トマス・ムーア (詩人)とは? わかりやすく解説

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トマス・ムーア (詩人)

(トーマス・ムーア_(詩人) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/08 17:28 UTC 版)

トマス・ムーア
トーマス・ローレンスによる肖像画
誕生 (1779-05-28) 1779年5月28日
アイルランドダブリン
死没 1852年2月25日(1852-02-25)(72歳)
イングランドウィルトシャー、スローパートン・コテージ
職業 作家、詩人、作詞家
教育 ダブリン大学トリニティ・カレッジミドル・テンプル
代表作 アイリッシュ・メロディー
キャプテン・ロックの回想
ララ・ルック
バイロン卿の手紙と日記
配偶者 エリザベス・ダイク
ウィキポータル 文学
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トマス・ムーア

トマス・ムーア(姓はムアモア[1]とも、Thomas Moore、1779年5月28日 - 1852年2月25日)は、アイルランド詩人で、アイルランド古謡に英語の歌詞を加えた『アイリッシュ・メロディー』(Irish Melodiesアイルランド歌曲集とも)の作詞者として知られる。イングランドではムーアは政治的に貴族的なホイッグ党の作家と考えられたが、アイルランドではカトリックの愛国者とされた。

今日では『アイリッシュ・メロディー』(とくに「ミンストレル・ボーイ」や「夏の名残のばら」(日本では「庭の千草」の歌詞でも知られる))の作詞者として、あるいは友人だったバイロンの回想を廃棄した人間として記憶されている。

生涯

ムーアはダブリンに生まれ、14歳のときに文芸雑誌『Anthologia Hibernica』に自作の詩が掲載された[2]。1795年にダブリン大学トリニティ・カレッジに入学し、母親の意向に従って法学を学んだ。在学中にロバート・エメット英語版およびエドワード・ハドソンとの交友を通じて、1797年にはアイルランド王国グレートブリテン王国に併合しようとする当時の動きに抵抗するように学生たちに訴える文章を書いた。

ムーアはエメットの友人ではあったが、エメットとハドソンによるアイルランド人連合英語版には加わらず、1798年のアイルランド一揆英語版[3]、エメットが処刑された1803年のアイルランド一揆には参加しなかった[4]。ムーアは1808年の歌「おお、彼の名を囁くなかれ (O, Breathe Not His Name)」において絞首刑になったエメットを追悼している。1817年の長詩『ララ・ルック』においても婉曲な表現でエメットに言及している[3]

1799年、ムーアはロンドンミドル・テンプルで法律の学習を続けた。初代ドニゴール侯爵アーサー・チチェスターの未亡人でベルファストの地主であったバーバラを含むロンドンのアイルランド人コミュニティーが彼を援助した[5]

1800年、ムーアはアナクレオンのオードの翻訳を出版し、またコミックオペラ『ジプシー王子』 (The Gypsy Princeリブレットを書いた(この作品はマイケル・ケリー (Michael Kelly (tenor)が作曲してシアター・ロイヤル・ヘイマーケット英語版で上演された)[6]

1801年には仮名で詩集『故トマス・リトル氏詩集 (Poetical Works of the Late Thomas Little Esq.)』を出版した。仮名を使ったのはそのエロティシズムのためかもしれない。接吻や抱擁の賛美は当時の作法の基準をはみだすものだった。この詩集は比較的成功したが、ヴィクトリア朝時代に基準が厳格化すると出版できなくなった[7][8]

1803年、第2代モイラ伯爵フランシス・ロードン=ヘイスティングズの寵愛を受けて、ムーアはバミューダ諸島の海事賞金裁判所のポストに就いたが、バミューダでの生活は退屈で、ムーアは半年後に代理を立てて自分は北米各地を旅行し[9]、当時の大統領だったトーマス・ジェファーソンを含む人々と交際した。

1804年に帰国後、1806年に『Epistles, Odes, and Other Poems』を出版した。この書物を批判したフランシス・ジェフリーとは決闘になったが、その後ふたりは親友になった[10]。しかしながら決闘に使った銃に弾がはいっていなかったという噂にムーアは悩まされた。バイロンが1809年の風刺詩『イングランド詩人とスコットランド批評家』 (English Bards and Scotch Reviewersでこのことを揶揄したため彼とも決闘に及びかけたが、後に和解してバイロンとも生涯友人であり続けた[11][7]

