収容された主な日本人戦犯と供述とは? わかりやすく解説

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収容された主な日本人戦犯と供述

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 09:05 UTC 版)

撫順戦犯管理所」の記事における「収容された主な日本人戦犯と供述」の解説

武部六蔵 - 元満州国国務院総務庁長官治安維持法思想矯正法による共産主義弾圧政策満州国で行ったため最高級戦犯認定され古海忠之国務院総務庁次長今吉均(満州国警察総局警務処長1932年からの抗日運動弾圧の罪が問われ斉藤美夫(満州国憲兵訓練所少将土屋芳雄 - チチハル憲兵隊少尉伍長1956年7月20日第二次中国最高人民検察院によって起訴免れ釈放戦後中帰連会員 田井二郎満州、国三江省鶴立県興山警察署署長三宅秀也(満州国熱河警務課長) 大野泰治(満州国濱江警務特務課外係長)、1945年8月以降国民党閻錫山部隊教官となる。1935年より抗日運動弾圧拷問敗戦までに654人を殺害。また殺害した者の脳を生薬にしたり、癩病乞食亜砒酸饅頭殺害した。(なお、亜ヒ酸饅頭による殺害は、『聊斎志異』にも記載されているように中国では古くから毒物として知られていた)。 大村忍(撫順監獄長) 柏葉勇一(撫順警察局長) 富永太郎日本特務華北交通防衛本部いわゆる富永機関佐々木到一陸軍中将1955年5月30日管理所死去。) 鈴木啓久- 第117師団師団長陸軍中将1940年9月安徽省白作戦1942年4月家峪や河北省での毒ガス攻撃1944年11月林縣南でコレラ菌散布があったとの報告受けたこと、長路県での焼き払い空気注射による殺人実験婦女輪姦と腹割き供述した一方帰国後の鈴木1979年インタビューでは以下のように述べている 軍事裁判一審だけですからな。弁護人だって「上官命令受けてやったんだから、仕方ないじゃないですか」と言うだけだから、あまり弁護にもなりませんよ。そして、ありもしないことを住民何だかんだといいますからね。「鈴木部隊が、ここにこういう風に入ってきた」 と住民が言うので、「そんな所に私の兵隊配置したことはありませんよ」といったって、「住民の言うことに間違いはない」と言うんだから。まあ、他隊の者がやったこともあるでしょうし、広い場所だから、やっぱり止むを得ないですよ。罪を犯した本人が居らなければ、そこにおった司令官が罪にされるの当然だ思って、「ああ、そうですか」って。 また、鈴木防衛庁戦史室の依頼で「中北支における剿共戦の実態教訓」「第百十七師団長回想」を執筆した。ほか鈴木裁判供述慰安婦の強制連行などを供述したが、当時鈴木副官であった炭江秀郎は冀東作戦の命令には全て目を通したが、慰安婦狩り事実聞いたとがない証言し、また炭江の次に副官となった森友衛も慰安婦狩り聞いたとがない証言してる。 藤田茂 (第59師団師団長中国帰還者連絡会初代会長)は、戦後回想学習による改心について以下述べている。学習によって、日清戦争日露戦争欧州第一次大戦大東亜戦争も「自分欲望をみたす侵略戦争であったことを初め学んでいき、田中上奏文にも侵略意図書かれている学んだ。(なお、現在の研究では田中上奏文偽書とされる) 随分、日本は無理をしたが、その根本はどこにあったのか、このように考えると、われわれが金科玉条としていた八紘一宇だとか、聖戦ということにも、非常な疑い持ち始めた 撫順での収容生活2年目になると、自分がかつてサーベルぶら下げ勲章をつけてかっ歩していた姿が、おかしいよう考えようになった何が日本のためなのか、何のための戦争だったのかがわからなくなり、強いノイローゼになり、食事取れず不眠日々続き屋外失神するようになった。 (収容所中国人職員に対して初めチャンコロ馬鹿野郎ぐらいに思っていたのが、日を経るにしたがって何だか頭が上がらなくなってきた。中国の人の言うことと行動私らにたいする態度、これらが常に柔らかく、親切で、いたれり尽くせりなんだ。私ら当時まだ軍国主義残っているから、「何だこの野郎!」などと随分、怒鳴ったしたものだが「まあ、そう言わず膝をつき合せてお話ましょう」と日本語のうまい先生など、実に柔かい態度応対してくれる。