休筆以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 22:57 UTC 版)
1990年代に入ると、精神衰弱に加え急性虫垂炎や中心性網膜炎、不整脈、耳鳴りなどに次々と罹患、特に目は左目は不治、右目は視力が悪化する。多くは精神不安が原因であった。1990年の虫垂炎の手術後には、自分が血管の中を流れていく奇怪な夢を見る。同年には家族で山梨県の田野鉱泉、嵯峨塩鉱泉を訪れるが、このころより山に強く惹かれるようになる。 1991年、つげファンである竹中直人による『無能の人』を皮切りに石井輝男により、『ゲンセンカン主人』『ねじ式』と、代表作が続けて映画化がされ、それに併せて『ガロ』7月号「つげ義春特集号」で誌上インタビューやコメントなどを積極的に寄稿した。さらには若い頃や家族との旅行を綴ったエッセイ集『貧困旅行記』を発表したほか、権藤晋との対談集である『つげ義春漫画術』を刊行。自身の原作を用いた映画に家族全員でゲスト出演するなど、公の場での活動も目立っていた。1990年、長男が高校受験を控えていた当時に『無能の人』の映画化の話が持ち上がり、提示された原作料がちょうど私立高校の学費と同じぐらいだったので契約に同意したという。しかし映画化に伴う雑事や『貧困旅行記』、『つげ義春資料集成』、版画などの仕事をこなした上に団地の役員を1年間務め忙殺される。 1992年、4月頃より過労から不整脈が始まる。このため10年間続けていた水泳をやめる。精神安定のために1956年頃より好きだったクラシック音楽を聴き始める。主にルネサンス、バロック期の音楽が主体。デビュー当時の貸本単行本の復刻、『つげ義春とぼく』の文庫化、パルコのカレンダーなどを手がける。8月からは『つげ義春漫画術』のための対談を権藤晋と半年以上にわたり続ける。11月には『ゲンセンカン主人』(石井輝男)の映画化が始まり、12月に伊豆のロケに同行。同年のインタビューでは、1か月の生活費は17万円と決めていること、無駄な出費はしないよう昔から肝に銘じていること、団地のローンは月に2万円程度なので親子3人どうにか印税収入で暮らしていけていることを語っている。また、子供を見ると不憫でならず自分の子供を溺愛してしまうとも語っている。 1993年、『ゲンセンカン主人』映画化に伴う雑事、映画化記念版『ゲンセンカン主人』、『つげ義春漫画術』に加え『つげ義春全集』(筑摩書房)の刊行により多忙は続く。6月には転居に伴う家探しとトラブルが発生、心身消耗が著しく9月には腎盂炎を発症、1か月間の病臥に付す。12月には引っ越し準備中に腎臓の衰えが原因のぎっくり腰となり再び1か月間寝込む。1994年、調布市内の一軒家に転居、永年の夢であった田舎暮らしを断念。眼病、耳鳴り、不整脈、腰痛に加え、リウマチを発症し、再び休養することを宣言。このころ、藤澤清造『根津権現裏』復刻版の装丁を依頼されたが断った。 1995年、阪神淡路大震災、オウム真理教事件が発生、普段はテレビ、新聞など一切見ないつげが阪神淡路大震災には関心を持つ。息子が自動車運転免許を取得、25万円の中古車を購入、息子とともに多摩方面へのドライブをし気を紛らせる。 1996年1月、元『ガロ』編集長の長井勝一死去。同時期に母ますが倒れ、長井の葬儀に参列できず心残りとなる。母はその後認知症を発症。気性の激しさが一変、仏のように穏やかになる。 1997年、60歳。4月に妻がスキルス性胃癌を発病。東京医科大学病院にて手術するも全身に転移し不治を宣告される。自宅での療養に切り替え、つげが郵送されてきた薬剤を妻に朝夕2回点滴、家事、買い物に追われるが頼る者もなく孤立無援状態が続く。テレビ東京にて短編作品が12回放送される。石井輝男による『ねじ式』が公開されるが、協力する余裕もなし。 1998年、妻が世田谷区池尻の病院へ転院するが、そこは東京医大で見放されたがん患者の溜り場のようなところであった。