親政とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 >  親政の意味・解説 

しん‐せい【親政】

読み方:しんせい

天子がみずから政治を行うこと。また、その政治


親政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/16 06:55 UTC 版)

親政(しんせい)とは、君主天皇皇帝国王など)自身が政治を行うこと、またはその政治形態君主制の一形式)のことである。




「親政」の続きの解説一覧

親政(Personal Rule)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 04:21 UTC 版)

清教徒革命」の記事における「親政(Personal Rule)」の解説

チャールズ1世治世当初ジェームズ1世からの寵臣バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ政治取り仕切っていたが、失敗の連続議会の不満を買い、1628年バッキンガム公暗殺された後はチャールズ1世が親政を始めた。この親政時代1629年 - 1640年)は"Eleven Years' Tyranny"(専制11年間、または個人支配英語版))とよばれる。 親政では倹約教会監督制強化新規課税による財政再建主な課題となった財政再建においてはトン税ポンド税・船舶税の徴収強化図ったが、議会承認経ていない税ゆえに反発招いたチャールズ1世ジョン・ハムデン反発した者を星室庁裁き投獄し耳そぎの刑に処した教会監督制強化の面では側近カンタベリー大主教ウィリアム・ロード進言スコットランドへ祈祷書施行が行われたが、長老制長老派教会)のスコットランド国民盟約盟約派)の反発招き主教戦争起こした戦争の結果賠償金支払うこととなり、資金払底ふってい)したチャールズ1世再度議会を開かざるを得なかった。

※この「親政(Personal Rule)」の解説は、「清教徒革命」の解説の一部です。
「親政(Personal Rule)」を含む「清教徒革命」の記事については、「清教徒革命」の概要を参照ください。


親政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:09 UTC 版)

徳川秀忠」の記事における「親政」の解説

家康死後家康のブレーンとして駿府政権支えた内、本多正純秋元泰朝松平正綱金地院崇伝天海林羅山のように江戸政権合流する一方親藩付家老になったり、それまで特権失い一家臣や御用商人立場戻った者もいる。家康遺臣一部幕閣合流させた秀忠将軍親政を開始しこれまで江戸政権支えた近臣である酒井忠世土井利勝老中幕府中枢として、自らリーダーシップ発揮する。また駿府にいた家康旗本のため、江戸駿河町新たに整備された。 家康死去同年元和2年にはキリシタン禁制関連して中国商船以外の外国寄港平戸長崎限定した。また子の国松徳川忠長)を甲府藩主に任じた一方家康生前勘当した弟・松平忠輝を、改め改易・配流処した6月には軍役改定布告し、親政開始に際して改め自身の軍誇示した元和3年5月26日秀忠諸大名所領安堵黒印朱印状与え同年には寺社への所領安堵状発している。またこの年秀忠は諸勢を率いて上洛し、7月21日参内するこの上洛で秀忠畿内周辺大名転封朝鮮ポルトガル人との面談畿内周辺の寺社への所領安堵行いそれまで家康が行っていた朝廷西国大名寺社外交交渉自身引き継ぐことを示した。翌元和4年には熊本藩家中内紛である牛方馬方騒動を裁いた。 元和5年秀忠は再び上洛して、伏見・京のみならず大坂尼崎大和郡山巡っている。この間およつ御寮人事件関係した公家配流福島正則改易大坂天領化と大坂城修築伏見城破却徳川頼宣駿府から紀伊への転封始めとした諸大名大規模な移動命じた元和6年6月18日、娘の和子中宮として後水尾天皇入内する。9月6日秀忠2人男児竹千代国松は共に元服して家光忠長名乗る元和8年1月には諸大名妻子江戸に住まわすことを内々に、また大身家臣人質江戸に送ることを命じた8月には最上騒動受けて最上義俊を、また山形城受け取り出向いた本多正純10月同地改易言い渡された。 また福井藩松平忠直は、元和6年8年に病を理由参勤交代中断滞留行っており、特に後者江戸普請中大名越前出兵の噂が広がり密かに出兵準備指示国元命じるようになるこのような状況下で秀忠元和9年2月忠直隠居迫り忠直はこれに応じて隠居となり、弟の松平忠昌家督継承した