(略)「何か顧慮(心配)ありませんか」と何時も親切に尋ねてくれる。これに対しても「心配はあるさ、こんな牢屋中に入れておいて、心配があるか、とは何ごとだ。私は日本人だから、日本帰してくれることが、心配をなくすことだ。早く帰せ!」など無茶なことを私は言っていた。「それは駄目ですよ。貴方は中国に来たことは良いことだと思いますか、悪いことだったと思いますか」と静かな態度で呉先生問答してくる。これには参った。 (呉先生が)「藤田さん、貴方は軍人だから、衣部隊が八路軍に対して果敢に戦ったのは解るが、住民に対して行為は、決し良い軍隊やることじゃないですな」と静かに話しだした。私も、二言目には、「何だこの野郎」で過ごしてきたが、これにはまった考え込まされた。食糧をとりに入って何もなければ、豚を殺してしまう。日本へ送るために労働者集めということで、言うことをきかない者は、片っ端から叩き殺したり野原にいる者を数珠つなぎにして貨車積み込んで日本送ったという話もある。ところが、当時は、こういうことをしておっても、悪いという気が起こらなかったんだ。「藤田さん、貴方の衣部隊の収容所にいた兵隊は、随分恨んでいましたよ」とこう言うんだ。その時だった「待てよ。私は一体どんな身分なんだ」結局今は休戦状態だ。私は軍人だ。戦犯管理規則など書いてあったところをみると、私は捕虜なんだ。このことに気がついた時、私も全く参ってしまった。(略)今日まで捕虜になってからの三年間、私の人格は、絶対に尊重されている。怒鳴られことはないし、文句言われたこともない。健康の問題、生活の問題について言えば絶対といって保証されている。このことに気がついた時、全く頭が上がらなくなった。 (このような話を古海忠之佐々真之助に話すと)佐々君は膝をたたいて、「うーん、参った! そこに私ら今まで気がつかなかったのは全くどうかしていたんだ私らの頭の方が余程、狂っているかも知れん」と同感してくれた。 過去反省を行うなか良心が「蘇った体験については以下のように述べる。 結局戦地におけるわれわれの軍国主義思想には、良心などかけらもなく、狂っとったという以外いう言葉もない師団長級のわれわれでさえ、そういう頭だったから、いわんや兵隊は、惰性で、中国人虫けらのように考え何かというと直ぐ叩き殺したということは当然だったと思う。このことに思い至ったとき、本当に頭が上がらなくなった。(略)(胃潰瘍治療受けてその時参った所謂自責の念起ってきたんだ。自分には良心といったものが甦えってきたような気がする。しかし、それでもまだ、はっきりと「私は悪かったということは口に出して言えない大変なジレンマ陥ったわけだ。実に苦しい。だが、前途に何か良心の甦えったことの爽か自覚だけはあった。 1956年5月頃になると、収容され以降毎日午前中学習によって、日本による侵略戦争軍国主義が悪いものであったことを完全に納得した。 「君に忠」ということで、国民盲目にしていた。 「愛国心」というが、民族愛国心ではなく極端な皇室中心愛国心という方向で、誤っていた 戦犯裁判1956年)についての予審では「当時住民殺したことなど覚えていないし、知らない。しかし指揮官としてそのような事実があるなら道義上の責任取ります」と答えたまた、検事出した起訴状について不審な点があれば指摘せよといわれたので、罪科のうち「1名虐殺と書かれているが、24名だというと一週間後、検事は「通算24名になるので、お前の時には1名だ」と書類を見せたので、「この調査すこぶる正確だ」と考えたまた、ポツダム宣言第9条捕虜虐待厳罰によって1200余の日本軍将兵死刑処せられており、第59師団が行った秀嶺1号作戦当時師団長だった自分捕虜86名を虐殺した載っており、「この一項だけでも私は当然死刑だと覚悟決めた」。 起訴状罪科のうち知らなかったものについては、被害者証言法廷聞くうちにすべて認めるほかなかったといっている。 しかし、私の知らんものも随分あった。強姦やれと私が言って、私は強姦しましたと報告する奴は誰もおらん。たった三週間のあいだに、六十何名を強姦したと、やりやがったなと数字見て初めて驚ろいた。しかし、私はこれだけ罪科をみただけで、極刑まぬかれぬ、と肚をきめた。よし、俺は全て責任負い潔く刑をうけようという決意法廷出た。ところが、法廷では、被害者次々に立ち、悲凄、憤怒憎悪の姿で訴える。