と書かれているが、24名だというと、一週間後、検事は「通算24名になるので、お前の時には1名だ」と書類を見せたので、「この調査はすこぶる正確だ」と考えた。また、ポツダム宣言第9条の捕虜虐待厳罰によって1200余の日本軍将兵が死刑に処せられており、第59師団が行った秀嶺1号作戦で当時師団長だった自分が捕虜86名を虐殺したと載っており、「この一項だけでも私は当然死刑だと覚悟を決めた」。 起訴状の罪科のうち知らなかったものについては、被害者の証言を法廷で聞くうちにすべて認めるほかなかったといっている。 しかし、私の知らんものも随分あった。強姦やれと私が言って、私は強姦しましたと報告する奴は誰もおらん。たった三週間のあいだに、六十何名を強姦したと、やりやがったなと数字を見て初めて驚ろいた。しかし、私はこれだけの罪科をみただけで、極刑はまぬかれぬ、と肚をきめた。よし、俺は全てに責任を負い、潔く刑をうけようという決意で法廷に出た。ところが、法廷では、被害者が次々に立ち、悲凄、憤怒、憎悪の姿で訴える。あるお婆さんなど、裁判官がいくら注意しても止めようとしない。同じことを二十数回も繰り返えし、自分の席から立って私のところへ噛みつかんばかりにしてやってくる。看守がやっとこれを押えるというような状態もあった。全く聞くに堪えられない立場に立たされたわけだ。一人の証人が話し終わる毎に、「今の行動にたいして被告はどう思うか」と裁判長に言われる。「その通りです」と言わざるを得ない。私は、徹頭徹尾これで通す以外になかった。 この証人は山西省安邑県上段村の張葡萄で、一家を日本軍に皆殺しにされたため、証言していると興奮して藤田につかみかかろうとした。藤田はその時の心境をこう話している。 私は本当にそこに立っていることができなくなりました。つらい、苦しい、まさに断腸の思いであります。心から呵責の念がわいてまいりました。もうどうでもいい、ひと思いにこの老婆に蹴るなり、噛みつくなり、打ち倒すなりして欲しいという気持ちで一杯でした。そこにからくも立ちすくんでいることで精一杯でした。 藤田は、裁判で26人の証言を聞いてからは心の底から死刑は当然だと思った。 判決で禁固刑18年と聞いた時には、死刑を覚悟していたので、震え「これぐらい不幸のドン底から、幸福の先端まで走ったことはない」と震えながら感じ、「まったく予想外の寛大な判決でありただ感謝のほかございません。しかしながら、ここにおられる26人の証人は皆、極刑を望んでいます。こんな軽い刑では納得されないのではありませんか」と藤田は述べた。裁判後、弁護士が藤田に面会し、証人の心情を充分汲みとり心から自分の罪行を反省し、藤田が中国人民の立場に立たったことを感謝する、といった。 帰国後、藤田は、中国の革命は「人の革命」であると絶賛した。 中国のやってることは全て革命、これ人の革命なんだ。どんな人間でも、必ず正しいように変化する。(略)人を改造する。少しでも良いことのある人は必ず味方にする。決して敵対的に扱わない。自覚をうながしてゆくんだ。われわれの常識から言えば、これだけ中国人民に害を与えた奴だから、当然仇討ちをしてやるといった考えが起るんだが、これを絶対やらん。 藤田は1980年に死去する際、撫順戦犯管理所が与えた中山服を着せてほしいと家人に求めた。 