日本国との平和条約
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条約解釈と諸問題
領土
ポツダム宣言の8項(カイロ宣言は履行されるべきこと)を受けて規定された条項である。日本には領土の範囲を定めた一般的な国内法が存在せず、本条約の第2条が領土に関する法規範の一部になると解されている。国際法的には、「日本の全ての権利、権原及び請求権の放棄」とは、処分権を連合国に与えることへの日本の同意であるとイアン・ブラウンリーは解釈している[3]。例えば台湾は、連合国が与えられた処分権を行使しなかったため条約後の主権は不確定とし、他国の黙認により中国の請求権が凝固する可能性を指摘している[4]。
竹島問題
竹島の扱いについては草案から最終版までに下記の変遷を辿っている[5]。
- 1947年3月19日版以降:日本は済州島、巨文島、鬱陵島、竹島の4島を放棄すること。
- 1949年11月14日、アメリカ駐日政治顧問ウィリアム・ジョセフ・シーボルドによる竹島再考の勧告。「これらの島についての日本の主張は古く、正当なものと思われる。そして多分ここにアメリカの気象観測所とレーダー基地を設置することもできるようだから安保的に望ましいことだ。」[6]
- 1949年12月29日版以降:日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。日本の保有領土の項に竹島を明記。
- 1951年6月14日版以降:日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。(日本の保有領土の項は無くなる)
- 1951年9月8日版(最終版):日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。
沖ノ鳥島に関する記述
この条約においては、沖ノ鳥島の存在、取り扱いについて明記されている。
北方領土問題
第二章第二条(c)において日本が放棄した千島列島の範囲について、特に南千島(択捉島、国後島)を含むかどうかに解釈上の争いがある。
地名表記の英名
樺太はサハリン(Sakhalin)、千島列島はクリル(Kurile)、台湾はフォルモサ(Formosa)、澎湖諸島はペスカドレス(Pescadores)、新南群島はスプラトリー(Spratly)、西沙群島はパラセル(Paracel)、小笠原諸島をボニン(Bonin)、南鳥島をマーカス(Marcus)と西之島はロサリオ(Rosario)と英文ではなっている。
「外地人」の日本国籍喪失
条約に基づき領土の範囲が変更される場合は当該条約中に国籍の変動に関する条項が入ることが多いが、本条約には明文がない。しかし、国籍や戸籍の処理に関する指針を明らかにした1952年(昭和27年)4月19日法務府民事局長通達・民事甲第438号「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」により本条約第2条(a)(b)の解釈として朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示された。1961年(昭和36年)の最高裁判所判決でも同旨の解釈を採用した[7]。もっとも、台湾人の国籍喪失時期については本条約ではなく日華平和条約の発効時とするのが最高裁判例である[8]。
東京裁判の受諾問題
東京裁判(極東国際軍事裁判)の「受諾」について書かれた11条について議論が行われている[9]。
著作権保護期間の戦時加算
戦時中は連合国・連合国民の有する著作権の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨から、本条約第15条(c)の規定に基づき連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律が制定され、著作権法に規定されている保護期間に関する特例(戦時加算)が設けられている。
注釈
- ^ 写真上から順に一万田尚登(日本銀行総裁)、徳川宗敬(参議院緑風会)、星島二郎(自由党)、苫米地義三(国民民主党)、池田勇人(蔵相)。一番手前側にいる背広の人物は不明(全権委員ではない)。
- ^ 第1条(b)
- ^ 日本語では「及び」と「並びに」の違いがわかりにくいが、英文では明解で“DONE at the city of San Francisco this eighth day of September 1951, in the English, French, and Spanish languages, all being equally authentic, and in the Japanese language”(太字編者)となっている。この太字の文言が「ひとしく正文である」にあたり、仮に日本語も正文だとするとこの部分は文章の最後に来ることになる。
