日本国との平和条約 条約締結後

日本国との平和条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 13:00 UTC 版)

条約締結後

1951年(昭和26年)10月26日衆議院が締結を承認(講和は307対47、安保は289対71)。11月18日には参議院が締結を承認(講和は174対45、安保は147対76)、内閣が条約を批准した。11月19日、奈良において昭和天皇が批准書を認証。11月28日にはアメリカ合衆国政府に批准書が寄託された。

条約第23条第1項の[注釈 15]の規定により、アメリカ合衆国が批准書を寄託した1952年(昭和27年)4月28日 日本標準時で22時30分(アメリカ合衆国東部標準時で8時30分)に条約が発効した[31]

講和条約批准国以外との国際関係

日本国との平和条約、および(旧)日米安全保障条約の2条約の締結を以って日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰した。他方で、共産主義陣営のソ連と中華人民共和国、北朝鮮との間では軋轢が続いた。

日本は同平和条約締結後、インド、中華民国と個別に講和条約を締結した。ソ連との間は1956年に共同宣言に合意し国交回復したが、依然として現在まで講和条約は結ばれていない。中華人民共和国との間は1972年に共同宣言に合意し国交を結び、1978年に日中平和友好条約を締結し共同宣言の内容に国際法上の拘束力を与えた。

  • ユーゴスラビアとの間では1952年1月23日に書簡が交わされ、平和条約発効の日(1952年4月28日)をもって両国間の戦争状態が終了することが合意された[32]
  • 中華民国との間では、日本国との平和条約の発効日と同じ1952年4月28日日華平和条約を調印[33]
  • ビルマ連邦1952年4月30日に日本との戦争状態を終結する声明を出している[34]
  • 1952年(昭和27年)6月9日にインドは全ての賠償請求権を放棄するとともに日本は対印投資を約する日印平和条約が東京で締結された[22][35]2005年の演説でインドのマンモハン・シン首相は講和条約に関する日印関係を思い出されるべき重要なことと語った[35]
  • ルクセンブルクは、条約に署名したが批准せず1953年3月10日に公文の交換により国交を回復した[36]
  • コロンビアは、条約に署名したが批准せず1954年5月28日に公文の交換により国交を回復した[36]。なお、1957年7月22日付け官報第9172号付録資料版によるとコロンビアは1941年12月8日に日本との国交を断絶したが最後まで日本に宣戦を布告せず、戦争状態にはなかった。
  • 1956年10月19日、ソ連と日本は講和について合意を行い、日ソ共同宣言を発した。共同宣言が発効した同年12月12日より国交が正常化し、法的にも両国間の戦争状態が終了した。宣言の第9項では「引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島色丹島を引き渡す」と明記されたが、択捉島および国後島の返還をも求める日本との間で平和条約交渉は停滞しており、また、ロシアによるウクライナ侵攻に対する日本の制裁への対抗策としてロシア側が平和条約交渉の中断を発表したこともあって、北方領土問題は現在も未解決のままである。
  • インドネシアは条約に署名したが批准せず、1957年1月20日に署名された日本国とインドネシア共和国との間の平和条約において正式に講和することになった。同条約は1957年4月15日に発効している[37]
  • チェコスロバキアとの間では1957年2月13日に国交回復に関する議定書が締結され、戦争状態終結が合意された。この議定書は1957年5月8日に発効している[38]
  • ポーランドとの間では1957年2月8日に国交回復に関する協定が締結され、戦争状態終結が合意された。この協定は1957年5月18日に発効している[39]
  • 中華人民共和国との間では、1972年2月のニクソン大統領の中国訪問や国際連合でのアルバニア決議案可決を受けて、日本は1972年(昭和47年)9月29日日中共同声明に合意し国交を結んだ。この声明で日本は中華人民共和国を「中国を代表する唯一の政府」と承認したため、中華民国は日本との関係を断交した。
  • 条約発効直前の1952年1月18日、会議に招へいすらされなかった韓国政府は突如としてマッカーサー・ライン[注釈 16]に代わる李承晩ラインの宣言を行い、竹島韓国軍が侵略した。李承晩ラインの宣言に対し一方的だとして日米両政府は非難した。その後、険悪になった日韓両国は1965年(昭和40年)の日韓基本条約の締結において国交を結んだが、竹島問題は現在も日韓での外交問題となっている。

