日本のオートバイの歴史とは? わかりやすく解説

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日本のオートバイの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 22:19 UTC 版)

オートバイ」の記事における「日本のオートバイの歴史」の解説

日本における最古オートバイ記録としては、明治維新による近代化推し進められる中で、1898年明治31年)に紫義彦組み立て製作した車輌写真残されているが、明治期にはオートバイ道楽といった認識で、富国強兵国是の下に国産化進められ他の産業比較する特別な注力なされることはなかった。そのため、わずかながら人の目に触れるようになりだしたオートバイはほぼ全て輸入車であり、開発製造個人小規模に行われるにすぎなかった。 1909年明治42年)に島津が初の国産車であるNS号を製造その後1910年明治43年)に山田輪盛館ドイツNSU製品輸入販売)や山口勝店(イギリストライアンフアメリカインディアン輸入販売)といったオートバイ専門輸入商創立され1917年大正6年)に大倉商事ハーレー輸入開始したその後島津はいったん航空業界転身し、9気筒回転型空冷80馬力エンジン帝国飛行協会でのコンテスト出品して1等受賞するなどの実績残した三井物産取締役勤めた山本条太郎により、その当時航空事業はもはや個人運営できる規模太刀打ちできる産業ではない、といった助言受けて自動車学校設立するも、大阪府に総台数200台の時代にあって4年間で300名のエンジニア輩出するなど迷走し自動車学校1922年大正11年)に閉鎖憂き目にあうこうした紆余曲折経た後にオートバイ開発復帰し航空業界培った技術応用したエーロ・ファースト号を3年後完成させる搭載された633cc、4ストロークサイドバルブ単気筒エンジンは6.5ps、最高速度40km/hを実現したこのまま事業化画策していたが、世界情勢悪化ニューヨーク株式市場暴落端を発する世界恐慌不況による影響から計画難航し1930年昭和5年)には廃業余儀なくされる結局日本初めオートバイ量産商品化実現されるのは1933年昭和8年)のアサヒA型であった。この車両1914年大正3年)に宮田製作所製作し一部が「黒バイ」として警察納入されていた車両発展させたもので、2ストローク175cc、単気筒エンジン搭載し最大出力は5psだった。翌年1934年昭和9年)に増加試作13台、翌々年1935年昭和10年4月から量産体勢入り販売価格標準340円、特級370円で、生産量1937年昭和12年)から1939年昭和14年)の期間に月産150台を製造していた。 以後第二次世界大戦下の日本で「陸王」のみが生産されるうになるまでには、「陸王」の他に「アサヒ号」「JAC号」「SSD号」「あいこく号」「キャブトン」「リツリン号」「くろがね号」「メグロ号」などが存在していた。 戦況長期化悪化によってオートバイ産業軍需品製造転換せねばならなくなり陸王内燃機でのみがオートバイ製造していた。同社三共系列企業で、1931年昭和6年)にハーレー・ダビッドソン輸入販売業として設立された。その後国産化流れの中で同社専務務めた永井信二郎は生産体制確立するためにアメリカミルウォーキーハーレー・ダビッドソン工場設備調達のため渡米する本国アメリカからエンジニア招聘し、100程度従業員機械設備整えて1935年昭和10年)に自社生産ハーレー・ダビッドソン品川工場で初め完成した陸王名称の由来永井信二郎の母校である慶應義塾大学の『若き血』のフレーズ「陸の王者にちなんつけられたという。しかし次第十分な資材確保難しくなり、1937年昭和12年)頃から製造行っていた帝国陸軍用の九七式側車付自動二輪車1943年昭和18年)には月産90程度製造されていたが、戦争末期には月産50台に減少した第二次世界大戦終戦後日本軍用機軍用車製造していた企業アメリカ軍中心として連合国軍占領政策実行したGHQSCAP)によって航空機自動車の製造禁止され所属していた技術者達はその技術活かす場を求めていた。一式戦「隼」四式戦「疾風」といった陸軍機で知られる中島飛行機源流持ち戦後解体平和産業転換させられ富士産業(後のSUBARU)もその1であったが、1945年昭和20年当時日本駐留していた連合軍持ち込んだアメリカパウエル式やイギリスのコルギ式といったスクーター簡素な車体が、材料十分に確保できない状況作れ製品として富士産業技術者関心集め規制緩かったオートバイ業界技術者流入し始めたためである。しかしながら敗戦後間もない日本国内では開発始まったものの材料不足でさらに材料調達自体がほぼ不可能に近いという状況は非常に深刻で、一時海軍機である「銀河」の尾輪タイヤ転用したり、ピストン周辺ダットサン部品流用したりするなど、新規に部品すら製造できない状況の中で試作品作られた。1946年昭和21年)の夏に試作機完成し同年11月からラビットスクーターS1として発売された。定価11,000程度であった。