日本のオートバイの歴史
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「オートバイ」の記事における「日本のオートバイの歴史」の解説
日本における最古のオートバイの記録としては、明治維新による近代化が推し進められる中で、1898年(明治31年)に紫義彦が組み立て、製作した車輌の写真が残されているが、明治期にはオートバイは道楽といった認識で、富国強兵の国是の下に国産化の進められた他の産業に比較すると特別な注力がなされることはなかった。そのため、わずかながら人の目に触れるようになりだしたオートバイはほぼ全てが輸入車であり、開発や製造は個人で小規模に行われるにすぎなかった。 1909年(明治42年)に島津楢蔵が初の国産車であるNS号を製造。その後、1910年(明治43年)に山田輪盛館(ドイツのNSU製品の輸入販売)や山口勝蔵店(イギリスのトライアンフ、アメリカのインディアンの輸入販売)といったオートバイ専門輸入商が創立され、1917年(大正6年)に大倉商事がハーレーの輸入を開始した。その後、島津楢蔵はいったん航空業界に転身し、9気筒回転型空冷80馬力エンジンを帝国飛行協会でのコンテストに出品して1等を受賞するなどの実績を残した。三井物産で取締役を勤めた山本条太郎により、その当時の航空事業はもはや個人に運営できる規模で太刀打ちできる産業ではない、といった助言を受けて自動車学校を設立するも、大阪府に総台数200台の時代にあって4年間で300名のエンジニアを輩出するなど迷走し、自動車学校は1922年(大正11年)に閉鎖の憂き目にあう。こうした紆余曲折を経た後にオートバイ開発に復帰し、航空業界で培った技術を応用したエーロ・ファースト号を3年後に完成させる。搭載された633cc、4ストロークサイドバルブ単気筒エンジンは6.5ps、最高速度40km/hを実現した。このまま事業化を画策していたが、世界情勢の悪化やニューヨーク株式市場の暴落に端を発する世界恐慌の不況による影響から計画は難航し、1930年(昭和5年)には廃業を余儀なくされる。結局、日本で初めてオートバイの量産、商品化が実現されるのは1933年(昭和8年)のアサヒ号A型であった。この車両は1914年(大正3年)に宮田製作所が製作し、一部が「黒バイ」として警察に納入されていた車両を発展させたもので、2ストローク175cc、単気筒エンジンを搭載し最大出力は5psだった。翌年1934年(昭和9年)に増加試作13台、翌々年1935年(昭和10年)4月から量産体勢に入り、販売価格は標準品340円、特級品370円で、生産量は1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)の期間に月産150台を製造していた。 以後、第二次世界大戦下の日本で「陸王」のみが生産されるようになるまでには、「陸王」の他に「アサヒ号」「JAC号」「SSD号」「あいこく号」「キャブトン」「リツリン号」「くろがね号」「メグロ号」などが存在していた。 戦況の長期化、悪化によってオートバイ産業は軍需品の製造に転換せねばならなくなり、陸王内燃機でのみがオートバイを製造していた。同社は三共の系列企業で、1931年(昭和6年)にハーレー・ダビッドソンの輸入販売業として設立された。その後、国産化の流れの中で同社の専務を務めた永井信二郎は生産体制を確立するためにアメリカ、ミルウォーキーのハーレー・ダビッドソン工場へ設備調達のため渡米する。本国アメリカからエンジニアを招聘し、100名程度の従業員や機械設備を整えて、1935年(昭和10年)に自社生産のハーレー・ダビッドソンが品川工場で初めて完成した。陸王の名称の由来は永井信二郎の母校である慶應義塾大学の『若き血』のフレーズ「陸の王者」にちなんでつけられたという。しかし次第に十分な資材確保も難しくなり、1937年(昭和12年)頃から製造を行っていた帝国陸軍用の九七式側車付自動二輪車は1943年(昭和18年)には月産90台程度製造されていたが、戦争末期には月産50台に減少した。 第二次世界大戦終戦後、日本の軍用機や軍用車を製造していた企業がアメリカ軍を中心として連合国軍の占領政策を実行したGHQ(SCAP)によって航空機や自動車の製造を禁止され、所属していた技術者達はその技術を活かす場を求めていた。一式戦「隼」や四式戦「疾風」といった陸軍機で知られる中島飛行機を源流に持ち、戦後に解体、平和産業へ転換させられた富士産業(後のSUBARU)もその1つであったが、1945年(昭和20年)当時、日本に駐留していた連合軍が持ち込んだアメリカのパウエル式やイギリスのコルギ式といったスクーターの簡素な車体が、材料が十分に確保できない状況で作れる製品として富士産業の技術者関心を集め、規制の緩かったオートバイ業界へ技術者が流入し始めたためである。しかしながら敗戦後間もない日本国内では開発は始まったものの材料不足でさらに材料調達自体がほぼ不可能に近いという状況は非常に深刻で、一時は海軍機である「銀河」の尾輪をタイヤに転用したり、ピストン周辺はダットサンの部品を流用したりするなど、新規に部品すら製造できない状況の中で試作品は作られた。1946年(昭和21年)の夏に試作機が完成し、同年11月からラビットスクーターS1として発売された。