批准前の国交回復

  • チリは、1954年4月28日に批准しているが、それ以前の1952年10月17日に公文の交換により国交を回復した[40]
  • ボリビアは、条約署名から26年後の1977年8月11日に批准しているが、それ以前の1952年12月20日に公文の交換により国交を回復した[41]
  • イランは、1956年8月29日に批准しているが、それ以前の1953年11月に公文の交換により国交を回復した[42]

全面講和論のその後

他方、冷戦構造に対して中立をとろうとする全面講和論はその後も展開され、山川均らの非武装中立論は社会党の党是ともなり、その後の日本をめぐる安全保障および日米同盟に関する議論を形成していった[43]。なお条約の発効をもってレッドパージの一環として占領軍により発行を禁止されていたしんぶん赤旗が再刊された。

非武装中立論を批判する永井陽之助は長期的目標として非同盟=中立が正しいとしても米ソ中三国の緊張緩和のテンポを考慮するべきだと論じた[43]。このような議論は講和条約と同日に締結された旧日米安保条約を改定した日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約が1960年に締結される前後、安保条約に反対する政治運動として安保闘争が繰り広げられた。

また在日米軍の問題は、沖縄の在日米軍基地問題に関して今日の日米関係の重要な外交上の争点となっている。沖縄県では、条約が発効した1952年4月28日を、引き続き1972年までアメリカの占領統治下に置かれることになった「屈辱の日」とし[44][45]、2013年4月28日に日本政府主催の主権回復の日の記念式典について、沖縄から批判的な意見が出た。この問題には、昭和天皇が御用掛・寺崎英成を通じてGHQのウィリアム・ジョセフ・シーボルド宛てに伝達した、“天皇は租借条約によって沖縄が引き続き―最低でも100年―アメリカ占領下に置かれる事を希望している”旨の、いわゆる「沖縄メッセージ」も深く関係している[要出典]

全面講和論はその後も再評価されることがあり、2001年に朝日新聞紙上で坂本義和は当時、全面講和は1951年でなく朝鮮戦争やベトナム戦争の休戦協定時点であれば可能であったはずだと主張し、また、日米安保条約を「有事駐留」方式にすれば、ソ連が北方領土を認めた可能性もあるし、また沖縄への米軍基地集中も起こらなかったかもしれないと述べた[46]。これに対して伊藤祐子は、戦後の日本はアメリカによって単独占領されており、したがって占領下の日本が独自の外交権も持てずに実質的に制限されていたことを考慮すれば、日本がアメリカの対日政策と無関係にみずから行動を起こすことは不可能であったと考えるべきだと批判した[10]。また、全面講和が可能になる条件としては、アメリカの冷戦的思考と枠組みをソ連が受け入れるか、またアメリカが共産主義諸国を敵視しないことが必要であったが、それらはいずれも不可能であったため、全面講和は実現できなかっただろうと述べた[10]


