中島敦 生涯

中島敦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 23:50 UTC 版)

生涯

生い立ち

1909年(明治42年)5月5日に、東京府東京市四谷区四谷箪笥町59番地(現・東京都新宿区四谷三栄町[19])で、父・中島田人たびとと、母・チヨの長男として生まれた[6][20]。この地は母の実家の岡崎家であった[21]

父・田人は、儒学者中島撫山(中島慶太郎)の六男で、漢学の教育を父兄から受けた影響により旧制中学校の漢学教員となり、敦が誕生した34歳当時は千葉県海上郡銚子町(現・銚子市)の中学校に勤務していた[22][6]。母・チヨは東京女子師範学校出身の元小学校教員で、前年1908年(明治41年)に2人は結婚した(婚姻届は1908年12月21日)[6][20]。チヨは頭脳明晰で才気あふれる女性であった[20]

しかしながら、チヨは家庭的でなかったともいわれ、敦が1歳前の生後9か月のときに両親は別居(事実上の離婚)となり(正式な離婚届は4年後の1914年2月18日)、2歳のときから父の郷里の埼玉県南埼玉郡久喜町大字久喜新(現・埼玉県久喜市)に引き取られ、祖母や伯母、従姉たちに育てられた[23][6][20]

祖父・中島撫山は敦が引き取られる2か月前に亡くなっていたものの、家には撫山や綽軒(異祖母の伯父)の遺した漢籍が多くあり、同じく漢学者の伯父の中島玉振や、同居していた中島斗南の存在を通し、敦もまた儒学や漢文の影響を受けた[22][24]節「家族・親族」も参照)。

5歳となる年に父が紺家カツと再婚したのに伴い、6歳になる1915年(大正4年)の3月から奈良県郡山町(現・大和郡山市)で父と継母と暮らすこととなった[25][6]。翌1916年(大正5年)4月から郡山男子尋常小学校に入学した敦は、小学校3年生の9歳のときに教師の父の転勤により、奈良県から静岡県の浜松西小学校へ、さらに5年生の11歳のときには、当時日本の植民地であった朝鮮京城府龍山公立尋常小学校へと転校をするなど、各地を転々とする幼少年時代を過ごした[6][26][20]

そうした子供時代の目まぐるしい環境の変化から、一般の人々が口にする「故郷」という懐かしみの感覚(愛郷心)が、敦にはよく分からなかった[27][6][28]。また、継母のカツは敦に厳しく、庭の木に縛りつけられて父に解いてもらったこともあるとされる[29][28]。敦はのちに友人に「自分をいじめる時、その母がヒステリーで滅茶苦茶になるのをみるのが辛かった。その人間喪失ぶりをみるのが、こたえた」と漏らしたこともあったという[28]

そうしたこともあってか、郡山小学校のころ無口だったという同級生の証言もあるが[30][28]、子供のころから当時珍しかった近眼の眼鏡をかけていた敦は国語・作文をはじめ成績が総じて良く、才気煥発な様子であった[31][32][28]。ただ浜松西小学校のころは身体が弱く、体操の時間は教室で休むことが多かったという[31][28]

中島君は体が弱く、私も足が悪いため、週二、三回あった体操の時間は、ほとんど教室の中で二人だけ、好き勝手なことをやっていました。(中略)とにかく中島君は神童そのもので、答えは明快、国語、作文は特によく出来たと思います。級長をしていたのではと考えますが、銀縁に眼鏡をかけ、カスリの着物を着ていたのが印象として残っています。 — 藤田敦男「浜松西小学時代の中島君」[31]

近眼になったのは、家にあった多くの漢籍などを読んでいたためで、強度の近視で読書を禁じられていたにもかかわらず、薄暗い物置でさらに隠れて読んで度が進んだと、友人に話していた[33]

また、小学校4年のころの担任教師から執拗に繰り返し聞かされた太陽系や地球絶滅の運命と存在の無意味さに、敦はショックを受けた[34][1][35][28]

