日本における檀君研究史
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1667年に徳川光圀の命で刊行された『東国通鑑』の和刻版の序文で林鵞峰は、檀君を朝鮮の祖としながらも、素戔烏尊を三韓の一祖として、日本と朝鮮を同一視する。これによって江戸時代には、檀君=素戔烏尊という主張が多くみられる。 落合直澄は、「五十猛神ト檀君トハ同神ニシテ素盞鳴神ノ御子ナル」と述べており、檀君を素盞嗚神の息子である五十猛神と主張している。1667年に刊行された和刻版『東国通鑑』に、林鵞峰が書いた序文「鴻荒の世に在りて、檀君、其の国を開く…我が国史を言えば、これ則ち韓郷の島新羅の国また是れ素戔烏尊の経歴する所なり。尊の雄偉、朴赫・朱蒙・温祚が企て及ぶ可きに非るときは、則ち推め三韓のこれ一祖と為せんもまた、誣しいたりとか為せざらんか」とあることから、落合直澄の「檀君=素盞鳴神の息子五十猛神」という主張は、林鵞峰の「素盞鳴神=三韓の一祖」から導き出したとみられる。落合直澄は、江戸時代の史書『日本春秋』において、朝鮮では「伊檀君曽(いたきそ)」が檀君を指し、檀君の別称が「新羅明神」「日韓神」としていることを根拠に、檀君を「太祈(たき)」と称し、五十猛神の別称が「伊太祈曽」「韓神曽保利」であることから、檀君と五十猛神は同一神であると主張した。 林泰輔は、「其説荒唐ニシテ、遽ニ信ズベカラズ…或人曰ク…五十猛神、一名ヲ韓神ト云ヒタレバ、事實大略符號セリ、亦牽強ニ近シ」と述べており、朝鮮に興った最初国家は箕子朝鮮であり、朝鮮の歴史は、朝鮮に亡命した箕子に始まり、衛満と漢四郡の中国人国家、続く新羅・高句麗・百済、高麗、李氏朝鮮と列記している。また朝鮮の政体が、帝や崩や陛下を使用しないことで中国に対して「王国ノ礼」をとり、年号も中国のものを踏襲しており、朝鮮は「真の独立国」とはいえないと指摘、檀君を「荒唐無稽な説」「にわかに信ずるべきではない」とし、落合直澄が主張する「五十猛神=檀君」を「道理に合わないことを無理にこじつけているのに近い」と否定した。 吉田東伍は、『日韓古史断』(1893年)において、「朝鮮の古史全く欠け、後人強説して錯乱最甚し」「韓史開国の最古を談し、檀君首に出て平壌に都邑す、是れ帝堯戊辰の歳なり…決して信すへからす…後世に至り其の草昧を談して之を神にしたるのみ」と記し、檀君を「決して信すへからす」と断じ、 「紀元前三世紀」にあたる「本邦記事」において、「二尊初めて国土を平定せらる」「天祖照臨せらる」「素戔嗚尊韓郷に行かせらる」「天日槍辰国より来帰す」と記している。 白鳥庫吉は、「(『魏書』)事蹟をして一層妄誕ならしめ爾も其の妄誕なる丈に還てその本色を露呈せる古記の存するをや。そは『三国遺事』巻一に載せたる檀君の伝説とす」「初の古記に仏説を付会して益々事実を妄誕ならしめたる者と解する人もあらん…深く此伝説の性質を考ふるに妖怪妄誕を極めたる『遺事』の記事が還てその本色を顕すものにて彼の省略に従へるは史家が事実を真しやかに書き伝へんが為めに故ざと怪しき部分を削除せし者なり。蓋し檀君の事蹟は元来仏説に根拠せる架空の仙譚なればなり」「朝鮮の古伝説の中にて、最も妄誕を極めたるは檀君の伝説とす。檀君の事は漢史に見えず、さるを『三国遺事』巻一には、『魏書』に乃往二千載、有檀君王倹、立都阿斯達、開国号朝鮮、與高同時。とある由を知るせるは如何にや」と述べている。