ヴェルサイユ体制;莫大な賠償金と第三帝国への道
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「反ユダヤ主義」の記事における「ヴェルサイユ体制;莫大な賠償金と第三帝国への道」の解説
「パリ講和会議」、「ヴェルサイユ条約」、および「第一次世界大戦の賠償」を参照 1919年1月からのパリ講和会議で調印されたベルサイユ条約でドイツは、海外植民地と普仏戦争で得たアルザス=ロレーヌ等を失い、ラインラントは非武装化され、ザール地方は国際連盟の管理下に置かれた。さらに賠償支払いを課せられ、軍備は厳しく制限された。これ以降、1936年にナチス政権がラインラントを再武装化するまでをベルサイユ体制とよぶ。 1920年3月13日に軍の縮小とドイツ義勇軍の解散に反発したクーデターカップ一揆がベルリンで発生し、国家人民党、ドイツ国民党、経済界は新政府を支持した。ベルリンを制圧したエアハルト海兵旅団はユダヤ人へのポグロムを始めようとしたが、指導者カップは制止した。一揆に参加したルター派牧師ゴットフリート・トラウプはユダヤ問題への暴力的な解決には反対したが、ユダヤ人の物質主義を批判した。しかし、社会民主党、独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟はカップ一揆に対抗してゼネストを行い、また左翼復員のルール赤軍によるルール蜂起が発生したため、カップは退陣した。ルール蜂起もヴァイマル軍によって鎮圧された。 1921年1月、賠償額交渉で総額2260億マルクという莫大な賠償金が課せられたため、ドイツ全土は激しい怒りに満ちた。ドイツ政府は修正を要求したが、連合国は拒否してライン地方を占領し圧力をかけた。1921年5月のロンドン会議で総額1320億マルクへと修正され、ドイツが拒否する場合はルール地方を占領するという最後通牒を通達した。中央党のフェーレンバッハ首相は退陣し、中央党左派のヨーゼフ・ヴィルトが首相となり、賠償支払いに応じたが、右派は批判した。1921年10月に連合国はオーバーシュレージエンの4分の1をポーランド帰属と断定したが、そこは鉱工業が集中していたためドイツは反発した。1921年は物価が急激に上昇し、食料品は大戦末期の8倍、1922年には130倍となり、1923年にはハイパーインフレーションとなった。 1922年1月、ヴィルト首相は賠償支払いの不可能を宣言した。同年2月1日、ユダヤ人のヴァルター・ラーテナウが外務大臣就任を要請され、周囲は就任は危険だと説得したが彼は承諾した。4月、ドイツがロシアのボルシェビキ政権を国際的に初めて承認する一方でロシアが賠償権を放棄するというラパッロ条約を締結すると、戦勝国側からもドイツ保守層からも怒りを買い、ドイツ民族防衛同盟(シュッツ・トゥルッツ・ブント)はラーテナウを一番の祖国の敵だとした。6月24日にラーテナウ外相はコンスルに暗殺された。暗殺の首謀者エルヴィン・ケルンは「ラーテナウの血は永久に隔てられてあるべきものを、もはや和解不能なまでに隔てなければならない」と述べた。暗殺翌日の大学でのラーテナウ追悼集会は反対デモで中止となり、1922年9月のライプツィヒ大学での集会で、共和派ドイツ人は忠誠心を持たないと決議された。 この他1922年にはドイツ国家人民党の右翼が分離してドイツ民族自由党を結成した。 ドイツ青年運動、ワンダーフォーゲル運動の思想家ハンス・ブリューアーは、男性同性愛を擁護して、フェミニストを批判する反ユダヤ主義者であった。ブリューアーは『男性同盟の原理としてのエロスの役割』(1919)、『ドイツ帝国:ユダヤと社会主義』(1920)を発表後、『ユダヤ人の分離』(1922)で第一次世界大戦の敗戦以来ドイツ人はユダヤ精神から軽蔑されていることを知っているため「背後の一突き」を作り話として否定しても無駄であり、たとえ10万人のユダヤ人が祖国のために犠牲になったとしてもこうした事態は変わらないし、ユダヤ人問題はドイツの政治問題の核心となっていると論じた。ただし、ブリューアーはシオニストのブーバーやランダウアーには敬意を払っていた。1933年には宗教史学者ハンス・ヨアヒム・シュープスと『イスラエルを巡る闘争』を発表した。