架橋とは? わかりやすく解説

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か‐きょう〔‐ケウ〕【架橋】

読み方:かきょう

[名](スル)

橋を架けること。また、その。「—工事

鎖状高分子分子間にたような結合をつくること。代表的な架橋としてゴム加硫知られるこの分子間結合架橋結合、架橋によってできる高分子を架橋高分子このような高分子構造を架橋構造という。橋かけ


【架橋】(かきょう)

読んで字の如く橋を架ける事。
軍隊において工兵自衛隊でいう施設科)の管轄である。

進攻ルート上に河があれば重要な戦略拠点となるが、防御側もそれは百も承知
当の戦力貼りつけ必死防衛し限界なら爆破して撤退する

そうなると、歩兵なら泳げ渡れるが、行動の自由が大幅に制限される上に狙撃の的になりやすいこともあって危険な状況陥る
また、水上走行できない車両重火器の類は運べない。
そこで架橋作業必要になり、専用車両機材架橋戦車等)で橋を架ける


架橋

作者古荘正朗

収載図書真夏ドライブ古荘正朗作品集
出版社而立書房
刊行年月1991.12


架橋

作者花田一三

収載図書八の弓、死鳥の矢
出版社角川書店
刊行年月1996.10
シリーズ名カドカワノベルズ

収載図書八の弓、死鳥の矢―戦塵外史 2
出版社ソフトバンククリエイティブ
刊行年月2007.2
シリーズ名GA文庫


架橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/05 12:18 UTC 版)

化学反応における架橋(かきょう, Cross-link, クロス・リンク)とは、主に高分子化学においてポリマー同士を連結し、物理的、化学的性質を変化させる反応のことである。




「架橋」の続きの解説一覧

架橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:11 UTC 版)

岡村島」の記事における「架橋」の解説

岡村島は、日本本土北海道本州四国九州沖縄本島)と繋がっている島の中では熊本県樋島下須島通詞島(ともに7)と並んで一番橋を渡る回数が多い。さらに、所属する市町村役場までの通過架橋を比較する17という桁違い数を誇る。 (岡村島)→岡村大橋→(中ノ島)→中の瀬戸大橋→(平羅島)→平羅橋→(大崎下島)→豊浜大橋→(豊島)→豊島大橋→(上蒲刈島)→蒲刈大橋→(下蒲刈島)→安芸灘大橋→(本州)→新尾道大橋→(向島)→因島大橋→(因島)→生口橋→(生口島)→多々羅大橋→(大三島)→大三島橋→(伯方島)→伯方橋→(見近島)→大島大橋→(大島)→来島海峡第一大橋→(アンカーブロック4A)→来島海峡第二大橋→(馬島)→来島海峡第三大橋→(四国) このほか、北接す広島県離島大崎上島への架橋(安芸灘諸島連絡架橋8号)、大下島などを経由してしまなみ海道沿線大三島架橋する構想関前諸島架橋構想)がある。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 04:55 UTC 版)

アメリカ橋」の記事における「架橋」の解説

1923年頃には、パナマ運河に船の通航関わらず渡ることのできる橋を架けることが優先事項として提案されていた。パナマ政府運河地帯統治していたアメリカ合衆国に対して橋の建設要請し続けていた。そして1955年、レモン・アイゼンハワー条約Remón-Eisenhower treaty)が結ばれ、ついにアメリカ合衆国によって建設されることになった。 2,000ドルにおよぶこの建設プロジェクト受注したのは、ジョン・F・ビーズリー・アンド・カンパニー(John F. Beasly & Companyであった1958年12月23日アメリカ合衆国パナマ大使ジュリアン・ハリングトン(Julian Harrington)とパナマ大統領アーネスト・デ・ラ・ガーディア・ナバロ(Ernesto de la Guardia Navarro)の出席のもとに起工式執り行われた。翌1959年10月12日着工完成には2年半の歳月要した着工からちょう3年後1962年10月12日、ついにアメリカ橋開通した開通式ではアメリカ合衆国陸軍空軍、およびパナマ国軍音楽隊による演奏の後スピーチが行われ、祈り音楽、そして両国国歌流れたリボン切ったのは元パナマ運河地帯総督で、ケンタッキー州選出の元連邦議会議員のモーリス・サッチャーであった。そして、参加者全員渡った開通式の模様はテレビ・ラジオを通じて全土伝えられた。開通式では大勢人出対応するため、厳重な雑踏警備が行われた。 開通式において、ジョージ・ベルGeorge W. Bell)はそのスピーチの中で「今日この日、我々はパン・アメリカン・ハイウェイ実現させる夢への新たな、そして明る第一歩踏み出した今日この日開通したこの真のアメリカ掛け橋Bridge of the Americas) — は、アメリカ合衆国パナマを結ぶハイウェイ最終ステージ完成導いた」と述べた