白鳥庫吉は、仏教思想を詳細に分析し、 「檀君の事跡は元来仏説に根拠せる架空の仙譚」「檀君の事は全く仏説の牛頭旃檀に根底せる仮作譚なり」「檀君の伝説愈々仏説の仮作譚と定まる」「檀君の伝説は当時の思想を彰表する歴史上格好の記念物」「朝鮮の古伝説の中にて、最も妄誕を極めたるは檀君の伝説とす」と結論付けている。 那珂通世は、「三国史記ニ次ギタル朝鮮ノ古史ハ、三国遺事ナリ…書中ノ記事ハ、怪詭神異ノ談ノミ多ケレドモ、東国通鑑ニハ往々之ニ拠レル所アリ…朝鮮ノ世ニ至リテハ、吉昌君権近ノ東国史略、達城君徐居正等ノ東国通鑑某氏ノ東史宝鑑ノ類アレドモ、三国時代ノ事ハ、皆三国史記ヲ節錄シタルニ過ギザレバ、異聞ヲ広ムル所、殆ト無シ」「(『東国通鑑』)発端ニ記シタル檀君ノ伝記ノミハ、漢史ニ本ヅキタルニ非ズシテ、全ク朝鮮人ノ作リタル者ナリ」「(『三国遺事』)檀君ノ名ヲ王倹トシタルハ、平壤ノ旧名ナル王険ノ険ノ字ヲ人扁ニ易ヘタルナリ。此伝説ハ、仏法東流ノ後、僧徒ノ捏造ニ出デタル妄誕ニシテ、朝鮮ノ古伝ニ非ザル事ハ、一見シテ明カナリ…(『東国通鑑』)全ク僧徒ノ妄説ヲ歴史上ノ事実ト為シテ、之ヲ節録シ、唯其ノ在位ノ年数ハ、権近ノ東国史略ニ拠リテ、千四十八年トセリ。其ノ条下ニ史臣ノ案ヲ記シテ、『前輩以謂、其曰千四十八年者、乃檀氏伝世歴年之数、非檀君之寿也、此説有理』ト云ヒタレドモ、『載籍無徴』ト云ヘル時代ノ事ニシテ、証トスベキモアルニアラズ。且後世ノ僧徒ノ妄説ニ就キテ、強テ理解ヲ下サント欲スルハ、甚謂レナキ事ナリ」「檀君ノ伝記ノミハ漢史ニ本ヅキタルニ非ズシテ全ク朝鮮人ノ作リタル者ナリ」「此ノ伝説ハ、仏法東流ノ後、僧徒ノ捏造ニ出デタル妄誕ニシテ、朝鮮ノ古伝ニ非ザル事ハ、一見ニシテ明カナリ」として、檀君を批判した。 坪井九馬三は、「本書の記事に妄説多しとて朝鮮に於ても本邦に於てもとかく世の史家より擯斥せらるゝ例なれと本書の坊主臭きは誠に己を得さる事情に出るなり即本書の多く集めたる新羅の伝説は其実質に於て既に坊主臭く撰述者は無垢の坊主固より臭く撰述年代又無比の仏教熱に浮かされたる時にて其臭きこと言ふを待たす…新羅の文化は仏教の伝来に萌し智証王の世初梁始て有史時期に入り王の子法與王の時仏教弘揚に連れて文化興り法與王に続きて立ちたる姪真與王の六年に始て国史を修めしめ…然れとも仏教の紹隆に国家の勢力を糜して遂に邦家為に覆り後高麗続きて起りしも積弊の伏在する根抵を察するに能わす旧に依り『弘揚仏法以維持馴致邦家之怗泰』せんとせること実に忠宣王の言の如し之を以て新羅の古伝説は仏教伝説の換骨脱体となり新羅の文学は概ね僧徒の手に成り…新羅文学の大勢は大略上に述へたるか如し其技芸に於ても亦然るに似たりされは新羅古伝説は之を極言すれは猶ほこおるたあるのこときかこおるたあるのものたる奇臭を放ち汚穢太甚しく棄てんにも処なきに苦む始末なれと精しく之を分溜する時は貴重なる薬品有益なる燃料を得へし新羅古伝説も之に類し一読近き難きやに見ゆれと能く分溜せは純粋なる古伝を収めて新羅古代の人情風俗を察すへく以て新羅史の基礎を置く材料に充へからん然れとも余は未た新羅古伝説を分溜したるに非す唯理論としてかくいふのみ白鳥庫吉氏は曾て分溜に着手せられたることあり其檀君考、朝鮮古伝説考、朝鮮古代諸国名称考、朝鮮古代地名考、朝鮮古代王号考、朝鮮古代官名考等皆氏の分溜成蹟を報するものなり世の朝鮮古伝説分溜に志ある士は就て精読し給ふへし」と述べており、新羅古伝説にまとう坊主臭は、コールタールのようなものか、あるいはコールタールそのものの異臭を放ち、汚れが甚だしいが、貴重な薬品と有益な燃料を得て、分別蒸留をおこなえば純粋な古伝が抽出されるとする。 