地球が冷却するのや、人類が滅びるのは、まだしも我慢が出来た。所が、そのあとでは太陽までも消えて了うという。太陽も冷えて、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星共が廻っているだけになって了う。それを考えると彼は堪らなかった。それでは自分達は何のために生きているんだ。自分は死んでも地球や宇宙は此の儘に続くものとしてこそ安心して、人間の一人として死んで行ける。それが、今、先生の言うようでは、自分達の生れて来たことも、人間というものも、宇宙というものも、何の意味もないではないか。本当に、何のために自分は生れて来たんだ? それから暫く、彼は――十一歳の三造は、神経衰弱のようになって了った。 — 中島敦「狼疾記」[34]

爾来あらゆる生の虚無と形而上学的な不安が敦の内面に巣食うようになり、のちの中島文学の主題形成に影響を与えていくことになる[1][35]節「形而上学的な思索」も参照)。

朝鮮での少年時代

1922年(大正11年)3月に京城府龍山公立尋常小学校卒業後は、難関の公立京城中学校にトップで入学した[6][26][36][20]。父の再婚や転校、外地へ移転など様々な環境の激変化にもかかわらず、成績は常に優秀であった[20]。京城中学時代の同級生には、 のちに小説家となる湯浅克衛や、湯浅と回覧雑誌を始めていた小山政憲がいた[6][37]

敦は中学のころは湯浅や小山のような文学青年とはあまり付き合わず、普通の友人と様々なスポーツを楽しみ親しく交遊していたが、このころからすでに英文学の本などを鉄道図書館で借りて読んでおり[32]、家の蔵書の『徒然草』や『十八史略』を面白いからと家に遊びにきた友人にも勧めていた[33]。友人の記憶によれば、京城中学の校友会雑誌に敦の漢詩や作文、ボードレールの訳詩が載ったこともあるという[37][38][39]

また湯浅の回想によると、3年のとき湯浅が数学の授業中に急進的な総合雑誌『改造』を読んでいたときと、4年のとき寄宿舎の机の中の『痴人の愛』(谷崎潤一郎)が摘発されたときの2度、級長の敦が職員室で直談判して強く弁護し、湯浅の停学処分が免れたというエピソードもある[40][41][39]

小学校時代と同様に中学時代も、敦はきわめて優秀で開校以来の秀才といわれていた[42][43][44][20]。異母妹を背負って子守りをしながら中学1年ですでに四書五経を読破するなど多くの和漢書を読み、英語や数理学科の成績もよかった[43][37][39]。だが、いわゆるガリ勉タイプではなく、いつ試験勉強しているのか分らない様子で[43][32]、時には友達を誘い授業をサボって裏山に登り、城壁を越えて外の世界を散策していたという[32]。そんな敦は友人達から「トンさん」という愛称で呼ばれていた[38]

そうした学業の優秀さや活発さと並行し、小学4年のときから始まった世界の無意味さの感覚につながる「存在の不確かさ」という不安も多感な中学時代からつきまとうようになり、「字」という存在や自分の父親という1人の男の存在など、周囲の事物のその必然性・偶然性について思い巡らすことも多かった[34]

丁度、字というものは、ヘンだと思い始めると、――その字を一部分一部分に分解しながら、一体此の字はこれで正しいのかと考え出すと、次第にそれが怪しくなって来て、段々と、其の必然性が失われて行くと感じられるように、彼の周囲のものは気を付けて見れば見る程、不確かな存在に思われてならなかった。 — 中島敦「狼疾記」[34]

この京城中学時代の14歳のときに、最初の継母カツが異母妹を産んで数日後に死去したため、15歳のとき父は大阪出身の新たな継母・飯尾コウを迎えた(正式な入籍は翌年6月)[5][20]。こうして幼少年時代に2人の継母と暮らした敦だったが、父や継母たちとの折り合いは良くはなかった[45][46][47][20]

新しい継母を迎えたころ、敦は彼女や父に対して反抗的で父から殴打されたこともあった[45][24]。敦はなんでも理詰めで解釈し頑ななところがあった[45][24]。異母妹の澄子によると、「(兄は)会話をしていても相手が受け答えにもたもたしていると、すぐかんしゃくを起し、一度言ったことを二度言わせたり聞き返したりすると、ひどく怒った」という[24]