入退院を繰り返すも肺に転移、手術する体力もなく抗がん剤の投与を続ける。息子の運転する車に助けられるも、2人きりの看病は厳しく絶望的になる。 1999年1月、母ますが死去。2月には妻・藤原マキが癌により死去。2年間の看病の疲れと虚脱感に襲われ、離人症になりかかる。6月には2階の部屋の窓付近に体長60cmほどの蛇が出現、窓の直下はごみ置き場となっており、ネコ、カラスなどが多く蛇にとっては危険な場所であり、命がけで2階まで上がってきたのは妻の霊が蛇に憑依したものと直感する。 2000年代に入っても作品の映画化は続いたが、つげは年齢的・身体的な要因からか沈黙を守る。一定の期間をおいて書籍の再刊、文庫化、全集の刊行などが続き、印税収入によって生活は支えられている。スーパーを順ぐりに自転車で回って、おかずを買う「主夫」生活は変わらず。「一か月の電話料が100〜200円しかかからない」という。 2000年、妻と2人で分担していた家庭運営を一人でこなさねばならなくなったことにより雑用に追われ忙しくなる。長年続けているファンレターへの返信も依然減ることなく、その内容も依頼、要望の類が多く、3日に1通の返信書きに追われ休む間もなくなる。青木正美によるインタビューが『日本古書通信』4月号と5月号に掲載される。「私は本来、マンガ家とか画家とか思われたくないんです。好きな画家も、強いて言えばレオナルド・ダビンチ、もしくはそれ以前の名のない絵の職人さんなんかなんです。私もやがては、ホームレスにでもなって消えてしまえたら、それこそ本望なんです」と発言。 2001年、体調不良が続き漢方薬に頼る。転居後に妻の癌をはじめ災いが多いのが何かの祟りではないかと心配になる。まんだらけの企画で水木プロで机を並べた池上遼一と久しぶりに会う。 2002年、『蒸発旅日記』(エッセイ)が山田勇男監督によって映画化される。夏にクランクインし、調布の撮影所へ見学に行く。嶋中書房よりコンビニ版「つげ義春自選集」刊行始まる。心身不調は続く。 2003年にマキの作品『私の絵日記』が文庫化された際に、巻末にロング・インタビュー「妻、藤原マキのこと」が収録され、夫婦の間の葛藤などを赤裸々に語る。アメリカのコミック研究誌『Comics Journal』上に『ねじ式』英訳版が登場。英訳版は『紅い花』(1984年)、『大場電気鍍金所』(1990年)(ともに『Raw』誌に掲載)に続き3度目。7月には山田勇男監督『蒸発旅日記』が公開される。毎日新聞のインタビューに答え、電話をひいていないと語る。『つげ義春の温泉』(カタログハウス)発売。講談社からは『つげ義春初期短編集』、『つげ義春初期傑作長編集』計8冊発売。つげ自身の言葉によれば「老後のために過去にこだわらず駄作ばかりを放出」する。近所の老乞食と親しくなり、一切の関係を断ち切った乞食こそ最高の生き方と感得する。 2004年、『無能の人』がフランスにて発売。日本在住のフレデリック・ボワレに懇願されたものだったが、つげ自身は海外に紹介されることに全く興味はないという。『リアリズムの宿』が、山下敦弘監督により映画化される。親友でつげ漫画の名脇役としてもたびたび登場したT君こと立石慎太郎が死去。ソニーから携帯電話での漫画配信を依頼されるがほとんど収入になるものではなかった。 2005年、海外よりの出版依頼が急増するが、交渉や手続きの煩わしさのためすべて断る。 2006年、虫歯ではない原因不明の歯痛が続く。9月頃より北冬書房ウェブサイトで古い旅の写真の掲載が始まる。漫画を描く際の資料として撮りだめていたもので、視力と気力の衰えから今後漫画を書くこともないとの判断から放出する。 2007年、70歳。夏に熱中症に罹る。体力・気力ともに益々衰え、人に会うのが億劫となり引きこもり状態となる。本人によれば、「老いて出しゃばるより隠居すること」が奥ゆかしく感じられるとのこと。 