ヴェルサイユ体制;莫大な賠償金と第三帝国への道とは? わかりやすく解説

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ヴェルサイユ体制;莫大な賠償金と第三帝国への道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)

反ユダヤ主義」の記事における「ヴェルサイユ体制;莫大な賠償金と第三帝国への道」の解説

パリ講和会議」、「ヴェルサイユ条約」、および「第一次世界大戦の賠償」を参照 1919年1月からのパリ講和会議調印されベルサイユ条約ドイツは、海外植民地普仏戦争得たアルザス=ロレーヌ等を失いラインラント非武装化され、ザール地方国際連盟管理下に置かれた。さらに賠償支払い課せられ、軍備厳しく制限された。これ以降1936年ナチス政権ラインラントを再武装化するまでをベルサイユ体制とよぶ。 1920年3月13日に軍の縮小ドイツ義勇軍解散反発したクーデターカップ一揆ベルリン発生し国家人民党ドイツ国民党、経済界新政府支持したベルリン制圧したエアハルト海兵旅団ユダヤ人へのポグロム始めようとしたが、指導者カップ制止した一揆参加したルター派牧師ゴットフリート・トラウプはユダヤ問題への暴力的な解決には反対したが、ユダヤ人物質主義批判した。しかし、社会民主党独立社会民主党共産党ドイツ労働総同盟カップ一揆対抗してゼネスト行い、また左翼復員ルール赤軍によるルール蜂起発生したため、カップ退陣した。ルール蜂起ヴァイマル軍によって鎮圧された。 1921年1月賠償交渉総額2260億マルクという莫大な賠償金課せられたため、ドイツ全土激し怒り満ちたドイツ政府修正要求したが、連合国拒否してライン地方占領し圧力をかけた。1921年5月ロンドン会議総額1320億マルクへと修正されドイツ拒否する場合ルール地方占領するという最後通牒通達した。中央党のフェーレンバッハ首相退陣し、中央党左派ヨーゼフ・ヴィルト首相となり、賠償支払い応じたが、右派批判した1921年10月連合国はオーバーシュレージエンの4分の1ポーランド帰属断定したが、そこは鉱工業集中していたためドイツ反発した1921年物価急激に上昇し食料品大戦末期の8倍、1922年には130倍となり、1923年にはハイパーインフレーションとなった1922年1月ヴィルト首相賠償支払い不可能を宣言した同年2月1日ユダヤ人ヴァルター・ラーテナウ外務大臣就任要請され周囲就任危険だ説得したが彼は承諾した4月ドイツロシアボルシェビキ政権国際的に初め承認する一方でロシア賠償放棄するというラパッロ条約締結すると、戦勝国側からドイツ保守層からも怒りを買い、ドイツ民族防衛同盟(シュッツ・トゥルッツ・ブント)はラーテナウを一番の祖国の敵だとした。6月24日ラーテナウ外相コンスル暗殺された。暗殺首謀者エルヴィン・ケルンは「ラーテナウの血は永久に隔てられあるべきものを、もはや和解不能なまでに隔てなければならない」と述べた暗殺翌日大学でのラーテナウ追悼集会は反対デモ中止となり、1922年9月ライプツィヒ大学での集会で、共和派ドイツ人忠誠心持たない決議された。 この他1922年にはドイツ国家人民党右翼分離してドイツ民族自由党結成したドイツ青年運動ワンダーフォーゲル運動の思想家ハンス・ブリューアーは、男性同性愛擁護してフェミニスト批判する反ユダヤ主義者であった。ブリューアーは『男性同盟原理としてのエロス役割』(1919)、『ドイツ帝国ユダヤ社会主義』(1920)を発表後、『ユダヤ人分離』(1922)で第一次世界大戦敗戦以来ドイツ人ユダヤ精神から軽蔑されていることを知っているため「背後の一突き」を作り話として否定しても無駄であり、たとえ10万人のユダヤ人祖国のために犠牲になったとしてもこうした事態変わらないし、ユダヤ人問題ドイツの政治問題核心となっていると論じた。ただし、ブリューアーはシオニストブーバーやランダウアーには敬意払っていた。