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 05:00 UTC 版)

本渡瀬戸」の記事における「架橋」の解説

船の通行両立させるために可動橋ループ橋けられてきた。 天草瀬戸大橋 - 本渡瀬戸歩道橋

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 15:47 UTC 版)

ゴッタルド峠」の記事における「架橋」の解説

近隣の村伝承によれば、ほぼ例年で峠を越えようとして溺れたりして遭難死した者は4月から5月掛けてピークとなっていたようである。そのような困難な環境での架橋のために悪魔の橋呼ばれるようになったがこの地に存在している。同じよう環境けられて同じく悪魔の橋呼ばれるようになった他の並んでアンティ・アールネによる民話集1191番に架橋の伝説収録されている。 ロイス川を渡るのがあまりに困難だったため、あるスイス牧夫悪魔橋を架けるように願った。すると悪魔現れて、願い引き受け代わりに最初に渡るものを生け贄差し出すようにと条件をつけた。彼はそれを受け容れたが、完成すると彼はヤギ先に渡らせて生け贄回避した。この詐欺行為怒った悪魔は岩をつかんで投げつけようとしたが、ある老婆十字架を岩に描いて悪魔が岩をつかむことができないようにした。 この伝説の岩は今も存在しており、1977年ゴッタルド道路トンネル建設のためにこの220トンの岩は30スイスフラン投じて127メートル移動させられている。 この架橋によりロイス川沿って北海へ注ぐライン川と、ティチーノ州からミラノの方へ流れて地中海に注ぐポー川分水嶺越えることができるようになった。ただし1775年馬車通れ改良され道路建設されるまで、徒歩駄獣のみが通行できるであった1799年にはフランス革命戦争参加していたロシアアレクサンドル・スヴォーロフ元帥がこの峠を通過している。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:39 UTC 版)

来島海峡」の記事における「架橋」の解説

来島海峡には、大島馬島間を来島海峡第1大橋、第2大橋馬島今治間を第3大橋が跨ぐ、3連箱桁形式吊橋来島海峡大橋けられている。この形式としては来島海峡大橋世界初である。西瀬戸自動車道として供用される本州四国連絡橋尾道今治ルート通称瀬戸内しまなみ海道)の一部構成している。第1~第3大橋合計すると4105 mの長さがある。 には自転車・歩行者道併設され海峡通過する船舶眺めながら徒歩であれば無料で渡ることができ、時折ウォークイベントも開催される自動二輪車有料)も通行可能であり、日常的に通勤所用利用する人も居る。 ではライトアップ行われており、主塔橋脚アンカレイジ反射光ケーブル直接光である。景観照明として設備設置は、観光資源となることを期待した周辺自治体要望によるところが大きい。副次的効果として、操船目標増えて夜間の航行容易になったとの指摘がある。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/27 08:24 UTC 版)

ザーヤンデルード川」の記事における「架橋」の解説

ザーヤンデルード川には、古い新し (pol) がいくつもかっている。最も古いのは、5世紀建造されシャフレスターン橋英語版)で、現在も歩行者用としてシャフレスターン (Sharestan) の利用されている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 14:50 UTC 版)

大畠瀬戸」の記事における「架橋」の解説

1976年大島大橋開通した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/04 02:31 UTC 版)

二環式化合物」の記事における「架橋」の解説

詳細は「架橋」を参照 架橋は、多環式化合物における2つ橋頭をつなぐ無分岐原子鎖または単原子共有結合である。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 23:27 UTC 版)

グンタイアリ」の記事における「架橋」の解説

そのままでは進めないような場所でも大量軍隊アリ集まって抱きつきあうことで即席梯子をつくり、強引に行軍することで知られるアリ世界中八千種いるというが、ここまでするのはグンタイアリ亜科サスライアリ亜科のみといわれる

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 16:26 UTC 版)