※この「親政」の解説は、「徳川秀忠」の解説の一部です。
「親政」を含む「徳川秀忠」の記事については、「徳川秀忠」の概要を参照ください。


親政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:29 UTC 版)

宣帝 (漢)」の記事における「親政」の解説

親政後の宣帝は「信賞必罰」(『漢書』宣帝紀の評言による)を基準とした法家主義的政治信条のっとり弘恭石顕有能な法政通を官僚起用し政策疎い儒者たちを政治中枢から遠ざけた減税常平倉設置国民への爵位授与中央中書通じて皇帝への直接の上奏と尚書権限の縮小)と地方地方行政を県中心から郡中心へ移行)での行政改革犯罪取締りのための刑罰強化といった政策行った。これらは民力休養させつつ中央政府権力強化を図る内政重視政策であり、その結果武帝以降国内疲弊緩和させることに成功したとりわけ獄吏による刑務所内での虐待禁止し不当に高額民衆の生活を圧迫していた塩の値段当時政府専売だった)を大幅に下げたことは、刑務所育ったのち民間暮らしていた宣帝ならではの施策と言える一方外交面では烏孫連携して西域進出匈奴弱体化分裂化させ、紀元前51年には匈奴呼韓邪単于降伏させるなど、一時期弱体化していた漢の国勢復興させることに努めた。 これら内外政治における成果から、文武功績があったとされ、班固『漢書』宣帝紀において、前漢中興の祖という評価受けている。 しかし、中書通じて直接の上奏は、中書の任にあたった宦官権力強化させる原因になり、後の元帝ときには宦官外戚連携して政治大きな影響を及ぼす一因となったことは否めない庶民生活が長く世情通じている現実主義者だったため、理想主義懐古主義である儒教を嫌い、儒教傾倒する皇太子劉奭とは反り合わず廃太子考えた儒者登用進言した皇太子一喝した言葉古来名言とされており、『漢書』・『十八史略』などで広く日本社会にも流布している。 漢家おのずから制度あり。元々、覇王道を以ってこれを雑す。なんぞ純じて徳教儒教)に任じ、周政をもってせんや。かつ、俗儒時宜達せず好んで古を是となし今を非となす。人をして名・実を眩ませ、守るべきところを知らず。なんぞ委任する足らんや。我家を乱すものは必ず太子ならん。 「漢王朝では昔から覇道[法家]・王道[儒家]のよいところ取捨選択している。儒教だけに価値認め儒教理想である周の政治に戻すなどということがどうしてできよう。そのうえ、半可通儒者どもは時局合わせてものを考えず、常に「昔はよかった今はよくない」などと言い理想と現実区別がつかず、政治何が必要かもわからない彼等委任することなどできない我王朝を衰退させる者は皇太子をおいて他にない」

※この「親政」の解説は、「宣帝 (漢)」の解説の一部です。
「親政」を含む「宣帝 (漢)」の記事については、「宣帝 (漢)」の概要を参照ください。


親政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 05:56 UTC 版)