三造は彼を生んだ女を知らなかった。第一の継母は、彼の小学校の終り頃に、生れたばかりの女の児を残して死んだ。十七になったその年の春、第二の継母が彼のところに来た。はじめ三造はその女に対して、妙な不安と物珍しさとを感じていた。が、やがて、その女の大阪弁を、また、若く作っているために、なおさら目立つ、その容貌の醜くさを烈しく憎みはじめた。そして、彼の父が、彼なぞにはついぞ見せたこともない笑顔をその新しい母に向って見せることのために、彼は同じく、その父をも蔑み憎んだ。 — 中島敦「プウルの傍で」[45]

父や継母との距離感で孤独にさいなまれていた敦の心を癒すものは、飼い猫だけだった[45][46]。生母のいない淋しさから敦はその黒猫をとても可愛がり寝るときもいつも抱いていたので、猫の方も犬のように懐いて敦が京城中学から戻ってくるのを家の門のところで待っていたという[45][46]

当時京城で近隣にいた親族によると、のちの敦の喘息の一因には猫の毛を常に吸い込んでいたことがあるのではないかとしている[44][46]。そうした生母を知らない淋しさ、「母」という存在の希薄さが、のちの中島文学の形成にも影を落としていくことになる[26][20]節「「母」の不在」も参照)。

1925年(大正14年)の16歳のとき、父親が関東庁大連中学の勤務となり、父が後妻コウと大連に引っ越し、京城に居残った敦が伯母・志津(京城女学校に勤務)の家に移り住んでいた間は少しグレていた様子で成績が落ちたこともあった[6][48][45]。このころ、ある級友に頼まれ彼の試験答案を代筆したことが発覚し、謹慎処分を受けたこともあった[6][49]

1926年(大正15年)には、コウが産んだ三つ子の異母弟妹のうち2人の弟が同年中に亡くなる出来事もあった[6][20]。授業中に机の蔭で何か他の本を読んでいることが度々あった敦ではあったが、それを見た教師が敦に問題の解答を指名しても、正確な答えが返ってくるため叱ることができなかったという[32][33]。4年の秋の模擬試験では国漢・数学・英語、各200点×3の600満点中、敦は英語の単語一つ間違えただけで598点をとった[33]

龍山小学校・京城中学時代を通して、中島敦は合わせて5年半を朝鮮半島で暮らした[6][50]。初期の習作「巡査の居る風景」や「虎狩」における植民地時代の朝鮮像や朝鮮人の描写は、その後に得た朝鮮に関する広い社会知識によるところが大きいものの、この頃の朝鮮での経験をベースにしたものであるとされる[51][52][53][54]節「植民地への視線」も参照)。

東京での学生時代

1926年(大正15年)3月、通常は5年間通う旧制中学校を4年で修了し、入学試験に成績3番で合格した敦は第一高等学校文科甲類に4月から入学する[55][56][43][20]。京城中学時代の友人によると、第一高等学校入学のお祝いとして大臣か大政治家になることを期待すると敦に手紙を送ると、そのようなものは偉いとは思わないし、なろうとも思っていないという主旨の返信が来たという[32]

一高入学後は寮に入り、のちにニーチェ研究者となる氷上英廣と知り合うきっかけとなった[6][57]。氷上によれば、敦にカフカを奨めたのは氷上であったとされるが[57]、その逆であるという説もある[20][注釈 1]1927年(昭和2年)の春には伊豆下田を旅し、耽美的な習作「下田の女」の題材となった[56][6][20][注釈 2]

夏休みに父のいる大連に帰省中肋膜炎に罹ったため1年間休学となった[25]。このときの療養生活中に「病気になった時のこと」という習作断片が書かれた[6]。『校友会雑誌』に投稿した「下田の女」は11月に掲載され[55][56][20]、これが活字となった初めての作品となった[6][20]

19歳となる1928年(昭和3年)4月に寮を出て、伯父・関翊一家が暮らす渋谷町道玄坂上の広い敷地内の弁護士・岡本武尚邸(岡本貫一の養子[58])の別棟に寄寓した[59][60]。その岡本家の文学好きの息子・武夫(一高で高見順の同級生)と親交を結んだ縁で、のちに英米文学の翻訳者となる田中西二郎と知り合った[6][61][59][60]