これは交通不便な終戦直後にあって歓迎され月産300台から500程度生産されることとなった。 それから半年後、旧三菱重工業系の中日本重工(実質後の三菱自工)はアメリカのサルスベリー式をモデルシルバーピジョン開発し、これら2台が終戦直後日本製スクーター双璧となったラビット好調な売れ行き見せ戦前オートバイメーカー製造再開目指す中、1948年昭和23年)に発足した日本小型自動車工業会によりGHQ官庁との交渉経て様々な規制撤廃成功しオートバイ産業が有望であるとの認識広まり新規参入するメーカー多く現れた。新明和興業、昌和など名前を残す企業存在したが、社名掲げながら実状としては自転車屋の軒先で月に数台製造する程度個人店も多かった1953年には113社が参入して製造会社数の全盛期迎えるが、1955年経済不況直面する既存メーカーを含む137社が撤退技術力資金伴わない業者一気淘汰された。 一方スクーター高額購入することができなかった層を中心に自転車用補助動力、バイクモーターの需要高まりみづほ自動車製作所がビスモーターを発売し本田技研工業日本陸軍払い下げ軍事無線機小型エンジンベース開発重ね、後にホンダ・カブF型通称バタバタ」)を1952年昭和27年)に発売する。こういったバイクモーターの流行商機見出しスズキオートバイ製造開始した群雄割拠の時代にあって名前を売るにはレース活動典型で、1950年昭和25年)頃に復活し始めたレースはこういったメーカー競争の場として利用されるようになっていった。当時オートレース場存在していたがサーキット存在せずレース最初競馬場運動場、のちに公道行われるようになっていった。まず口火を切ったのは1953年昭和28年3月21日行われた名古屋TTレース浜松静岡レース富士山本宮浅間大社から富士宮登山道を2合目まで走破する富士登山レース、そして国内レース最高峰として浅間火山レースなどが行われるようになった戦中戦闘機プロペラなどを製造していたヤマハ設備平和的な利用方法としてオートバイ製作に着手後発メーカーである知名度低さこうしたレース高めようと、YA-1浅間火山レース参加させ、125ccクラス上位独占するといった功績残した。こうしてレース活動熱を帯びるにつれ、高速走行適さず、指示標識足りない不十分なコース警察との連携不足が問題になり、専用コース新設求める声に応える形で浅間高原自動車テストコース開設へと業界動き出した当時国産車を見るとホンダ・カブF型で50cc1ps/3,500rpm、シルバーピジョンは150cc3馬力対すドイツオートバイクライドラーK50は50ccで2.5ps/5,000rpmを発揮国産オートバイ対し海外製オートバイ性能圧倒的で、こうしたレース活動は名前を売る目的のほか、海外オートバイ追いつく技術開発進める場としても活躍した。 こうしてオートバイ単なる移動手段ではないという認識広まりだすと、当時好景気相まって消費者による峻別始まった三種の神器呼ばれる電化製品家庭広がり見せる中、最低限移動手段として提案されたバイクモーターの需要なくなり、これらの製品主として製造していたメーカーがまず打撃受けた。あるいは戦前戦後オートバイ流行大きく変わったことも影響大きく戦前においてはアメリカン人気であったが、戦後になりイギリスドイツなどの車両人気となり、戦後勃興したメーカー比べ戦前から存在したメーカーほどこの流行捕らえた車両開発取り掛かるのが遅れたまた、当時流行であったトライアンフDKWなどのヨーロッパ車両の外観模すものの、ただ鈍重なだけで走行性能伴わない車両製造していたメーカーは、レースにおける実績裏づけされた車両比べられ選ばれることはなかった。加えて戦後統制であっても自分達の技術設備行使できる分野として、規制緩かったためにオートバイ産業選んだメーカーには、統制解かれたことや好景気受けて本業復帰、あるいは他の産業商機求めて転業する企業少なくなかった目黒製作所1960年昭和35年)に業績悪化から川崎重工との提携を行うものの改善せず、1964年昭和39年)にそのまま吸収される形で戦前から続いていた企業全て消滅することとなったこうした過当競争は、販売車両の性能向上や量産体勢拡大へとつながっていく。1958年昭和33年)に発売されスーパーカブ対抗車種が2.5ps程度時代空冷4ストロークOHV49ccエンジンから4.5psを発揮しなおかつ55,000円の低価格で、当時の事業規模大きく変えるほどの月産5万台を標榜し業界構造大きく変えた。他の有力メーカー同価格帯で対抗車種販売し対抗しうる性能販売体制実現できない企業撤退余儀なくされた。1959年昭和34年)、この勢いそのままに、ホンダは独自の精密加工技術生かした並列多気エンジン採用してマン島TT参戦し1961年昭和36年)に優勝達成する外国製オートバイ後塵拝し続けてきた日本オートバイ世界一になった瞬間であったホンダ偉業負けじと国内各社相次いでロードレース世界選手権参加始め日本車国際舞台での勝利常態化する。