道路 道路の概要

道路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/08 07:42 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
フランスの田舎の街道。しばしば両脇に並木が植えられている。
ニューヨーク5番街の道路(2008年)

概要

英語のroadは道全般を指す言葉である。street は都市部の道路(街路)を意味する言葉として用いられるので、結果としてroadのほうは街と街を結ぶ道を指すことは多い。

「道路」の文字が初めて使用された記録は、紀元前1000年頃の古代中国王朝であるの時代の経典『周来』だといわれる[3]春秋時代の思想家である孔子の言行録『論語』や、三国時代の史書『魏志倭人伝』のなかにも使用例が見られ[注釈 1]、古くは漢語から始まった言葉である[3]。日本では、明治時代の文明開化期以降に一般に使用されるようになったとされるが、江戸時代の俳人で知られる松尾芭蕉の『おくのほそ道』の一節に、すでに「道路」という言葉の記載が見られる[3]

道路は、交通の要となる公物で[注釈 2]、誰でもいつでも通行することができる日常生活に不可欠なものであり、多くの人々が共同で使用するものである[5]。また、交通上の特徴としては、単に公共施設という物理的な概念にとどまらず、道路どうしが交わりネットワークを形成しており、多くの場合は目的地まで複数の経路を選択することができることにある[5]。つまり、道路は安全で円滑な交通路の確保と、交通ネットワークとしての機能が重要視されている[5]

歴史

「道」の起こり

人間や獣たちが、食物や餌を求めて探し歩いていくうちに草が踏み分けられて、自然にできた小道が道路の起源だと言われている[6]

狩猟採取を行っていた原始社会では動物の移動にともなってできるけもの道が狩猟民らによって利用される場合もあった。そして、もうひとつの原初的な道は「踏み分け道」である。人が生きていくために木の実を採ったり狩猟に出たり、あるいは魚を捕りに行ったりしながら、何度も同じところを行き交うことをくり返すうちに、地面は踏み固められて自然と草が減って土が出た筋状の「みち」になった[7]。人類が農耕を始めて集団で定住し、そうした集落間で物や情報の交換や婚姻などが行われるようになると人の往来が頻繁になり、初めは人ひとりがやっと通れた道が何人もが行き交うことで幅の広い道へと変わり、生活していく中から自然発生的に発展していった[7]

現在発見されているなかで「最古の道路整備跡」とされることのあるものには、イングランドにある Sweet Track土手道があり、紀元前3800年頃に遡る。

舗装路のはじまり

土の道は晴天時に特に不自由は無いが雨天になるとぬかるんで泥道になってしまい歩くことが困難になってしまう。それを防ぐために舗装が行われるようになった。

人の手による舗装の最古のものとしては紀元前4000年頃のものが発見されている。

古代のエジプト人は、ピラミッドの建設で、構築用資材となる大きな石塊を遠方より運搬するために、小石などを取り除いて石畳の道を整備してコロ用いて人力で運搬したと考えられている[6]バビロンでは、紀元前2000年頃までには舗装された道路があったという記録が残されている[6]古代の中国人は紀元前1100年代頃以降、大規模な街道を整えたが、その一部は石畳として整備した。紀元後20年までには、その距離を40,000キロメートル (km) にまで伸ばした。

インカの人々(インカ人)たちは伝令たちがアンデス山脈を伝っていけるようなインカの街道を張り巡らせた(→インカ道英語版)。マヤ人たちもヨーロッパによる新世界発見以前にメキシコで石畳の道路網を張り巡らせていた。

日本では三内丸山遺跡縄文時代 紀元前3500年 - 2000年)に幅12メートル、長さ420メートルの舗装された道路が発見されている[8]

古代国家による道路網の整備と発達

ギリシアのPorta Rosa。(3世紀頃に造られたもの)

古代文明が発達し、国家が誕生すると道は計画的に作られていくようになり、道路網の整備は時の権力の象徴にもなった[6]