- ^ アラビア語が国連公用語に加わるのは後になってからのことである。
- ^ 中国を代表する政府として中華人民共和国と中華民国のいずれを招へいするか連合国内で意見が一致しなかったため、いずれも招へいされなかった。
- ^ これによればそれ以前に始まっていた日中戦争(支那事変)は含まれない
- ^ アメリカはこれにより日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(現行)を締結して在日米軍を駐留させ現在に至る。「吉田・アチソン交換公文」で朝鮮国連軍も対象。
- ^ 独島と波浪島の位置について問われた韓国大使は「大体鬱陵島の近くで日本海にある小島である」と返答。(しかしその後の米調査では「ワシントンの総力を挙げた」("tried all resources in Washington")にも関わらず、これらの島を発見することはできなかった。その後、独島については竹島に同定されることになったが、波浪島は現在に至るまで発見されていない。)ダレス米大使はこれらの島が日本の併合前から韓国の領土であったかと尋ねたところ、韓国大使はこれを肯定、ダレスはもしそうであればこれらの島を日本の放棄領土とし韓国領とするに問題はないと答えた。
- ^ 訓読文では「学を曲げ世に阿る」、つまり「世間に迎合するため、学問的真理を曲げる」という意味
- ^ この時の池田訪米に秘書官として同行した宮澤喜一の述懐による。
- ^ なお「War Memorial」は「戦没者追悼記念」ではなく、正確には「第一次世界大戦従軍兵記念」を意味する。また日本語での一般的な表記は現地・日本ともに「サンフランシスコ・オペラハウス」「ウォーメモリアル・オペラハウス」または単に「オペラハウス」。
- ^ オーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国。
- ^ セイロンが批准書を寄託した旨の1952年5月10日付け外務省告示第14号は、セイロンが1952年4月28日のアメリカ合衆国東部標準時で13時30分に批准書を寄託した旨を告示するのみで発効日については言及していない。
- ^ 1989年に廃止・閉鎖。跡地はゴールデンゲート国立レクリエーション地域の一部になっている
- ^ この条約は、日本国を含めて、これに署名する国によつて批准されなければならない。この条約は、批准書が日本国により、且つ、主たる占領国としてのアメリカ合衆国を含めて、次の諸国、すなわちオーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国の過半数により寄託された時に、その時に批准しているすべての国に関して効力を生ずる。この条約は、その後これを批准する各国に関しては、その批准書の寄託の日に効力を生ずる。
- ^ サンフランシスコ講和条約ではマッカーサー・ラインも廃止される予定であった。
出典
- ^ 正文の項参照
- ^ 日本国との平和条約及び関係文書 (日本法令索引)
- ^ ブラウンリー 1992, p. 121
- ^ ブラウンリー 1992, p. 100
- ^ Wikisourceの竹島に関するサンフランシスコ平和条約草案の変遷(英語)参照。
- ^ United States Department of State (1976) (英語). Foreign relations of the United States, 1949. The Far East and Australasia (in two parts). Volume VII, Part 2. pp. pp. 898-900(アメリカ合衆国国務省『合衆国の外交関係:1949年』―「極東とオーストララシア」、1976年)
- ^ 最大判昭和36年4月5日民集15巻4号657頁
- ^ 最大判昭和37年12月5日刑集16巻12号1661頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年
- ^ a b c d e 伊藤祐子「日米安保体制の50年-日米安全保障政策と日本の安全保障観の変容」亜細亜大学国際関係紀要第11巻第1号,2001年
- ^ a b c d 『岩波書店と文藝春秋』(毎日新聞社1995年)p64-68
- ^ 1951年 サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約の調印(法学館憲法研究所)
- ^ a b 都留重人「講和と平和」『世界』1951年10月号
- ^ KOTOBANK全面講和愛国運動協議会(世界大百科事典)、日立ソリューションズ。
- ^ 『岩波書店と文藝春秋』(毎日新聞社1995年)p52-57.