三浦周行は、檀君神話の成立過程において「民族自決」的意志が働いたと指摘しており、「朝鮮が北方支那の移民の間に発生した箕子伝説を採用して其事大心を表現させつゝも、尚ほその間自ら抑へ難き独立自尊心の閃きと共に、宗主国に対する軽き反抗心を起して之を満たさんが為に、こゝに檀君伝説の生れた経路を認めることが出来る。檀君を以て殊更に唐尭と同じ時代の神人とし、又自ら朝鮮と号したとする中にも見え透いた作為と包みきれぬ誇りとが窺はれる」と述べている。 高橋亨は、「檀君を以て或は帝釈の孫となし、或は朱蒙となし、或は夫婁の父となすは、何れも後世の添加せる粉飾にして、本伝説の原形は単に北朝鮮最初の君長に檀君なる者あり、妙香山に降りて神徳を以て民を治めたりと云ふに過ぎざるなり。果して然らば檀君は北朝鮮の伝説の祖王なれども、南朝鮮とは何らの関係なし。南朝鮮人は宜しく新羅の始祖赫居世を以て祖王となして崇拝し祠祭すべきものなり。檀君教に於て檀君を以て全朝鮮民族の始祖と立つるは、尚史上其証拠を発見する能はざる所に属するなり」と述べており、「伝説が益々発展するに従て益々小説的色彩に濃厚」となったのは、「後世の添加せる粉飾」であり、檀君を帝釈天の孫にするという発想は、仏教伝来後の脚色であって、檀君伝説が発生したと考えられている古朝鮮においてはありえないとする。 小田省吾は、「この伝説を読む時は、何人と雖も其の内容が仏教に関係のあるものであることは、直ちに知ることが出来るであらう…李栗谷は『檀君の首出文献稽うる無し』…李星湖は『その説、皆信ずべからず。其の桓雄桓因等、荒誕棄つるべし』…安鼎福は『按ずるに東方古記等の書言ふ所の檀君の事皆荒誕不経、…其の称する所の桓因帝釈は法華経に出づ。其の他称する所は皆是れ僧談』と謂ひ、…韓致大淵(朝鮮語版)…尹廷琦等、李朝の学者は各時代を通じて、其の仏説に依つて捏造せられた取るに足らざることを言はないものはない位である。内地の学者の中でも、那珂博士の如き、白鳥博士の如き大家が、いづれも皆仏説より出でたるもので、取るに足らざることを論ぜられて居る…今日猶ほこの伝説が朝鮮人間に比較的強き信仰を以て、知識階級の間にも唱導せられて居るのは何故であるか」「李朝が高麗人の民心を得る政策としても、高麗人の信じ来たる檀君を尊崇して棄てなかつたことは、これ亦然るべきこと存ずるのである。併しながら韓国併合の結果、内鮮一家をなしたる今日に於て此の檀君崇拝を如何に取扱ふべきかは更に一箇の別問題となるのであつて、之は行政方面とも関係のあることであるから本篇に於ては陳述を見合はすことゝする」「なほ朝鮮では、箕子・衛満朝鮮の前に、今から四千年前、即ち支那でいへば堯と同じ時代に、檀君といふ神人が、始めて半島に国を建てて朝鮮といひ、平壌に都したといふ伝説もある。これを檀君朝鮮と称する。この伝説は、今から六百五十年程前、高麗の僧一然の撰つた三国遺事に記録されてあるが、正史には見えて居らぬ」として、李氏朝鮮の儒学者である李栗谷、李星湖、安鼎福、韓致大淵(朝鮮語版)、尹廷琦による檀君否定を朝鮮社会における社会通念ととらえた。 稲葉岩吉は、「崔六堂君の近業に係る東亜日報所載の檀君論は、…わたくしの先年認めた檀君に関した一節もその引合に出されている。わたくしとしては、あの当時の考へを今も訂正する必要は感じてゐないけれども、何程か補足して置きたいと思ふ。(安鼎福が編纂した『三国遺事』)によれば、朱蒙即ち高句麗の始祖東明王は、檀君の子であるといふことになるのである。三国史記にも何にも見あたらない。…しかしこれは新羅系の全盛時代では受入れらるゝ性質の記事ではないと思ふ。新羅は、…凡て天降姓であつた。檀君の子孫であるとの説話を伝へてゐないのみならず、高句麗即ち扶余系とは、全く別種の選民だといふ信念がたかまつてゐるからである。