1808年から1810年にかけて、毎年ムーアはアイルランドのキルケニーの舞台に出演した[12]。共演していたベッシーことエリザベス・ダイクとムーアは1811年に結婚した[13]。夫妻ははじめロンドン、ついでレスターシャーのケグワース[14][15][16]、モイラ伯爵の土地であるスタッフォードシャーのメイフィールド・コテージを経て最終的に別の親友・パトロンであった第3代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの本拠地に近いウィルトシャーのスローパートン・コテージに住んだ[17]。夫妻は5人の子(男2人と女3人)をなしたが、いずれも両親よりはやく没している。

1818年、バミューダでムーアが立てた代理が6000スターリング・ポンドを横領したことが判明し、ムーアは債務者監獄から逃がれるためにジョン・ラッセルとともにフランスに逃亡した(ラッセルは後にホイッグ党のイギリス首相をつとめ、またムーアの記事や手紙を編集している)10月にはヴェネツィアでバイロンに会っている。バイロンはムーアに回想の原稿を委ね、ムーアはバイロンの没後にそれを出版することを約束した[18]。パリには1年以上住んだが、ランズダウン侯爵の助けによってバミューダの債務の一部が清算されたことを知るとスローパートン・コテージに戻った。

ムーアはホイッグ党の友人やパトロンのために政治的風刺詩を書いた。彼が『The Morning Chronicle』誌上で摂政皇太子(後のジョージ4世)を風刺した文章は『2ペンスの郵便袋』(1813年)にまとめられている。ムーアの風刺のもう一人の主要な対象は外務相カースルレー卿で、中でも韻文の小説『パリのファッジ家』(1818年)は広く読まれて続編も書かれた。

ムーアは1世紀前のジョナサン・スウィフトと同様の役割を果たした[19][20]。ムーアの『キャプテン・ロックの回想』(1824年)は民間伝承的な人物であるキャプテン・ロック (Captain Rockを借りて、相次ぐイングランド人の入植によって土地を失ったアイルランドの歴史を語る。刑罰法英語版後期の時代にはキャプテン・ロックの家族はみじめな入札小作人 (Cotter (farmer)の階級にすぎなくなっていた。アングロ・アイリッシュの地主による重い要求に対してロックの父子は「徴税人を襲い、地主を脅迫する小作人の陰謀団」の領袖になる[21][19]

9年の年月を費して書かれた『リチャード・ブリンズリー・シェリダンの回想』(1825年)は人気を得て版を重ね、ムーアの評判を高めた。『エドワード・フィッツジェラルド卿英語版の生涯』(1831年)では、作者本人の回想によると「1798年の反乱者―わが国の「最後のローマ人たち」―の弁明」の作と彼は考えていた[22]。1835年から1846年までかけて出版された全4巻の『アイルランド史』ではイングランドによる支配をさらに深く告発しているが(カール・マルクスはアイルランドの歴史についての注釈においてこの書物を利用している[23])、成功作とはならなかった。ムーアはこの書物に学術上の欠陥があることを認めている[9]

1840年代後半(アイルランドがジャガイモ飢饉に襲われた時期)にムーアは衰弱しはじめ、1849年12月に突然老衰の症状が現れた。1852年2月25日に72歳で没したが、妻、5人の子供たちすべて、および友人のほとんどはそれより先に死んでいた。ムーアはウィルトシャーのディヴァイジズ英語版近くのブロマム (Bromham, Wiltshireの教会付属墓地に埋葬された[24][25]。ムーアの管財人に指定されたラッセル前首相は、故人の遺志に基いて1853年から1856年にかけて遺文を『トマス・ムーア回想・日記・書簡集』(Memoirs, Journal, and Correspondence of Thomas Moore, 全8巻)として出版した[26]