また、同じく岡本邸に寄寓していた日本女子大学に通う2人の従妹・褧子あやこと美恵子(叔父・比多吉の娘)のうち、敦は2歳年下の褧子(英文科)と特に親しくなり、彼女の卒業論文(テーマはユージン・オニール)作成の手伝いをしたりした[60][6]。この年も『校友会雑誌』に「ある生活」「喧嘩」が掲載された[6][20]

1929年(昭和4年)4月に文芸部委員となり『校友会雑誌』編集に参加する[25]。この年の夏に岡本邸を出て、同潤会アパートに移った[6]。6月には『校友会雑誌』に「巡査の居る風景」「蕨・竹・老人」を「短篇二つ」として発表した[6][20]。秋には氷上英廣、吉田精一釘本久春らとともに季刊同人誌『しむぽしおん』(翌年夏まで4冊発行)を創刊するが、敦はこの同人誌に一度も執筆せず、翌1月『校友会雑誌』の方に「D市七月叙景(一)」を発表した[6][20]

第一高等学校を卒業後、1930年(昭和5年)4月に東京帝国大学文学部国文学科に入学する。友人らは英語力の高い敦は英文科に進むものだと思っていたため、国文学科を選んだことに驚いたという[6][62]。この年の3月には、三つ子の生き残りだった異母妹・睦子が4歳で病死し、6月には、敦の才能を一番買っていた伯父・斗南が亡くなった[6][20]。伯父の死を看取ったことで、狷介で彷徨的だった伯父と類似する自身の気質を分析する手記的作品「斗南先生」が、のちに書かれることになる[20]

大学時代には、文学発表活動への関与はあまりなく、友人・釘本久春の紹介で英国大使館駐在サッチャー海軍主計少佐の日本語教師を10月から約1年間務めながら、ダンスホールや麻雀荘に入り浸る生活を送り、乗馬にも凝っていた[6][20]

1931年(昭和6年)の夏休みには天野宗歩の全棋譜(『将棋精選』)を読み上げ友人を驚かせたり、同年3月に麻雀荘(一高時代の寮友・伊庭一雄の姉の経営する店)で知り合った同年齢の店員・橋本タカ(故郷は愛知県)に会いに行く旅費稼ぎのため、下宿に友人らを集めレコードの売り立て会を開いたりしたこともあった[6]。またこの夏には、浅草レビュー小屋の踊り子たちを組織して台湾興行を計画していたとも伝えられる[20][63]

文学活動を休止していたようにみえるこの時期ではあったが、一方で、永井荷風谷崎潤一郎正岡子規上田敏森鷗外らのほぼ全作品を読むなど読書にも熱中した[20]。そしてポーボードレールワイルドなど欧州の耽美派を概観しつつ近代日本で自然主義派に対抗していた耽美派の谷崎を論じた「耽美派の研究」と題する卒業論文に備えた[64][65][20]

1931年(昭和6年)10月には、大連の中学校を退職した父親が東京に戻ったため、荏原郡駒沢町大字上馬の借家で父と継母コウと同居するようになった[6]1932年(昭和7年)には、前年知り合った橋本タカとの結婚(入籍)を考えるようになった[6]。しかし、タカの叔母の反対や中島家の反対もあり、しばらく辛抱強い説得が続いた[20]。そして父から正式な結婚は大学卒業後にしろと言われため、この時点では婚姻届は出してはいない[6][20]

この年の8月、就職の相談をするため旅順にいる関東庁外事課長の叔父・中島比多吉を訪ねるかたわら、大連などの南満州、天津、北平(北京)などの北支(中国北部)を旅行し、久しぶりに母校の京城中学にも立ち寄った[6][45][10][20][66]。中国を舞台にした未完の長編草稿「北方行」の執筆準備(現地取材)は、このころに行われていたのではないかと推察されている[67][66][6]

横浜での教員時代

中島敦は当時の就職難に苦しみ、前節で述べたように、卒業前の1932年(昭和7年)夏には満州国高級官僚の叔父・比多吉に就職の斡旋を依頼するなどしていた[68][20]。同年秋には朝日新聞社の入社試験を受けたが二次試験の身体検査で落ちた[20]。結局、翌1933年(昭和8年)4月、祖父の門下生だった田沼勝之助が理事を務める横浜高等女学校(現・横浜学園高等学校)での教員の職を得て、横浜市中区のアパートで単身暮らしとなった[6][20]