…新羅系の天降姓と檀君説話を調和することは、かなり艱難でなければならぬが、それにもまして問題視すべきは、これまでの鮮内の巨室名門のすべては、その祖先を支那本部の名族に託してゐる。今の鮮姓中に一として漢姓以外のものを見出さぬのも、その思想の影響であらう。檀君説話は構成されても、民族のおのおのの族譜とこれらとの調和は、さらに至難といはざるを得ない。日本にては土姓と客姓との別ありしこと、鮮内と同一であつたが、土姓は客姓を従属たらしめた。朝鮮は、これに反してゐる。新羅ですら、支那古代の少昊金天氏説をかついでゐるではないか」「附庸伝説(箕子伝説)より解放されて、独立した民族信仰の中心伝説(檀君伝説)に驀進しつつある鮮人の今日は、慶賀すべきであるに違いないけれども、伝説は、どこまでも伝説であって歴史では無いということに、理解が無ければならない。伝説には、信仰が多半加味されているから、民族の将来を指示し、その生活を律するには、不足はないとしても、それだけでは、民族成立の由来をすら知ることが出来がたいのみならず、日本国家の一員であるという理解すら持つことが、不可能になる」「いかにしても、三国 - 高句麗・百済・新羅の各々が、特色づけていた開国物語を、檀君伝説の下に並べることは出来ない」「(朝鮮史編修会の)修史は当面の政治に都合のよい様に、曲筆さるゝに決つてゐやう。従来の日本学者の史筆を見るに、政権や国家のためといつたら、随分思ひきつて曲筆してゐるから、今回もお多分に漏れまい。つまり簡抜されて委員となつた人々は政権の爪牙となつて、朝鮮史の真相を抹殺するやうなものだ。現に鮮人間には、彼等が大切に護持してゐる壇君すら、為めに脅威を受けてゐると云つてゐるではないかと、斯いいふやうな非難を加へるものがある。…朝鮮人の常に護持してゐる壇君についての想像も、全く誤解であり、即断である。壇君崇拝は、輓近著しく発達し、殆んど全鮮の空気を圧してゐるのであるが、私の考へを申すと、檀君の史的価値は内外学者の研究に期待さるべき筈のもので、私ども修史に面した急務と云ふべきではない。私どもの立場からすれば、今日の鮮人が壇君を護持し、崇拝の度を加へてゐるといふことが、既に壇君史の一部を構成してゐる歴史であると思ふ。抹殺などは思ひもよらぬことである。たゞ壇君その人が鮮人の言の如く、唐堯虞舜の間、即ち今より四千二百年前に降生したといふ主張を、歴史が無条件にとり入れてよいか、どうかは、一に委員会の審議に待たざるを得ない」「朝鮮の青年党が、その伝来の附庸伝説であつた箕子崇拝から解放せられて、檀君崇拝てふ民族自決の伝説に進みつゝあることの消息は、容易に認め得べきものである。従来は、青年方面のみに限られてゐた傾向といつてもよいのであるが、今日となりては、檀君伝説は、全鮮の空気を圧してゐる。乃ち青年はいふに及ばず、老人党までも、敢て箕子伝説を云々するものが、薄らいで来たやうに感ぜられる」と述べている。 青柳南冥は、「素盞嗚尊は、…朝鮮王国を開いて、其子五十猛神の御代に、完全なる君主権を有する檀君と為られたのではあるまいか」「内鮮両民族の祖先は、曾て同一の地点に同一の生活を営み、且つ同一の信仰の下に噞喁して居つたことがわかる」「檀君は日本の天降神族と同族であつて、…日韓両地の生民が、同じく天降神族の神話を、朦朧ながら後世に伝説し得たるを悦ばざるを得ない。…現今朝鮮の人々が、檀君神を崇拝することは我祖先諸神の分家の神を崇拝するのであつて、日韓の併合玆に於てか、大に其の意味深宏なるを感ずるのである」とし、檀君と日本神話を同一視している。 