1933年には宗教史学者ハンス・ヨアヒム・シュープスと『イスラエルを巡る闘争』を発表した。シュープスはドイツ革命でのホーエンツォレルン家追放ドイツ悲劇見たシュペングラーの「プロイセン主義社会主義」に影響受けていた。 1923年1月11日フランスとベルギー木材賠償支払い遅れているという理由ルール占領したドイツ国民社民党から国家人民党まで怒り広がり、反フランス国民統一戦線」が成立したヒトラー同日フランス占領され責任マルクス主義民主主義議会主義国際主義背後にいるユダヤ人にあると演説した3月31日にはフランス軍銃撃クルップ社13人の労働者死亡し41人が負傷したフランスとドイツ交渉膠着したことでルール地方事実上失ったドイツ石炭外国から輸入せざるをえなくなり、またルール地方企業支援のために通貨無制限に発行し5月には1ドル=15000マルク11月には1ドル=4兆2000マルク下落しハイパーインフレーション進行し貨幣マルクパピエルマルク紙くずマルク)と呼ばれたバイエルン・ミュンヘン一揆 1923年夏、バイエルン州政府は、中央政府ルールでの「消極的抵抗」を中止したことをドイツへの裏切りとして非常事態宣言し戒厳令敷かれ、フォン・カールを州総監任命して全権委任したシュトレーゼマン中央政府大統領緊急令で対抗したが、バイエルンバイエルン駐在軍を州軍として編成し、州司令官ロッソウをバイエルン軍司令官として任命しバイエルン独立国家様相呈した。ただし、カールナチ党抑えようしたためナチ党反発強めた。さらにライン地方中央政府からの分離運動開始し共産党コミンテルン中央政府ファシズムとして批判したコミンテルンドイツ共産党武装革命指示し共産党1923年10月23日ハンブルク武装蜂起し党員24人と警官17人が死亡ザクセンでは軍とデモ隊衝突23人の死者31人の負傷者出て鎮圧され各州共産党非合法化された。共産党による反乱に対してナチ党自分たちも行動しなければナチ党支持者共産党転向することを恐れたバイエルン首相カール警察長官ザイサー・バイエルン軍司令官ロッソウの三巨頭は、ナチ党ルーデンドルフ外してベルリンナショナリスト独裁政府樹立する計画持っていた。1923年11月初頭、ザイサーがベルリン陸軍最高司令官ゼークトクーデター計画交渉をするが、ゼークト拒絶した。これに対してナチ党ルーデンドルフ中心とした闘争連盟(Kampfbund)もベルリンへ進軍計画したヒトラーカール会合現れなかったためクーデター決心11月8日カール集会武装したナチ党乱入しヒトラー聴衆向かって、ロッソウは国防大臣、ザイサーは警察大臣カールは州摂政任命しベルリンユダヤ人政府」を標的とするミュンヘン新政府樹立する宣言したヒトラーは「今夜ドイツ革命がはじまる」と宣言し群衆賛同の声にどよめいた。しかし、バイエルン軍州警察一揆協力はせず、翌9日ヒトラーたちの行進に対して銃撃戦はじまり、一揆勢力14人、警官4人が死亡し、こうしてミュンヘン一揆一日鎮圧された。ナチ党禁止されたが、三巨頭翌年失脚したヴィルヘルム・マルクス内閣では授権法(全権委任法)が与えられ公務員40万人解雇するなど大幅な予算削減行った1920年代思潮 1923年にはアルフレート・ローゼンベルク『シオン賢者の議定書』翻訳し、『国家社会主義ドイツ労働者党本質原則および目的』も出版した1924年1月ローゼンベルクは「大ドイツ民族共同体」を創設したメラー・ファン・デン・ブルックドストエフスキー全集ドイツ語訳監修し敗戦後ドイツ人衝撃的な影響与えたドストエフスキー第三帝国論に影響受けて書かれ著書第三帝国』(1923年)でメラー・ファン・デン・ブルックは「ドイツ社会主義」による自由主義除去主張した。ファン・デン・ブルックはヴェルサイユ条約による講和は平和でなくドイツ奴隷化もたらしたとし、作家トーマス・マン同様の見方をしていた。