中でもローマ帝国が建設したローマ街道は、最も大規模で組織的なものとしてよく知られ、その道路網の総延長は約29万 km、うち主要幹線は8万6000 kmにもおよんだ[9][10]。当時隆盛を極めた古代ローマ人は「世界のすべての道はローマに通ず! 」と豪語したと言われており[6]、道路の性格は軍事色、政治色が強いもので、ローマ市を中心とする広大な領域に、幅が数メートルほどある平坦な道路を放射状に敷き、都市間を最短距離で結ぶため直線的にひかれた[9]。中でも有名なのは、紀元前312年にアッピウス・クラウディウス・カエクスの命令で建設が始まったアッピア街道で、道路幅は15メートル、敷石舗装を施した本格的なものであった[9][10]

このほか地中海クレタ島マルタ島の残る古代道路は、紀元前2000年頃のものといわれ、またアケメネス朝ペルシア帝国王の道は、紀元前約500年頃のダレイオス1世の時代に、メソポタミアの首都スーサ(現イラン国内)から小アジアサルディス(現トルコ国内)へ至る約2500 kmにおよぶ帝国を縦貫する計画道路が造られた[9][11]

東アジアの古代中国においては、紀元前220年までに始皇帝によって馳道(ちどう)とよばれる大規模な道路網の建設が始められた。建設期間10年ほどの間に造られた馳道の総延長は、現代中国の公式記録とも言われる『中国公路史』によれば1万7920里(約7481 km、秦時代の1里は417.5 m)とされ、『漢書(かんじょ)』では「道幅は50歩(約70 m)、路側に3丈(約7 m)ごとに青松を植えた」とされる[12]。始皇帝は、馳道建設の終わり頃に直道(ちょくどう)という、首都咸陽(かんよう)から北へ延びる幅約30 m程度の直線的な軍事道路を造っている[12]。その目的は、北方からの匈奴侵略に備えるためのものであり、現在の中国では直道は「中国最初の高速道路」とよばれている[12]

また、物資を運ぶための交易路も古代より生まれていた。北ヨーロッパで産出された琥珀を地中海沿岸地域へ運ぶために生まれたヨーロッパ最古の道として知られる琥珀の道は、紀元前1900年頃から存在した[13][6]。始皇帝を倒して打ち立てられた中国の帝国の時代[注釈 3]からは、国家統一と経済産業の発展のため関所を廃止して道路建設が全国的に進められたことにより、中国の長安から中央アジアを横断して西南アジア、ヨーロッパを結ぶ絹の道(シルクロード)が登場する[14][15]。シルクロードは、貿易のための地上通路として最もよく知られ、紀元前130年前後の漢の時代から武帝が西域に派遣した張騫(ちょうけん)によって西域の商品や文化が東方へもたらされたことに始まり、7世紀頃のの時代になると中国特産の絹と、ヨーロッパから宝石と織物が運ばれた[14]。また、シルクロードは、東西文化の伝達路として大きな役割を果たし、東洋と西洋の双方異なる優れた互いの文化を吸収しながら発展していった[13]。中国の唐の時代では全国的な道路網が造られており、5里(約3 km)ごとに土堆(どたい、土で築かれた道標)が築かれ、駅路が整備された[16]。中国唐代の道路制度は、日本の道路にも影響を与えており、駅伝制度などは中国から駅制を導入したものである[16]

中世以後から産業革命期

雨天で泥状態になった道路。(ポーランド1914年

ヨーロッパでは、ローマ帝国衰退後から産業革命が起こるまで(紀元3世紀以後 - 18世紀初頭)の間は、道路整備は衰退し、ローマ街道として舗装に使われた石が、後世の農夫たちによって取り外されて、家畜小屋や家の建材として使用されるなど、次第に道は荒廃して行った[17]。17世紀のフランスでは、貴族や国王を乗せた馬車が、道路上の泥濘(ぬかるみ)にはまって横転する災難に遭遇した状況を銅版画で伝えており、同様の道路の惨状はヨーロッパ全土を覆った[17]

18世紀の産業革命期に入って、ようやく道路整備状況が改善される動きが見られるようになり、近代的な断面構造をもつ道路が誕生した。道路建設は路盤工事の後、栗石を敷きならした上に舗石を並べてランマーで突き固めた工事が行われ、アーチ構造の橋梁も建設されるようになるが、これらの工事手法や土木技術は古代ローマ街道とさほど変わらないものであった[18]