シュープスはドイツ革命でのホーエンツォレルン家追放にドイツの悲劇を見たシュペングラーの「プロイセン主義と社会主義」に影響を受けていた。 1923年1月11日、フランスとベルギーが木材賠償の支払いが遅れているという理由でルールを占領した。ドイツ国民は社民党から国家人民党まで怒りが広がり、反フランス「国民統一戦線」が成立した。ヒトラーは同日、フランスに占領された責任はマルクス主義、民主主義、議会主義、国際主義の背後にいるユダヤ人にあると演説した。3月31日にはフランス軍の銃撃でクルップ社の13人の労働者が死亡し、41人が負傷した。フランスとドイツの交渉が膠着したことでルール地方を事実上失ったドイツは石炭を外国から輸入せざるをえなくなり、またルール地方の企業支援のために通貨を無制限に発行し、5月には1ドル=15000マルク、11月には1ドル=4兆2000億マルクと下落し、ハイパーインフレーションが進行し、貨幣マルクはパピエルマルク(紙くずマルク)と呼ばれた。 バイエルン・ミュンヘン一揆 1923年夏、バイエルン州政府は、中央政府がルールでの「消極的抵抗」を中止したことをドイツへの裏切りとして非常事態を宣言し戒厳令が敷かれ、フォン・カールを州総監に任命して全権を委任した。シュトレーゼマン中央政府も大統領緊急令で対抗したが、バイエルンはバイエルン駐在軍を州軍として編成し、州司令官ロッソウをバイエルン軍司令官として任命し、バイエルンは独立国家の様相を呈した。ただし、カールはナチ党を抑えようとしたため、ナチ党は反発を強めた。さらにライン地方も中央政府からの分離運動を開始し、共産党・コミンテルンも中央政府をファシズムとして批判した。 コミンテルンはドイツ共産党に武装革命を指示し、共産党は1923年10月23日にハンブルクで武装蜂起して党員24人と警官17人が死亡、ザクセンでは軍とデモ隊の衝突で23人の死者、31人の負傷者が出て、鎮圧され、各州で共産党は非合法化された。共産党による反乱に対して、ナチ党は自分たちも行動しなければナチ党支持者が共産党に転向することを恐れた。 バイエルン首相カール・警察長官ザイサー・バイエルン軍司令官ロッソウの三巨頭は、ナチ党とルーデンドルフを外してベルリンでナショナリスト独裁政府を樹立する計画を持っていた。1923年11月初頭、ザイサーがベルリンで陸軍最高司令官ゼークトとクーデター計画の交渉をするが、ゼークトは拒絶した。これに対してナチ党とルーデンドルフを中心とした闘争連盟(Kampfbund)もベルリンへの進軍を計画した。ヒトラーはカールが会合に現れなかったためクーデターを決心、11月8日カールの集会に武装したナチ党が乱入し、ヒトラーは聴衆に向かって、ロッソウは国防大臣、ザイサーは警察大臣、カールは州摂政に任命し「ベルリンのユダヤ人政府」を標的とするミュンヘン新政府を樹立すると宣言した。ヒトラーは「今夜、ドイツ革命がはじまる」と宣言し、群衆は賛同の声にどよめいた。しかし、バイエルン軍も州警察も一揆に協力はせず、翌9日ヒトラーたちの行進に対して銃撃戦がはじまり、一揆勢力14人、警官4人が死亡し、こうしてミュンヘン一揆は一日で鎮圧された。ナチ党は禁止されたが、三巨頭も翌年に失脚した。 ヴィルヘルム・マルクス内閣では授権法(全権委任法)が与えられ、公務員40万人を解雇するなど大幅な予算削減を行った。 1920年代の思潮 1923年にはアルフレート・ローゼンベルクが『シオン賢者の議定書』を翻訳し、『国家社会主義ドイツ労働者党の本質、原則および目的』も出版した。1924年1月、ローゼンベルクは「大ドイツ民族共同体」を創設した。 メラー・ファン・デン・ブルックはドストエフスキー全集のドイツ語訳を監修し、敗戦後のドイツ人に衝撃的な影響を与えた。ドストエフスキーの第三帝国論に影響を受けて書かれた著書『第三帝国』(1923年)でメラー・ファン・デン・ブルックは「ドイツ的社会主義」による自由主義の除去を主張した。ファン・デン・ブルックはヴェルサイユ条約による講和は平和でなくドイツの奴隷化をもたらしたとし、作家トーマス・マンも同様の見方をしていた。