翌1962年昭和37年)に国内初の全面舗装サーキットとして完成した鈴鹿サーキットロードレース世界選手権開催されこの年マニュファクチャラーズ・ランキングでは5部門4部門を日本勢制するこうした権威あるレースでの実績日本製オートバイ輸出推し進め日本オートバイ大国仲間入り果たした日本におけるオートバイ生産台数および輸出台数推移年度生産台数輸出台数輸出比率輸出金額1963 (昭和38)1,926,970 400,385 20.8 69,308 1964 (昭和39)2,110,335 592,739 28.1 101,630 1965 (昭和40)2,212,784 868,754 39.3 163,033 1966 (昭和41)2,447,391 976,360 39.9 180,358 1967 (昭和42)2,241,847 944,168 42.1 143,406 1968 (昭和43)2,251,335 1,136,636 50.5 184,312 1969 (昭和44)2,576,873 1,298,866 50.4 230,902 1970 (昭和45)2,947,672 1,737,602 58.9 370,327 1971 (昭和46)3,400,502 2,278,513 67.0 569,028 1972 (昭和47)3,565,246 2,437,185 68.4 774,608 1973 (昭和48)3,763,127 2,492,147 66.2 958,394 1974 (昭和49)4,509,420 3,240,466 71.9 1,473,434 1975 (昭和50)3,802,547 2,690,801 70.8 1,241,415 1976 (昭和51)4,235,112 2,922,254 69.0 1,294,894 1977 (昭和52)5,577,359 3,916,197 70.2 1,966,411 1978 (昭和53)5,999,929 3,749,415 62.5 2,166,193 日本におけるオートバイ輸出金額推移 輸出金額(千ドル69,308 101,630 163,033 180,358 143,406 184,312 230,902 370,327 569,028 774,608 958,394 1,473,434 1,241,415 1,294,894 1,699,411 2,166,193 年1963(昭和38) 1964(S39) 1965(S40) 1966(S41) 1967(S42) 1968(S43) 1969(S44) 1970(S45) 1971(S46) 1972(S47) 1973(S48) 1974(S49) 1975(S50) 1976(S51) 1977(S52) 1978(S53) しかし、モータリゼーション到来とともに自動車実用的な乗り物として普及すると、オートバイ一部業務用除いて趣味乗り物として扱われるようになり、販売台数頭打ちになった1980年代前半になると、ヤマハ業界1位の座をホンダから奪おうとして、日本のみならずアメリカをも舞台にしてHY戦争起きた。この競争のなかで、ラインナップ増えるとともに価格競争進み、さらに1980年代後半からは好景気バブル景気)も重なり1990年代前半にかけて日本バイクブーム訪れた。しかし、このバイクブームから暴走族全国各地増え危険走行騒音交通事故社会問題となった。それによって三ない運動代表されるような「バイク=危険な乗り物暴走族」という社会認識強くなり、バブル崩壊と共にバイクブーム急速に終息向かった1990年代東南アジア中心とする発展途上国市場拡大する一方2000年代には日本国内向け車種生産始まっている。 近年国内需要は、原動機付自転車から四輪車への消費者シフトや、都市部での路上駐車取り締まり強化排ガス規制強化に伴いピーク時に対して1/10という市場大幅な縮小起こった国内メーカーでは需要減少世界的な環境規制強化対応するため、電動オートバイ普及に向けて動いているが、電気自動車のような充電器規格争いを防ぐため共通化など協調路線動いている。 業界団体としては、日本自動車工業会自工会)がバイク所管するほか、バイク特化した日本二輪車普及安全協会(二普協)がある。大手4社国内販売台数1982年の約328台をピークに、2015年は約37台に減ったこのため業界団体や各メーカー部品であるタイヤ製造するブリヂストン中古車買い取り販売バイク王&カンパニーといった流通企業需要喚起取り組んでおり、若者バイク離れ歯止めをかけるためアニメ(『ばくおん!!』)のコラボ展開している。日本では8月19日が「バイクの日」とされている。 趣味乗り物としての需要減少したものの、配達業務での用途依然として根強いまた、緊急時機動性見直されて、救急消防での利用新たに着目されている。

※この「日本のオートバイの歴史」の解説は、「オートバイ」の解説の一部です。
「日本のオートバイの歴史」を含む「オートバイ」の記事については、「オートバイ」の概要を参照ください。

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