フランスではローマ帝国時代に整備された道路網を引き継いで、新たな道路の建設や維持、補修に注力した[19]。1747年、ルイ15世は道路、橋梁に関する王立土木学校をパリに開校して土木技術者の育成に力を入れた[19]。初代校長でもあったジャン・ルドルフ・ペロネ(1708 - 1794年)の監督の下で、近代的な馬車道が整備されるようになる。1764年には、トレサゲ(1716–1796年)が路床と路面が同じ断面歪曲率をもつ砕石舗装道路であるトレサゲ式道路工法を発明した[19]

一方、イギリスにおける道路建設とその整備は、16世紀に入ってから馬車交通が著しく発展し、18世紀の産業革命で馬車交通がさらに急増したため、馬車走行に堪えうる強固な道路が要求されるようになった[19]。イギリス地域の道路整備は教区単位で行われため、貧弱で多様な道路状況となった。1706年頃には、これを改良するために初の関所が作られ、通行する車両から料金を徴収した。イギリスでは時にはおよそ1100の料金所があり、3万8千 km強の道路が整備された。馬による移動の時代には、道路は砂利舗装道路上での最大斜度3%強での整備を目指していた。これは馬が坂道で荷を引き上げるのに平行に近いほうが最も都合が良かったためである。

同時期に、トーマス・テルフォード(1757 – 1834年)とジョン・ラウドン・マカダム(1756 – 1835年)という道路建築家が、それぞれ独自の工法を発明した。テルフォード式道路は平坦な路床の上に栗石敷設してその上に砕石と砂利を敷き詰めて転圧したもので1805年に発明され、マカダム式道路は路床の上に直接砕石を施設して上層部に細粒砕石を転圧したもので1815年に発明された[19]。特にマカダム式道路は、短い期間で施工可能で、技術的にも容易であったため広く普及し、近代式マカダム道路の原型にもなった[19]

産業革命期のヨーロッパの道路で、本格的な道路改築を行ったのはナポレオン・ボナパルト(1769 - 1821年)である。ナポレオンは、全ヨーロッパ支配を進める上で、戦争を有利に進めるための軍事的な輸送路確保を目的に道路建設を積極的に行い、フランスからイタリア遠征の経路上にあるアルプス越えのシンプロン峠の道路建設を部下に命じて行わせた[20]。100名以上の人命を失う難工事を乗り越えてゴンドー・トンネルが貫通し、1805年にシンプロン峠越えの道路は完成を見た[20]。その後、モン・スニ峠の道路建設も手掛け、さらに全ヨーロッパにその範囲は及んだ[20]。ナポレオンが道路建設のために支出した予算は、同時期の要塞建設予算の約2倍あったとされている[20]

ポンペイの道路

歴史的に、都市と都市を結ぶ道路(道:road)と違い、欧米の都市内部の道(街路:street)は廃物処理の場所でもあった。古代ローマ時代は道の真ん中に水を通し、排泄物などの汚物を流していた(ポンペイ遺跡など)。そのため、道の真ん中が両側の町家より数段低くなっていて両側を飛び石状の道渡しで渡る。また、馬車もこの水路の中を通行する。また地下下水道の無かった近世のパリではゴミや汚物を街路に捨てていたのは有名な話である。

近代

現代では、自動車などの車両で移動できるよう、道路はほとんどあらゆる箇所で整備が進んでいる。ほとんどの国で、道路輸送が最もよく使われる輸送手段となっている。また、交通安全渋滞の解消のために、ほとんどの先進国では、道路をレーンに区切って使用するようになっている。

車両と道路

道路は基本形はただの「ひとつの面」である。 道路には両方向から交通があるので、「すれ違い」が生じる。素朴な形態では、ルールは無いわけだが、それでは「にらみあい」や「衝突」が生じるので、自然と、道の右側を進むのか左側を進むのか、という習慣・ルールの類ができるようになる。

欧米では、基本的に右側を進むということになった。イギリスと日本では左側である。

同じ方向でも、歩行者、馬車などは区別したほうが良いということになる。馬車などは道の中央を走り、歩行者は道の端を歩くということになった。古代の道では、馬車用に意図的に「レール状」にくぼみを作ってある道もある。