2009年〜2010年頃に、水木しげるに最後に会う。場所は地元の神社で、水木がいきなり「つまらんでしょ?」というので、つげも「つまらんです」と答えた。すると「やっぱり!」といわれる。あれだけの成功を収めても人生に思い残すことや物足りなさがあるのだと感じ、つげにとって印象に残る会話となる。 2013年 - 12月25日発売の『芸術新潮』2014年1月号(新潮社)紙上にて「大特集 デビュー60周年 つげ義春 マンガ表現の開拓者」が特集され、明治学院大学教授でもある山下裕二を聞き手とした4時間に及んだロングインタビューの内容が掲載された(とんぼの本『つげ義春 夢と旅の世界』にも再録)。創刊から60余年の『芸術新潮』がマンガ家を特集するのは、手塚治虫、水木しげる、大友克洋に続き4人目。 2014年 - 『東京人』7月号で川本三郎のインタビューに応じた。そこでは次のように述べた。食事は1日2回だが料理の本を何冊か買い込み、和食を中心に献立は野菜を多く摂取し、おかずも3-4品付ける。テレビは地デジ対応をしなかったので見ていないという。DVDは操作が覚えられずに、最後に息子と観た映画はタル・ベーラ監督の『ニーチェの馬』(2011年)で息子ともども感動する。 2015年2月 - 『水木しげる漫画大全集』第58巻「テレビくん他」に「大人物」と題する解説文を寄稿。その一節に「私は二十数年前に休筆し、そのまま引退してしまった」と記す。6月、『日本美術全集』(小学館)第19巻「拡張する戦後美術」に「ねじ式」の原画が収録される。同全集の刊行を記念する対談での山下裕二の発言によると、つげ義春の現在の収入は年間100万円程度であるという。対談相手の辻惟雄は「文化功労者にして年金をあげるべき」と提案している。12月1日、前日に93歳で急逝した水木しげるのラジオでの追悼番組に電話にて生出演。水木しげるとの神社の骨董市での最後の遭遇時のエピソードなどを語る。その数日後の、水木のお別れ会にも出席した。 2015年10月 - 同年3月に他界した辰巳ヨシヒロの追悼特集を『貸本マンガ史研究』(シナプス)25号が組み、つげは「五〇年におよぶ交友のなかで」と題する追悼文を寄稿。この中で「ところで唐突ですが『死』はそれですべてが終了するのではなく、魂=波動は残る。私も追っ付けそうなので、波動として共振し、再会できるのではないかと楽しみにしている」と発言。 2016年6月より福島県岩瀬郡天栄村湯本地区(岩瀬湯本温泉)でNPO法人「湯田組」が村の指定管理者となり、つげの資料館整備を始めたことが福島民報にて知らされた。湯本地区には2014年に福島県建築文化賞で特別部門賞を受賞している築140年の村農村交流施設(別称「智恵子邸」)があり、これを活用するもので、館内に新たにつげ義春展示コーナーを設けてつげ義春全集や当時の掲載誌などの資料を展示し、つげ作品の魅力を発信する拠点にするほか、ファン同士の交流の場にしたい意向で、同年6月開館された。同地で催されたつげ義春フォーラムで使用されたパネル類も展示され、つげのイラスト内の少女と写真が撮れる。和室の一部は無料休憩所「えんがわカフェ」として開放されている。 つげは昭和40年代に同村内の二岐温泉や岩瀬湯本温泉に足しげく通い、実在する湯小屋旅館をモデルにした漫画『二岐渓谷』や豪壮な茅葺屋根が建ち並ぶ当時の岩瀬湯元温泉の町並みなどをイラストに残している。なお、湯小屋旅館に関しては老朽化で取り壊す話が持ち上がったが、現行の姿のままに残してほしいとのつげファンの根強い声を受け、古い建物を直しながら別箇所に新しい旅館を建てることが検討されるなど、つげ義春ゆかりの地であることを利用した地域おこしが進んでいる。 2016年12月20日 - 世界最大級の品揃えの電子書籍販売サイト「eBookJapan」(イーブックイニシアティブジャパン)にて作品が初電子書籍化。発表年代順に収録したつげ作品集の4期に分けての配信が開始される。 