日本の農学史とは? わかりやすく解説

日本の農学史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 23:01 UTC 版)

農学」の記事における「日本の農学史」の解説

日本では1870年明治3年9月民部省勧農局置かれその三カ月後名を開墾局と改められ民部省農学校設立すること、外国人を雇うこと、度器具や種苗米国から購入することなど半年の間に太政官上申し米人一名上申翌月雇い入れられた。ところが農学校設立上申太政官認められるが、実現はしなかった。 1871年明治4年4月開墾局は勧業局と名を変えてさらに陣容整えたが、その夏には民部省廃止され大蔵省移され勧業寮、それも13日目に変更され勧農寮という名に落着いた。わずか2カ月の問に5つの名を持ったわけであるが、さらに翌年には勧業寮廃止その事務は租税勧農課で担当することになった大蔵省農事改良担当した明治4年のうちに、駒場牧畜試験場開き米国から輸入した器具用いて霞ヶ関西洋穀類野菜栽培始めている。その後大蔵省勧業寮仕事はすべてその年11月設置され内務省勧業寮に引きつがれた。内務卿帰国後ただちに西郷隆盛らの征韓論つぶしたばかりの大久保利通である。後に内藤新宿試験場現在の新宿御苑)となる土地江戸時代以来内藤家当主頼直)の邸地九万八千坪を九千五百円、千駄ヶ谷新宿地内土地八万坪を二万一千円合計178千坪(59ヘクタール弱)で購入内藤家土地よりも農地民家のあった敷地の方が高値だったという。 一方1871年明治4年開拓次官黒田清隆アメリカ合衆国よりホーレス・ケプロン外3名のお雇い外国人連れ帰国ケプロン等の進言を受け高等農業教育動きが始まる。翌年1872年明治5年)には東京開拓使仮学校開設される開拓使仮学校1875年明治8年)に札幌移転1876年明治9年)に札幌農学校改称した農学分野高等教育機関として明治学制改革初期登場するのは、この札幌農学校1876年明治9年開設)と、駒場農学校明治11年開設)があげられる札幌農学校は、先にあるとおり北海道開拓使顧問となったケプロン(Capron、アメリカ農務長官)の提言に基づき開拓事業進めるための基本的機関一つとして設けられるが、アメリカ西部開拓に範を求めてマサチューセッツ (Massacbusetts) 農科大学学長クラーク博士 (Clark) を教頭事実上校長職)にして発足した札幌農学校予備3年本科4年構成され農学の他に化学数学、物理学などまで、自然科学基礎幅広く授けている。本科4年学士学位授与する課程であり、学士授与機関としては日本初とされる駒場農学校1874年明治7年)の議決受けて翌年1875年明治8年)、内藤新宿試験場大久保利通の下に置かれ1877年明治10年)、試験場内に「農学修学場」が設けられることに端を発する近代農業への政府意欲は、もう一つ試験場現れている。1871年明治4年)に設置され開拓使青山試験場で、三園分れ現在の青山学院大学のあたり二号地が園芸試験地青山通り隔てた二号地は穀物など、日赤病院付近一三号地が畜産のために充てられた。 この試験場は、1882年明治15年)頃までに北海道に移るが、早くから米人教師指導に当っていたという。 内務省勧業寮では1874年明治7年1月牧場芸の二組がおかれ、3月農事修学場設置することとなり、4月には前の二掛に加えて製茶農兵農学諸掛置かれた。また前述東京内藤新宿勧業寮新宿支庁置かれ事業はさらに拡がりをみせる。支庁目的は、「広く内外植物集めて、その効用栽培良否適否害虫駆除方法などを研究し良種子を輸入し一冬府県に分って試験させ、民間にも希望があれば分ける」と言うような趣旨であった。さらにこの勧業寮新宿支庁内に設置していた内務省勧業寮内藤新宿出張所蚕業試験掛と農事修学場設立し修学場に獣医学農学農芸化学農学予科農学試業科等の教師海外より招くことを議決した同年10月新宿試験場内には農業博物館完成建物詳細不明であるが、種子材木見本肥料、紙などの外に骨格標本鉱物土壌などもあったらしく、農業動植物などの書籍辞書混じって青菜園まであったらしい。