ファン・デン・ブルックは、ドイツ押しつけられているイギリスフランス自由主義強者論理であり、自由主義における個人強調ドイツ伝統的な共同体崩壊させるし、また議会制政党政治国民意志反映できない批判しドイツロシアの「東方」の青年資本主義的唯物主義的な「西方」の青年とを対置してマルクス主義終焉後に出発するドイツ社会主義課題自由主義痕跡をすべて除去することにあるとした。メラー・ファン・デン・ブルックサークルには、ナチスオットー・シュトラッサー加入していた。 当時文学研究者だったヨーゼフ・ゲッベルスは、ドストエフスキー影響強く受けており、ゲッベルスによればドストエフスキーは「西欧対す憎悪彼の魂を焼き尽くしてしまうがゆえに書く」のであり「我々は彼の後についていく」とドストエフスキー弟子自認した。ゲッベルス劇作家ヴィルヘルム・フォン・シュッツに関する博士論文1921年)の扉に、ドストエフスキー小説悪霊』から、理知科学第二義的なものにすぎず、国民は「命令したり、主宰したりする力」によって生長しており「この力こそ最後果てまで行き着こうとする、渇望の力であって同時に最後果て否定する力だ」という文章引用していた。ゲッベルスユダヤ人教授フリードリヒ・グンドルフ尊敬しグループ加入しようとしたが断られた。また小説『ミヒャエル・フォーアマン』をユダヤ系出版社ウルシュタインやモッセ送った拒否された。ゲッベルス小説ミヒャエル』(1924-29)では「政治的奇跡ナショナルもののなかでしか起こらない」「民族奇跡頭脳のなかにあるものではなく、血のなかにある」と論じたり、キリストユダヤ商人を鞭で神殿から追い出すように「峻厳にして仮借ない」とした。1925年ナチス入党したゲッベルスヒトラーキリストみなした1919年ミュンヘン帰国したルーデンドルフは、ユダヤ人戦時中ドイツ裏切った戦争受益者であり、ドイツユダヤ民族によって売り渡されたと主張したルーデンドルフオーバーラント団、国旗団ナチ党1923年ミュンヘン一揆起こしたが、精神状態重度疲弊状態にあるとして無罪放免になったあと、1924年国家社会主義自由運動国会議員となったルーデンドルフの妻マティルデ神秘主義者であり、その影響ルーデンドルフ共産主義飾りたてたユダヤ人と、フリーメイソン秘教主義根ざすローマ・カトリックの「超=民族的な秘密権力」について述べるようになり、フリーメイソンによってキリスト教徒が「人工的なユダヤ人」に造り替えられているとして、週刊誌民族監視所』も創刊した。ルーデンドルフ1925年ドイツ大統領選挙出馬した得票数最低で落選し1926年には超国家的権力と戦うためにタンネンベルク団を結成し大統領となったヒンデンブルクヒトラードイツへの裏切り者とした。晩年ルーデンドルフユダヤ人キリスト教通じてドイツ民族破壊していると論じたり、ナチス立法ユダヤ人ローマプロパガンダ梃入れするものと批判した文学者アードルフ・バルテルスは、ドイツ文学史のなかでドイツ人ユダヤ人区別し第三帝国期にドイツ著作物「浄化」のための指導者みなされた。バルテルスは『ユダヤ人ドイツ文学』(1912) 『なぜわたしはユダヤ人闘うのか』 (1919) などでユダヤ化されドイツ文学救済する論じ主著ドイツ文学史』(1924-28年,3巻)はドイツ教養となった1926年ヒトラーはバルテルスを訪問し1937年5月にはドイツ帝国の最高勲であった紋章」が授与され80才の誕生日には最前衛の闘士のみに贈られる黄金紋章授与されナチ党名誉会員になるが、入党はしなかった。 1924年1月ドイツ経済破壊なしに賠償支払い円滑にするドーズ案出され8月連合国ドイツ了承した国際環境好転によって12月総選挙ではナチ党共産党後退した。しかし、国内では右翼左翼準軍事組織結成相次いだ1924年2月社民党系の「黒赤金国旗団」が310擁し、夏には共産党系の赤色戦線闘士同盟結成され10万勢力となったナチ党突撃隊鉄兜団ドイツ民主党系の青年ドイツ騎士団などが展開した1924年4月バイエルン州選挙、および5月国会選挙民族ブロック第一党となったミュンヘン一揆収監されヒトラー支持者からのプレゼント賛辞であふれ、来客絶え間なく訪れ法廷演説する歓声沸いた1924年4月判決では禁錮5年200金マルク罰金とどまり警官犠牲社民党事務所破壊146050マルク強奪などの責任問われなかった。