敦は中島一族の親戚中でも一番の秀才として知れ渡っていたため、一高、帝大出の彼が一介の女学校教師となったことを意外に思った従甥もいた[69][70]。しかし、当時は大変な就職難で、帝大の同級生38名中、まともに就職が決まった者は敦を含めて3名だけで、まだ恵まれている方だった[71][6]

敦の担当科目は国語・英語(および、のちにこれに加えて歴史・地理)で、週23時間の授業を受け持ち[72]、初任給は60円だった[6][20]。同じ教師陣には、岩田一男(英語学)、安田秀文(国文学)、平野宣紀(国文学)、山下陸奥(国文学)、山口比男(地理学)、杉本長重(国文学)、吉村陸勝(数学)、渡辺はま子(音楽)、野田蘭洞(書道)など、優秀な人材が多かった[73][74][20][75][76]。直接教えた生徒の中には、後に女優となる原節子もいた[77]

女学校教員となったこの年の12月11日には橋本タカと結婚(正式入籍)した[6][20]。タカは4月に郷里の愛知県碧海郡で長男・たけしを産んでいたが、敦は仕送りだけで面会に来なかったため、たまりかねて赤ん坊を連れて11月に上京し、東京市杉並区の佐々木方に下宿した[6][20]。敦は教師時代も多趣味な生活を送り、また生徒や同僚からもかなりの人気があった[72][75]山岳部生徒の引率で、箱根外輪山北アルプスに登ったり、同僚らと三国峠、法師温泉などにキャンプに行ったりしたこともあった[6][20]

大学院(1年間で中退)や教師時代に「斗南先生」「北方行」「虎狩」などの作品を執筆しており[78][6]1934年(昭和9年)7月に、「虎狩」を『中央公論』新人号に応募して、選外佳作10編中に入った[56][20]。敦はこの結果を氷上英廣に伝え、「虎狩、又してもだめなり。(中略)なまじっか、そんなところに出ないほうがよかったのに。すこしいやになる」と、なまじっか佳作に名を連ねていることを悔しがり応募したことを後悔している[79][80][注釈 3]

この25歳のころ、自分の作家としての才能に自信をなくしていた敦は、失意の中、明るいチンドン屋が通り過ぎる夜の酒場の街を歩いていたこともあった[81][82]

才能のない私は
才能のないことを悲しみながら
頭をたれて
明るい街をのそのそと歩いていた。

私はもう二十五だ。私は何かにならねばならぬ。
ところで、一体私に何ができる。
うわべばかりの豪語はもうあきあきだ。
なかみのない、ボヘミアニズムも、こりごりだ。
人に笑われまいとするきがねも、もう沢山だ。

感心したものには、大人しく帽子をぬげ、
自信ありげなかおをするのは止めろ。
自信も何もないくせに。
だが、それは結局、
自分の無能を人に示すことになる。
何ということだ、何と情けないことだ。一体。
才能がないということは、
才能のない男が裸にならねばならぬということは、 — 中島敦「断片9」[81]

1935年(昭和10年)4月に釘本久春を介して、京城中学の1年後輩の三好四郎と知り合った[83][6]。なんとか中島敦を世に出したいと願う釘本や三好の勧めで、翌1936年(昭和11年)6月に、三好から鎌倉に住む深田久弥を紹介された敦は、以後毎週土曜日に深田の自宅を訪ね、作品評を乞うようになった[84][83][20]。三好と深田は同じ町内に住み、ともに大佛次郎の世話をしていた写真同好会「写友会」に入っていた仲であった[83]。深田は敦より6歳年上で、同じ一高、東大出身者だった[20][84]

教師時代の1935年(昭和10年)には、ガーネット列子荘子などを、1936年(昭和11年)にはアナトール・フランスラフカディオ・ハーンカフカオルダス・ハクスリーゲーテアミエル韓非子王維高青邱などを読んだ[6][20]。また横浜高女の雑誌部が発行していた学内誌『学苑』の編集人となっていた敦は、そこに短い雑文などを寄稿した[74][6]

このころに自我の追求や存在の形而上学的不安をテーマにした「狼疾記」「かめれおん日記」(「過去帳」2篇)を起筆し、第1稿を脱稿していたが、「狼疾記」は「北方行」(未完の長編)の草稿から転写・再構成された短編で、その後1938年(昭和13年)から1939年(昭和14年)にかけて完成する[6][9]