佐々真之助(第39師団長、陸軍中将) 上坂勝(第59師団第53旅団長、少将) 城野宏(山西省政府顧問補佐官) 金子安次(陸軍兵士) 湯浅謙(軍医) 1942年3月から1943年3月にかけて山西省潞安陸軍病院、山西省太原市第1軍工程隊(捕虜収容所)、潞安陸軍病院などでの捕虜に対する生体解剖・生体手術、また、入院者から採取した腸チフス菌及びパラチフスA菌 とB菌の病原体を潞安城南部の第36師団野戦防疫供水部に細菌戦用として提供したことを供述した。戦後は中帰連会員として活躍した。 大河原孝一(中帰連副会長)は、撫順での改造は、心の中に灯台が建ったように一筋の光明の道を指し示してくれたと回顧している 富永正三(中帰連会長) 篠塚良雄(731部隊少年兵、中帰連会員) 住岡義一(独立混成第四旅団独立歩兵第13大隊・第14旅団)。1940年1月安徽省宣城で初年兵として俘虜約十名を刺殺。1942年2月、太谷県新荘村の婦人を強姦、部下に輪姦を許可。同2月、摩天嶺東南方で、病院の患者2人を拷問後、斬殺。2月、大隊本部医務室のチフス菌とコレラ菌撒布を援護。和順県竜門村、官池堂、陽楽荘等に対して民家で机、食器に細菌を塗りつけ、井戸と川に細菌を投入する行動を援護した。 同5月、将軍墓村で八路軍将兵を斬殺。6月、彰徳県水冶鎮で、強姦。同7月、太原市侯家巷で俘虜(八路軍、抗日軍)約220を刺突殺害。同8月2日、俘虜約70名(内50名は婦人)を教育材料として刺突殺害。1943年6月、八路軍の嫌疑で村民一名を斬殺。同8月、沁県暖柳村、小河村の村民2名を射殺 難波靖直(第39師団機関銃中隊、中帰連会員) 石田幹雄(59師団直轄自転車中隊、中帰連会員)。女性を強姦しようとして、赤ん坊を煮え湯の中にいれて殺害。戦後「欲望のために罪ない赤ん坊を猫の子のように投げ殺す罪、私の帝国主義の侵略思想に毒された思想の罪悪性を心から僧まずにはいられない」と述べた。 吉房虎雄(関東憲兵隊司令部員第三課長、大連憲兵隊隊長、平壌憲兵隊長、中帰連会員)1932年6月、吉林省集安で憲兵が人民約60人を、臨江で人民90人以上を拷問後、鴨緑江岸で虐殺。同年9月、輯安と通化の間の村落で、所属の歩兵が人民約10人を射殺、10月、守備隊が村民2人を拷問後、守備隊下士官をして斬殺させ、輯安―通化間で、部下の憲兵を指揮して、避難民約10人を射殺させたと供述。 K.S. Y.M. - 1941年8月山東省泰安県で新兵ガス教育小隊によるガス攻撃を供述。 T.M - 1942年6月、山東省臨清県で月吉軍曹は性病を治すため隊員に人間の脳味噌を取ってくる様命じられたため、一等兵に命じて中国人の脳味噌を薬にして提供した、1943年2月、臨清県において、夜間に抗日軍約1000名の攻撃に対して催涙性窒息性ガス弾を12発発射し370名の虐殺を行ったと供述。 N.M - 1943年9月、宜昌にある黄龍寺の東南部で、中国人を解剖したと供述。 T.Y.強姦、殺害、拷問。 I.Y(39師団歩233連隊第一大隊第一中隊下士官)1943年2月、湖北省宜昌県において山川軍医が解剖、同年、捕虜への刺突訓練、強姦などを供述。 H.U:殺害、強姦 K.S、殺害 K.N. 1940年、湖北省黄岡県で捕虜殺害、荊門県で射撃殺害、1942年江陵県において「仲間」が中国人一名男子の腿の肉を天婦羅にし小隊全員約四〇名が食べたと供述。 S.N.1934年5月、黒河街でロシア人女性を水拷問、1937年4月、オロチョン族男性の脳を焼いて淋病を治す薬として食べた、1945年6月、竜江省で、ソ連スパイの疑いがある朝鮮人男を、薬品を注射して殺害したと供述。 S.K(59師団野戦病院)1936年6月、哈爾濱陸軍病院に於て仲間が生體解剖、1936年12月~1937年1月、牡丹江陸軍病院に於て、仲間がマスタードガス(イペリット)試驗のため男三名殺害と供述。 