あるお婆さんなど、裁判官がいくら注意して止めようとしない。同じことを二十数回繰り返えし、自分の席から立って私のところへ噛みつかんばかりしてやってくる。看守やっとこれを押えるというような状態もあった。全く聞く堪えられない立場に立たされたわけだ。一人証人話し終わる毎に、「今の行動にたいして被告はどう思うか」と裁判長言われる。「その通りです」と言わざるを得ない。私は、徹頭徹尾これで通す以外になかった。 この証人山西省安邑県上段村の張葡萄で、一家日本軍皆殺しにされたため、証言していると興奮して藤田につかみかかろうとした。藤田その時心境をこう話している。 私は本当にそこに立っていることができなくなりました。つらい、苦しい、まさに断腸の思いであります心から呵責の念がわいてまいりました。もうどうでもいい、ひと思いにこの老婆に蹴るなり、噛みつくなり、打ち倒すなりして欲しいという気持ち一杯でした。そこにからくも立ちすくんでいることで精一杯でした。 藤田は、裁判26人の証言聞いてからは心の底から死刑当然だ思った判決禁固刑18年聞いた時には死刑覚悟していたので、震えこれぐらい不幸のドン底から、幸福の先端まで走ったことはない」と震えながら感じ、「まったく予想外寛大な判決でありただ感謝のほかございません。しかしながら、ここにおられる26人の証人は皆、極刑望んでます。こんな軽い刑では納得されないのではありませんか」と藤田述べた裁判後弁護士藤田面会し証人心情充分汲みとり心から自分の罪行を反省し藤田中国人民の立場に立たったことを感謝する、といった。 帰国後、藤田は、中国革命は「人の革命」であると絶賛した中国のやってることは全て革命、これ人の革命なんだ。どんな人間でも、必ず正しいように変化する。(略)人を改造する。少しでも良いことのある人は必ず味方にする。決し敵対的に扱わない自覚うながしてゆくんだ。われわれの常識から言えばこれだけ中国人民に害を与えた奴だから、当然仇討ちしてやるといった考え起るんだが、これを絶対やらん。 藤田1980年死去する際、撫順戦犯管理所与えた中山服着せてほしいと家人求めた佐々真之助(第39師団長陸軍中将上坂勝(第59師団53旅団長少将城野宏山西省政府顧問補佐官金子安次陸軍兵士湯浅謙軍医1942年3月から1943年3月にかけて山西省安陸軍病院山西省太原市第1軍工程隊(捕虜収容所)、潞安陸軍病院などでの捕虜対す生体解剖生体手術また、入院者から採取した腸チフス菌及びパラチフスA菌 とB病原体を潞安城南部の第36師団野戦防疫供水部に細菌戦用として提供したことを供述した戦後中帰連会員として活躍した大河原孝一中帰連副会長)は、撫順での改造は、心の中灯台建ったように一筋光明の道を指し示してくれたと回顧している 富永正三(中帰連会長篠塚良雄731部隊少年兵中帰連会員住岡義一独立混成第四旅団独立歩兵13大隊第14旅団)。1940年1月安徽省宣城初年兵として俘虜約十名を刺殺1942年2月太谷県新荘村婦人強姦部下輪姦許可。同2月摩天嶺東南方で、病院患者2人拷問後、斬殺2月大隊本部医務室チフス菌コレラ菌撒布援護和順県竜門村、官池堂、陽楽荘等に対して民家食器細菌塗りつけ、井戸と川に細菌投入する行動援護した。 同5月将軍八路軍将兵斬殺6月彰徳冶鎮で、強姦。同7月太原市侯家巷で俘虜八路軍抗日軍)約220刺突殺害。同8月2日俘虜70名(内50名は婦人)を教育材料として刺突殺害1943年6月八路軍嫌疑村民一名斬殺。同8月沁県柳村小河村民2名を射殺 難波靖直(第39師団機関銃中隊中帰連会員石田幹雄(59師団直轄自転車中隊中帰連会員)。女性強姦しようとして赤ん坊煮え湯中にいれて殺害戦後欲望のために罪ない赤ん坊猫の子のように投げ殺す罪、私の帝国主義侵略思想毒され思想罪悪性を心から僧まずにはいられない」と述べた吉房虎雄関東憲兵隊司令部第三課長、大連憲兵隊隊長平壌憲兵隊長、中帰連会員1932年6月吉林省集安憲兵人民60人を、臨江人民90人以上を拷問後、鴨緑江岸で虐殺同年9月、輯安と通化の間の村落で、所属歩兵人民10人を射殺10月守備隊村民2人拷問後、守備隊下士官をして斬殺させ、輯安―通化間で、部下憲兵指揮して避難民10人を射殺させたと供述。 K.S. Y.M. - 1941年8月山東省泰安県新兵ガス教育小隊によるガス攻撃供述。 