博物館のできた翌年にはその周囲植物分類園が計画されていたようであるが、そのころ試験場内の植物は2163種もあったということなので、ある程度分類見本園も造ることは可能であった。のちには整備進み見学者多くなったようで、縦覧規則1875年明治8年5月定められる当時試験場の畑は、水田穀類畑、成業園など七園に分れていたが、さらに桑畑茶園などが加わり1877年明治10年)には3150種の植物があった。 多く植物種子欧米か買入れたほか、もっと前の旅行者買ってきていたものウィーン万国博覧会から博覧会事務局持ち帰ったもの清国まで出張して探してきたものなどさまざまで、疏各種種子果樹などのほかに、ヒマラヤシダー、ラクウショウアメリカキササゲなど造園樹木種子もあり、現在も残る大木中にはこの頃種子由来するらしい。1875年明治8年)には外国果樹の実るものもあり、試作繁殖したは、リンゴ青森県へ、オリーブ小豆島送られたほか110平方メートルはどの西洋式温室完成する。これは開拓使青山試験場温室とともに日本の挫什式温室先駆けをなすものであるこの間農学修学場は本格的な農学専門教育機関農学校」として設立することが決まり修学農学係は第六課と改められ課長には田中芳男をすえ、富田次郎副長となった設立予定修学場には最終的に獣医学農学化学、試業料の四科農学予科を置くこととなり、ヨーロッパから教師を招くことにした。まず1875年明治8年)に教師招聘をただちに駐英・駐独両公使連絡したが、結局数カ国から集めたのでは統制がとり難いためか、イギリス求めることとなる。当時最も早く近代的農業革命実現したイギリスに範をとってイギリス農学移植試みた。 まず第六副長富田次郎を翌1876年明治9年2月英国に派過、招聘により英国人教師5名が逐次来日した。その担当は、マックブライト(獣医学)、カスタン(農学)、キンチ化学)、ペグピー(試業料)、コックス予科)で、試業科のペグピーは実習予科コックスは英語の教師であった。5人のうち試業科のペグピーは思わしくない人物2年後解職、他の4人は3カ年契約期間全うして、カスタン、キンチ2人はさらに1、2延長在職した後任は3名がドイツから招かれ英語教師コックス初めから家族連れ来ており、その後大学予備門農学校教師兼ねて長い間勤めていた。コックス講義受けた新渡戸稲造は、旧式文章構成法忠実なだけの文法講師にすぎず、あまり尊敬できない評している。 一方生徒の方は農事見習生として、農学獣医学、試業科、予科について募集募集開始した156名を予定していたが、初め定員達せず再三募集して十月には試験を受けさせ獣医学科30名、農学科20名が合格した。試業料、予科府県から一名ずつ推せんさせたが結局両科で58であったこれに伴い1876年明治9年内務卿大久保利通達示農事修学場入学資格及び学則大要など学場規則等を作成したが、翌年10月会議においてその地が狭いうえに周囲教育適さないなどの松方正義意見により、上目黒駒場野学校設置議決なされる表向き内藤新宿土地では狭いという理由述べられているが、実際は場所の風紀上の問題である。内藤新宿には宿場遊郭があり、青年たちの教育にははなはだ宜しくないという議論があり、地を駒場に移すこととなり、急速にその整備進めることとなった1877年明治10年1月駒場野における準備が間に合わず内藤新宿試験場内に修学場(農学校)が附設され、試験場内の農業博物館を仮教場教室として授業始まった外人教師授業には通訳付いたという。 この修学場・農学校学んだ利害造は後年明治園芸史』に「青山では、リンゴ、ナシブドウなど多数米国果樹立派に整枝され、西洋野菜多く積雪下の温室1874年明治7年)に建ったもの)には花々咲いていた。そして青山試験場米国系だったのに対して勧業棄の試験場自然にヨーロッパ系統、ことにフランス系になったと言って良いだろう」と、書き残している。 この青山温室は、1885年明治18年)に小石川植物園移設された。 新宿授業の期間中1877年明治10年10月農事修学場という名称を農学校改めた農事修学場の名は正式に農学校変っていた。新宿での授業は約1年1878年明治11年1月駒場移し24日改め開校が行われた。 