また、1936年(昭和11年)の小笠原諸島や中国の旅行の際、旅日記的に和歌を詠んだが、その後も音楽会の感想メモも三十一文字の形式で書き留めた[6][20]1937年(昭和12年)の冬にも即興的な身辺雑記のさまざまな500首あまりの感興を「和歌でない歌」として綴った[6][20][85]

これらの歌では比較的すらすらと自己表白が可能なことに気づかされた敦が、散文では表現のジレンマに陥り行きづまりがちだった表白がある種の定型や枠づけの中で自在になるということを悟り、のちの外在的な枠づけの形式(先在する古典物語を利用すること)のヒントや啓示になったのではないかという推察もある[85][86]

1937年(昭和12年)の1月には早産で誕生した長女・正子がすぐに亡くなってしまうという出来事もあった[6][20]。以前にも幼い異母弟妹らの夭折を見てきた中島だったが、実子を亡くすという体験もまた、存在の不確かさや運命との対決など中島作品に顕著なテーマに影響をもたらす要因の一つとなる[87][20]節「概括」も参照)。

さらに1940年(昭和15年)にはアッシリアや古代エジプトの歴史を勉強しプラトンのほぼ全著作を読んでいた[5]。その後、直接的な私小説の形式から、作品舞台を遠い過去の時代に設定し、自身のテーマを客観視する手法を確立する「文字禍」「狐憑」「木乃伊」「山月記」の「古潭」4篇が1940年(昭和15年)4月までに執筆されていく[6][8][88][20]

しかし1939年(昭和14年)ごろから発作が激しくなっていた喘息の悪化で教師を続けることが困難となり[89][90][91]、1940年(昭和15年)暮れごろから週1、2回の勤務となっていたため、1941年(昭和16年)3月末をもって休職となった[5][20]

冬になると発作がひどくなる敦は釘本久春の勧めもあり、「役人になるのは、少しいや」だったが身体にいいだろうという思いと「生活のため」もあり、常夏の南洋に移ることを決めた[92][93][94][95][96]。この頃、「僕のファウストにする意気込」で、孫悟空猪八戒の登場する作品「悟浄出世」の執筆を始めていた[97]

世界がスピノザを知らなかったとしたら、それは世界の不幸であって、スピノザの不幸ではない、という考え方は痩我慢だと思いますか? とにかく、僕は、そんな積りでもって、西遊記(孫悟空や八戒の出てくる)を書いています、僕のファウストにする意気込なり。 — 中島敦「田中西二郎宛の葉書」(昭和16年5月8日)[97]

釘本の斡旋で南洋庁の国語編修書記の就職が正式に決まった敦は、1941年(昭和16年)6月28日に横浜港からパラオに出発するが[55][6][20]、父への置手紙には、少し気が進まないといった内容も書き残していた[98][96]

パラオ南洋庁時代

日本統治時代のパラオ

中島敦は転地療養を兼ねてパラオ・コロール町(コロール島コロール)の南洋庁の編修書記に任じられ、現地の教科書作成業務に携わりながら「環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―」や「南島譚」の題材を得るが、7月末から9月初めころまでアメーバ赤痢デング熱にもみまわれ、下痢や高熱、身体中痒くなるなど、執筆活動や勤務が難しい状態にあった[99][100][101][26][6][20]

南洋庁では職員らとそりが合わず孤立したものの、東京美術学校彫刻科出身の土方久功や熱帯生物研究所の若い学者ら(大平辰秋など)、竹内虎三というヤルート支庁の役人とは親しかった[102][61][103]。敦のことを「トンちゃん」と呼んでいた土方は[103]、自身の旅行日記や、それを素材とする「南方離島記」の草稿を敦に見せたり、南洋群島を一周する出張旅行にも同行したりした[104][20]

パラオに出発する前、深田久弥に「古譚」や「ツシタラの死」などいくつかの原稿を出発前に託していた敦は[105][6][20]、深田が自分の作品を推薦して文芸誌に掲載してくれることを期待し、各島への出張のときは父と妻に細々とした日程を手紙に書き送っていたが、深田からはいっこうに何の連絡もなく、家族から送付してもらった文芸誌にも自分の作品が載る気配はなく失望していた[106]

