秦 経済

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/05 06:26 UTC 版)

経済

始皇帝は中国統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭への統一、車の幅の統一などを行った。

ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律については、再考の余地があるようである。ことに、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治していた地域以外では、あまり出土しておらず、『史記』の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、それが行われたのは、二世皇帝の即位直後である。

文化

統一前の秦に関する資料として石鼓文(せっこぶん)・詛楚文(そそぶん)と呼ばれるものがある。

石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は北京故宮博物院に保存されている。発見されたのは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟の様子などを韻文にして書かれている。

兵馬俑

詛楚文は秦の強敵であった楚を呪詛する内容であり、こちらは現在は失われているが、内容は写されて現在に伝わっている。

この二つに使われている書体は秦が独自に作ったものであり、この書体を石鼓文と呼んでいる。始皇帝は統一時に書体も改めて新しい篆書(てんしょ)と言う書体を流通させた。

思想的には法家が当然強いが、道家も強かったようである。この両者は思想的に繋がる部分があると指摘されており、『史記』で司馬遷老子韓非子を『老子韓非列伝』と一つにしてあることもこの考えからであろう。後に法家と道家を混交したような黄老の道と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっている。

世界遺産に登録されている始皇帝陵は、始皇帝が13歳の時から建築が開始されたもので、20世紀後半になって発掘され、今まで不明瞭だった秦の時代の文化が窺えるようになっている。

歴代君主

伝説時代(趙氏の祖先)

祖先神話 備考
女脩中国語版 顓頊の苗裔
大業中国語版
大費(柏翳) 帝舜から嬴姓を賜う
大廉中国語版 鳥俗氏(鳥洛氏)の始祖
*若木 (中国神話) 費氏の始祖

嬴爾成
嬴高
嬴磷
中衍中国語版
嬴子豊
嬴謝
戎胥軒中国語版
中潏中国語版
蜚廉中国語版 両子:悪来(秦氏・梁氏の始祖)、季勝中国語版(趙氏の始祖)

(ここまでは趙の祖先神話である)

伝説時代

伝説時代
悪来(革)
女防中国語版
旁皋中国語版
太幾中国語版
大駱中国語版

(秦は分家であり本家である趙氏の配下として寄寓していた)

秦君

秦子 統治年数
非子(秦嬴) 紀元前905年 - 紀元前858年
秦侯中国語版 紀元前857年 - 紀元前848年
公伯中国語版 紀元前847年 - 紀元前845年
秦仲 紀元前844年 - 紀元前822年
荘公 紀元前821年 - 紀元前778年

秦伯

秦伯 統治年数
襄公 紀元前777年 - 紀元前766年
文公 紀元前765年 - 紀元前716年
憲公 紀元前715年 - 紀元前704年
出子 紀元前703年 - 紀元前698年
武公 紀元前697年 - 紀元前678年
徳公 紀元前677年 - 紀元前676年
宣公 紀元前675年 - 紀元前664年
成公 紀元前663年 - 紀元前660年
穆公 紀元前659年 - 紀元前621年
康公 紀元前620年 - 紀元前609年
共公 紀元前608年 - 紀元前604年
桓公 紀元前603年 - 紀元前577年
景公 紀元前576年 - 紀元前537年
哀公 紀元前536年 - 紀元前501年
恵公 紀元前500年 - 紀元前491年
悼公 紀元前490年 - 紀元前477年
厲共公 紀元前476年 - 紀元前443年
躁公 紀元前442年 - 紀元前429年
懐公 紀元前428年 - 紀元前425年
霊公 紀元前424年 - 紀元前415年
簡公 紀元前414年 - 紀元前400年
恵公 紀元前399年 - 紀元前387年
出公 紀元前386年 - 紀元前385年
献公 紀元前384年 - 紀元前361年
孝公 紀元前361年 - 紀元前338年

秦王

秦王 統治年数
恵王 紀元前337年 - 紀元前311年
武王 紀元前310年 - 紀元前307年
昭王 紀元前306年 - 紀元前251年
孝文王 紀元前250年[注 12]
荘襄王 紀元前249年 - 紀元前247年
趙政 紀元前246年 - 紀元前221年

皇帝

皇帝 統治年数
始皇帝[注 13] 紀元前221年 - 紀元前210年
二世皇帝 紀元前209年 - 紀元前207年

秦王

統治年数
子嬰[注 6] 紀元前207年[注 14]

注釈

  1. ^ 前905年、周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、秦の地に封ぜられた。
  2. ^ 前770年(平王元年)、襄公は伯爵となった。
  3. ^ 325年(顕王44年)、恵王は王となった。
  4. ^ 前288年(赧王27年)、昭王は西帝となった。
  5. ^ 前221年に始皇帝は中華を統一して大秦帝国を創立。
  6. ^ a b 皇帝ではなく秦王を称した。
  7. ^ この時代の中国では「姓」と「氏」は別である。秦の家系は遠祖「革」以来一貫して姓は「嬴姓」であり、氏は「趙氏」である。なお通常、男性は「氏」を、女性は「姓」を名乗ったので、始皇帝が「嬴政」と自称したり人から呼ばれたりしたことはありえない(正しくは「趙政」)。
    女防中国語版旁皋中国語版,旁皋生太幾中国語版,太幾生大駱,大駱生非子造父中国語版之寵,皆蒙趙城,姓趙氏
    秦之先為嬴姓。其後分封,以國為姓,有徐氏、郯氏、莒氏、終黎氏、運奄氏、菟裘氏、將梁氏、黄氏、江氏、修魚氏、白冥氏、蜚廉氏、秦氏。然秦以其先造父封趙城,為趙氏。司馬遷史記』秦本紀)
  8. ^ 『史記』始皇本紀ではとなっている。
  9. ^ 鄴攻めではなく平陽の戦いを統一戦争の始まりとすることもある。
  10. ^ 代は燕と連携をとり秦に対抗する。王賁により代王嘉が捕虜になる紀元前222年まで命脈を保った(燕攻略も参照)。
  11. ^ この時点で趙の滅亡とすることもある。
  12. ^ 即位して3日後に死去した。
  13. ^ 中国統一後に皇帝を称した。
  14. ^ 在位46日。