黒板勝美は、「檀君・箕子は歴史的人物ではなく神話的のもので、思想的・信仰的に発展したのであるから思想信仰方面から別に研究すべきもの」と述べている。 今西龍は、「高麗の中頃に至り僧徒は本地垂迹説を立て、此仙人と仏菩薩との混一を計らんとせしことあり。此仙人の一つに平壌の守護神王倹仙人あり、平壌の古名王険の険の『阝』を改めて倹とし、人名の如くせり。高麗の中頃恐くば高宗王頃に此王倹仙人に檀君の尊号を奉り檀君王倹と称し、これを朝鮮開国の神人とし、帝釈の子桓雄が妙香山檀樹の下に降下して生みし子にして、朝鮮を開けりとす。思うに高麗が尊奉せし中華の宋は弱くして、高麗は其北狄視する遼・金が蹴起して皇と称し帝と号し、中原に命令し韃靼東真の起るを見たり。高麗自身に於ても其自己が古き文化と悠久なる歴史を有するを見るときは、此蛮夷より起りし大国に対し、多少の自負心なかるべからず。彼等は自国独特の開国の祖を欲するの情ありしなる可し。高麗を継承せりと自称するもの、高句麗は王倹の地たる平壌に都せり。王倹仙人は開国の神人たりとの伝説、恐くば陰陽道者流によりて構成せられしなる可し。其邪熱を醒す栴檀の尊号を有するは疫病除けの効もありし神なる可し。此檀君のことは三国遺事に載せられしを初めとす。…併し檀君伝は高麗の学者文士に少しも顧みられざりしが、李氏朝鮮に入りて此説を採るものあり。世宗の頃より其尊崇起り尹淮が之を書し、徐居正が東国通鑑外紀に収録せしより、此説は上古よりの伝説の如く見做さるゝに至れり。李氏時代となりて檀君の祭祀も国により行はるるに至れり。檀君は神人として、箕子は王者として尊崇せられしが、事大の精神盛なる時代に於ては、箕子は最も尊崇せられたりしも、近年に至りて朝鮮の自主的精神より檀君の崇拝行はれ、朝鮮人は朝鮮の宗教を奉ぜざるべからずとて、大倧教なるもの出でたり。…箕子伝説といひ檀君伝説といひ、其実は如上のものなり」「朝鮮民族は、曽て其民族の祖神を有せしも、其半島に入りて分裂するに及び、此祖神は各国の祖神となりしなるべし。その割拠して相闘争し、長年月を経るに従ひ各国は其祖神を自国の専有として他国の祖神よりも優秀なるものとし、漸次共通祖神たるの性質を失し、加ふるに半島の統一に先ち、外来宗教の勢力熾んなりしと。古伝の失はれざるに先ち記録することなかりしとの為めに、古代神話を失ひ其祖神をも失忘するに至れるものなるべし」「檀君の称号と現存の伝説とは王氏高麗の中期以後に作成せられたるものにして、其主体は古来の地祇なりとするも仏教・道教によりて構成せられしものなり。檀君の称号は道教的称号にして、平壌方面の地祇仙人王倹に附せられしものなり。檀君の系統を古くせんとする厚意を有して調査すれば、仙人王倹は或は楽浪・帯方の漢民族の祀れる神に統を引くものかとも思はれるけれども、然らずして半島の北辺に於て僅に祀を絶たざりし高句麗の解慕漱を祭れるものなるべし。もともと平壌地方に於ける一地祇にすぎずして、広く行はれしものにあらざれども、其縁起の構成が民族の自尊を感じたる時の思想に偶々的中せる為め、書籍にも記載さるゝに至り、其説やゝ行はれたがるが、李朝に至り開国の神人として官撰の史籍の巻首に記載さるゝに至り、其説は全半島に流布し、史的神人として動かすべからざる位置を得るに至れり。然りと雖、檀君は檀君として安置せられしにすぎず、其宗教的信仰が起りたるは現代にあることを論ぜしなり。而して特に注意すべきは檀君は本来、扶余・高句麗・満洲・蒙古等を包括する通古斯族中の扶余の神人にして、今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神に非ず。