注釈

  1. ^ 写真上から順に一万田尚登日本銀行総裁)、徳川宗敬(参議院緑風会)、星島二郎自由党)、苫米地義三国民民主党)、池田勇人蔵相)。一番手前側にいる背広の人物は不明(全権委員ではない)。
  2. ^ 第1条(b)
  3. ^ 日本語では「及び」と「並びに」の違いがわかりにくいが、英文では明解で“DONE at the city of San Francisco this eighth day of September 1951, in the English, French, and Spanish languages, all being equally authentic, and in the Japanese language”(太字編者)となっている。この太字の文言が「ひとしく正文である」にあたり、仮に日本語も正文だとするとこの部分は文章の最後に来ることになる。
  4. ^ アラビア語が国連公用語に加わるのは後になってからのことである。
  5. ^ 中国を代表する政府として中華人民共和国中華民国のいずれを招へいするか連合国内で意見が一致しなかったため、いずれも招へいされなかった。
  6. ^ これによればそれ以前に始まっていた日中戦争支那事変)は含まれない
  7. ^ アメリカはこれにより日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(現行)を締結して在日米軍を駐留させ現在に至る。「吉田・アチソン交換公文」で朝鮮国連軍も対象。
  8. ^ 独島と波浪島の位置について問われた韓国大使は「大体鬱陵島の近くで日本海にある小島である」と返答。(しかしその後の米調査では「ワシントンの総力を挙げた」("tried all resources in Washington")にも関わらず、これらの島を発見することはできなかった。その後、独島については竹島に同定されることになったが、波浪島は現在に至るまで発見されていない。)ダレス米大使はこれらの島が日本の併合前から韓国の領土であったかと尋ねたところ、韓国大使はこれを肯定、ダレスはもしそうであればこれらの島を日本の放棄領土とし韓国領とするに問題はないと答えた。
  9. ^ 訓読文では「学を曲げ世に阿る」、つまり「世間に迎合するため、学問的真理を曲げる」という意味
  10. ^ この時の池田訪米に秘書官として同行した宮澤喜一の述懐による。
  11. ^ なお「War Memorial」は「戦没者追悼記念」ではなく、正確には「第一次世界大戦従軍兵記念」を意味する。また日本語での一般的な表記は現地・日本ともに「サンフランシスコ・オペラハウス」「ウォーメモリアル・オペラハウス」または単に「オペラハウス」。
  12. ^ オーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国。
  13. ^ セイロンが批准書を寄託した旨の1952年5月10日付け外務省告示第14号は、セイロンが1952年4月28日のアメリカ合衆国東部標準時で13時30分に批准書を寄託した旨を告示するのみで発効日については言及していない。
  14. ^ 1989年に廃止・閉鎖。跡地はゴールデンゲート国立レクリエーション地域の一部になっている
  15. ^ この条約は、日本国を含めて、これに署名する国によつて批准されなければならない。この条約は、批准書が日本国により、且つ、主たる占領国としてのアメリカ合衆国を含めて、次の諸国、すなわちオーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国の過半数により寄託された時に、その時に批准しているすべての国に関して効力を生ずる。この条約は、その後これを批准する各国に関しては、その批准書の寄託の日に効力を生ずる。
  16. ^ サンフランシスコ講和条約ではマッカーサー・ラインも廃止される予定であった。