厚別川」の記事における「架橋」の解説

かつて、毎年氾濫する厚別川にはがなく、北通り(北野地区)と坂上平岡地区)の往来出来なかった。開拓者中には裸足で冬の冷水をわたり、凍傷かかって足を切断する者もいた。1896年明治29年)に厚別郵便局開業したが、対岸届けることが出来ず郵便物を石にくくりつけて投げて渡していた。最初にけられたのは柳瀬現在の東北通)だが、洪水流出した家屋橋桁当たって失われることもあった。現存するはいずれ再建されたものである

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 07:36 UTC 版)

沖縄県道110号線」の記事における「架橋」の解説

屋我地大橋開通前今帰仁村運天港から船で屋我地島渡っていた。1953年昭和28年)に初代屋我地大橋完成したが、1960年昭和35年)のチリ地震による大津波破壊された。その後すぐ2代目屋我地大橋建設し1963年昭和38年)に完成した。しかし本土復帰後年々進む道路整備幅員5.5mと小さく歩道もなく危険だったため、1990年平成2年)頃から3代目建設着手。そして1993年平成5年3月3代目現在の屋我地大橋完成した沖縄本島屋我地島の間の奥武島にも架橋されており、現在の橋1982年昭和57年)に完成している。 また屋我地島から1km以上離れた古宇利島にも2005年平成17年)に古宇利大橋開通し県道古宇利屋我地線)、さらに沖縄本島今帰仁村側にも2010年平成22年)にワルミ大橋開通した県道屋我地仲宗根線)。このためこれらの橋の建設あわせて道路改良がさらに進められている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 22:15 UTC 版)

本奥戸橋」の記事における「架橋」の解説

関東大震災の後の帝都復興事業対応する形で新たに決定した1927年昭和2年8月東京府都市計画中に補助線道路86号」(現在の都道60号市川四ツ木線一部)があり、本奥戸橋はこの新道路の一部当たっている。1932年昭和7年4月開通長122.1 m、幅員13.2 mの鋼橋で、西側が単純ポニートラス東側プレートガーダー橋という構造であった。名称は、その上流に1914年大正3年4月に架橋された「奥戸橋」が既に存在したため、これに対して名付けられたという。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 02:12 UTC 版)

相生橋」の記事における「架橋」の解説

Clip 1880年府県新設区ノ図広島』。 1878年明治11年7月、この付近富豪有志により、猿楽町現在の紙屋町)から中島町の北たもとの通称慈仙寺鼻」(本川元安川分岐中洲頂点部)を経由し鍛冶屋町現在の本川町)を結ぶ、"くの字型(V字型)"の木橋けられた。当時2つ相合う様から「相合橋」と名がついた。渡るときにその富豪金銭徴収したことから別名「銭取り」とも言われた。 当時広島一の繁華街であった中島町をこの繋いだ交通の要所として、西方向から当時広島城敷地内にあった広島鎮台(のち第5師団)や西練兵場を結ぶ重要なとなった市内水道普及していなかったこの当時慈仙寺鼻には"川会社"という河川水組み上げろ過上水として供給していた団体存在していた。 1894年明治27年)、民間から広島市移管され以降無料開放される。同年7月日清戦争始まり明治天皇広島行幸臨時大本営である広島大本営広島城内に設置されている。 この相合橋現在の相生橋改名した時期不明1899年明治32年広島県庁編『広島臨戦日誌』では「相合橋表記用いられていること、1913年大正2年吉田直次郎編『広島案内記』では「相生橋表記であることから、少なくとも1900年代初頭には現名が用いられている。また「東相生」「西相生」と東西別個表記されていた資料もある。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 15:03 UTC 版)

