日本における槍、日本の流派、有名な槍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 13:57 UTC 版)
「槍」の記事における「日本における槍、日本の流派、有名な槍」の解説
日本における槍の一般的な構造は、木製あるいは複合材の「打柄」の長い柄の先端に、先を尖らせて刃をつけた金属製の穂(ほ)を挿し込んだもの。穂や柄の形によって、素槍(すやり)、管槍(くだやり)、片鎌槍(かたかまやり)、鎌槍(かまやり)、十文字槍(じゅうもんじやり)、鉤槍(かぎやり)など様々な種類がある。特に刃長の長いものは「大身槍」と呼ばれ、概ね刀身が1尺(30cm)を超えるものを「大身槍」として分類している。 なお日本で(現代日本語の意味で)「槍」という言葉が使われた例は、絵画では『紙本著色拾遺古徳伝』(1323年 <元亨3年>)まで辿ることができる。 日本国内の歴史 日本では弥生時代より矛の使用が見られるが、槍の使用例はそれほど多くはない。その数少ない例として、宴会で酔った大海人皇子が槍を床に刺したという伝承がある。 弥生時代前・中期は弓と盾と鉄矛を主力とした時代である。弥生時代後期は弓と盾と鉄大刀を主力とする時代である。盾を持った散兵戦の場合、手矛より刀の方が有利なのは論を要さないためである。鉄大刀は中国より輸入した日本刀の前身である。 そして、古墳時代前期は両手で槍を使用し、密集隊形を組んだ。歩兵の装甲が強化されたため、両手での長柄兵器の使用が可能になった。中期には、槍から柄をやや短くした矛に主力武器が変わった。乱戦になった場合に振り回して斬るという便利さを考えてのことである。 古墳時代後期は、強化された装甲と再び盾と大刀が主力となった。 剣に長柄をつけた刺・斬両用の兵器を矛、穂先が細鋭で刺突専門のものを槍という説がある。 その後は矛は廃れ、平安時代末期からは薙刀のほうが普及する。しかし、戦国時代後半には薙刀よりも集団戦向きであるとして、槍が普及することとなる。 さまざまな俗説 矛と槍の違いについては諸説ある(詳細は矛の項目を参照のこと)が、前述の大海人皇子が使ったとされる槍も、矛が使われた時代であることから、詳細は不明だが矛とは構造的に異なるものであったと思われる。しかしながら、矛が廃れた後で登場した槍については、同じものを古代は矛、中世以降は槍と称したと解釈して問題ないように思われる。例えば「柄との接合部がソケット状になっているのが矛。茎(なかご)を差し込んで固定する方式が槍」という説があるが、実際には接合部がソケット状になっている袋槍が存在する。新井白石も槍について「"やり"というのは古の"ほこ"の制度で作り出されたものだろう。元弘・建武年間から世に広まったらしい」と著書で述べている。そして文中の記述において、"やり"には"也利"、″ほこ"には″槍"の字を充てている。 俗説では箱根・竹ノ下の戦いにおいて菊池武重が竹の先に短刀を縛り付けた兵器を発案したとされる(菊池槍)。菊池千本槍は、熊本県の菊池神社で見ることができる。後に進化し、長柄の穂と反対側の端には石突きが付けられるようになった。 また、別の俗説として、藤原行定『雑々拾遺』(元和3年(1617年))6巻10丁によれば、南朝の武将和田賢秀(楠木正季の子で、楠木正成の甥)が暦応年間(1338–1341年)に、短兵(短い武器)に対して有効な武器として、手鉾(てぼこ)を改良して発明し、のちに南朝総大将楠木正儀(正成の三男)が正平10年/文和4年(1355年)の京都奪回戦(神南の戦い)の時に使用しておびただしい戦果をあげたため、他の武家も真似をして広まったという。 しかし、この菊池槍が槍の始祖であるという説はデマの一種である。和田賢秀が始祖というのも後世の牽強附会に過ぎない。 実際の使用の歴史 実際には鎌倉時代中期以降には実戦で用いられていたとみられる。茨城県那珂市の常福寺蔵の国の重要文化財『紙本著色拾遺古徳伝』(奥書は元亨3年(1323年)11月12日)には片刃の刃物を柄に装着した槍を持つ雑兵が描かれている。 「槍」という漢字は日本でも古くから使用されたが、本来「槍」という漢字は「ほこ」と読まれた。「やり」という言葉の史料上の初見は、大光寺合戦に関する『南部文書』所載の元弘4年(1334年)1月10日に書かれた手負注文(負傷者リスト)である。この戦いは、建武政権の北畠顕家側についた曾我光高と、北条氏残党の安達高景側についた曾我道性の間で行われた。そして、「一人、矢木弥二郎以矢利被胸突、半死半生了、正月八日、」と、曾我光高の部下が「矢利」で胸を突かれて半死半生にあるというのが、現在知られている最も古い例である。なお、前記の楠木正儀は、正平7年/文和元年(1352年)に北畠顕家の弟の伊勢国司北畠顕能と共同して戦っているため(八幡の戦い)、顕家→顕能→正儀という経路で槍を有効に使う戦術が伝搬したと考えればそれほど不自然な話ではない。 南北朝時代までの槍はむしろ貧乏人の薙刀がわりとして使われ、それほど有効な武器ではなかった。14世紀以前は兵が密集隊形をとらず戦っていたためでもある。 その後、戦国時代後半には薙刀より盛んに用いられた。戦国時代の戦闘用の槍には大名以下の打物騎兵と徒士組が使う長さ272.7cm以下の入念な作りの「持槍」と、454.5cmから636.3cmの「数槍」と呼ばれる足軽用に量産されたものとが存在した、織田信長は8.2mもの長さの槍を戦場で歩兵に使わせていたという説もある。16世紀には、武将は戦でより効果的に槍を使えるようになった。16世紀中ごろには槍組足軽はおよそ5mの槍を使ったが、短い槍も用いられた。持槍と長柄槍は共に足軽槍でもあるが、持槍は訓練を積んだ槍足軽が使い、長柄槍は多くが農民上がりの本当の雑兵が使った。戦場においては、その長大さにより、刺突よりも集団を形成して敵の頭上より振り下ろして打撃を与え、倒れたところに脇差などでとどめを刺す、という戦法に用いられることも多かったとされる。また、合戦時に一番乗りで敵と槍を交えることを一番槍といった。 刀で鎧を貫くのは非常に困難だが、槍で突かれると貫通する場合がある。大身槍なら鎧を貫き、馬の足を薙ぎ払うこともできる。 また、この頃になると多くの素槍には蕪巻(かぶらまき)、血留玉(ちどめだま・ちだめだま・ちどめのたま)と呼ばれる2-3mmほどの太さの麻紐を太刀打や物打の下あたりにぐるぐると巻いて拳大の球状にし、ニカワで固めた鍔のようなものを設けた。これは、相手を仕留めた際の返り血で濡れて滑り、手だまりが悪くならないように考案された。この血留玉は返り血でニカワが溶け紐がほつれたり敵刃の斬撃で破損したりするので戦の度に換えられていた。また、つけたまま保存したとしても虫食いや湿度やカビのために維持が難しく、そのため、現存する槍の中で血留玉がついたままの物は極めて珍しい。
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