定価は11,000円程度であった。これは交通の不便な終戦直後にあって歓迎され、月産300台から500台程度生産されることとなった。 それから半年後、旧三菱重工業系の中日本重工(実質後の三菱自工)はアメリカのサルスベリー式をモデルにシルバーピジョンを開発し、これら2台が終戦直後の日本製スクーターの双璧となった。ラビットが好調な売れ行きを見せ、戦前のオートバイメーカーも製造再開を目指す中、1948年(昭和23年)に発足した日本小型自動車工業会によりGHQや官庁との交渉を経て様々な規制撤廃に成功し、オートバイ産業が有望であるとの認識が広まり、新規参入するメーカーも多く現れた。新明和興業、昌和など名前を残す企業も存在したが、社名を掲げながら実状としては自転車屋の軒先で月に数台製造する程度の個人店も多かった。1953年には113社が参入して製造会社数の全盛期を迎えるが、1955年の経済不況に直面すると既存のメーカーを含む137社が撤退。技術力と資金が伴わない業者は一気に淘汰された。 一方、スクーターが高額で購入することができなかった層を中心に自転車用補助動力、バイクモーターの需要が高まり、みづほ自動車製作所がビスモーターを発売し、本田技研工業は日本陸軍払い下げの軍事無線機用小型エンジンをベースに開発を重ね、後にホンダ・カブF型(通称「バタバタ」)を1952年(昭和27年)に発売する。こういったバイクモーターの流行に商機を見出し、スズキもオートバイ製造を開始した。 群雄割拠の時代にあって名前を売るにはレース活動が典型で、1950年(昭和25年)頃に復活し始めたレースはこういったメーカーの競争の場として利用されるようになっていった。当時はオートレース場は存在していたがサーキットは存在せず、レースは最初は競馬場や運動場、のちに公道で行われるようになっていった。まず口火を切ったのは1953年(昭和28年)3月21日に行われた名古屋TTレース、浜松静岡間レース、富士山本宮浅間大社から富士宮登山道を2合目まで走破する富士登山レース、そして国内レースの最高峰として浅間火山レースなどが行われるようになった。戦中に戦闘機用プロペラなどを製造していたヤマハは設備の平和的な利用方法としてオートバイ製作に着手、後発メーカーである知名度の低さをこうしたレースで高めようと、YA-1を浅間火山レースへ参加させ、125ccクラスで上位を独占するといった功績を残した。こうしてレース活動が熱を帯びるにつれ、高速走行に適さず、指示標識も足りない不十分なコースや警察との連携不足が問題になり、専用のコース新設を求める声に応える形で浅間高原自動車テストコース開設へと業界は動き出した。当時の国産車を見るとホンダ・カブF型で50cc1ps/3,500rpm、シルバーピジョンは150cc3馬力、対するドイツ製オートバイ、クライドラーK50は50ccで2.5ps/5,000rpmを発揮、国産オートバイに対し海外製オートバイの性能は圧倒的で、こうしたレース活動は名前を売る目的のほか、海外のオートバイに追いつく技術開発を進める場としても活躍した。 こうしてオートバイは単なる移動手段ではないという認識が広まりだすと、当時の好景気と相まって消費者による峻別が始まった。三種の神器と呼ばれる電化製品が家庭に広がりを見せる中、最低限の移動手段として提案されたバイクモーターの需要はなくなり、これらの製品を主として製造していたメーカーがまず打撃を受けた。あるいは戦前と戦後でオートバイの流行が大きく変わったことも影響は大きく、戦前においてはアメリカンが人気であったが、戦後になりイギリスやドイツなどの車両が人気となり、戦後勃興したメーカーに比べ、戦前から存在したメーカーほどこの流行を捕らえた車両開発に取り掛かるのが遅れた。また、当時の流行であったトライアンフやDKWなどのヨーロッパ製車両の外観は模すものの、ただ鈍重なだけで走行性能の伴わない車両を製造していたメーカーは、レースにおける実績に裏づけされた車両と比べられて選ばれることはなかった。加えて、戦後の統制下であっても自分達の技術や設備を行使できる分野として、規制が緩かったためにオートバイ産業を選んだメーカーには、統制が解かれたことや好景気を受けて、本業に復帰、あるいは他の産業に商機を求めて転業する企業も少なくなかった。目黒製作所が1960年(昭和35年)に業績悪化から川崎重工との提携を行うものの改善せず、1964年(昭和39年)にそのまま吸収される形で戦前から続いていた企業は全て消滅することとなった。 こうした過当競争は、販売車両の性能向上や量産体勢の拡大へとつながっていく。1958年(昭和33年)に発売されたスーパーカブは対抗車種が2.5ps程度の時代に空冷4ストロークOHV49ccエンジンから4.5psを発揮し、なおかつ55,000円の低価格で、当時の事業規模を大きく変えるほどの月産5万台を標榜し、業界の構造を大きく変えた。他の有力メーカーは同価格帯で対抗車種を販売し、対抗しうる性能や販売体制を実現できない企業は撤退を余儀なくされた。1959年(昭和34年)、この勢いそのままに、ホンダは独自の精密加工技術を生かした並列多気筒エンジンを採用してマン島TTに参戦し、1961年(昭和36年)に優勝を達成する。外国製オートバイの後塵を拝し続けてきた日本のオートバイが世界一になった瞬間であった。