- ^ a b c d クリック20世紀「吉田首相、南原東大総長の全面講和論を「曲学阿世」論と非難」 2013年1月27日閲覧。信夫清三郎『戦後日本政治史Ⅳ』勁草書房,p.1112
- ^ 『文藝春秋』1952年1月号
- ^ 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年。ISBN 9784120043000。p86
- ^ 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年。ISBN 9784120043000。p100
- ^ 「講和問題に関する吉田茂首相とダレス米大使会談,日本側記録」東大東洋文化研究所田中明彦研究室「サンフランシスコ平和会議関連資料集」所収。原資料は外務省、外交史料館所蔵。
- ^ 朝日新聞1951年8月17日
- ^ a b 中村麗衣「日印平和条約とインド外交」(PDF)『史論』第56号、東京女子大学学会史学研究室 / 東京女子大学史学研究室、2003年、pp.56-73、NAID 110007411152。
- ^ 「対日講和問題に関する周恩来中国外相の声明」 東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室「サンフランシスコ平和会議関連資料集」所収。外務省アジア局中国課監修「日中関係基本資料集」p19-25.
- ^ s:韓国政府の要求に対する1951年5月9日付米国側検討意見書, 4. 在日韓国人は連合国国民の地位を与えられるべき.
- ^ エモンズによる会談覚書、および竹島問題参照。
- ^ United States Department of State (1951). United States Department of State / Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts). VI, Part 1. pp. p. 1296
- ^ 塚本孝「韓国の対日平和条約署名問題」『レファレンス』 494巻、国立国会図書館調査立法考査局、1992年3月、95-101頁。
- ^ アメリカ占領下の日本 第4巻 アメリカン・デモクラシー企画・制作:ウォークプロモーション NPO法人科学映像館
- ^ 吉田茂参照
- ^ (外務省 外交史料 Q&A 昭和戦後期)。原稿は、外務省(1970年118~122ページ)、田中(刊日不明)で閲覧可。
- ^ 昭和27年4月28日付内閣告示第1号、昭和27年4月28日付外務省告示第10号
- ^ 〔備考〕外交関係の回復に関する書簡について - 外務省
- ^ 1952年(昭和27年)8月5日発効。
- ^ 日本国とビルマ連邦との間の平和条約 - 外務省
- ^ a b Dr. Manmohan Singh's banquet speech in honour of Japanese Prime Minister Archived 2005年12月12日, at the Wayback Machine. National Informatics Centre Contents Provided By Prime Minister's Office April 29, 2005
- ^ a b 1956年8月15日付け官報第8890号付録資料版、1972年3月8日付け官報第13561号付録資料版
- ^ 日本国とインドネシア共和国との間の平和条約 - 外務省
- ^ 日本国とチェッコスロヴァキア共和国との間の国交回復に関する議定書 - 外務省
- ^ 日本国とポーランド人民共和国との間の国交回復に関する協定 - 外務省
- ^ 1953年7月1日付け官報第7945号付録資料版
- ^ 1953年7月1日付け官報第7945号付録資料版、1972年3月8日付け官報第13561号付録資料版
- ^ 1956年8月15日付け官報第8890号付録資料版
- ^ a b 米原謙「日本型社会民主主義の思想――社会党左派理論の形成と展開」 大阪大学大学院国際公共政策研究科, 2002
- ^ “対日講和発効60年/人権蹂躙を繰り返すな 許されぬ米軍長期駐留”. 琉球新報. (2012年4月28日) 2012年11月25日閲覧。
- ^ “沖縄の40年<屈辱の日>”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2012年5月1日) 2012年11月25日閲覧。
- ^ 「対日講和 50年の意味」『朝日新聞』2001年9月6日
- ^ “戦後50年メモリアルシリーズ 第1集郵便切手”. 日本郵趣協会. 2012年6月5日閲覧。
- ^ サンフランシスコ平和条約50周年記念郵便切手
- ^ “自民有志、「4月28日」主権回復記念日議連を設立 サンフランシスコ平和条約発効”. MSN産経ニュース(産経新聞). (2011年2月25日) 2011年3月6日閲覧。
- ^ a b イリナ・イワノワ (2012年11月15日). “反日統一共同戦線を呼びかける中国” (日本語). ロシアの声 2012年11月25日閲覧。[1][リンク切れ]
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