記念

ダブリンのムーア像

ララ・ルック

1817年に出版された長詩『ララ・ルック』 (Lalla Rookhは韻文と散文の混じった東洋趣味の物語である。枠物語形式を取り、王女ララ・ルックがブハラの王子と結婚するためにカシミールを旅するが、道中で出会った吟遊詩人フェラモルズと恋に落ちる。しかし実はフェラモルズこそ結婚相手のブハラ王子であった、という内容の枠物語の中にフェラモルズが歌う4つの物語(ホラサンの覆面預言者、楽園とペリ、拝火教徒、ハラムの光)が挿入される[29]:91。とくに第3話の「拝火教徒」ではイスラム教徒と拝火教徒の抗争を扱い、追いつめられ滅びゆく弱小民族の抵抗の過程を共感と同情をこめて語っている[29]:91

ロングマン英語版が『ララ・ルック』出版の前金として3000ポンドを支払ったことは大きな話題となった[30]:47

発表当時『ララ・ルック』は国際的に人気があり、ロベルト・シューマンがこの物語をもとに書いた『楽園とペリ』(1843年)は現在も演奏される[29]:95

アイリッシュ・メロディー

出版者ジェームズ・アンド・ウィリアム・パワーの依頼に答えて、ムーアはハイドンがイギリス民謡を編曲したのと同様のやり方で、ジョン・アンドルー・スティーヴンソン (John Andrew Stevensonを編曲者としてアイルランド民謡に作詞した。音楽の主な素材はトリニティ時代にエドワード・ハドソンから教えられたエドワード・バンティング (Edward Bunting『アイルランド古謡総集』(A General Collection of the Ancient Irish Music, 1797)を使用した[31]。『アイリッシュ・メロディー』は全10巻および補遺からなり、1808年から1834年までの26年間かけて出版された。スティーヴンソンが1833年に没したため、最終巻はヘンリー・ビショップが編曲している。

『アイリッシュ・メロディー』は大変な成功を収めた。「夏の名残のばら」、「ミンストレル・ボーイ英語版」、「春の日の花と輝く英語版」、「Oft in the Stilly Night」などは非常に人気があり、英語の替え歌のみならずドイツ語・イタリア語・ハンガリー語・チェコ語・フランス語にも翻訳され、1830年に出版されたベルリオーズの『アイルランド歌曲集』作品2 (fr:Irlande (Berlioz)はフランス語訳に作曲したものである[32]。アメリカ合衆国において『夏の名残のばら』は100万部以上売れた[33]

バイロンの回想

ムーアはバイロンの回想が下品であると説得されてそれを廃棄したとされ、同時代の人々から非難の対象にされた[34]。現代の学者は非難の矛先を別の箇所に求める。

1821年、バイロンの許可のもとでムーアは3年前に託された回想を出版者のジョン・マレーに渡した。ムーアはこの本に「非常に下品な内容」が含まれていることを認めていたが[35]、バイロンが1824年に没した後にマレーがこの本の出版を見合わせたと知るとムーアは決闘で決着をつけようとした[36]。しかしバイロンの妻、バイロンの異母姉であるオーガスタ・リー、バイロンとの友情においてムーアのライバルであったジョン・ホブハウス英語版の意見が勝ちを占めた。「史上最大の文学的犯罪」と呼ばれることになるが、ムーアの立ちあいのもとで家族の弁護士が現存するすべての原稿を破いてマレーの暖炉で燃やした[37][38]

メアリー・シェリーによって提供された書類の助けを借りて、ムーアは『バイロン卿の手紙と日記』(1831年)を出版した。

バイロンからの刺激により、ムーアは歌集『ギリシアの夕べ』(1826年)、および3世紀のエジプトを舞台とするムーア唯一の散文小説『エピキュリアン』(1827年)を書いた。この作品は「宗教性と混淆した半ばエロティックなロマンス」への需要を満たし、人気を得た[39]

主要な作品

英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:Author:Thomas Moore (1779-1852)