大久保内務卿明治8・9年受けた質典金禄五四二三九六入庫農学校のために献納した掌典禄は、維新功臣対し1869年明治2年)から石高与えられていたが、1875年明治8年)に金禄となり、1876年明治9年)に一時金公債支給して打切られていたので、大久保献納したのは金禄になってからの全てだったかも知れない。この金は奨学備讃金として長く引継がれた。翌1878年明治11年5月大久保利通凶刃倒れた一方民間では津田仙学農社興した津田幕末米国渡り帰朝後農業説き自分でも栽培試験を行う。築地ホテル館理事にもなった津田新鮮な西洋野菜必要性痛感し、まずアスパラガス栽培経済的に成功した1873年明治6年ウィーン万国博覧会政府派遣視察出張する1873年明治6年)という年は、前々年欧米視察出発した岩倉具視大使らが帰朝した年である。同年開拓使農場洋種植物諸県に禦田を分けられるまでになり、山梨県には植物試験所が設けられる1876年明治9年)、学農社および学農社農学校設けた。 なお、旧幕時代小石川御薬園植物園として文部省所管園長矢田部良書となっており、幕末から明治にかけて植物学の本を著した伊藤介などが携わって内藤新宿試験場缶詰試作まで始め、のちに製品販売もされた。また、七面鳥なども飼われ養蚕製紙製茶試験研究行われる駒場牧場その後農学校新宿から駒場に移るにあたり下総国移転した。後に三里塚御料牧場となり、1969年東京新国空港建設のために栃木移転するまで続いた前述のように、勧業寮新宿のほかに三田にも試験地求めた1877年明治10年)に三田育種場改め、ここで内外植物果樹有用木村良種栽培繁殖して各地分けたり、農産市を開くことになっていた。新宿試験場のような土地に適当でないようなものが移され成功したものもあったようである。 1879年明治12年)、蚕業試験掛も含め新宿試験場仕事はすべて三田移され新宿土地宮内省所管となる。このとき、新宿試験場第四課(芸課)の池田謙蔵三田育種場長に転じた。 また農学校その後国家整備イギリスよりもプロイセン風にしたいという当時の政治的状況変化のなかで、急速にドイツ農学移植変わっていった。 19世紀ドイツは、リーピッヒ (Liebich) を中心とする農芸化学者によって、近代自然科学に基づく農学建設運動進行し無機栄養説を中軸とする近代農学成立をみていた。さらに、メンデル (Mendel) による遺伝法則発見もあった。日本農学は、これらに強い影響受けて化学・生物学を主にして成長することになるのである農学発展過程得られ知識に基づき多く理学分野技術分野派生した例えば、遺伝を扱う育種学からは遺伝学が、生産効率関わる複雑な要因切り分ける生物測定学からは統計学実験計画法生まれている。 1878年明治11年) 農学校の名称を駒場農学校とした。1879年明治12年下総種畜場で変則獣医学生徒募集し獣医学教育開始1880年明治13年2月農事見習30名に混同農事修成証書授与される1881年明治14年4月 内務省勧農局廃止され農商務省新設された。三田育種場駒場農学校所管農商務省農務局となる。樹木試験場農商務省山林局所轄となる。 1882年明治15年1月変則獣医生を駒場農学校所属にさせる下総種畜場は駒場農学校獣医分科と名称変更する同年12月第1回卒業生11名に修業証書授与される1882年明治15年1月西ケ原樹木試験場内に東京山林学校創立同年12月1日商務西郷従道臨場の下に開校が行われる。生徒49名。1883年明治16年10月下総獣医分科東京三四国町に移すことが議決される。1884年明治17年2月至って獣医別科改称し修業年限3年改めた1884年明治17年7月 獣医学本科別科合併し駒場農学校獣医学科と呼ぶことになった1884年明治17年三田移っていた蚕業試験掛は、農商務省試験場改組1885年明治18年3月農商務省大書記官岩山敬義駒場農学校校長兼任する6月農学校及び獣医学別科規則改正され7月より獣医学本科別科とを合併して三田四国町に移し駒場農学校獣医学科呼び学び家を駒場野移された。 