ファン・デン・ブルックは、ドイツに押しつけられているイギリスやフランスの自由主義は強者の論理であり、自由主義における個人の強調はドイツの伝統的な共同体を崩壊させるし、また議会制や政党政治は国民の意志を反映できないと批判し、ドイツとロシアの「東方」の青年と資本主義的で唯物主義的な「西方」の青年とを対置してマルクス主義の終焉後に出発するドイツ的社会主義の課題は自由主義の痕跡をすべて除去することにあるとした。メラー・ファン・デン・ブルックのサークルには、ナチスのオットー・シュトラッサーも加入していた。 当時文学研究者だったヨーゼフ・ゲッベルスは、ドストエフスキーの影響を強く受けており、ゲッベルスによればドストエフスキーは「西欧に対する憎悪が彼の魂を焼き尽くしてしまうがゆえに書く」のであり「我々は彼の後についていく」とドストエフスキーの弟子を自認した。ゲッベルスは劇作家ヴィルヘルム・フォン・シュッツに関する博士論文(1921年)の扉に、ドストエフスキーの小説『悪霊』から、理知と科学は第二義的なものにすぎず、国民は「命令したり、主宰したりする力」によって生長しており「この力こそ最後の果てまで行き着こうとする、渇望の力であって、同時に最後の果てを否定する力だ」という文章を引用していた。ゲッベルスはユダヤ人教授フリードリヒ・グンドルフを尊敬し、グループに加入しようとしたが断られた。また小説『ミヒャエル・フォーアマン』をユダヤ系出版社ウルシュタインやモッセに送ったが拒否された。ゲッベルスの小説『ミヒャエル』(1924-29)では「政治的奇跡はナショナルなもののなかでしか起こらない」「民族の奇跡は頭脳のなかにあるものではなく、血のなかにある」と論じたり、キリストはユダヤ商人を鞭で神殿から追い出すように「峻厳にして仮借ない」とした。1925年にナチスに入党したゲッベルスはヒトラーをキリストとみなした。 1919年にミュンヘンに帰国したルーデンドルフは、ユダヤ人は戦時中はドイツを裏切った戦争受益者であり、ドイツはユダヤ民族によって売り渡されたと主張した。ルーデンドルフはオーバーラント団、国旗団、ナチ党と1923年にミュンヘン一揆を起こしたが、精神状態が重度の疲弊状態にあるとして無罪放免になったあと、1924年に国家社会主義自由運動の国会議員となった。ルーデンドルフの妻マティルデは神秘主義者であり、その影響でルーデンドルフは共産主義で飾りたてたユダヤ人と、フリーメイソンの秘教主義に根ざすローマ・カトリックの「超=民族的な秘密権力」について述べるようになり、フリーメイソンによってキリスト教徒が「人工的なユダヤ人」に造り替えられているとして、週刊誌『民族監視所』も創刊した。ルーデンドルフは1925年ドイツ大統領選挙に出馬したが得票数最低で落選し、1926年には超国家的権力と戦うためにタンネンベルク団を結成し、大統領となったヒンデンブルクやヒトラーをドイツへの裏切り者とした。晩年のルーデンドルフはユダヤ人がキリスト教を通じてドイツ民族を破壊していると論じたり、ナチスの立法はユダヤ人とローマのプロパガンダに梃入れするものと批判した。 文学者アードルフ・バルテルスは、ドイツ文学史のなかでドイツ人とユダヤ人を区別し、第三帝国期にドイツ的著作物の「浄化」のための指導者とみなされた。バルテルスは『ユダヤ人とドイツ文学』(1912) 『なぜわたしはユダヤ人と闘うのか』 (1919) などでユダヤ化されたドイツ文学を救済すると論じ、主著『ドイツ文学史』(1924-28年,3巻)はドイツの教養書となった。1926年ヒトラーはバルテルスを訪問し、1937年5月にはドイツ帝国の最高勲章であった「鷲の紋章」が授与され、80才の誕生日には最前衛の闘士のみに贈られる黄金紋章が授与されナチ党名誉会員になるが、入党はしなかった。 1924年1月、ドイツ経済の破壊なしに賠償支払いを円滑にするドーズ案が出され、8月に連合国とドイツは了承した。国際環境の好転によって12月総選挙ではナチ党も共産党も後退した。しかし、国内では右翼、左翼の準軍事組織の結成が相次いだ。1924年2月、社民党系の「黒赤金国旗団」が310万を擁し、夏には共産党系の赤色戦線闘士同盟が結成され10万の勢力となった。ナチ党の突撃隊、鉄兜団、ドイツ民主党系の青年ドイツ騎士団などが展開した。1924年4月のバイエルン州選挙、および5月の国会選挙で民族ブロックが第一党となった。 