そのため、パラオ滞在末期の11月9日には、妻タカに向け、「オレが死んだら」、深田に預けた原稿をほかの原稿と一緒にしまっておき、桓(長男)が成人して文学を愛好するようなら渡してほしい、という主旨の手紙をしたためることになる[107][106]。一方、深田は敦が旅立ってから半年後になってから、ようやく中島の原稿に目を通し、その内容に「歎息に似た感歎の声」をもらした[108]。託された4篇からなる「古譚」の原稿を深田は『文學界』に推薦し、その中から編集者の河上徹太郎が2篇(「山月記」「文字禍」)の掲載を決めた[20]

喘息快癒を期待してパラオに赴任した敦だったが、雨の多いパラオではかえって喘息がひどくなった[109][110]。また、現地の島民たちに十分な住居と食べ物を与えることが次第にできなくなりつつある時勢の中、新しい教科書ばかり作ることの無意味さが判った敦は、自然と共存しながら暮らしている島民を慮って、「なまじつか教育をほどこすことが土人達を不幸にするかも知れない」と感じ教科書編纂の仕事にも熱意をなくしていった[107][111][112]

日本でしか味わえないもの(天ぷら、そば、四季折々の食べ物)がパラオでは食べられないわびしさや、妻や2人の子供(桓と格)が恋しいこともあったが[113][114][115][109]、何よりも、文化人・教養人にとっては「精神的には完全な島流し」のような生活が耐えがたく[111][116]、あまりに息苦しい暑さで頭の働きが鈍くなり小説が書けず、「身体も頭脳も駄目になって了う」熱帯の地には長く居られないことも帰国したい大きな理由の一つであった[107][117][111][116]

そのため敦は12月31日、心臓性喘息のため激務に適さないと記して東京出張所勤務を希望することを課長に申し出て[6][118]、翌年1942年(昭和17年)3月4日、土方久功とともに東京に向かう船に乗った[6][119]

帰京後、没後

帰国の約1か月前、1942年(昭和17年)2月号の『文學界』に、「山月記」と「文字禍」が「古譚」と題して掲載され、「日本のアナトール・フランス」「芥川龍之介の再来」などと言われていた[20][120]深田久弥は掲載を知らせる手紙を送ったが、同年3月17日にパラオより帰国した敦が『文學界』掲載のことを知ったのは、東京に戻ったあとであった[121][6]

深田は、自分が原稿に目を通す時期が半年遅れたために「俊英な才能が文壇に芽を出す時期を私がおくらせたとも言える」と自責の念にかられた[108]。一高・帝大時代と敦のことを知っていた同学校出身者の中村光夫は「山月記」と「文字禍」を目にし、多くの友人達が学生時代の青春の夢をなくした中で「ひとり黙々と十年の間執拗に昔のままの清純さで文学の夢を育んで来た」敦の心情に思いを馳せつつ励ますような作品評を書いた[122]

帰国後の敦は喘息気管支カタルで、父親と妻子の住む世田谷の家で療養することとなった[123][124]。当時の世田谷は周囲に田畑が広がり、冷たいおろし風が吹く喘息持ちにはよくない土地で、敦は住み慣れた横浜への転居を希望したが実現しなかった[125][126]

続いて、R.L.スティーブンソンを主人公にした長編「ツシタラの死」が編集者の要請で「光と風と夢――五河荘日記抄」と題名変更し短縮した上で『文學界』5月号に発表されると、昭和17年度上半期の芥川賞候補となった[20][120]。同作品は石塚友二横光利一の弟子)の「松風」とともに最後まで選考で争ったが、室生犀星川端康成の2人の選考委員が高く評価したのみで、ほかの選考委員の宇野浩二などからの支持が得られず落選した(石塚の作品も)[127][120][20]

とはいえ「光と風と夢」の掲載後すぐに、筑摩書房中央公論社、今日の問題社の3社から中島の作品集を出版したいという申し出があった[9]。5月、小康状態になった敦の元へ、筑摩書房の古田晁、中央公論社の杉森久英の訪問があり、作品集の出版が決まった(中央公論社には第三創作集(「弟子」を含む予定で)の約束をする)[128][129][6][9]。7月15日に第一創作集『光と風と夢』が出版され、その印税で妻子に着物や帯留めなどを買って、妻の郷里を訪ねた[6][29]