  • アナクレオンのオード Odes of Anacreon (1800)
  • 故トマス・リトル氏詩集 Poetical Works of the Late Thomas Little Esq. (1801)
  • アイリッシュ・メロディー(アイルランド歌曲集) Irish Melodies (10巻と補遺、1808-1834)
  • 腐敗と不寛容 Corruption and Intolerance (1808)
  • 傍受された手紙、または2ペンスの郵便袋 Intercepted Letters, or The Two-Penny Postbag (1813)
  • 聖なる歌 Sacred Songs (1816)
  • ララ・ルック Lalla Rookh (1817)
  • パリのファッジ家 The Fudge Family in Paris (1818)
  • 国民歌集 National Airs (6巻、1818-1828)
  • 天使の恋 The Loves of the Angels (1823)
  • キャプテン・ロックの回想 Memoirs of Caption Rock (1824)
  • エピキュリアン The Epicurean (1827)
  • バイロン卿の手紙と日記 Letters and Journals of Lord Byron (2巻、1830)
  • エドワード・フィッツジェラルド卿の生涯 Life and Death of Lord Edward Fitzgerald (1831)
  • アイルランド史 The History of Ireland (4巻、1835-1846)
  • イギリスのファッジ家 The Fudge Family in England (1835)

脚注

  1. ^ ダグラス・ハイド 著、北文美子 訳「アイルランドの脱英国化の必要性」『ケルティック・テキストを巡る』中央大学出版部、2013年、380頁。ISBN 9784805754078 
  2. ^ Thomas Moore Critical Essays” (英語). eNotes.com. 2021年4月11日閲覧。
  3. ^ a b Kelly, Ronan (2013年2月22日). “Another side of Thomas Moore”. History Ireland. 2022年7月31日閲覧。
  4. ^ Anon., March 1853, "Lord John Russell's Memoirs of Moore" in Dublin Review, vol. 34, p. 123.
  5. ^ Anon. (1853), p. 126.
  6. ^ Eric Walter White: A Register of First Performances of English Operas (London: The Society for Theatre Research, 1983), ISBN 0-85430-036-8, p. 59.
  7. ^ a b Thomas Moore”. poetryfoundation.org. Poetry Foundation. 2020年8月10日閲覧。
  8. ^ Brendan Clifford, introduction to Political and Historical Writings on Irish and British Affairs by Thomas Moore, p. 14.
  9. ^ a b Moore, Thomas”. Dictionary of Irish Biography. Royal Irish Academy. 2020年8月18日閲覧。
  10. ^ Clifford, introduction Political and Historical Writings ... by Thomas Moore, p. 14.
  11. ^ Kelly, Ronan (2008). Bard of Erin: The Life of Thomas Moore. Dublin: Penguin Ireland. pp. 139–147, 182–184, 204–209. ISBN 978-1-84488-143-7 
  12. ^ Kelly, pp. 170–175.
  13. ^ Joseph Norton Ireland: Mrs. Duff (Boston: James R. Osgood and Co., 1882).
  14. ^ Thomas Moore (1779–1852)”. 2020年11月20日閲覧。
  15. ^ Bloy, Marjorie. “Biography: Thomas Moore (1779–1852)”. A Web of English History. 2020年11月20日閲覧。
  16. ^ House historian: Vicars, framework knitters and a poet”. Country Life (2011年12月2日). 2020年11月20日閲覧。
  17. ^ Webb, Alfred (1878年). “John Philpot Curran – Irish Biography”. www.libraryireland.com. 2023年2月9日閲覧。
  18. ^ Maurois, André (1984). Byron. London: Constable. pp. 331–332. ISBN 0-09-466010-7 
  19. ^ a b Moore, Thomas (1835). Memoirs of Captain Rock. Paris: Baudry's European Library. https://books.google.com/books?id=eMmqG9-0jiEC&q=Memoirs+of+Captain+Rock&pg=PA146 2020年8月20日閲覧。 
  20. ^ Book the First, Chapter XIII, Moore, Thomas (1993). Political and Historical Writings on Irish and British Affairs by Thomas Moore, Introduced by Brendan Clifford. Belfast: Athol Books. pp. 49–50. ISBN 0-85034-067-5 