参考文献

  1. ^ 鸟虫篆文体
  2. ^ 史記 巻四 周本紀』:幽王以虢石父為卿,用事,国人皆怨。石父為人佞巧善諛好利,王用之。又廢申后,去太子也。申侯怒,與繒・西夷犬戎攻幽王。幽王挙烽火徴兵,兵莫至。遂殺幽王驪山下,虜褒姒,盡取周賂而去。於是諸侯乃即申侯而共立故幽王太子宜臼,是為平王,以奉周祀。
  3. ^ 史記 巻四十二 鄭世家』:二歳,犬戎殺幽王於驪山下,並殺桓公。
  4. ^ 佐藤信弥 2016, pp. 209–210.
  5. ^ 島崎晋 2019, pp. 79–81.
  6. ^ 史記 巻六 秦始皇本紀』:(始皇)六年,韓・魏・趙・衛・楚共撃秦,取寿陵。秦出兵,五国兵罷。
  7. ^ 史記 巻四十三 趙世家』:(悼襄王)四年,龐煖将趙・楚・魏・燕之鋭師,攻秦(蕞),不抜;移攻斉,取饒安。
  8. ^ 史記 巻四十 楚世家』:(考烈王)二十二年,與諸侯共伐秦,不利而去。
  9. ^ 史記 巻七十八 春申君列伝』:攻秦至函谷関。
  10. ^ 島崎晋 2019, pp. 32–34.
  11. ^ (中国語) 秦滅趙之戦 [Qin's conquest of Zhao] (wiki), Hudong Baike, http://www.hudong.com/wiki/秦灭赵之战 
  12. ^ 『史記』秦始皇本紀「十三年,桓齮攻趙平陽,【正義】:括地志云:「平陽故城在相州臨漳県西二十五里。」又云:「平陽,戦国時属韓,後属趙。」殺趙将扈輒,【正義】:「扈音戸。輒,張猟反,趙之将軍。」斬首十万。王之河南。正月,彗星見東方。十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,【正義】:括地志云:「宜安故城在常山城県西南二十五里也。」破之,殺其将軍。桓齮定平陽、武城。【正義】:「即貝州武城県外城是也。七国時趙邑。」」
  13. ^ 『史記』廉頗藺相如趙奢李牧列伝「七年,秦破殺趙将扈輒于武遂,斬首十万」
  14. ^ 『史記』趙世家「二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。三年,秦攻赤麗、宜安...」
  15. ^ a b 巻二十一 趙策四
  16. ^ 資治通鑑 巻六 秦紀一』:桓齮伐趙,敗趙將扈輒於平陽,斬首十萬,殺扈輒。 〔冬,十月,桓齮復伐趙〕桓齮伐趙,〔殺其趙將〕,取宜安、平陽、武城。〔趙王以李牧為大將軍,戰於宜安、肥下,秦師敗績,桓齮奔還。趙封李牧為武安君〕。
  17. ^ 史記 巻六 秦始皇本紀 第六』:十三年,桓齮攻趙平陽,殺趙將扈輒,斬首十萬。王之河南。……十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,破之,殺其將軍。桓齮定平陽、武城。
  18. ^ 史記 巻八十一 廉頗藺相如列伝』:後七年,秦破殺趙將扈輒於武遂,斬首十萬。趙乃以李牧為大將軍,撃秦軍於宜安,大破秦軍,走秦將桓齮。封李牧為武安君。
  19. ^ 史記 巻四十三 趙世家』:二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。三年,秦攻 赤麗、宜安,李牧率師與戰肥下,卻之。封牧為武安君。
  20. ^ a b c 秦滅韓和破趙”. 中華文化信息网. 2015年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月3日閲覧。
  21. ^ a b Li & Zheng 2001, p. 184.
  22. ^ a b c d e f g 寺田隆信 1997, pp. 48–49.
  23. ^ 廉頗藺相如列傳第二十一
  24. ^ 趙世家第十三
  25. ^ Li & Zheng 2001, p. 187.
  26. ^ (中国語) 秦滅魏之戦 [Qin's conquest of Wei] (wiki), Hudong Baike, http://www.hudong.com/wiki/秦灭魏之战 
  27. ^ 史記』楚世家
  28. ^ 秦滅楚 Archived 2015-09-23 at the Wayback Machine. 中華文化信息网
  29. ^ 馮夢竜東周列国志』“王賁兵渡鴨緑江,圍平壌城,破之,虜燕王喜,送入咸陽,廢為庶人。”但純属小説家之言,不足為信。
  30. ^ a b 秦滅燕、趙和破斉 Archived 2015-09-23 at the Wayback Machine. 中華文化信息网
  31. ^ a b Duiker, William J. Spielvogel, Jackson J. Edition: 5, illustrated. (2006). World History: Volume I: To 1800. Thomson Higher Education publishing. ISBN 0495050539, 9780495050537. pg 78.
  32. ^ 柿沼2015
  33. ^ Ren, Changhong. Wu, Jingyu. (2000). Rise and Fall of the Qin Dynasty. Asiapac Books Pte Ltd. ISBN 9812291725, 9789812291721.






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