出典

  1. ^ 正文の項参照
  2. ^ 日本国との平和条約及び関係文書 (日本法令索引)
  3. ^ ブラウンリー 1992, p. 121
  4. ^ ブラウンリー 1992, p. 100
  5. ^ Wikisourceの竹島に関するサンフランシスコ平和条約草案の変遷(英語)参照。
  6. ^ United States Department of State (1976) (英語). Foreign relations of the United States, 1949. The Far East and Australasia (in two parts). Volume VII, Part 2. pp. pp. 898-900. http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=turn&entity=FRUS.FRUS1949v07p2.p0314&id=FRUS.FRUS1949v07p2&isize=M アメリカ合衆国国務省『合衆国の外交関係:1949年』―「極東とオーストララシア」、1976年)
  7. ^ 最大判昭和36年4月5日民集15巻4号657頁
  8. ^ 最大判昭和37年12月5日刑集16巻12号1661頁
  9. ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年
  10. ^ a b c d e 伊藤祐子「日米安保体制の50年-日米安全保障政策と日本の安全保障観の変容亜細亜大学国際関係紀要第11巻第1号,2001年
  11. ^ a b c d 『岩波書店と文藝春秋』(毎日新聞社1995年)p64-68
  12. ^ 1951年 サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約の調印(法学館憲法研究所)
  13. ^ a b 都留重人「講和と平和」『世界』1951年10月号
  14. ^ KOTOBANK全面講和愛国運動協議会世界大百科事典)、日立ソリューションズ
  15. ^ 『岩波書店と文藝春秋』(毎日新聞社1995年)p52-57.
  16. ^ a b c d クリック20世紀「吉田首相、南原東大総長の全面講和論を「曲学阿世」論と非難」 2013年1月27日閲覧。信夫清三郎『戦後日本政治史Ⅳ』勁草書房,p.1112
  17. ^ 文藝春秋』1952年1月号
  18. ^ 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年。ISBN 9784120043000 p86
  19. ^ 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年。ISBN 9784120043000 p100
  20. ^ 講和問題に関する吉田茂首相とダレス米大使会談,日本側記録」東大東洋文化研究所田中明彦研究室「サンフランシスコ平和会議関連資料集」所収。原資料は外務省、外交史料館所蔵。
  21. ^ 朝日新聞1951年8月17日
  22. ^ a b 中村麗衣「日印平和条約とインド外交」(PDF)『史論』第56号、東京女子大学学会史学研究室 / 東京女子大学史学研究室、2003年、pp.56-73、NAID 110007411152 
  23. ^ 「対日講和問題に関する周恩来中国外相の声明」 東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室「サンフランシスコ平和会議関連資料集」所収。外務省アジア局中国課監修「日中関係基本資料集」p19-25.
  24. ^ s:韓国政府の要求に対する1951年5月9日付米国側検討意見書, 4. 在日韓国人は連合国国民の地位を与えられるべき.
  25. ^ エモンズによる会談覚書、および竹島問題参照。
  26. ^ United States Department of State (1951). United States Department of State / Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts). VI, Part 1. pp. p. 1296. http://digital.library.wisc.edu/1711.dl/FRUS.FRUS1951v06p1 
  27. ^ 塚本孝「韓国の対日平和条約署名問題」『レファレンス』 494巻、国立国会図書館調査立法考査局、1992年3月、95-101頁。 
  28. ^ アメリカ占領下の日本 第4巻 アメリカン・デモクラシー企画・制作:ウォークプロモーション NPO法人科学映像館
  29. ^ 吉田茂参照
  30. ^ 外務省 外交史料 Q&A 昭和戦後期)。原稿は、外務省(1970年118~122ページ)、田中(刊日不明)で閲覧可。
  31. ^ 昭和27年4月28日付内閣告示第1号、昭和27年4月28日付外務省告示第10号
  32. ^ 〔備考〕外交関係の回復に関する書簡について - 外務省
  33. ^ 1952年(昭和27年)8月5日発効。
  34. ^ 日本国とビルマ連邦との間の平和条約 - 外務省
  35. ^ a b Dr. Manmohan Singh's banquet speech in honour of Japanese Prime Minister Archived 2005年12月12日, at the Wayback Machine. National Informatics Centre Contents Provided By Prime Minister's Office April 29, 2005
  36. ^ a b 1956年8月15日付け官報第8890号付録資料版、1972年3月8日付け官報第13561号付録資料版
  37. ^ 日本国とインドネシア共和国との間の平和条約 - 外務省
  38. ^ 日本国とチェッコスロヴァキア共和国との間の国交回復に関する議定書 - 外務省
  39. ^ 日本国とポーランド人民共和国との間の国交回復に関する協定 - 外務省
  40. ^ 1953年7月1日付け官報第7945号付録資料版
  41. ^ 1953年7月1日付け官報第7945号付録資料版、1972年3月8日付け官報第13561号付録資料版
  42. ^ 1956年8月15日付け官報第8890号付録資料版
  43. ^ a b 米原謙「日本型社会民主主義の思想――社会党左派理論の形成と展開」 大阪大学大学院国際公共政策研究科, 2002
  44. ^ “対日講和発効60年/人権蹂躙を繰り返すな 許されぬ米軍長期駐留”. 琉球新報. (2012年4月28日). http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-190560-storytopic-11.html 2012年11月25日閲覧。 
  45. ^ “沖縄の40年<屈辱の日>”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2012年5月1日). http://mytown.asahi.com/okinawa/news.php?k_id=48000111205010001 2012年11月25日閲覧。 
  46. ^ 「対日講和 50年の意味」『朝日新聞』2001年9月6日
  47. ^ 戦後50年メモリアルシリーズ 第1集郵便切手”. 日本郵趣協会. 2012年6月5日閲覧。
  48. ^ サンフランシスコ平和条約50周年記念郵便切手
  49. ^ “自民有志、「4月28日」主権回復記念日議連を設立 サンフランシスコ平和条約発効”. MSN産経ニュース(産経新聞). (2011年2月25日). https://web.archive.org/web/20110226115509/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110225/stt11022511520005-n1.htm 2011年3月6日閲覧。 
  50. ^ a b イリナ・イワノワ (2012年11月15日). “反日統一共同戦線を呼びかける中国” (日本語). ロシアの声. http://japanese.ruvr.ru/2012_11_15/94728921/ 2012年11月25日閲覧。 [1][リンク切れ]






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