  21. ^ from Memoirs of Captain Rock, Book the Second, Chapter I, Moore, Thomas (1993). Political and Historical Writings on Irish and British Affairs by Thomas Moore, Introduced by Brendan Clifford. Belfast: Athol Books. pp. 53–55. ISBN 0-85034-067-5 
  22. ^ Moore (1993), p. 248.
  23. ^ Karl Marx (1869), "Notes on Irish History" (1869), Karl Marx and Friedrich Engels, Ireland and the Irish Question, New York, International Publishers, 1972, pp. 316, 360.
  24. ^ "Thomas Moore". The Catholic Encyclopedia. Vol. 10. 1911. 2023年3月9日閲覧
  25. ^ Thomas Moore – Irish Biography”. www.libraryireland.com. 2021年4月11日閲覧。
  26. ^ Moore, Thomas (2013). Russell, John. ed. Memoirs, Journal, and Correspondence of Thomas Moore. Cambridge Library Collection – Literary Studies. 3. Cambridge: Cambridge University Press. doi:10.1017/cbo9781139567343. ISBN 978-1-108-05894-0. https://www.cambridge.org/core/books/memoirs-journal-and-correspondence-of-thomas-moore/37A11AE62C8919C62BDA12EB5D1D739E 
  27. ^ Love, Timothy (Spring 2017). “Gender and the Nationalistic Ballad: Thomas Davis, Thomas Moore, and Their Songs” (英語). New Hibernia Review (Center for Irish Studies at the University of St. Thomas) 21 (1): 76. doi:10.1353/nhr.2017.0005. ISSN 1534-5815. 660979. 
  28. ^ The James Joyce Songbook, edited and with a commentary by Ruth Bauerle (New York: Garland Publishing, 1982), pp. 158–160.
  29. ^ a b c 白倉克文「J. G. バイロンと T. ムアが19世紀ロシア文学に与えた影響について:ロシア・イギリス文化交流史のもうひとつの側面」『東京工芸大学芸術学部紀要』第2巻、87-96頁。 
  30. ^ 及川和夫「第41回全国大会シンポージアム要旨 アイルランドとロマン主義―「国民国家」と文学―」『イギリス・ロマン派研究』第41巻、2017年、46-51頁、doi:10.18986/eer.41.0_41 
  31. ^ Kelly, p. 50.
  32. ^ A Trip to Irlande: Songs of Hector Berlioz, VOX 3 Collective Voice, (2013-03-13), https://vox3collective.wordpress.com/2012/03/13/songs-hector-berlioz/ 
  33. ^ James W. Flannery: Dear Harp of My Country: The Irish Melodies of Thomas Moore (Nashville, TN: J. S. Sanders & Co., 1995).
  34. ^ Mayne, Ethel Colburn (1969). Byron. New York: Barnes & Noble. pp. 452. ISBN 0-389-01071-5. https://archive.org/details/byron0000mayn 
  35. ^ Knight, G Wilson (2016). Lord Byron's Marriage: The Evidence of Asterisks. London: Routledge. p. 214. ISBN 978-1-138-67557-5. https://books.google.com/books?id=YiYFDAAAQBAJ&pg=PA214 2020年8月20日閲覧。 
  36. ^ Cochran, Peter (2014). The Burning of Byron's Memoirs: New and Unpublished Essays and Papers. Newcastle upon Tyne: Cambridge Scholars. ISBN 978-1-4438-6815-0. pp. 6–7
  37. ^ Marchand, Leslie (1970). Byron: a Portrait. New York: Knopf. pp. 466–467. ISBN 978-0-394-41820-9 
  38. ^ Kells, Stuart (2017). The Library: A Catalogue of Wonders. Melbourne: Text Publishing. p. 158. ISBN 978-1-925355-99-4. https://books.google.com/books?id=3kHcDgAAQBAJ&q=%22burning+of+the+personal+memoirs%22&pg=PA158 2018年7月12日閲覧。 
  39. ^ Hawthorne, Mark (1975). “Thomas Moore's "The Epicurean": The Anacreontic Poet in Search of Eternity”. Studies in Romanticism 14 (3): 249–272. doi:10.2307/25599975. JSTOR 25599975. 

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