ミュンヘン一揆で収監されたヒトラーは支持者からのプレゼントや賛辞であふれ、来客も絶え間なく訪れ、法廷で演説すると歓声が沸いた。1924年4月の判決では禁錮5年と200金マルクの罰金にとどまり、警官の犠牲や社民党事務所の破壊、14兆6050億マルクの強奪などの責任は問われなかった。ヒトラーは獄中で『我が闘争』を執筆、1925年から1926年にかけて出版し「全能の造物主の精神において」「私はユダヤ人を防ぎ、主の御業のために戦う」と宣言した。ヒトラーによれば、寄生的存在であるユダヤ人は有害なバチルス菌のようにどこまでも広がっていき、定着した先で宿主の民族を消滅させる。ユダヤ人は平等と労働者の条件の改善を主張しているが、その目的はユダヤ人以外のすべての民族を奴隷にして絶滅させることにあり、黒髪のユダヤ人は若い娘を奪ったり、ライン川にニグロを連れてくるなどあらゆる手段を用いて混血による退化をもたらし白色人種を滅ぼそうとしている。人類のプロメテウスであり、輝く額から神々しい天才のひらめきによって文化を創造したアーリア人が絶滅すれば地上は深い闇につつまれ、人類の文化は消え失せ、世界は荒廃するだろうと述べた。またアーリア文化を「ギリシア精神とゲルマン的テクノロジー」の総合であるとし、ドイツ国民経済から株式取引所資本を排除することでドイツ経済はユダヤの国際支配に抵抗できるとした。830年頃にバイエルン方言で筆写された『ムースピリ』では、最後の審判の前にエリヤと反キリストが戦い、両者のたらす血によって世界が業火に包まれ破壊される様子が描かれるが、ヒトラーは『ムースピリ』や、ワーグナーの『神々の黄昏』といった黙示録的終末論を信奉していた。 1925年2月、禁止処分が解除されたためナチ党が再結成され、新規約では「ドイツ国民の最大の敵はユダヤ人とマルクス主義」とされた。2月27日の党集会は盛会となった。27年までナチは公の場での意見表明は禁じられたが、1926年7月のヴァイマル党大会では演説が許可され、親衛隊(SS)も初めて姿をあらわし、推定8000人の参加者は熱烈にヒトラーを歓迎した。 エーベルト大統領が死去したため行われた1925年の大統領選挙では与党ヴァイマル連合(社民党・中央党・民主党)は中央党のヴィルヘルム・マルクスを、一方、国家人民党ら右派は戦時英雄ヒンデンブルクを担ぎ、ヒンデンブルクが勝利した。ヒンデンブルクは穏健な統治をすすめ、右翼過激派から批判されるほどであった。ヒンデンブルクは1925年末ロカルノ条約を締結し、国際連盟への加盟を実現させ、これによりヨーロッパの国際政治は安定したが、ソ連はロカルノ体制を警戒した。 1927年、第四次マルクス内閣は失業保険制度など失業政策を実現させた。1927年3月、ナチスはバイエルンで演説禁止が解かれたが、聴衆の数は減少していき、勢力は伸びなかった。ドイツ経済も回復し、アメリカ文化が浸透するなか、1928年5月の国会選挙でナチ党の得票率はわずか2.6%にとどまり、社民党が第一党として躍進し、国家国民党も後退した。選挙で惨敗したナチ党は結束を強めた。 ゲッベルス1929年1月21日に党紙「攻撃」で「否定的なユダヤ人は、ドイツ民族の責任において消し去らなければならない」と主張した。 他方、ワイマール時代には国内のシオニズム運動も盛んになり、ヴァンダリング、青年スポーツ団体バルコフバ、シオニスト連合が結成され、東欧ユダヤ人のアメリカ、パレスチナ移住の援助を行った。これらはユダヤ人の国際的結託として右翼から憎悪された。ユダヤ人青年団体「青と白連盟」(1907設立)は1920年代に4万人以上の会員を持った。また、ユダヤ人はメディアでも活躍し、新聞のフランクフルト新聞、ベルリナー・ターゲブラット、フォシッシェ新聞、ウィーン日刊紙、ベルリン市民紙、南ドイツ日刊紙などは全てユダヤ人によるもので、雑誌のヴェルトビューネ、ファッケル、ノイエメルクァー、ノイエ・ルンドシャウもユダヤ人が編集主宰した。ドイツユダヤ人は世界のユダヤ人をリードし、シオニズムやパレスチナ、イスラエル建国でも主導的な役割を演じた。
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