芸予諸島」の記事における「架橋」の解説

広島県側は県の積極的な架橋により、大崎上島を除く大型の島は離島指定解除されている。一方愛媛県しまなみ海道除けば架橋が進んでいない。上島町大下島などの離島存在するほか、岡村島四国ではなく本州接続されている。 小さな島密集していることから架橋が盛んな地域であり、本州四国をつなぐ瀬戸内しまなみ海道向島-因島-生口島-大三島-伯方島-見近島-大島-馬島を通る形で建設されている。また、下蒲刈島-上蒲刈島-豊島-大崎下島-平羅島-中ノ島(以上広島県)-岡村島愛媛県)までは、安芸灘諸島連絡架橋一部として愛称安芸灘とびしま海道連結している(全体構想としては大崎上島までのルート)。江田島倉橋島なども本州と繋がっている。 表 話 編 歴 本州四国連絡橋尾道今治ルート 橋梁新尾道大橋尾道大橋 - 因島大橋 - 生口橋 - 多々羅大橋 - 大三島橋 - 伯方・大島大橋伯方橋 - 大島大橋) - 来島海峡大橋来島海峡第一大橋 - 来島海峡第二大橋 - 来島海峡第三大橋通過する芸予諸島島々向島 - 因島 - 生口島 - 大三島 - 伯方島 - 見近島 - 大島 - (武志島) - 馬島 道路西瀬戸自動車道瀬戸内しまなみ海道) - 国道317号 - しまなみ海道サイクリングロード(広島県道466号向島因島瀬戸田自転車道線 - 愛媛県道325号今治大三島自転車道線) 表 話 編 歴 安芸灘諸島連絡架橋安芸灘とびしま海道橋梁安芸灘大橋 蒲刈大橋 豊島大橋 豊浜大橋 平羅橋 中の瀬戸大橋 岡村大橋未定通過する諸島下蒲刈島 上蒲刈島 豊島 大崎下島 平羅島 中ノ島 岡村島大崎上島道路広島県道74号下蒲刈川尻線安芸灘大橋有料道路蒲刈広域農道 広島県道356号豊浜蒲刈線 大崎下島広域農道安芸灘オレンジライン管理者広島県道路公社 広島県 広島県呉市 愛媛県今治市 関連道路西瀬戸自動車道しまなみ海道

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 07:12 UTC 版)

御幸橋 (広島市)」の記事における「架橋」の解説

1885年明治18年)、宇品築港事業にともない架橋された。140間(約255m)規模当時広島でもっとも長い木橋であったことから「長橋」(ながはし)と呼ばれ、「川口橋」という別称もあった。ちなみに自体1885年以前から存在し1885年は「架け替え」とする見解もある。この長橋の名はしばらく使われ少なくとも大正時代初期まで用いられたとする記録がある。 同年8月山陽道行幸中の明治天皇広島訪問し、この渡ったことから「御幸橋」と改称された。 なお明治天皇合計3度この渡っている。あと2回は1894年明治27年)、日清戦争勃発し広島城内に広島大本営設置された際に、大本営から宇品港出発し呉鎮守府行幸することになりその行き帰り道順としてこの渡っている。この時の行幸記念として御幸橋改称したとする資料もある。 御幸橋広島市中心部から宇品港へと向かう幹線道路上に位置しているため、日清戦争から第二次世界大戦に至るまで、隊列組んだ兵士軍人たち市中心部基町)の陸軍駐屯地から南下してこの渡り兵站基地たる宇品から海外戦場へ出征していった1911年明治44年)、再び木橋が行われている。この時点での長さ114間(約207m)、幅4間(約7.27m)で、未だ市内最長長さであった。この御幸橋は、1912年大正元年)の市電開通時軌道を通すことができず(1915年まで御幸橋西詰め電停現在の御幸橋電停)が終点)、対岸宇品方面路線延伸した際にはの西詰め電停でいったん乗客降ろし徒歩渡って東詰の電停で再び乗車させる方法取られた。1919年大正8年)、この北側上流側)に軌道専用竣工され、市電連結される

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 22:36 UTC 版)

猿猴橋」の記事における「架橋」の解説

中国国分によって山陰道山陽道それぞれ西部広大な領地有した安土桃山時代大名毛利輝元は、九州征伐終わった天正15年1587年以降西国政治的安定背景に、本拠地山間部立地する安芸国吉田郡山城広島県安芸高田市)より、水上交通適した太田川水系河口部位置する安芸広島広島県広島市)に遷した。新し居城となった広島城広島市中区)は天正19年1591年)に完成し、輝元は同年1月8日入城したいくつか小集落があったもののほとんど何もない海浜だった広島であったが、その際城下町整備された。 猿猴橋最初に木橋として架橋されたのはこの頃である。架橋年は、広島市公開する資料では天正17年1589年)頃あるいは天正19年京橋とほぼ同時期に完成としている。建設当時は「郎(えんろう)」の古語である「ゑんろう」「ヱンロウ」と名付けられた。

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