歩行者用には高さの異なる面を用意する、ということも行われるようになった。

車両と人が同時に通行すると、悲惨な事故が起きる確率が増す。人と車両を分離すると、人も安心してリラックスして歩くことができ、自動車も安心して高速に運転することができる。 市街地の繁華街では車を一切入れず、道路をすべて歩行者専用としているところもある。逆に、自動車専用道路では、原則 自動車以外の走行を禁じることで、高速走行を可能にしている。

現代の日本の道路も、一定程度の幅がある場合は、自動車が通過するための車道と、歩行者が通行するための歩道とに区分されている。区分のしかたは様々で、柵で区切る方法もあり、高さを変える方法もある。

欧米では、現代、自転車に乗る人が多いので、道路は、自動車用、自転車用、歩行者用の3つに区分されることがかなり一般的になってきている。日本は対応がまだまだ遅れていて、そうした3区分は徐々に増やしつつある状態である。

自動車が普及するにつれ、無謀運転をする者がいることや、事故の被害者が出ることが次第に問題になり、速度制限が行われるようになった。道路標識が設置されるなど、法整備も進んだ。


注釈

  1. ^ 『魏志倭人伝』によれば当時の日本の様子について、「土地は険しく、樹木が生い茂り、細々とした道路が続いていた」といった旨の記述があり、「道路」の文字が使われていたとされる[4]
  2. ^ 私道など、一部の個人所有物を除く。
  3. ^ 漢は紀元前206年 - 220年の間にあった中国の王朝

出典

  1. ^ デジタル大辞泉
  2. ^ 広辞苑第六版「道路」
  3. ^ a b c 武部健一 2015, pp. 21–23.
  4. ^ 浅井建爾 2015, p. 12.
  5. ^ a b c 峯岸邦夫 2018, p. 12.
  6. ^ a b c d e f 峯岸邦夫 2018, p. 34.
  7. ^ a b 浅井建爾 2001, p. 76.
  8. ^ 特別史跡「三内丸山遺跡」三内丸山遺跡 道路?”. 三内丸山遺跡. 2016年7月5日閲覧。
  9. ^ a b c d 浅井建爾 2001, p. 78.
  10. ^ a b 武部健一 2015, p. 2.
  11. ^ 武部健一 2015, pp. 7–8.
  12. ^ a b c 武部健一 2015, pp. 5–6.
  13. ^ a b 浅井建爾 2001, pp. 80–81.
  14. ^ a b 武部健一 2015, pp. 8–9.
  15. ^ 峯岸邦夫 2018, p. 2018.
  16. ^ a b 武部健一 2015, pp. 14–15.
  17. ^ a b 武部健一 2015, p. 16.
  18. ^ 武部健一 2015, pp. 17–18.
  19. ^ a b c d e f 峯岸邦夫 2018, p. 36.
  20. ^ a b c d 武部健一 2015, pp. 18–19.
  21. ^ a b c d e f 峯岸邦夫 2018, pp. 18–19.
  22. ^ a b c d e 峯岸邦夫 2018, pp. 20–21.
  23. ^ a b c d 峯岸邦夫 2018, pp. 22–23.
  24. ^ 太閤下水(背割下水)が街路に面して建つ家屋の間を通っており、それが町名の区分となっている。
  25. ^ a b c d e 窪田陽一 2009, p. 18.
  26. ^ a b c d ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 217.
  27. ^ a b c d e f 窪田陽一 2009, p. 19.
  28. ^ 窪田陽一 2009, pp. 19-20.
  29. ^ 窪田陽一 2009, p. 20.
  30. ^ 窪田陽一 2009, p. 21.
  31. ^ a b 木村俊文「協働で守る農地・道路 - 長野県栄村 -」『農中総研 調査と情報』第4巻、株式会社農林中金総合研究所、2008年1月、 ISSN 1882-2460
  32. ^ “農家・地域住民等参加型の直営施工推進マニュアル” (プレスリリース), 農水省, (2005年8月), http://www.maff.go.jp/j/nousin/seko/top/t_rikai/t_chokuei/pdf/manual.pdf 
  33. ^ 「日本の未来が見える村 長野県下條村、出生率「2.04」の必然」 『日経ビジネス』 、2009年2月10日http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090209/185533/ 


「道路」の続きの解説一覧



道路と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「道路」の関連用語

道路のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング



道路のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの道路 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2020 Weblio RSS