ヒトラー獄中で『我が闘争』を執筆1925年から1926年にかけて出版し全能造物主精神において」「私はユダヤ人防ぎ、主の御業のために戦う」と宣言したヒトラーによれば寄生的存在であるユダヤ人有害なバチルス菌のようにどこまでも広がっていき、定着した先で宿主民族消滅させるユダヤ人は平等と労働者条件改善主張しているが、その目的ユダヤ人以外のすべての民族奴隷にして絶滅させることにあり、黒髪のユダヤ人は若い娘を奪ったり、ライン川ニグロ連れてくるなどあらゆる手段用いて混血による退化もたらし白色人種滅ぼそうとしている。人類プロメテウスであり、輝く額から神々しい天才ひらめきによって文化創造したアーリア人絶滅すれば地上深い闇つつまれ人類文化消え失せ世界荒廃するだろうと述べた。またアーリア文化を「ギリシア精神ゲルマンテクノロジー」の総合であるとし、ドイツ国民経済から株式取引所資本排除することでドイツ経済ユダヤ国際支配抵抗できるとした。830年頃にバイエルン方言筆写された『ムースピリ』では、最後の審判前にエリヤ反キリスト戦い両者のたらす血によって世界業火包まれ破壊される様子描かれるが、ヒトラーは『ムースピリ』や、ワーグナーの『神々の黄昏』といった黙示録的終末論信奉していた。 1925年2月禁止処分解除されたためナチ党再結成され、新規約では「ドイツ国民最大の敵はユダヤ人マルクス主義」とされた。2月27日の党集会盛会となった27年までナチ公の場での意見表明禁じられたが、1926年7月ヴァイマル党大会では演説許可され親衛隊(SS)も初めて姿をあらわし推定8000人の参加者熱烈にヒトラー歓迎したエーベルト大統領死去したため行われた1925年大統領選挙では与党ヴァイマル連合社民党中央党民主党)は中央党ヴィルヘルム・マルクスを、一方国家人民党右派戦時英雄ヒンデンブルク担ぎヒンデンブルク勝利したヒンデンブルク穏健な統治をすすめ、右翼過激派から批判されるほどであったヒンデンブルク1925年ロカルノ条約締結し国際連盟への加盟実現させ、これによりヨーロッパ国際政治安定したが、ソ連ロカルノ体制警戒した1927年第四次マルクス内閣失業保険制度など失業政策実現させた。1927年3月ナチスバイエルン演説禁止解かれたが、聴衆の数は減少していき、勢力伸びなかった。ドイツ経済回復しアメリカ文化浸透するなか、1928年5月国会選挙ナチ党得票率はわずか2.6%にとどまり社民党第一党として躍進し国家国民党後退した選挙惨敗したナチ党結束強めたゲッベルス1929年1月21日に党紙「攻撃」で「否定的なユダヤ人は、ドイツ民族責任において消し去らなければならない」と主張した他方ワイマール時代には国内シオニズム運動盛んになり、ヴァンダリング、青年スポーツ団体バルコフバ、シオニスト連合結成され東欧ユダヤ人アメリカパレスチナ移住援助行った。これらはユダヤ人国際的結託として右翼から憎悪された。ユダヤ人青年団体「青と白連盟」(1907設立)は1920年代に4万人上の会員持ったまた、ユダヤ人メディアで活躍し新聞フランクフルト新聞、ベルリナー・ターゲブラット、フォシッシェ新聞ウィーン日刊紙ベルリン市民紙、南ドイツ日刊紙などは全てユダヤ人よるもので、雑誌のヴェルトビューネ、ファッケル、ノイエメルクァー、ノイエ・ルンドシャウもユダヤ人編集主宰した。ドイツユダヤ人は世界ユダヤ人リードしシオニズムパレスチナイスラエル建国でも主導的な役割演じた

※この「ヴェルサイユ体制;莫大な賠償金と第三帝国への道」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
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