2017年10月 - 『アックス』119号(青林工藝舎)で生誕80周年を記念したトリビュート特集が組まれる(本人は登場せず)。 2017年11月 - 月蝕歌劇団の本公演100本記念として『ねじ式・紅い花』が演劇として上演。『ねじ式』『紅い花』『女忍』『沼』『狂人屋敷の謎』が原作。 2017年 - 『つげ義春 夢と旅の世界』(新潮社) と一連の作品で第46回日本漫画家協会賞大賞受賞。つげ本人は贈賞式当日の朝早くに、誰にも告げず“蒸発”し、そのまま一週間ほど家に帰らなかった。つげは受賞に際して「感想は何もない」「一刻も早くこの世から消えたい」「今後も描くということは考えていない」「このまま終わってしまっていい」等と語る。 2018年 - ごく少数の例外を除いて長年拒否し続けてきた海外翻訳出版を「断るのが億劫になった」ことを理由に許可するようになり、韓国、スペイン、イタリア、スイス、アメリカ、フランスなどの出版社と契約する。 2018年2月 - 『スペクテイター』(エディトリアル・デパートメント)41号が、約230頁にわたり「つげ義春特集」を組む。浅川満寛と赤田祐一によるつげの新たなインタビューの他、藤本和也と足立守正による『ねじ式』の元ネタ写真の分析記事などが掲載された。その他『おばけ煙突』『退屈な部屋』『つげ義春日記』などが再掲される。つげはインタビューで「近況は、早くこの世からおさらばしたい。もうそれだけですよ」「ひたすら何からも全部逃げたい」「多少貧乏しても気楽に生きたい」等と発言。ただし「不安はもうないですか?」という問いには「そうですね」と答える。 2019年 - 日本のオルタナティヴ・コミックを多数出版しているフランスのコルネリウス社から仏訳版『つげ義春全集』が刊行。 2020年2月1日 - 欧州最大の漫画の祭典である第47回アングレーム国際漫画祭で特別栄誉賞を受賞。フランスで授賞式に臨み「漫画界のゴダール」と紹介される。また同地では本格的な原画展も初開催された。 2020年 - 3月25日発売の『芸術新潮』2020年4月号(新潮社)紙上にて「つげ義春、フランスを行く」が特集され、浅川満寛を聞き手とした特別栄誉賞受賞後初となる最新インタビューのほか、フランスでの撮り下ろし写真、浅川によるフランス同行記、息子つげ正助の談話などが掲載された。なお、つげは授賞式で何百人もの観客に笑顔で手を振ったことについて「ずうずうしくなったのかな」と発言。 2020年4月より講談社から『つげ義春大全』全22巻が刊行。2021年3月に完結した。刊行を渋るつげを説得し、企画を実現させたのは、息子でマネージャーの柘植正助であった。大全は、一部の貸本を覗いてほぼ発表年代順に作品を収め、雑誌掲載時のカラー原稿も最新デジタル技術で復元された。高野慎三の解説付き。2017年の講談社のオファー時には、つげは断るつもりだったが、正助が懸命に説得し実現した。古い原稿でセリフが剥落している部分は、正助が接着剤を使い貼り直すなどした。社会派作品『なぜ殺らなかった!』の原稿は行方不明となっていたが、原画を所有していたファンが企画を聞き寄贈した。 2022年2月22日、2022年3月1日付けで文部科学大臣が発令する予定の日本芸術院の新設分野「マンガ」の新会員として選出され、3月1日の会員辞令伝達式にスーツ姿で出席し「私は一介の漫画家でしかありませんから、教養も何もなくて…」などと挨拶をした。推薦理由は「人間存在の不条理や世界からの疎外を垣間見せる『文学的な』表現によって、自己表現としてマンガを捉える青年たちに絶大な影響を与えた」「美術と文学の世界からも高い評価を集め、その作品を読み解く試みを誘発してマンガ評論の発展にも影響を及ぼした」であった。
※この「休筆以降」の解説は、「つげ義春」の解説の一部です。
「休筆以降」を含む「つげ義春」の記事については、「つげ義春」の概要を参照ください。
- 休筆以降のページへのリンク