作家として立つことを決意した敦は、8月に南洋庁に辞表を提出し(9月に正式辞令が下り)、専業作家生活に入った[6][130][20]。10月末ころまでには「李陵」の原稿(題名は決っていない)を書き上げた[20]

11月には、パラオを題材にした作品などを含む第二創作集『南島譚』が出版されるも、同月に持病の気管支喘息悪化と服薬の影響で心臓もかなり衰弱し、世田谷の岡田医院に入院し[131][132]、12月4日の午前6時に同院で死去した[5][6][20]。33歳没[20][56][133]

涙をためながら「書きたい、書きたい」「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい」と言ったのが最期の言葉だったと伝えられている[134][132][20]。12月4日は奇しくもスティーヴンソンがサモアに埋葬された日であったという[135]。中島家は神道であったため[136]、6日の午後2時から神式の葬儀が行われ、多摩墓地に埋葬された[6]。なお、敦は亡くなる前に戸籍を祖父の郷里の埼玉県久喜市に移していた[24]

未発表であった「名人伝」「弟子」などの作品は遺作として没後に発表され、「李陵」は1943年(昭和18年)7月号の『文學界』に掲載された[5]。敦の死の後、夫人から手渡された題名の定まっていない遺作原稿(「李陵」)を読了した時、深田は「あたりがシーンとしたくらい感動」したという[137]

死後に出版された全3巻の『中島敦全集』は1948年(昭和23年)10月から1949年(昭和24年)6月にかけて筑摩書房から刊行され、毎日出版文化賞を受賞した[138][7][6]


注釈

  1. ^ 一高で敦の1級下だった湯浅隆宗の「ハンスとフランツ」によれば、氷上が敦に奨めたのではなくて、その逆であるという[20]
  2. ^ 伊豆下田に誘われたきっかけは、前年発表された川端康成の『伊豆の踊子』ではないかと推察されている[20]
  3. ^ この「又してもだめなり」という語から、「虎狩」がこれ以前の別の応募でも落選していたのか、あるいは、「斗南先生」を何かに応募していたのではないかと推察されている[8]
  4. ^ ちなみに、自身の内面自我(狼疾)の主題に集中した『狼疾記』の完成に没頭した以後もなお、中島が『北方行』に戻ることがなかった点に関しては、渡邊一民は、湯浅克衛の「カンナニ」が『文学評論』1935年4月号に掲載された際、万歳事件を扱った部分が検閲で削除されたという附記を、おそらく中島が読んでいたからではないかと推察し[64]川村湊は、大きな歴史的な現実と、一種の越境的ファミリーロマンスを結びつけ合わせるだけの力量が中島にはなかったのではないかとしている[11]
  5. ^ 斗南の小説『野路乃村雨』は、保安条例に反対し皇居外3里の地に追放された病弱の青年を主人公にしたもので、有為の青年が悲運に陥る内容となっている[234]
  6. ^ 当選作は島木健作「盲目」、丹羽文雄「贅肉」などだった[8]
  7. ^ 「狼疾記」と共に1940年に雑誌『形成』(古今書院)に掲載する話もあったが実現ならず[6]
  8. ^ 『文學界』編集部からの要請で変更した[8]
  9. ^ 深田久弥の回想文中に「古譚六篇」という言い方がなされ、編集者(今日の問題社の)がこの「盈虚」「牛人」2篇を「古譚」と呼んでいたことから[9]
  10. ^ 『表現』は角川書店の季刊雑誌[6]
  11. ^ 「石とならまほしき夜の歌」から6首、「また同じき夜によめる歌」、「夢」から7首が掲載された[8]。『藝術』は八雲書店の季刊雑誌[8]
  12. ^ 「街頭スケッチ」から7首が掲載された[8]
  13. ^ 『敦 山月記・名人伝』は世田谷パブリックシアターで2005年に公開され、構成・演出・出演を務めた野村萬斎は朝日舞台芸術賞(舞台芸術賞)と紀伊国屋演劇賞(第40回個人賞)を受賞した[260][261]

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