T.M - 1942年6月山東省臨清県で月吉軍曹性病治すため隊員人間の脳味噌取ってくる様命じられたため、一等兵命じて中国人脳味噌にして提供した1943年2月臨清県において、夜間抗日軍約1000名の攻撃に対して催涙性窒息性ガス弾を12発発射し370名の虐殺行った供述N.M - 1943年9月宜昌にある黄龍寺東南部で、中国人解剖した供述。 T.Y.強姦殺害拷問。 I.Y(39師団233連隊第一大隊第一中隊下士官1943年2月湖北省宜昌県において山川軍医解剖同年捕虜への刺突訓練強姦などを供述。 H.U:殺害強姦 K.S、殺害 K.N. 1940年湖北省黄岡県捕虜殺害荊門県で射撃殺害1942年江陵県において「仲間」が中国人一名男子の腿の肉を天婦羅にし小隊全員四〇名が食べた供述。 S.N.1934年5月黒河街でロシア人女性拷問1937年4月オロチョン族男性の脳を焼いて淋病治すとして食べた1945年6月竜江省で、ソ連スパイ疑いある朝鮮人男を、薬品注射して殺害した供述。 S.K(59師団野戦病院1936年6月哈爾濱陸軍病院に於て仲間生體解剖1936年12月1937年1月牡丹江陸軍病院に於て仲間マスタードガスイペリット試驗のため男三名殺害供述。 I.S. 1943年12月25日湖北省遠安県における白陽大虐殺参加した供述起訴され日本人戦犯名簿満州国戦犯 28刑期武部六蔵 満州国国務院総務庁長官 20年古海忠之 満州国国務院総務庁次長 18年斎藤美夫 満州国憲兵訓練所長・少将 20年中井久二 満州国司法司法矯正局18年三宅秀満州国奉天省警務庁長 18年杉原一策 満州国司法刑事司長 18年佐古龍祐 満州国鉄警護牡丹江警護旅団長少将 18年横山光彦 満州国ハルビン高等法院次長 16年原 弘志 満国鉄警護参謀長 16年今吉満州国刑務総局刑務所長 16年田井二郎 満州国チチハル市警察局特務科長 16年 ・岐部與平 満州国厚生会理事長 15年木村光関東軍勃利県憲兵分隊長 憲兵少佐 15年島村三郎 満州国警務総局特務調査科長 15年鹿毛繁太 満州国錦州警察局警務科15年 ・築谷章造 満州国浜江省警察庁司法科長 15年柏葉勇一 満州国関東州撫順市警察局15年溝口嘉夫 満州国ハルビン高等検察庁検察官 15年吉房虎雄 平壌憲兵隊憲兵大佐 14年藤原廣之進 関東軍新京憲兵隊司令部憲兵中佐 14年野崎茂作 満州国懐徳県警務科14年宇津木孟雄 関東軍憲兵隊司令部憲兵中佐 13年 ・上坪一 関東軍四平憲兵隊憲兵中佐 12年蜂須賀重雄 満州国鉄警護奉天警護旅団長 上校 12年堀口正雄 関東軍錦州憲兵隊憲兵中佐 12年志村行雄 関東軍第1特別警備隊教育隊憲兵中佐 12年小林喜一 関東軍興安憲兵隊憲兵少佐 12年西永彰治 関東軍ハルビン道里憲兵分隊長 憲兵少佐 12年日本陸軍戦犯 8名 ・鈴木啓久117師団長 中将 20年藤田茂59師団長 中将 18年上坂勝59師団53旅団長 少将 18年佐々眞之介39師団長 中将 16年長島勤59師団54旅団長 少将 16年船木健次郎137師団歩兵375連隊長 大佐 14年晋太郎39師団歩兵232連隊本部俘虜監督軍官情報宣撫主任中尉 13年榊原秀夫 関東軍731部隊162支隊軍医少佐 13年国民党関連戦犯 9名 ※中国山西省残留日本軍城野 宏 山西省政府補佐官 暫編独立第十総体司令部(以下、十総) 少将 18年相楽圭二 第3独立混成旅団第9独立歩兵大隊長 十総参謀長 少将 15年菊地修一 第3独立混成旅団独立砲兵大隊長 大尉総参謀長 少将 13年永富博之114師団保安隊指導官 軍曹 十総指導団長 上校 13年住岡義一 独立歩兵第14旅団244独立歩兵大尉中隊長 大尉 十総指導団長 上校大野泰治 普北自治政府応県公署参事官 十総第2野戦砲兵教導隊教官 中校 13年 ・笠 實 山西省壺関県新民会主席参事 十総野戦病院軍需事務長 少校 11年神野久吉 蒙古連合自治政府12野戦警察集団指導尉官 山西野戦軍大同総隊 情報主任 少校 8年富永太郎 華北交通主事特務機関富永機関主事 国民党国防部北平台 中20年 名簿は『帰ってきた戦犯たちの後半生』を参考作成

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