イサベル2世 (スペイン女王)」の記事における「親政」の解説

イサベル2世1843年から1868年まで親政をとったが、この間、軍や党派近臣間の対立により幾度もクーデター陰謀繰り返された。1846年から1854年まではモデラト党が支配したが、エスパルテーロとオドンネルが結んだ革命進歩党政権に代わった。しかしエスパルテロはすぐにオドンネルと対立し2年後1856年にはオドンネルが首相となって、モデラト党、進歩党カルリスタ連携目指す自由連合結成して中道政治を展開せんとしたその後は、自由連合とモデラト党が進歩党締め出して交代政権担い1868年革命へと至る。特に1858年から1863年まではオドンネルの自由連合内閣続いたこの間女王はしばし気まぐれ政治介入したため、彼女の人気は凋落一途たどった反動的な将軍政治家にも、教会修道院にも好意見せ腐敗した廷臣側近言いなりだったため、女王宮廷における評判極めて低かった。その一方でまた、メキシコ帝国再建固執しフランス連合してマクシミリアーノ帝国支持したメキシコ出兵)。 その他、女王治世の出来事としては、1859年モロッコとの戦争スペイン有利な条約モロッコ領の一部得たこと、ペルーおよびチリとの不毛なチンチャ諸島戦争スペイン語版英語版)、アメリカ合衆国との関係悪化メキシコ問題キューバ問題アミスタッド号事件を巡る補償問題など)、鉄道などの公共事業若干進歩流通経済におけるわずかな改善あげられる

※この「親政」の解説は、「イサベル2世 (スペイン女王)」の解説の一部です。
「親政」を含む「イサベル2世 (スペイン女王)」の記事については、「イサベル2世 (スペイン女王)」の概要を参照ください。


親政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/10 05:00 UTC 版)

孝文帝」の記事における「親政」の解説

その後孝文帝による親政が開始された。基本的に馮太后路線引き継ぎ中央集権漢化目指すものである。 まず、493年には平城から洛陽へ遷都強行した。この時に孝文帝反対のあることを予期して南朝斉へ遠征であるとして洛陽至った。そこで諸将から南征諌められるが、それに従う代わり交換条件と言う名目持って遷都実行した鮮卑の姓を漢風に改めるように決め国姓拓跋から元に改姓して、臣下たちに対して半ば強制的に漢風の姓を与えた。他にも鮮卑語などの鮮卑習俗禁止鮮卑的な官名排除鮮卑漢化政策推し進めた。 さらに漢人名族格付け行い同様に鮮卑族貴族中でも格付け行ったこの中で通婚行って鮮卑漢人融和鮮卑族漢人社会における名族としての位置づけ行った。さらに九品官人法部分的な導入により、南朝模した北朝貴族制成立させた。 499年33歳崩御した。北魏孝文帝時代全盛期評される

※この「親政」の解説は、「孝文帝」の解説の一部です。
「親政」を含む「孝文帝」の記事については、「孝文帝」の概要を参照ください。


親政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 04:44 UTC 版)

