批評家としてのジェフリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 04:38 UTC 版)
「フランシス・ジェフリー」の記事における「批評家としてのジェフリー」の解説
ジェフリー自身の記事は200本を数え、6本以外は全て編集者の仕事を辞める前に書いたものである。彼はふとした気晴らしのため、あるいは特段の準備もせずにさっと書きあげることが多かったが、アーチボールド・アリソン(Archibald Alison)の美的趣味、ジェレミー・ベンサムの立法論、ロマン主義湖水地方の詩人の評価、文学と社会制度の関係等、トピックは多岐にわたり、かつ明晰で思慮深い議論をおこない、特定の文学作品への手厳し批判をしたことでも知られている。 批評家としてのジェフリーの素養は、エディンバラ大学の道徳哲学教授であったドゥガルド・スチュアート(Dugard Stewart)の哲学教育やスコットランド常識学派の伝統に負うところが大きく、とりわけ彼の批評において政治経済、形而上学、倫理学、認識論、科学的方法論等の基礎を作った。例えばスコットランド詩人ウィリアム・ドラモンド(William Drummond)の観念論に対して、「実在的事象とのつながりがない心的感覚」と「外的事物が不可避的にある感覚をもたらすという信念としての知覚」とを区別し、外的実在性を信じる上で最も高次の証拠のみに依拠すべきであるという慎重な姿勢を示して反論している。一方で、ジョゼフ・プリーストリーの思考と知覚を全て脳の物理的運動に帰する唯物論にも批判的であり、またベンサムに対しても、功利主義における善悪の基準が、ベンサム自身が否定した道徳的感情によって認識できるものであるとして批判を展開している。 16号ではジェフリーはトマス・ムーア(Thomas Moore)の詩の道徳性を批判したため、1806年に両者はチョーク・ファーム(Chalk Farm)で決闘をすることになった。結局当局に止められ、ジェフリーのピストルには銃弾が入っていないことも明らかになった。この事件の後両者は和解し、ムーアが『エディンバラ・レビュー』に寄稿し、ジェフリーもムーアのロマンス作品Lalla Rookh(1817)についての記事で好意的な姿勢を見せるほどであった。
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