1886年明治19年) 東京にあった農商務省所管駒場農学校東京山林学校合併農商務省東京農林学校開校1889年明治22年2月農商務省特許局長高是清が校長兼任する同年10月には農務局長前田正名校長兼任する1887年明治20年農商務省試験場蚕業試験場になる。その後試験場1891年明治24年)に 蚕業試験場農商務省試験場事部となり、1893年明治26年蚕業試験場1896年明治29年)に蚕業講習所1899年明治32年)に東京蚕業講習所1914年大正3年)に東京高等蚕糸学校となる。 1890年明治23年6月9日文部大臣農商務大臣連名山縣有朋首相宛に、農科大学設置閣議請議文が出された。農科大学文部省下に置くことは、管理上、経済上の利便があり、また、その「専門学校」の地位進め大学学部とすることにより、農林学科拡充できる利便もあるとしていた。 この請議文は2日後6月11日裁可を得る。しかしながら文部大臣から大学評議会に対して農科大学設置諮問を行うにあたり評議官の強い反感を買い異議唱えられた。その評議会議論要点は、文部大臣事前に諮詢しなかったこと、帝国大学分科大学にするには農林学校水準が低いこと、欧米先進国において大学一分科として農科設けた例がないこと、などであり、評議官は総辞職をするに至った文部大臣説得にあたり全員辞表撤回6月17日評議会農科大学帝国大学分科大学にすることが決定された。こうして東京農林学校文部省所管帝国大学一分科となり、帝国大学農科大学改称初代学長理学博士松井直島就任した。 このとき学生52名で建物143棟,図書21557点も大学へと引き継がれた。学生および諸物件の引継ぎ6月開始され9月終了した当時所有していた土地地積62町3反70とされる。また教授23名、外国人教師および講師は8名であった農商務省文部省官制違いにより、教授学長を含む3名、助教授20名でスタートした初代学長第三高等中学校であった松井直吉任命された。松井は、1911年明治44年2月1日死去するまでその職にあった。なお、外国人8名のうち7名はドイツ人、1名はイギリス人で、ほとんどは明治20年代退任している。外国人教師通じて直接的に西洋農学導入した時代明治20年代をもって基本的に終わったと言ってよい。7月25日 高等農林学校所定学課履修した学生卒業証書授与 甲科学生25名、乙科学81名に卒業証書授与された。 9月10日 農科大学学科課程制定 農科大学設置当初は、旧東京農林学校制度継承していたが、新たに農科大学学科課程制定した学科編成は、農学科第一部農学科第二部林学科獣医学科からなる農学科第二部農芸化学主とするが、将来進歩従い農芸植物学農芸物理学農芸動物学農芸化学を主にするもの等の数部に分け方針であった実科生の回想には、「農学実科及びもとの農学乙科一日課業は、朝にペン握り講堂昇り、夕に鍬を執り圃場耕し自然に学び自然を友とし、半ば以て心を労し半ば以て身を役する在り。」とあり、実習重視教育うかがえる当時帝国大学東京帝国大学時代における付設的な教育課程機関としては、全国医科大学国家医学講習科、看病講習科、産婆養成所理科大学簡易講習科があった。 1935年4月1日 農学科農業土木学専修農業土木学科と改称農業土木学設置農業生産基盤充実求められ農業土木技術者需要増大していたことが背景にある。

※この「日本の農学史」の解説は、「農学」の解説の一部です。
「日本の農学史」を含む「農学」の記事については、「農学」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「日本の農学史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本の農学史」の関連用語

1
2% |||||

日本の農学史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日本の農学史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの農学 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS