親政
親政(Personal Rule)
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「清教徒革命」の記事における「親政(Personal Rule)」の解説
チャールズ1世の治世当初はジェームズ1世からの寵臣バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズが政治を取り仕切っていたが、失敗の連続で議会の不満を買い、1628年にバッキンガム公が暗殺された後はチャールズ1世が親政を始めた。この親政時代(1629年 - 1640年)は"Eleven Years' Tyranny"(専制の11年間、または個人支配(英語版))とよばれる。 親政では倹約と教会の監督制強化、新規課税による財政再建が主な課題となった。財政再建においてはトン税・ポンド税・船舶税の徴収強化を図ったが、議会の承認を経ていない税ゆえに反発を招いた。チャールズ1世はジョン・ハムデンら反発した者を星室庁で裁き、投獄して耳そぎの刑に処した。教会の監督制強化の面では側近のカンタベリー大主教ウィリアム・ロードの進言でスコットランドへの祈祷書施行が行われたが、長老制(長老派教会)のスコットランド国民盟約(盟約派)の反発を招き主教戦争を起こした。戦争の結果、賠償金を支払うこととなり、資金が払底(ふってい)したチャールズ1世は再度議会を開かざるを得なかった。
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親政
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家康死後、家康のブレーンとして駿府政権を支えた内、本多正純・秋元泰朝・松平正綱、金地院崇伝・天海・林羅山のように江戸政権に合流する一方、親藩の付家老になったり、それまでの特権を失い一家臣や御用商人の立場に戻った者もいる。家康遺臣の一部を幕閣に合流させた秀忠は将軍親政を開始し、これまで江戸政権を支えた近臣である酒井忠世・土井利勝ら老中を幕府の中枢として、自らリーダーシップを発揮する。また駿府にいた家康旗本のため、江戸に駿河町が新たに整備された。 家康死去の同年元和2年にはキリシタン禁制に関連して、中国商船以外の外国船寄港を平戸・長崎に限定した。また子の国松(徳川忠長)を甲府藩主に任じた一方、家康が生前に勘当した弟・松平忠輝を、改めて改易・配流に処した。6月には軍役改定を布告し、親政開始に際して改めて自身の軍権を誇示した。 元和3年5月26日に秀忠は諸大名へ所領安堵の黒印・朱印状を与え、同年には寺社への所領安堵状を発している。またこの年に秀忠は諸勢を率いて上洛し、7月21日に参内する。この上洛で秀忠は畿内周辺の大名転封、朝鮮やポルトガル人との面談、畿内周辺の寺社への所領安堵を行い、それまで家康が行っていた朝廷・西国大名・寺社・外交交渉を自身が引き継ぐことを示した。翌元和4年には熊本藩家中の内紛である牛方馬方騒動を裁いた。 元和5年に秀忠は再び上洛して、伏見・京のみならず大坂・尼崎・大和郡山を巡っている。この間、およつ御寮人事件に関係した公家の配流、福島正則の改易、大坂の天領化と大坂城の修築と伏見城の破却、徳川頼宣の駿府から紀伊への転封を始めとした諸大名の大規模な移動を命じた。元和6年6月18日、娘の和子が中宮として後水尾天皇に入内する。9月6日、秀忠の2人の男児竹千代・国松は共に元服して、家光・忠長と名乗る。 元和8年1月には諸大名へ妻子を江戸に住まわすことを内々に、また大身家臣の人質も江戸に送ることを命じた。8月には最上騒動を受けて最上義俊を、また山形城受け取りに出向いた本多正純も10月に同地で改易を言い渡された。 また福井藩の松平忠直は、元和6年・8年に病を理由に参勤交代の中断や滞留を行っており、特に後者は江戸普請中の大名に越前出兵の噂が広がり、密かに出兵準備の指示を国元に命じるようになる。このような状況下で秀忠は元和9年2月に忠直へ隠居を迫り、忠直はこれに応じて隠居となり、弟の松平忠昌が家督を継承した。
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親政
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親政後の宣帝は「信賞必罰」(『漢書』宣帝紀の評言による)を基準とした法家主義的政治信条にのっとり、弘恭・石顕ら有能な法政通を官僚に起用し、政策に疎い儒者たちを政治の中枢から遠ざけた。減税や常平倉の設置、国民への爵位の授与、中央(中書を通じての皇帝への直接の上奏と尚書の権限の縮小)と地方(地方行政を県中心から郡中心へ移行)での行政改革、犯罪取締りのための刑罰の強化といった政策を行った。これらは民力を休養させつつ中央政府の権力強化を図る内政重視政策であり、その結果、武帝以降の国内の疲弊を緩和させることに成功した。とりわけ獄吏による刑務所内での虐待を禁止し不当に高額で民衆の生活を圧迫していた塩の値段(当時は政府の専売だった)を大幅に下げたことは、刑務所で育ったのち民間で暮らしていた宣帝ならではの施策と言える。 一方、外交面では烏孫と連携して西域に進出、匈奴を弱体化・分裂化させ、紀元前51年には匈奴の呼韓邪単于を降伏させるなど、一時期弱体化していた漢の国勢を復興させることに努めた。 これら内外政治における成果から、文武に功績があったとされ、班固の『漢書』宣帝紀において、前漢中興の祖という評価を受けている。 しかし、中書を通じての直接の上奏は、中書の任にあたった宦官の権力を強化させる原因になり、後の元帝のときには宦官と外戚が連携して政治に大きな影響を及ぼす一因となったことは否めない。 庶民生活が長く世情に通じている現実主義者だったため、理想主義・懐古主義である儒教を嫌い、儒教に傾倒する皇太子劉奭とは反りが合わず廃太子も考えた。儒者登用を進言した皇太子を一喝した言葉は古来名言とされており、『漢書』・『十八史略』などで広く日本社会にも流布している。 漢家おのずから制度あり。元々、覇王道を以ってこれを雑す。なんぞ純じて徳教(儒教)に任じ、周政をもってせんや。かつ、俗儒は時宜に達せず。好んで古を是となし今を非となす。人をして名・実を眩ませ、守るべきところを知らず。なんぞ委任するに足らんや。我家を乱すものは必ず太子ならん。 「漢王朝では昔から覇道[法家]・王道[儒家]のよいところを取捨選択している。儒教だけに価値を認め、儒教の理想である周の政治に戻すなどということがどうしてできよう。そのうえ、半可通の儒者どもは時局に合わせてものを考えず、常に「昔はよかった、今はよくない」などと言い、理想と現実の区別がつかず、政治に何が必要かもわからない。彼等に委任することなどできない。我王朝を衰退させる者は皇太子をおいて他にない」
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親政
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「イサベル2世 (スペイン女王)」の記事における「親政」の解説
イサベル2世は1843年から1868年まで親政をとったが、この間、軍や党派、近臣間の対立により幾度ものクーデターや陰謀が繰り返された。1846年から1854年まではモデラト党が支配したが、エスパルテーロとオドンネルが結んだ革命で進歩党政権に代わった。しかしエスパルテロはすぐにオドンネルと対立し、2年後の1856年にはオドンネルが首相となって、モデラト党、進歩党、カルリスタの連携を目指す自由連合を結成して中道政治を展開せんとした。その後は、自由連合とモデラト党が進歩党を締め出して交代で政権を担い、1868年の革命へと至る。特に1858年から1863年まではオドンネルの自由連合内閣が続いた。 この間、女王はしばしば気まぐれに政治に介入したため、彼女の人気は凋落の一途をたどった。反動的な将軍や政治家にも、教会や修道院にも好意を見せ、腐敗した廷臣や側近の言いなりだったため、女王の宮廷における評判も極めて低かった。その一方でまた、メキシコ帝国の再建に固執し、フランスと連合してマクシミリアーノの帝国を支持した(メキシコ出兵)。 その他、女王の治世の出来事としては、1859年のモロッコとの戦争でスペインに有利な条約とモロッコ領の一部を得たこと、ペルーおよびチリとの不毛なチンチャ諸島戦争(スペイン語版、英語版)、アメリカ合衆国との関係悪化(メキシコ問題やキューバ問題、アミスタッド号事件を巡る補償問題など)、鉄道などの公共事業の若干の進歩、流通経済におけるわずかな改善があげられる。
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親政
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その後、孝文帝による親政が開始された。基本的に馮太后の路線を引き継ぎ、中央集権と漢化を目指すものである。 まず、493年には平城から洛陽への遷都を強行した。この時に孝文帝は反対のあることを予期して、南朝斉への遠征であるとして洛陽に至った。そこで諸将から南征を諌められるが、それに従う代わりの交換条件と言う名目を持って遷都を実行した。 鮮卑の姓を漢風に改めるように決め、国姓を拓跋から元に改姓して、臣下たちに対しても半ば強制的に漢風の姓を与えた。他にも鮮卑語などの鮮卑の習俗の禁止・鮮卑的な官名の排除、鮮卑の漢化政策を推し進めた。 さらに漢人の名族の格付けを行い、同様に鮮卑族の貴族の中でも格付けを行った。この中で通婚を行って鮮卑と漢人の融和、鮮卑族の漢人社会における名族としての位置づけを行った。さらに九品官人法の部分的な導入により、南朝を模した北朝貴族制を成立させた。 499年、33歳で崩御した。北魏は孝文帝の時代が全盛期と評される。
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親政
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「ジェームズ1世 (イングランド王)」の記事における「親政」の解説
翌1583年6月、別の側近のアラン伯爵ジェイムズ・ステュアート(英語版)やパトリック・グレイ(英語版)らの支援でリヴァン城からの脱走に成功したジェームズ6世は、1584年にガウリ伯を処刑し、直接統治を行うこととした(アラン伯も1585年に政争に敗れジョン・メイトランド(英語版)やグレイがジェームズ6世の側近に収まる)。 親政に乗り出したジェームズ6世は、当面の懸案であった宗教問題に取り組むことにした。当時のスコットランドの宗教界は長老派の影響が強く、アンドリュー・メルヴィルらは「聖職者の任命は国王ではなく長老会議によるべき」と主張していた。ジェームズ6世は1584年5月に「暗黒法」(ブラック・アクト)を発布し、国王が最高権威者であり、司教制(監督制)を謳い、国王や議会に反対する説教を禁止した。これに対する信徒の反発は強く、1592年には「黄金法」(ゴールデン・アクト)により「集会」を認めることとした。さらに、1598年には「司教議員」を認め、教会(カーク)の推す3人の司教にスコットランド議会(英語版)議員同様の立法活動を許すこととした。 1586年、ジェームズ6世はイングランドとベリック条約(英語版)を結ぶ。極秘書類の記録ではあるが、エリザベス1世は自分を挑発しなければジェームズ6世のイングランド王位継承権を認めることを約束、年金も支給した。翌1587年に母がイングランドで処刑されるが、ジェームズ6世はイングランドには形式的な抗議だけで済ませ処刑を黙認、1588年にエリザベス1世に忠誠を誓った(後継者として有力でもあったため)。一方でイングランドと対立していたスペインにも接触、両国どちらが勝っても都合が良いように外交に気を配った(結果的にアルマダの海戦でイングランドが勝利)。またエリザベス1世の寵臣・エセックス伯ロバート・デヴァルーにも接触している。 1589年、カトリック教徒のハントリー伯爵ジョージ・ゴードン(英語版)にスペインと密約を交わした容疑が上がったが、寛大な処置で済ませた。同年、デンマーク=ノルウェーの王フレゼリク2世(フレデリク2世)の娘アンナ(アン)と結婚した。フレデリク2世はティコ・ブラーエを支援した国王で、当時は亡くなっていたが、ジェームズ6世はデンマークでブラーエと会っている。翌1590年、国王の乗船が嵐に巻き込まれて沈没寸前になる出来事が起きたが、これに関して国王に反対する勢力が雇った黒魔術師による国王暗殺計画があったとして、70名の女性が逮捕される魔女狩り騒動が起きている(ノース・ベリック魔女裁判(英語版))。国王自ら参加し、後に自身の著書『悪魔学(デモノロジー)』の冒頭にこの事件を記述している。この裁判は、デンマークで行われていたものをジェームズ6世が初めてスコットランドに持って来て行った裁判で、魔女に「国王はサタンが相手する世界最大の強敵」「かの人は神の人」と証言させることで、国王の神性を高めるための目的もあったという。また『悪魔学』を通して、この裁判からシェイクスピアが影響を受けて『マクベス』が書かれたともいわれる。 ジェームズ6世はみずから『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて王権神授説を唱えた。ここでいう「自由なる君主国」とは、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができるという意味である。さらに1599年には『バシリコン・ドーロン(英語版)(古代ギリシア語で「王からの贈り物」の意味)』を著述し、国王から長男ヘンリー・フレデリックに向けた手紙という形式で君主論を論じている。国王は政治の主題とするテーマに精通しているべきや、世界史・数学・軍事についての教養の必要性、スピーチは分かりやすい表現でなど、良き君主になるための自身の経験や教訓によって書かれている。この本はその後、ヘンリー・フレデリックの弟で次男チャールズ(後のチャールズ1世)にも読ませている。 また1596年、娘のエリザベスが生まれるが、この頃にはエリザベス1世後のイングランド王位継承を意識しており、敬意をこめて女王の名を取って娘に付けている(さらにその娘にもエリザベスの名が引き継がれ、この孫娘はデカルトの教え子になっている)。 1600年、処刑したガウリ伯の遺児である第3代ガウリ伯ジョン・リヴァン(英語版)とアレクサンダー・リヴァン(英語版)兄弟の屋敷を訪問、そこで監禁されたが家臣達に救出され、ガウリ伯兄弟はジェームズ6世と共に監禁された小姓に刺殺された。この事件については謎が多く、ガウリ伯に多額の借金を負っていたジェームズ6世が帳消しを狙った陰謀とも、政敵排除に一芝居打ったとも言われ真相ははっきりしていない。同年のクリスマスにイングランドのエセックス伯から送られた手紙でクーデターをけしかけられているが、彼が翌1601年に無謀な反乱を起こして処刑されると、政敵の国王秘書長官(英語版)ロバート・セシルを文通相手に切り替え、彼の助言でエリザベス1世亡き後のイングランド王位に希望を持ち、将来のイングランド統治に役立つ知識を得て文通を続けていった。
※この「親政」の解説は、「ジェームズ1世 (イングランド王)」の解説の一部です。
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