彼の父母の一を神とし、他の一を獣類とする伝説は族の神に非ず。彼の父母の一を神とし、他の一を獣類とする伝説は、仏教的装飾や道教的影響に依りては決して生ずるものに非ずして通古斯民族の祖神に特有なるのものなりとす。檀君の全身者たる仙人王倹を楽浪・帯方漢人の祀神に統を引くものに非ずして、高句麗人の祭りし解慕漱なるべしと推定するの外なきは実に此一点にあり。父母のいづれかを獣類とするは、日韓民族の神には見るべからざるものなり」「新羅王国は…其祖神を以て旧新羅人のみの祖神なりとし、之をして韓民族全体の祖神に還原することを知らず。加ふるに仏教の勢力多大にして、信仰上にも異変を生じ、新羅国の滅亡と共に其祖神もまた滅亡せり。韓民族に祖神あることは事実なり。…漢民族の祖神は、韓民族の遠き祖先が祖神となしたるものにあり。而して其名其徳の彷彿として窺ひ知るべきものに新羅の弗矩内あり、任那即ち加羅の夷毗訶あり。弗矩内は漢字訳して赫居世といふ『光を知らす』の義にして、新羅古代の王が奉祀せしものなり」と述べており、檀君神話の起源について歴史的観点から民族および地域の分析をおこない、「檀君は本来、扶余・高句麗・満洲・蒙古等を包括する通古斯族中の扶余の神人にして、今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神に非ず」と結論づけた。 末松保和は、「普通に箕子、衛満の二朝鮮を合して古朝鮮といふ。ところが、古朝鮮の中には、今一つ数へあげねばならぬものがある。王倹朝鮮これである。王倹は詳しくは壇君王倹といふから、壇君朝鮮とも呼ばれてゐる。箕子・衛満の朝鮮が支那古典籍にあらはれるものであるに対して、この王倹朝鮮は王氏高麗時代後期の文献に始めて見えるものであつて、前二者とは成立の過程を異にし、同日に談ずべきではなく、高麗人自身によつて構成されたものといふ点に意義がある。この古朝鮮=王倹朝鮮は、年代上では、支那の堯帝と時を同じくする王倹が開国したものであり王倹は御国一千五百年周の武王が箕子を朝鮮に封ずるに及んで退き隠れたとするから、箕子以前即ち最古の古朝鮮となるわけである」「古朝鮮の第一は檀君王倹朝鮮であり、第二は箕子朝鮮であり、第三は衛満朝鮮…その第一の檀君王倹朝鮮は、王氏高麗時代後期の文献に始めて見えるものであつて、文献上の古さは、到底箕子・衛満の両朝鮮と比較すべくもない…檀君朝鮮が、文献上かくも新しきものでありながら、なほかつ私が、古朝鮮の第一に掲げねばならなかつたのは何故であるかといふに、一には、それについて文献の語る年代そのものが、箕・衛二朝鮮の前に置かれてゐるからであり、二には、その伝へ(檀君朝鮮)の思想的規模が、半島開闢の伝説としては、最も広大だからである。かくの如き古さと規模とを有する開闢伝説は、いふまでもなく王氏高麗の『時代の所産』であつて、その後それに加ふるもの出来なかつたのは、かくの如き開闢伝説を不充分とするやうな大きな時代が来なかつたからに外ならぬ。またその前に、かくの如き伝説が生まれなかつたのは、かかる伝説を必要とする時代がなかつたからである。即ち王氏高麗時代に先行した新羅の一統時代には、三国の一たる古新羅の、開闢開国の伝説を奉じて満足し、また三国時代には、新羅をはじめ、高句麗・百済、それぞれに開闢伝説を持つて居たが、何れもかの箕・衛両朝鮮より古く時代を指示するものがなかつた。このことは重要な意義を持つてゐる」と指摘している。
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