ホンダの偉業に負けじと国内各社も相次いでロードレース世界選手権へ参加を始め、日本車の国際舞台での勝利が常態化する。翌1962年(昭和37年)に国内初の全面舗装のサーキットとして完成した鈴鹿サーキットでロードレース世界選手権が開催され、この年のマニュファクチャラーズ・ランキングでは5部門中4部門を日本勢が制する。こうした権威あるレースでの実績は日本製オートバイの輸出を推し進め、日本はオートバイ大国の仲間入りを果たした。 日本におけるオートバイの生産台数および輸出台数の推移年度生産台数輸出台数輸出比率輸出金額1963 (昭和38)1,926,970 400,385 20.8 69,308 1964 (昭和39)2,110,335 592,739 28.1 101,630 1965 (昭和40)2,212,784 868,754 39.3 163,033 1966 (昭和41)2,447,391 976,360 39.9 180,358 1967 (昭和42)2,241,847 944,168 42.1 143,406 1968 (昭和43)2,251,335 1,136,636 50.5 184,312 1969 (昭和44)2,576,873 1,298,866 50.4 230,902 1970 (昭和45)2,947,672 1,737,602 58.9 370,327 1971 (昭和46)3,400,502 2,278,513 67.0 569,028 1972 (昭和47)3,565,246 2,437,185 68.4 774,608 1973 (昭和48)3,763,127 2,492,147 66.2 958,394 1974 (昭和49)4,509,420 3,240,466 71.9 1,473,434 1975 (昭和50)3,802,547 2,690,801 70.8 1,241,415 1976 (昭和51)4,235,112 2,922,254 69.0 1,294,894 1977 (昭和52)5,577,359 3,916,197 70.2 1,966,411 1978 (昭和53)5,999,929 3,749,415 62.5 2,166,193 日本におけるオートバイの輸出金額の推移 輸出金額(千ドル) 69,308 101,630 163,033 180,358 143,406 184,312 230,902 370,327 569,028 774,608 958,394 1,473,434 1,241,415 1,294,894 1,699,411 2,166,193 年度 1963(昭和38) 1964(S39) 1965(S40) 1966(S41) 1967(S42) 1968(S43) 1969(S44) 1970(S45) 1971(S46) 1972(S47) 1973(S48) 1974(S49) 1975(S50) 1976(S51) 1977(S52) 1978(S53) しかし、モータリゼーションの到来とともに自動車が実用的な乗り物として普及すると、オートバイは一部の業務用を除いて趣味の乗り物として扱われるようになり、販売台数は頭打ちになった。1980年代前半になると、ヤマハが業界1位の座をホンダから奪おうとして、日本のみならずアメリカをも舞台にしてHY戦争が起きた。この競争のなかで、ラインナップが増えるとともに価格競争が進み、さらに1980年代後半からは好景気(バブル景気)も重なり、1990年代前半にかけて日本にバイクブームが訪れた。しかし、このバイクブームから暴走族が全国各地で増え、危険走行や騒音、交通事故が社会問題となった。それによって三ない運動に代表されるような「バイク=危険な乗り物・暴走族」という社会の認識が強くなり、バブル崩壊と共にバイクブームも急速に終息に向かった。 1990年代は東南アジアを中心とする発展途上国の市場が拡大する一方、2000年代には日本国内向け車種の生産も始まっている。 近年の国内需要は、原動機付自転車から四輪車への消費者のシフトや、都市部での路上駐車の取り締まり強化や排ガス規制強化に伴い、ピーク時に対して1/10という市場の大幅な縮小が起こった。国内メーカーでは需要の減少や世界的な環境規制の強化に対応するため、電動オートバイの普及に向けて動いているが、電気自動車のような充電器の規格争いを防ぐため共通化など協調路線に動いている。 業界団体としては、日本自動車工業会(自工会)がバイクも所管するほか、バイクに特化した日本二輪車普及安全協会(二普協)がある。大手4社の国内販売台数は1982年の約328万台をピークに、2015年は約37万台に減った。このため業界団体や各メーカー、部品であるタイヤを製造するブリヂストン、中古車買い取り販売のバイク王&カンパニーといった流通企業は需要喚起に取り組んでおり、若者のバイク離れに歯止めをかけるためアニメ(『ばくおん!!』)のコラボも展開している。日本では8月19日が「バイクの日」とされている。 趣味の乗り物としての需要は減少したものの、配達業務での用途は依然として根強い。また、緊急時の機動性が見直されて、救急や消防での利用が新たに着目されている。
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