I.S. 1943年12月25日の湖北省遠安県における白陽寺大虐殺に参加したと供述。 起訴された日本人戦犯の名簿 ■満州国戦犯 28名 刑期 ・武部六蔵 満州国国務院総務庁長官 20年 ・古海忠之 満州国国務院総務庁次長 18年 ・斎藤美夫 満州国憲兵訓練所長・少将 20年 ・中井久二 満州国司法分司法矯正局長 18年 ・三宅秀也 満州国奉天省警務庁長 18年 ・杉原一策 満州国司法部刑事司長 18年 ・佐古龍祐 満州国鉄路警護牡丹江警護旅団長少将 18年 ・横山光彦 満州国ハルビン高等法院次長 16年 ・原 弘志 満州国鉄路警護軍参謀長 16年 ・今吉 均 満州国刑務総局刑務所長 16年 ・田井久二郎 満州国チチハル市警察局特務科長 16年 ・岐部與平 満州国厚生会理事長 15年 ・木村光明 関東軍勃利県憲兵分隊長 憲兵少佐 15年 ・島村三郎 満州国警務総局特務処調査科長 15年 ・鹿毛繁太 満州国錦州警察局警務科長 15年 ・築谷章造 満州国浜江省警察庁司法科長 15年 ・柏葉勇一 満州国関東州撫順市警察局長 15年 ・溝口嘉夫 満州国ハルビン高等検察庁検察官 15年 ・吉房虎雄 平壌憲兵隊長 憲兵大佐 14年 ・藤原廣之進 関東軍新京憲兵隊司令部付 憲兵中佐 14年 ・野崎茂作 満州国懐徳県警務科長 14年 ・宇津木孟雄 関東軍憲兵隊司令部付 憲兵中佐 13年 ・上坪鉄一 関東軍四平憲兵隊長 憲兵中佐 12年 ・蜂須賀重雄 満州国鉄路警護軍奉天警護旅団長 上校 12年 ・堀口正雄 関東軍錦州憲兵隊長 憲兵中佐 12年 ・志村行雄 関東軍第1特別警備隊教育隊長 憲兵中佐 12年 ・小林喜一 関東軍興安憲兵隊長 憲兵少佐 12年 ・西永彰治 関東軍ハルビン道里憲兵分隊長 憲兵少佐 12年 ■日本陸軍の戦犯 8名 ・鈴木啓久 第117師団長 中将 20年 ・藤田茂 第59師団長 中将 18年 ・上坂勝 第59師団第53旅団長 少将 18年 ・佐々眞之介 第39師団長 中将 16年 ・長島勤 第59師団第54旅団長 少将 16年 ・船木健次郎 第137師団歩兵第375連隊長 大佐 14年 ・鵜野晋太郎 第39師団歩兵第232連隊本部俘虜監督軍官兼情報宣撫主任中尉 13年 ・榊原秀夫 関東軍第731部隊第162支隊長 軍医少佐 13年 ■国民党関連の戦犯 9名 ※中国山西省残留日本軍 ・城野 宏 山西省政府補佐官 暫編独立第十総体司令部(以下、十総) 少将 18年 ・相楽圭二 第3独立混成旅団第9独立歩兵大隊長 十総参謀長 少将 15年 ・菊地修一 第3独立混成旅団独立砲兵大隊長 大尉 十総参謀長 少将 13年 ・永富博之 第114師団保安隊指導官 軍曹 十総指導3団長 上校 13年 ・住岡義一 独立歩兵第14旅団第244独立歩兵大尉中隊長 大尉 十総指導2団長 上校 ・大野泰治 普北自治政府応県公署参事官 十総第2野戦区砲兵教導隊教官 中校 13年 ・笠 實 山西省壺関県新民会主席参事 十総野戦病院軍需事務長 少校 11年 ・神野久吉 蒙古連合自治政府12野戦警察集団指導警尉官 山西野戦軍大同総隊 情報主任 少校 8年 ・富永順太郎 華北交通主事特務機関「富永機関」主事 国民党国防部北平信台 中校 20年 名簿は『帰ってきた戦犯たちの後半生』を参考に作成
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