ジェームズ1世 (イングランド王)」の記事における「親政」の解説

1583年6月別の側近アラン伯爵ジェイムズ・ステュアート英語版)やパトリック・グレイ(英語版)らの支援でリヴァン城からの脱走成功したジェームズ6世は、1584年ガウリ伯を処刑し直接統治を行うこととした(アラン伯1585年政争敗れジョン・メイトランド(英語版)やグレイジェームズ6世側近に収まる)。 親政に乗り出したジェームズ6世は、当面懸案であった宗教問題取り組むことにした。当時スコットランドの宗教界は長老派影響強くアンドリュー・メルヴィルらは「聖職者任命国王ではなく長老会議によるべき」と主張していた。ジェームズ6世1584年5月に「暗黒法」(ブラック・アクト)を発布し国王最高権威者であり、司教制(監督制)を謳い国王議会反対する説教禁止した。これに対す信徒反発強く1592年には「黄金法」(ゴールデン・アクト)により「集会」を認めこととした。さらに、1598年には「司教議員」を認め教会カーク)の推す3人の司教スコットランド議会英語版議員同様の立法活動を許すこととした。 1586年ジェームズ6世イングランドベリック条約英語版)を結ぶ。極秘書類記録ではあるが、エリザベス1世自分挑発なければジェームズ6世イングランド王継承認めることを約束年金支給した。翌1587年に母がイングランド処刑されるが、ジェームズ6世イングランドには形式的な抗議だけで済ませ処刑黙認1588年エリザベス1世忠誠誓った後継者として有力でもあったため)。一方でイングランド対立していたスペインにも接触両国どちらが勝って都合が良いように外交気を配った結果的にアルマダの海戦イングランド勝利)。またエリザベス1世寵臣エセックス伯ロバート・デヴァルーにも接触している。 1589年カトリック教徒ハントリー伯爵ジョージ・ゴードン英語版)にスペイン密約交わした容疑上がったが、寛大な処置済ませた同年デンマーク=ノルウェーの王フレゼリク2世フレデリク2世)の娘アンナアン)と結婚したフレデリク2世ティコ・ブラーエ支援した国王で、当時亡くなっていたが、ジェームズ6世デンマークブラーエ会っている。翌1590年国王乗船が嵐に巻き込まれ沈没寸前になる出来事起きたが、これに関して国王反対する勢力雇った黒魔術師による国王暗殺計画があったとして、70名の女性逮捕される魔女狩り騒動起きている(ノース・ベリック魔女裁判英語版))。国王自ら参加し、後に自身著書悪魔学デモノロジー)』の冒頭にこの事件記述している。この裁判は、デンマーク行われていたものジェームズ6世初めスコットランド持って来て行った裁判で、魔女に「国王サタン相手する世界最大強敵」「かの人は神の人」と証言させることで、国王神性高めるための目的もあったという。また『悪魔学』を通して、この裁判からシェイクスピア影響受けて『マクベス』書かれたともいわれるジェームズ6世はみずから『自由な君主国真の法』(1598年)という論文書いて王権神授説唱えたここでいう自由な君主国」とは、王は議会からの何の助言承認必要なく、自由に法律勅令制定することができるという意味である。さらに1599年には『バシリコン・ドーロン(英語版)(古代ギリシア語で「王からの贈り物の意味)』を著述し、国王から長男ヘンリー・フレデリック向けた手紙という形式君主論論じている。国王政治主題とするテーマ精通しているべきや、世界史数学軍事についての教養必要性スピーチ分かりやすい表現でなど、良き君主になるための自身経験教訓によって書かれている。この本はその後ヘンリー・フレデリックの弟で次男チャールズ(後のチャールズ1世)にも読ませている。 また1596年、娘のエリザベス生まれるが、この頃にはエリザベス1世後のイングランド王継承意識しており、敬意をこめて女王名を取ってに付けている(さらにその娘にもエリザベスの名が引き継がれ、この孫娘デカルト教え子になっている)。 1600年処刑したガウリ伯の遺児である第3ガウリ伯ジョン・リヴァン(英語版)とアレクサンダー・リヴァン(英語版兄弟屋敷訪問、そこで監禁されたが家臣達に救出されガウリ伯兄弟はジェームズ6世と共に監禁され小姓刺殺された。この事件については謎が多くガウリ伯に多額借金負っていたジェームズ6世帳消し狙った陰謀とも、政敵排除一芝居打ったとも言われ真相はっきりしていない。同年クリスマスイングランドエセックス伯から送られ手紙クーデターけしかけられているが、彼が翌1601年無謀な反乱起こして処刑されると、政敵国王秘書長官英語版ロバート・セシル文通相手切り替え彼の助言エリザベス1世亡き後イングランド王位に希望持ち将来イングランド統治に役立つ知識得て文通続けていった。

※この「親政」の解説は、「ジェームズ1世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「親政」を含む「ジェームズ1世 (イングランド王)」の記事については、「ジェームズ1世 (イングランド王)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「 親政」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「 親政」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「 親政」の関連用語

 親政のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



 親政のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの親政 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの清教徒革命 (改訂履歴)、徳川秀忠 (改訂履歴)、宣帝 (漢) (改訂履歴)、イサベル2世 (スペイン女王) (改訂履歴)、孝文帝 (改訂履歴)、ジェームズ1世 (イングランド王) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS